ママの一日
学生時代に書いた物語です。
データのまま眠らせておくのもアレなので晒すことにしました。
少年はプカプカと浮いていた。
辺りは海一色で他には何もない。水面は太陽光を反射させてキラキラしている。波の穏やかな昼下がり。仰向けの少年は、雲ひとつない青空に強い眼差しを向けていた。
「冗談じゃねぇ。こんなところで死んでたまるか!」
少年の叫びは力強かったが、大海原は広すぎた。誰かの耳に届くことなく薄っすらと消えてゆく。この海には何もなさすぎた。幸福なことがあったとすれば、たまたまそのときに凶悪な生物もいなかったことだろう。
少年は長い時間、波に揺れ続けた。一隻の船に拾われるそのときまで。
◆◇◆◇◆
海後記256年。私たち人類は今、船の上で生活している。
時代を遡れば、地球上に大陸が存在していた時期もあった。人々は陸地に住居を構えて、日々を送っていたわ。
様々な発明によって生活の幅が広がって、世はどんどんと便利になっていく。調理器具の発展。電化製品。エアコンみたいな気温管理器具。大きな発電所とかね。
だけど、いきすぎた科学の発展は世界を壊すことになるの。
二酸化炭素を始めとした、様々な温室効果ガスが増加して、北極や南極の氷が著しく溶けていった。
海の水位はみるみるうちに上昇して、陸地を飲み込んでいったわ。
政府が対策を設けようとしたけど、人類は便利さを手放せなかった。身についた常識を捨てることは、思った以上に難しかったの。一種の依存症かしら。
それに世界がいくら叫んでも、どこか遠い絵空事……自分とは関係ない異次元のことと思えてしまったみたい。
「自分ひとりがやったぐらいじゃ、たいして変わらないんじゃない」
みんながそう思って、誰も対策に手をつけなかった。
個人個人の目の前で問題が起こっていなかったことも大きかったみたい。
聞いてはいたけど、規模が大きさすぎて霞んでしまったのね。
事はグングンと深刻になって、やがて手の施しようがなくなっちゃったわ。
こうして、大陸は海に沈んだのよ。
これを機に大地があった頃を『海前記』、海に沈んでからを『海後記』と呼んで年号を数えるようになったわ。
じゃあなんで年号がつけられたのか。
陸地が海に飲まれてなお、人類は滅んでいなかったからよ。
真に危機が迫ったとき、人類は大地を捨てて海上へと生活区域を移したの。
食糧不足を解消するために、畑を作った農業船を開発。裁縫をして衣服を作る縫製船を開発。他にも生活に必要な、会社のような船が次々と開発されて海へと旅立った。
もちろん。生活基盤となる生活船もたくさん造られたわ。
贅沢をふんだんに詰め込んだ、豪華客船やリゾートホテルのような船も造られた。
全人類が助かったわけでもないし、全ての技術を持ち出せたわけでもない。だけどそれでも、人類は逞しく生き続けていたわ。
私が『孤児院船ナナシ』で産まれて、もう三十八年になる。
ナナシは海に投げ出された子供を保護して、無事に成長させる目的で造られた中型帆船。九二年も昔に造られた、おじいちゃんのように古い木製の船よ。生活船で、最大で二十人は暮らすことができるわ。
船員の大半は、なんらかの事情で漂流した人たち。小さな子供に限らず老人まで、とにかく拾われた人が船員になってきた。
そんな中で私は珍しく船で産まれた子供だった。
船員同士の恋愛は珍しくもないけど、出産するとなると死の危険が伴ってくる。施設なんて整っていないから。実際、私のお母さんは出産した反動で息を引き取ったって聞いた。
それでも私は産まれた。ナナシの歴史の中では、四人目の赤ちゃんみたい。
すくすくと育っていく中で、船員は入れ替わっていったわ。
船長だったおじいちゃんは老衰で死んでしまった。お父さんも子供の頃に海に飲み込まれちゃった。魚を獲りに潜ったお姉さんが凶暴な生物に襲われたこともあったっけ。
理不尽で悲しい別れもたくさんあった。だけど少ないながらに出会いもあった。
大半が海に投げ出されて漂流していた子供だったけど、それでも仲間は増えていった。
そんなこんなで私は、いつの間にかナナシで最年長になっていたわ。
船長兼、みんなのお母さん役。みんなからは『ママ』って呼ばれるようになった。
本名は他にあるけれど、ナナシでは不思議と全員が愛称で呼ばれるようになっているの。
別に本名を名乗ってもいいけど、どことなく仲間外れ感があるから黙っているのよ。
コケコッコーとうるさい鳴き声が聞こえる。ベッドの中でモゾりと寝返ると、まぶたの向こうから朝日が差し込んでくるわ。
「んっ……ん」
眩しさに目を覚ますとテーブルが目に入った。料理のレシピとか日記を書くときに使っている。左隣には両開きのタンス。固いから開けるときにコツがいるわ。さらに左には閉まりの緩いドア。寝返ると木製の天井を経由して、壁際にははめ込み式の窓ガラスがある。
代わり映えのない私の部屋。とりあえず着替えて朝食の準備をしないと……。
「んっ、ん~」
ベッドの上で半身を起こして、天井に向かって両手を伸ばす。窓の外には昇り始めた太陽と一面の海、窓際には小鳥が三羽いる。
うん。今日もいい天気。みんなはまだ寝ているわよね。
起き上がってタンスに向かう。右の扉を両手で力いっぱい引っ張りながら、左下を蹴るとバンっと大きな音を立てて開く。
ずいぶんと暖かくなってきたから、着替えるのが楽で嬉しいわ。
