散文
此の世界の情景が他人事みたいに幸福で溢れているように思う。人々は、笑い愛、各々が思い思いに思い愛、誰かと人生を共にしている。その光景は、まるで真夏の太陽に照らされた一人で見る田園のように平和で泰平な世界だ。勿論、その幸福の内側に一歩足を踏み入れれば、様々な雑音の中に身を擦りむくことになるのだろうが、少なくともそんな境界線を跨がなければ、此の世界の何一つ間違いなどなく、あるべき姿に照らされた世の常が日常を彩り、幸福への行進をしているように見えて、この地平こそが、世界の大地で、僕らの目線こそが全てなのだと錯覚するように、何も感じないくらい平和で、不正解でない。
大地は、誰のものでもなく其処にあり、空は誰の物でもなく其処にある。
只、人々の幸福や若さから自分が拠り遠く疎遠な存在になり、その内側への境界線すら見失ってしまっていくだけなのである。
其処での傍観的な自分と、ぎこちなさに溢れた感情への不晴明な浸透からでは、本当の共感などありえるのだろうか。
逆に言えば、明瞭な感情の元で、独立した感情の元で他者と何かを介在して何かを共有することが真に出来るのだろうか。
学校教育という檻の中で、他人と同じ空間にいることでプレッシャーを感じずに物事を真に独立した思考の元捉えることが、思考することが、活用することが、発揮することが出来るのだろうか。
とまぁ、どうしようもなくしょうもない事まで、考え出したのだが、そしたら人間が人間らしく動物らしくないということにもなり、個人の気質によるものともなり、むしろ、全ての動物においても言える言及するまでもない既成事項ということにもなり、AIと同じになるということでもある。肌感で感じるものや空気というものまて、盛り込めるのが動物であり、なんたら。
要するには、場合によっては、そちらの方が望ましいしかし、そうしたところで、社会に適応するということは、社会というものは、そもそもそういった物の形であり、その形の中で発揮できる能力こそが、能力そのものなのだ。という意見になる。
そうするにこして、社会とは劇場なのである。映画館で観る映画の質感は、少なくとも私にとっては劇場体験で、観劇と同一で、集団心理の上で感じる臨場体験なのである。社会そのものが、臨場体験で、ひとりぼっちの部屋で観る映画や食事とそもそも異質な物なのだ。
其処では、映画を見ているようで自分を見ているのだ。しかし、その自分を見ている時間との意識的錯綜の中で、記憶に残る強い感情の揺らぎやざわめきに見回れ、緊張と緩和を繰り返し、激流のように押し寄せる波の中で、興奮し、切り離されるのだ。
正直、最近観劇も鑑賞もしていないのだが、のまれやすい私は、そのスリルや興奮を共有することに温もりを感じていた。
特に舞台は、その境界線が曖昧なところがあり、逆にその外側にいる事は、勇気がいたり、苦い思いをしたりしてしまうことがある。
疎外感を感じてしまい、果たしてこの責任は誰のせいなのだろうと、考えたりしてしまうかもしれない。
その二つが異質な物なのだから其れはそれと割りきって考えれば良いのだが、芸術はどちらに傾くかとナンセンスな問いかけをしそうになったのだが、どちらもまったく同じ作品であり、映像である映画というものと、いや芸術はどちらに傾くか、集団心理の上で成り立つ心理か、絶対的個人の上で成り立つ心理か。映画とは集団心理の上で成り立った作品だと私は認識している。そもそも、芸術的映画等存在しないように私は思う。何故なら商業的で、多数の人間の意を介して追求された作品であり、言葉を正すと芸術的に薄まるからだ。芸術の認識は、様々あると思うが、ひとつ大きな要素として、純然たる思いを形にしているという、点であり、つまり、其れを阻害する要素が少ないということであり、その上で其れが如何に力を帯迫真に迫っているかということだ。
いや、正直芸術などチンプンカンブンで、かたっていて馬鹿らしくなる。只、認識しているものを上塗りして作品を作るということの芸術性への解離は少なからずあると私は思う。其れは、映画なら役者が、知った顔だということに少なからず作品そのものへのフィクション性を高めてしまい、其れはノンフィクション性も高めてしまう。
其処で感じる感動や訴追は、役者に対して追うところがどうしても多い。
勿論、関係なし私は邦画も洋画も見まくっているが。むしろ、顔ぶれで選ぶのは当然で、エンターティメントだと思う。
極論、漫画が芸術に近いエンタメで、尚、読みきり作品だ。出来るだけ作品がそのままの形で世に輩出されたものという点で。そして、言葉の分からない音楽と言葉の無い音楽が芸術に近いといったら、おこがましいかもしれないが、芸術なのだろう。その不朽さと、普遍さと不変さと、要するに死んだものが芸術になりえるのかもしれない。そして、極めて個人的で、極めて個性を抽出出来る媒体であること。
そして、逆接的に極めて忠実で隷俗的で、脱個性的な敬虔な行為が芸術的なのだと思う。自らの意思の名の元で。