グレーのスウェットパジャマを脱ぎ捨てて、着古した赤いTシャツに色あせた水色のGパンに着替える。胸あたりがキツい。着ているうちに服が伸びてしまうのがちょっと悲しい。胸なんてなくなってしまえばいのに。むしろ身長がほしい。自分の身体ながら憎らしいわ。
次に腰辺りまで伸ばしている茶色い髪を、一本の三つ編みに結えて背中に流す。上からクリーム色のエプロンを着ければ準備完了。
もはや性能を失ってしまったドアを開けて廊下に出る。いつかカギをつけるなりしてドアの役目を復活させたいわね。
廊下の床はところどころ脆くなっていて、踏み抜かないように注意しないといけない。天井の蛍光灯は所々あいているから薄暗い。物自体の蓄えはまだあるんだけど、次いつ手に入るかわからないから節約しているの。
手に入れるには、その品を製造している船と遭遇しなければいけない。これは蛍光灯に限った話じゃなくて、服や石けんとかの消耗品もそう。
廊下は一直線で、部屋を出て右に進むと突き当たりに食堂がある。位置でいうと船尾の方。左に進むと甲板へ出る階段がある。上がらずに奥に突き進むと物置。こっちは船首ね。廊下の左右には個人部屋がたくさん並んでいる。空き部屋がほとんどだけど、掃除に抜かりはないわ。
私は慣れた足取りで食堂へと向かう。
食堂ははめ込み式の窓がたくさんあって、日が差し込むから廊下より明るい。使い古した木造のテーブルや椅子がたくさん並んでいる。
もっとも、今の船員は六人だからね。使う場所は限られるわ。
食堂の奥にはキッチンがある。私の持ち場のひとつだ。
電気コンロに貯水タンク、冷蔵庫もあって調理に不便はしない。
ちなみに電気はソーラーパネルと水力発電でまかなっているわ。水力は、船が進むと蓄積されるようになっている。
昔はガスコンロが主流だったけど、ガスそのものが貴重だから自然と廃れていった。
とはいえ新調するには前例通り、運よく製造船と遭遇しなければいけない。製造船同士なら物々交換だけど、生活船だと何かしらの労働で報酬をもらうことになるわ。ただ、そうそうタイミングが合うわけじゃないからボロボロね。
お釈迦になったら、かなり困っちゃうな。
「さて、かわいい子供たちのために、おいしい朝食を作らなきゃね」
調味料のストックがだいぶ少なくなってきたけど、まだお味噌汁は作れるわ。夕飯の仕込みもしておこうかしら。朝食はお魚を焼いて……。
私はひとり、ごはんの準備を進めていった。
吸い込まれるような雲ひとつない青空。洗濯物が乾きやすい陽気が嬉しい。太陽の位置から、まだ昼食の準備には早いわね。
波の穏やかな絶好の漁日和。子供たちは無事に魚を獲ってきてくれるかな。
「おーい。イキのいいのが獲れたぜ」
などと心配していると、海の方から元気な声が聞こえてきた。船べりの手すりには、縄がふたつかかっている。もたれて下を見ると、海面には白い髪をした男の子がいて、こちらを見上げていたわ。手には魚が刺さった銛を持っていて、自慢するように上げていた。
「ご苦労様ゲンキ。大物は獲れた?」
「獲れたぜ。イキもいいから最高にうめぇぞ。ママ、昼飯はこいつを刺身にしてくれよ」
声を張り上げる少年は『ゲンキ』。半年前に漂流していたところを拾った、ナナシで一番新しい子よ。十六歳のわんぱく坊主で、よく船のあちらこちらを駆け回っているわ。人見知りしないタイプだから、ナナシのみんなとすぐに馴染んだみたい。何をやるにも全力で、体力がありあまっていることからゲンキと呼ぶようになったわ。
ちょっと騒がしいけれど、食べ物はちゃんと獲ってきてくれる。ナナシでの生活を楽しんでいるなら何よりね。
微笑ましく見下ろしていると、ゲンキの近くからあぶくが立ち上がってきた。徐々に影が濃くなってくると、赤い髪を黄色いリボンでツインテールにした少女が顔を出したわ。ゲンキと一緒で、魚を捕えた銛を持っている。
「ちょっとゲンキ。また勝手にお昼のメニューを決めたでしょ。ホント身勝手なんだから」
「別にいいだろレッカ。こういうのって意見が出ねぇ方が困るんだぜ」
「だからって一方的すぎよ。さっきの漁だってあたいが狙ってたのを横取りして、この卑怯者」
「チンタラしてる方が悪ぃんだろ。あんなやり方じゃ日が暮れちまうぜ」
あらあら、ケンカが始まっちゃったわ。こうなっちゃったら苦笑いで見守るしかない。
ゲンキと言い争っている少女は『レッカ』。十五年前に、ナナシは大破した船を見つけた。調査すると、まだ幼かった彼女がひとりだけ見つかったわ。孤児院船ナナシだから、自然と保護する方向になった。燃えるように赤い髪が印象的だったからレッカって名づけたわ。
今では私の次に古い住人。ルールに厳しく、危ないことをやっているとすぐに叱る。私だって叱られるわ。
自由奔放で新参者のゲンキとはいつも言い合いになっている。仲は悪くなさそうだけど、もう少し穏やかにならないものかしら。
手すりに肘をかけ、頬に手を当てて考える。言い合いは終わる気配をみせない。ほっとくといつまでも続けそうだ。
「ほーら。言いたいことがあるのもわかるけど、先に海から上がってきなさい」
口元に両手を添えて大声を出す。
「はーい。ママに免じて、この話はお預けにしてあげる」
「しゃーねぇ。だけど船に上がってから逃げんじゃねーぞ。ほら、先に上がれよ。れでぃふぁすとー? ってやつだ」
「ちょっと待ちなさいよ。そんなこと言って下から覗くつもりでしょ。このスケベ。変態」
「はぁ? 何でレッカの汚ねぇケツなんて見なきゃいけねぇんだよ。むしろオレに謝れよ」
「それどういう意味よ。このセクハラ魔人」
ふたりは渋々といった様子で口ゲンカをいったん切った。だけど縄バシゴを下すと、どちらが先に上るかまたケンカになっちゃった。
「はぁ~。やれやれね」
とりあえず、楽しそうだから目を瞑ることにした。めんどうだっていう気持ちもある。
一向に上ってこないふたりを待ちながら、のんびりと海を眺める。口ゲンカを聞いていると、ゴシゴシとこする音が聞こえてきたわ。顔を向けると遠くに、デッキブラシを手に掃除をしている少女。
ツヤやかな水色のショートヘアをしていて、瞳はトルマリンのように青く輝いている。黄緑色のふわりとしたワンピースがかわいくて似合っているわ。
「お疲れさまキレイ。どんな感じ」
「あっ、ママ。もうちょっとでデッキ掃除が終わりますよ」
返事をすると掃除を再開した。少女の名前は『キレイ』。ナナシの四人目の住人で十三歳。私より背が低いのはとても重要なことね。前の船で漁をしていた時に逸れてしまって、溺れかかっているところを偶然レッカが助けたの。
溺れたトラウマで海が怖くなってしまったみたい。漁に出られないかわりに、掃除や洗濯といった、船上での仕事を一生懸命やっているわ。ナナシを隅々まで綺麗にすることからキレイって呼ぶようになった。
ホント精が出る。ゲンキとレッカももうちょっと落ち着いてくれればいいんだけど、そんなことしたら窮屈になっちゃうわよね。
手すりに肘をついて指を組む。相変わらずゲンキとレッカは騒がしい。
「そんなだからレッカは魚に遊ばれんだよ。いっそ半日ほど海ですごせば速く泳げるようになるんじゃねーか」
「半日って。あたいはあんたみたいに暇じゃないのよ。あーやだやだ。能天気の戯言にはホントつきあってらんない」
ふと気がつくと、レッカが上がってきていた。胸にさらしを巻いて、下はスパッツに裸足とかなりの薄着。前髪はペタリと肌に張りついていて、毛先からはポタポタと水滴が落ちている。ガーネット色の瞳が呆れと蔑みを抱いていた。
続いてゲンキが船に上がる。腰あたりからさらしを巻き、上から濃い緑色のカーゴパンツを穿いていた。ハーフパンツだから裾からすねが伸びている。白い髪が水に滴っていて、エメラルドに輝く瞳がレッカを睨む。
近くで並ぶと、ゲンキよりもレッカの方が少しだけ背が高い。そして私はふたりを少し見上げている……むなしい。
ふたりとも腰に縄を巻いている。漁に出るときのルールで、船に縄を繋げて迷子にならないようにしているの。
「うっせえな。今はそれとはカンケーねぇだろ」
「はいはい。精神年齢お子ちゃまな僕ちゃんは、おとなしくお昼寝してなさいよね」
レッカはヒラヒラと手を振ると、ゲンキに背中を向けた。
ゲンキは後ろではわなわなと拳をあげて歯を食いしばった。あとで慰めてあげようかしら。
銛を片づけて魚をクーラーボックスにしまうふたり。
「さてと、魚も捕まえてくれたことだし、私もそろそろ働きましょうかね」
私はよいしょとクーラーボックスを持ちあげて、台所へと運んでいった。
昼食を食べ終えてから、キレイとレッカの三人で洗濯物を取り込んだ。ゲンキは本当にお昼寝をしてしまったわ。
少し暇ができたから、甲板に上がることにする。
風がエプロンをはためかせる。手で庇を作って青空を見上げると、カモメの群れが飛んでいた。思わず、わぁって声が漏れちゃった。
「ホントいい天気ね。私も釣りぐらいやってみようかしら」
ナナシで魚を取る方法は二種類ある。銛を手に漁にでるか、釣りをするかのふたつ。だからナナシには大量の釣り具が積んである。
とはいえ釣りってたいくつだから、いつの間にか寝ちゃうのよね。
胸の中で呟きながら周囲を見渡すと、船べりに先客がふたりいた。ひとりは黒色のドレッドヘア、ちりちりの縮れ毛をより合わせている髪型に、黒くダボい服を着た長身の男性。
もうひとりは膝まで伸びた金髪に、たっぷりとフリルのついた白いドレスの小さな少女。並ぶと身長がデコボコしているわ。
男性の方は手に釣竿を持っていて、少女は隣で水面を静かに眺めている。傍にはクーラーボックスやタモ網が置いてある。
「あら、珍しいわね。ガレキが釣りをしているなんて」
近づいて後ろから話しかける。男性の方は右手に釣竿を持ったままゆっくりと気怠そうに、少女はビクりと震え、男性にピタっとひっつくと怯えるように振り返った。
そんなに怯えなくてもいいのに。ちょっとショックだわ。
「あ~。たまたま気が向いた。期待はすんなよ」
やる気なく返事をした彼は『ガレキ』よ。アメジストのような紫色の半眼にラフな格好をしているわ。ナナシの三人目の住人で、海にポカンと浮かんでいるところをレッカが助けたわ。なぜ海に投げだされたのかは教えてくれなかったけど。
ナナシの中で一番背が高くて、顔を合わすのには見上げなきゃいけない。身長差の半分でいいからほしいわね。
二十四歳と働き盛りであるにも拘らず、本人からはやる気が一切感じられない。日がな一日ボーとしていて、崩れたように生きているからガレキと呼ぶようになったわ。
「もー。男なら自信をもってまかせとけぐらい言いなさいよね。ねーヒメちゃん」
私はガレキに呆れながら、少女と視線を合わせるために中腰になった。
「――っ」
顔を合わせると、悲鳴のように短い声をあげてガレキの後ろに縮こまっちゃった。ちょっと悲しい。
彼女の名前は『ヒメ』。サファイヤのように輝かしい瞳に、ふわりとした長い金髪をしている。ある日の夜、こぢんまりとした木製のボートに乗ってナナシまで辿り着いた五人目の住人。年齢は不明だけど、十歳ぐらいだと思う。
私たちと国籍が違うみたいで言葉が通じない。コミュニケーションをとろうにも怯えられてしまって、なかなか打ち解けてくれないのが悩みだ。みんなダメなんだけど、なぜかガレキには懐いている。
どうやって打ち解けたのか教えてほしいわね。
食事するときの品のよさと、身なりからヒメと呼ぶようになった。
「まだダメなのね。まぁいいわ。ガレキはいつから釣りをしてるの」
私は中腰をやめて気を取り直した。落ち込んでなんていないんだから。
「飯食ってすぐってとこか。ヒメも一緒にくっついてきやがったぞ」
「――っ」
そう言ってヒメの頭にポンと手を乗せて視線を向けた。ヒメもガレキを見上げると、顔をちょっと赤らめて満面の笑みを返したわ。かわいい。抱きしめたい。
「ホント、なんで俺に懐いてんだ?」
ガレキがため息を吐いて呟いた。
「まぁまぁ、そう言わずに。仲良くできるのはいいことじゃない。羨ましいわよ」
軽く肩を叩くと、眉を八の字にゆがめられてしまった。ヒメも同じように眉をゆがめている。抱きしめたい。
「まっ、特にめんどうもないからいーんだけどな。ところでママさんはどうした」
「ちょっと時間があいてね。少し釣りでもしようかなーってね」
茶目っ気を込めてウインクをしたら、口元をいーと言うようにゆがめられてしまった。ヒメはわからずにきょとんと佇んでいる。
かわいい。もう、この気持ちを開放しちゃいたい。ダメよね。
「ちょっと、そこまで引かなくてもいいじゃない。そりゃ年甲斐ないことをした自覚はあるけども、お世辞のひとつでも言ってほしいわ」
「俺にそこまで求めんな。めんどくせぇ」
「――っ」
ガレキが呆れていると、彼の服をヒメがクイクイと引っぱった。やっぱり抱きしめたい。
「んー、どった?」
見るとヒメは海の方を指差していた。更に視線を移動させると、ウキが沈んでいる。
「って、いつの間にか引いてるじゃないの!」
「んだな。間に合うかねぇ」
驚く私に対して、ガレキはイヤにゆっくりしていた。
水面に向き直り、クイっと釣竿を立てた。手応えあり。釣竿が折れるんじゃないかというくらいしなって、海へと引っぱられる。
「ちっ、大物かよ。めんどくせぇ」
「――っ!」
ガレキが膝を曲げて踏ん張る。ヒメは両手を握って胸の前にもってきた。上下に振りながら期待に満ちた瞳で、声を上げる。
ヒメちゃん。その仕草は反則だわ。
内心うずうずしながらも、必死にガレキに視線を向けた。
「なんでそんなにやる気がないのよ、ガレキは」
右手を腰に持ってきて、呆れながら観戦する。
竿を立てたり糸を緩めたりと、見ている方も力が入る駆け引きを繰り広げている。
「ちっ、さっさと釣られるか糸を引き千切るかのどっちかしろってんだ」
「――っ」
ガレキが毒づいて、ヒメがタモを用意する。海面を懸命に見つめて、身体を乗り出してタモを伸ばした。
海面に魚影が見えると、ヒメがおぼつかないタモさばきで掬おうとする。
魚が動き回るのもあるけど、タモが長いからなかなかうまく狙いが定まらない。
そろそろホントに抱きしめちゃってもいいよね。
海に浸かると水の抵抗でタモが重くなり、動きも鈍る。やっとの思いで魚を収めた瞬間、ヒメが海へと引っ張られた。
「ちょ、危ない!」
必死に身を乗り出していたヒメは、一瞬で身体を持っていかれそうになった。私はとっさに手を伸ばしたけど、いらない心配だったみたい。
ガレキが釣竿を片手に、ヒメの服をつかんだの。
「ったく、まいどまいど危なっかしいことで」
「――っ」
ガレキが呆れたように見下ろすと、ヒメは笑顔で見上げた。
天使のような笑みだけど、危険だったから叱りたい気持ちもある
「ガレキ、ナイスキャッチね」
「危なっかしいからな」
ガレキがヒメと魚に集中しながら言い捨てた。
ヒメはガレキに支えられた状況にもかかわらず、のんきにタモを引き上げたわ。
「ヒメちゃん。さすがに危ないから私がタモを引き上げてあげるわ」
危うい状況に見かねた私は、ヒメからタモを預かろうとした。だけどヒメはイヤがるように身をよじって、よけい危なっかしくなってしまった。
「めんどうだな、わがままやるなよ」
ガレキがため息を吐きつつ、釣竿を置いた。両手を使ってヒメを引き上げ、同時にタモも上げようとした。
ヒメは私のときと打って変わって、ガレキと嬉しそうにタモを引き上げていたわ。
「だから、私の何がいけないのよ」
ヒメがガレキに懐くほど、ガレキのことが恨めしく思えてしまう。
いけないわね。こんなだからヒメが心を開いて……抱きしめさせてくれないのかしら。
頭を振って気持ちを切り替えようとする。
でもそれだったら、ガレキに懐いている理由がわからないわね。
私はひとりで首を傾げることになる。
そうこうしているうち、ふたりは無事に魚を引き上げたわ。
「――っ!」
タモに入っていた魚が思った以上に大物で、ビチビチと跳ねている。
ヒメは興奮冷めやらぬ様子でまくしたてながら、魚を指差してガレキの服を引っ張る。パッチリとした瞳は子供らしく、キラキラと輝いているわ。
「うっわ。ひでぇぐらいデケぇ。うっとおしいほど抵抗するはずだ」
対してガレキの気持ちは冷めきっていた。デコボコしたふたりの感情は、見ていて笑いが込み上げてくる。
ガレキと私のポジションが入れ替わっていれば完璧なのに。
「ふふっ。ホント、どうしてこう仲がいいのかしらね」
不思議に思いつつふたりに近寄り、改めて魚を見下ろした。
五十センチはいっていそうな黒鯛。元気がよくて、口に釣り針が刺さった状態で必死に飛び跳ねている。とても粋がいい。
「すごい大物ね。ガレキやったじゃない」
ガレキの背を軽く叩いて話しかけた。しっかりと働いてくれたから抱きしめてあげたいんだけど、ガレキには刺激的かな。ちゃんと打ち解けたら頭を撫でてあげたい。
ガレキは眠そうな目つきで見上げる。ヒメは私に気づくと、ビクンと震えて縮こまっちゃった。
「ここまでやる気はなかったんだけどな。正直、俺の気力を返せだ」
「まぁまぁ、そんなこと言わずに。この魚は私がおいしく料理してあげるわよ」
嬉しい仕事が増えたわ。腕によりをかけておいしい料理を作れば、ガレキも魚釣りの自信を持ってくれるんじゃないかしら。
「まずは仕込んで熟成させなきゃいけないから、食卓に並ぶのは明日になっちゃうけど、それまで我慢してね」
私はにっこりとほほ笑んで、ガレキの肩を叩いた。
「別にいいけど。魚なんて誰が釣っても同じだろ」
また身もふたもないことを言っちゃって。
自分の笑顔がちょっとゆがんだ気がする。
「俺は疲れたから、切り上げる」
ガレキは釣道具の片づけを始める。ヒメもタモを持ち上げた。
「そう。もしよかったら今度、私にも釣りのコツを教えてちょうだい」
「めんどいし、我流でやってっから説明のしよーがねぇ」
ガレキは視線もよこさずに船べりから遠ざかっていった。ヒメもひよこのように、ちょこちょこと後からついていく。
「んー。ふたりとも、もうちょっと打ち解けてくれてもいいのになぁ」
ふたりの世界を、ちょっとでもいいから共有したいな。
私は釣りをする気分じゃなくなったので船内を見回ることにした。
船尾の方には小さいながら畑がある。レンガ花壇でスペースが区分けされている。野菜はできる限り自給自足をしている。
小さいながらニワトリ小屋もあって、二羽飼っている。もちろん卵専用の雌。
ナナシは農業船じゃないから、こぢんまりだし収穫も多くはない。昔でいう家庭菜園みたいなものね。
だから本格的には野菜を育てられない。種類も八種類が限界で、育成中の畑もあるから収穫できるのは二・三種類。
別の場所にはミカンの木も植えてあるわ。
菜園スペースにつくと、キレイがちょこんと座って草むしりをしていた。畑の管理も率先してやってくれている。もうちょっと遊んでもいい年頃なのに。
「ごくろうさま。草むしりって腰にきたりしない」
「あっ、ママ。けっこうツラいです。わたしもう腰が痛くて痛くて」
キレイは立ち上がると、ん~って伸びをした。そのあとで後ろに手をまわしてトントンと腰を叩く。
ババ臭いしぐさなのに、どうしてかわいいんだろう。私が同じことやったら目も当てられないのに。
歳をとることにこの上ない理不尽を感じる。
立って並ぶと、私の方がまだ身長が高い。だけどキレイは成長期だから、そのうち抜かされちゃうんだろうな。決して私が縮むわけではないわ。
胸中で言いわけしていたら悲しくなってきた。気分を紛らわすために畑を見渡すことにする。
ホウレンソウは足首ほどの高さで、緑の輝きが一面をびっしり埋めている。
ネギは芽を伸ばし始めたばかりでかわいらしい。ホウレンソウと比べるとまだまだ頼りない。
ミニトマトもまだまだ成長途中。茎を支柱に括りつけてはいるものの、まだまだ背は低い。やっぱりこの時期は収穫が少ない。
他の野菜も似たり寄ったり、これからが楽しみね。
「うん。みんな元気に育ってるわね。さすがキレイだわ」
「そんな。わたしなんてちょっと草むしりをしたり、水をあげただけですよ」
頬を軽く染め、はにかむように微笑むキレイ。
「も~、この子は本当にかわいいわね~」
私はキレイを抱きしめて頭を撫でまわす。キャっと悲鳴が上がったものの、抵抗はない。やわらかな触り心地に、あぁ、女の子っていいなって思う。
私にもこんな時期があったのかな。オバさんといわれる年になると、不甲斐ない変なことを考えてしまうわね。
ナナシで生まれて、たくさんの大人たちに見守られながら育ってきた。歳をとるごとに大人たちがいなくなって、だけども新しい子たちができてきて、だからさみしい思いを振り切った。気がつけば成長しきっていて、今では一番の年長さんでナナシの船長。
不安はたくさんある。けど楽しいことだっていっぱいある。
今はナナシの子供たちがどう育つのか、楽しみで仕方ないわ。
「ねぇ、キレイ。野菜って昔は船の上で育てることができなかったみたいよ」
「えっ、そうなんですか」
意外そうにキレイが驚いた。
私はなんとなく、世界について歴史を教えたくなった。たぶん、ちょっとした親心……もしくは老婆心なのかもしれない。
「えぇ。これはまだ海前記のことなんだけど、野菜って海水どころか潮風がダメだったみたい。だけど陸地が沈没していくのに従って農作物が全滅することは、どうしても避けたかったらしいわ」
「気持ちはなんとなくわかります。おいしいお野菜もありますし」
「そう。味もそうだけど、栄養素的なことも考えて、どうにか船上でも農業を続けられるようにしたのよ。品種改良を重ねに重ねて、何度も失敗を繰り返して」
説明しながら思う。当時はどんな心境だったのだろうか。やっぱり慣れ親しんだ味がなくなるのは悲しいのかな。
「それでようやく塩水に負けない農作物が完成したの。もちろん間に合わなかった品種もたくさんあった。けれどもそのおかげで、海後記になって何百年と経った今も、私たちは野菜を食べることができるの」
試行錯誤の中でちょっと味が変わってしまったのかもしれない。でも時代に殺されることなく受け継がれてきた。
私たち人間は数十年という単位で死んでしまう。この時代、寿命をまっとうすることは滅多にない。
「はぁ。お野菜にもそんなエピソードがあったんですね」
キレイが口をポカりと開けて感心する。
そのちょっと呆けちゃったような、マヌケな顔もかわいいわ。うんん、キレイだけじゃない。レッカもゲンキも、ガレキやヒメだってかわいい。
「も~、ホントかわいいんだから」
私は衝動のままにキレイを抱きしめながら思う。
この話を聞いたのは幼い頃だ。ナナシに流れ着いたひょろいお兄さんが、気だるそうに教えてくれた。歴史に詳しくて、海前記の出来事を後の世代まで伝えていくんだって、ボソリと言っていた。
お兄さんはナナシに流れ着いて、わずか二年で病気に負けてしまったわ。
けれども私にしっかりと、歴史を伝えてくれた。お兄さんがナナシで生きた証を伝えてくれたの。
順当にいけば次に死ぬのは私。それまでに子供たちにいろんなことを伝えていきたい。そして次の世代、また次の世代へと歴史が伝わり続けてほしい。
「ママ、くっ……苦しい」
私の抱擁にキレイが抵抗し始める。名残惜しいけど離してあげる。
「ごめんさない。ちょっとやりすぎたわ」
微笑みに罪悪感をちょっぴり混ぜて謝った。
上目づかいで、もーって膨れるキレイがかわいい。これだけで今日一日を乗り切れるわ。
いずれはヒメにも同じ表情をさせたいなぁ。
西の海がオレンジ色に輝いている。私はレッカとふたりでキッチンにいるわ。これから夕食の準備よ。
レッカの服装は昼間と違う。さらしの上から黒いノースリーブのシャツを羽織っていて、スパッツの上からは太ももまで隠した赤いフレアスカート。靴だって履いている。
漁へ出るときは邪魔だから脱いでいた。
今は料理をするから赤いエプロンをつけている。
エプロンって偉大ね。ちょっと襲ってしまいたくなる魅力を引き出させるんだもの。抱きしめたい。料理中は危ないからしないけどね。
ちょっと残念に思いながら、夕食を作り始める。
まずは今朝仕込んでおいたタッパーを取り出す。中には酒、みりん、しょうゆ、おろしショウガで漬け込んだブリの切り身が入っているわ。
「レッカ。ブリが漬け込んであるから、弱火でじっくり焼いてちょうだい」
「はーい」
レッカは返事をすると、慣れた手つきで電気コンロをつける。フライパンに水を数滴たらし、蒸発するのを待つ。
フライパンがほどよく温まったところで油をしき、ブリを焼き始めた。
パチパチと香ばしい音が聞こえてくる。
やっぱり手伝ってくれると楽でいいわ。レッカは昔からよく私についてきてくれる。つきあいも長いから料理はお手の物ね。特に難しくないから、ブリはレッカに任せちゃう。
「最近は海が穏やかでいいわね。漁も捗るんじゃないの」
「そうね。これでゲンキさえ無茶しなかったらもっと効率あがるのになぁ」
レッカの怒りを背中で感じながら、私はホウレンソウのお浸しを作る。
鍋に水をいっぱいに張って火にかける。ホウレンソウはその間に水で洗っておくわ。
「ゲンキはちょっと落ち着きがないからね。でもガレキよりは働いてくれているわ」
「ガレキと比べてもね。あの人、働くどころか動きもしないじゃない。もうちょっとナナシのことを考えてくれてもいいのに」
パチパチと魚の焼く音に、ジュージューという音が加わってくる。醤油の香ばしい匂いが鼻をくすぐるわ。
私はニッコリしながら、湯気がもくもくと出てきた鍋の中に、塩を加えてからホウレンソウを放り込む。
「でもたまに魚を釣ってくれるわ。今日なんてヒメちゃんと一緒に大物釣ったのよ」
「たまたまでしょ。あーあ、どうしてヒメはガレキなんかに懐いちゃっているんだろ。あたいの方がよっぽどかまともなのにな」
「ホント、不思議よね」
ガレキを含めた、みんなが共有しているなぞ。知っているのはヒメちゃんのみね。
「とにかく、男なんて頼りにならない。まぁ、ヒメちゃんは言葉が通じないし、まだ幼いから別よ。ママは船のことを何よりも知っていて働き者だし」
持ち上げてくれるのは嬉しいけど、私もちょこちょこと休憩しているのよ。心に刺さっちゃうな。
「キレイなんてナナシの掃除に畑の管理、洗濯だってやっているのよ。比べると男どもはホントにのんきすぎよ」
「そうね。今日のホウレンソウもキレイにとってもらったのよ。キレイは働き者ね。でももうちょっと休むことも覚えてくれないと、心配だわ」
「そうだよ。そのためにはやっぱり男どもを働かせなくっちゃ」
レッカったら、結局そっちの方に燃えちゃうのね。
おっと、お喋りしているうちにホウレンソウが煮えてきたわ。冷水にとって熱を冷ます。水を絞ったら根を切り落として食べやすい大きさに切り分ける。
「人生なんていつ、不慮な事故が起きるかわからないんだから。だから用心に越したことはないのに」
レッカの声は突き放すようにも、心配しているようにも聞こえたの。
「レッカはいろいろ知ってるものね」
レッカは幼いころから十五年、ナナシで生活してきた。
逞しいお兄さんにとても懐いていたときは、ホントにもうかわいかったな。抱きしめたら楽しそうにヤーアってジャレついて。思い出すだけでごはん三杯はいけるわね。
ちょっと話が逸れちゃった。とにかくレッカにとってヒーローのようなお兄さんがいて、笑顔がやさしくて、漁に出ては新鮮な魚を獲ってきてくれたわ。
でも別れは突然やってきた。ある日、漁に出たお兄さんはそのまま帰ってこなかった。
レッカはもう、わんわん泣いた。私をポカポカと叩きながら胸に顔をうずめて。
そんな悲しい別れを何度も繰り返してきたから、レッカは仲間の死に敏感になったわ。
「みんな無神経すぎるのよ。何かあってからじゃ遅いんだから」
私は砂糖と醤油をボールに入れて混ぜ合わす。
「そうね。人が死ぬのって、どうしてもツラいものね」
「あたい、せめて十年はツラい思いをしたくないんだからね」
ホウレンソウをボールに入れて、味がよく染みるように混ぜ合わせる。皿に盛りつければ完成ね
「そう。なら私も十年は年を取らなきゃね」
レッカを元気づけるために言い切った。十年老いた私……ダメージは思ったより大きいわね。
「ママ、全部焼き終わったよ」
ため息をつくと、レッカは夕食が完成したと笑顔を向けてくれた。両手にお皿を持って、焼き加減を見せるようにね。
幼い頃のレッカもかわいかったけど、今のレッカもやっぱりかわいい。抱きしめたい。お皿とか、割れる物がなかったら抱きしめているのにな。もどかしいわ。
ほどなくして食堂に全員が集まった。席はキッチンから一番近いところ。食堂の扉から見れば一番奥のテーブルだ。メニューはブリの照り焼き。ホウレンソウのお浸し。それとミカンよ。陶器のコップには水も入っているわ。
ちなみに食器は箸の他に、スプーンとフォークも全員分を用意してある。
匂いにつられてか、ナナシのみんなが次々と集まってきた。
窓からはオレンジの夕日が差し込み、部屋を照らしてくれる。
「あー、腹減った。おっ、今日もうまそーじゃん」
ゲンキが腹を右手でさすりながら入ってきた。白いシャツを羽織って、頭には緑のバンダナが巻かれている。料理を見るなりに歓声をあげたわ。
「あたいが仕方なくゲンキの分も焼いてあげたんだから、ありがたく思いなさい」
喜色満面のゲンキに、レッカが両手を腰に当てて高圧的に牽制した。ツンデレかしら。思いっきり抱きしめたいけど、下手してご飯が台なしになったら困るから、まだ我慢ね。
「いい匂い。ママ、いつも料理を作ってくれてありがとうございます。やっぱりお料理ってできた方がいいですよね。わたしも手伝えればいいんですが……」
キレイは料理作るのが……まあ、とても苦手なの。だから上目づかいで、申し訳なさそうに言ったわ。
「そんなに気をつかわなくても大丈夫よ。キレイはナナシのためにいっぱいお手伝いしてくれているんだから。それに休むのも大事よ」
健気なキレイがホントかわいい。抱きしめて撫でまわしたい。夕食の片づけが終わったらダッシュで撫でまわしちゃう。
私は密かに思いつつ、頭を撫でる程度に抑えた。
「――っ」
「ったく。そんな急かすなっての。メシは逃げねぇぞ」
楽しそうにはしゃぐヒメに手を引かれ、ガレキがめんどうそうにやってきたわ。
「確かにご飯は逃げないけど、そのかわり冷めちゃうわよ。だからガレキもできたてを食べましょ」
私が声をかけると、ヒメがびっくりしてガレキの後ろに隠れてしまった。だからなんで。
「ちっ、めんどくせぇ」
ガレキは渋々と席に着いた。私から見て向かいの真ん中。ヒメがすぐさま隣に座ったわ。きっと特等席なのね。私は認めないけど。
「ちょっとガレキ。おいしい物を食べさせてもらうっていうのにその態度は何よ」
業を煮やしたのはレッカ。
「まぁまぁ。こうして食堂に食べにきてくれるだけでいいじゃない」
ガレキは昔、そんなにごはんを食べてくれなかったわ。いつだって無気力だった。心配になるくらいに。
だけどヒメがナナシにきて、しばらくすると状況が変わったの。ヒメが率先してガレキを連れてくるようになったわ。
ガレキはヒメと仲良くなったことから妬ましく思うけど、同時にほっとしたのも確かね。
やがてガレキを通して、ヒメがみんなと仲良くなってくれるといいわね。それで私が抱きしめても、笑顔を向けてくれるようになってほしい。
「それとこれとは話が別よ。料理を食べるんだから、作った人と食材には多少なりとも感謝を示してもらわないと」
レッカが収まる気配はないわね。毎回もめるんだけどガレキは特に謝るつもりはないみたいだし、ヒメはピタリとくっついて怯えちゃうし。
「レッカ。そんなこといいからとっと食おうぜ。早くしねぇと冷めちまうぞ」
ゲンキがあっけらかんとした態度でガレキの隣に座る。
「ちょっとゲンキ。あんただって感謝が足りないのよ。料理にだって手間はかかってるんだからね」
「まぁまぁ。レッカ。気持ちは分からなくないけど、温かいうちにごはんにしましょ」
キリがなさそうだったのでレッカを宥めることにしたわ。
「もぉ、ママは甘いんだから」
ブツブツと文句を呟いていたけど、抑え込むようにゲンキの対面に座ったわ。
「じゃあ、わたしはここで」
ひと段落したところで、キレイがヒメの対面に座る。私の席は自動的にガレキの対面になった。右側にレッカ、左側にキレイが座っているわね。
「それじゃ、今日も恵みをくれた海の神に感謝を込めて、いただきます」
私が軽く祈りを捧げると、みんなも続いていただきますと唱えた。
ゲンキがさっそく箸を持ち、ブリを挟んでガっつく。
「うめぇ。うめぇ」
と連呼しながら食い進める。ちゃんと味わっているのか疑問ね。食べ方なんて人次第だから文句は言わない。けど、もうちょっとゆっくり食べた方がいい気がする。
「ちょっと、ホントに味わってんの。そんなで味がわかるわけ?」
と、思っていたら案の定レッカが突っかかった。
食べ方が気にくわないらしく、視線で身体を貫くんじゃないかってくらいゲンキを睨みつける。
「んだよ。わかるに決まってんだろ。人を味おんちみたいに言うなよな」
「だったら味の感想ぐらい言ってみなさいよ。それ私が作ったんだからしっかり味わいなさいよね」
「うまい!」
「そうじゃなくて!」
私の右サイドが白熱しちゃった。まぁ、いつものことだからそのうち収まると思う。けど、次はふたりの席を離そうかなって思う。
他人ごとのように思いながら、ホウレンソウのお浸しを一口。ホウレンソウの歯ごたえと甘い醤油の香りが鼻孔をくすぐるわ。
うん。うまく味が染みているわ。
「ママ。このお浸し、すごくおいしいです」
自己満足しているところ、キレイから評価を受ける。箸を持つ、白くて細い指がやわらかそうでかわいい。もぉ、なんなのこの生き物は。
私がキレイのかわいさに悶えているときだった。
「――っ」
ヒメが一口大に切ったブリをフォークに刺して、ガレキにあーんをしていた。
ガレキは眉をひそめて微妙そうな顔をしている。
ちょっとガレキ、そんな表情をするなら今すぐ私と居場所を変わりなさい。ヒメちゃんの笑顔ごと、あーんで食べてあげるんだから。
などという願望は叶うはずもなく、私はただ見ているだけ。とても悔しい。
「ったく、なんで毎回メンドーなことをしてくるんだか」
やがてガレキは諦めたように口を大きく開く。ヒメの笑顔に輝きが満ちると、ブリをガレキに食べさせた。
「――?」
ヒメは首を傾げて反応を待つの。言葉がわからなくても、わかる。今のは「おいしい?」ね。作ったのは私だっていうのに、焼いたのはレッカだっていうのに、堂々とした笑顔でそんなこと聞くなんて。もぉ、反則級のかわいさだから許しちゃう。
「あぁ……うめぇな?」
ガレキがやる気なさそうにうまいと言ったわ。
ガレキが反応したことが嬉しいのかヒメの頬が桃色に染まる。
ガレキ、今すぐあなたの存在を私と交換しなさい。私だったらヒメちゃんを撫でまわして、ぎゅうぎゅう抱きしめてあげるのに。
差異はあるけど、これがいつもの夕食風景ね。ゲンキとレッカの言い合いが激しいと、たまに殴り合いに発展しちゃうけど。
夕食を食べ終わって、少し経つと星空の時刻になる。後はお風呂に入ってから寝るだけ。
タイル張りの床に立ち込める湯気。一面ガラス張りの窓からは、夜空とさざなみの水平線が見える。浴槽はゆうに五人は入れそうなほど大きい。
お風呂のお湯は、海から取り入れた水を濾過機に通して溜める大それたシステムになっている。ナナシを設計した人の、無駄な意地と根性がうかがえてしまうわ。
電気もかろうじて賄えているあたり、計算高さを恐ろしくも感じてしまう。
私はもちろん、すっぽんぽんよ。髪だっておろしてあるわ。タオル? 自宅のお風呂に入るのに巻く人なんていないでしょ。
ひとりお湯に浸かると全身が弛緩する。
「ふぃ~。気持ちぃぃ」
身体を大の字に伸ばして天井を見上げる。疲れっていう固い何かがお湯に溶けていくような感覚。仕草がおばさん染みてきた。悲しいからこの考えもお湯に溶かしちゃおう。
ゆっくりとまぶたを閉じる。ご飯を作ってお洗濯してみんなを眺めて……今日も平和な一日だった。
油断するとそのまま寝ちゃいそうだから目を開ける。
「私。ちゃんと船長やれてるよね」
誰にともなく呟いた裸の言葉は、湯気に紛れて消えてゆく。
思い返せば、私は守られてばかりだった。大きなぬくもりと安心をもらいながら、幸せに育ってきていた。
私はナナシのみんなに、ちゃんとぬくもりをあげられているのかな?
「なんて、湿っぽいこと考えても仕方ないわね」
浴槽にちゃんと座りなおして、両手でお湯をすくって顔にぶっかけた。
「ぶはっ。なんったって、向こう十年はみんなで生きるんだから」
お湯まみれで目を開けると少ししみて痛かった。ひとりなのにかっこつけるんじゃなかった。
お風呂から出て、みんなと少し雑談した。夕食のときに我慢した分、レッカとキレイを存分に抱きしめておいた。照れちゃっていたけど、満更でもないって感じだったわ。
ついでにゲンキとガレキの頭も撫でてあげた。ふたりとも頬を染めちゃっていたな。ゲンキはイヤイヤ、ガレキは微動だにせずに。ヒメちゃんは……おのれガレキめ。
充分にやる気をチャージしてから部屋へと戻った。
テーブルに向かって日記帳を取り出す。愛用の筆には、可愛らしい猫のキャラクターが描かれている。海前記に人気だったアニメのキャラクターが風化せずに残っている。これも歴史ね。
今日起こったことと三食のメニュー。ついでにヒメへの思いとガレキへの妬みも書き留めておいた。
いつか日記に『ヒメちゃん初抱きしめ』と書けるようになりたい。これは当面の目標ね。
さて、日記も書き終えたことだしおねむになりますか。
私はベッドの中へと潜ってすぐに、意識を手放した。