希望
三話目です。
よろしくお願いします。
最近確かに、見にくくはなっていた。だけど、日常生活にそこまで支障はなかったんだ。きちんと、今までも普通に生活を送れていた。なのに―。
四月の健康診断のとき、初めて視力検査で引っかかり、病院に行った。そしたら―。
若盲症?私が?どうして…。なんで治らないの…?近年若者にみられるようになった病気?知らないよ、そんなの。なんでそんな病気があるの…?どうして、こんな突然…。
一日経つと、自分の状況を理解し、やるせない気持ちでいっぱいになった。誰も悪くない。わかってる。でも、理屈じゃどうにもできなくて、ただただやり場のない怒りがこみ上げた。
どうして私が…。
そう思わずにはいられなかった。
「すみません。」
声をかけられてハッとした。ダメだ。今はバイト中だ。
「…いらっしゃいませ。…いつものでよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします。」
彼女が優しく微笑んだ。いつものお客さんだ。近所の私立の制服を身にまとい、彼女の左側には…盲導犬がいる。
いつか私も、こんな風になるんだろうか…。
思ってしまってハッとした。私、今何考えた?なんてこと…。最低だ。
「あの…。」
「あ、すみません。すぐにお持ちします。」
ダメだ。ボーっとしてはいけない。私は急いで数本のガーベラを取った。
「お待たせしました。実は先日、たくさん入りまして。色がいっぱいあるんです。ピンク、赤、オレンジ、イエロー、ホワイト。どちらの色がよろしいですか。」
彼女の顔がみるみる輝いていった。
「わあ。ほんと、たくさんあるんですね。どれにしようかな。」
選べない、という風に悩んでいる。そんな様子が楽しそうだった。
「前回は、確か…。ピンクでしたよね?」
目の前に揃えられた色とりどりのガーベラたちを見て、私も一緒に悩む。
「わあ。よく覚えてますね。」
「それはもちろん。大切なお客様ですから。」
そう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。素敵な笑顔だなあ、と思った。
「春らしいからってことで、ピンクにしたんですよね。」
彼女が思い出すように言う。
春らしい…。四月…。あ!
「でしたら、ホワイトのガーベラはいかがでしょうか。」
「ホワイト…ですか…?」
彼女がきょとんとする。
「はい。実は、ハゴロモジャスミンという花が四月から五月にかけて開花時期でして。今、とても綺麗なんです。私の名前にジャスミンの花が入っていたので思い出して…って、そんなことどうでもいいですね。」
余計なことを話してしまった。すみません、と謝り、説明を再開した。
「その花が白色なので、春らしいかな…なんて思って…。あと、白いガーベラには、『希望』という花言葉もあって…。」
「希望…。」
「はい。もし何か望みや願いがあれば…。」
瞬間、冷たいものが頬をつたって落ちた。
え…。
机にポタッと落ちた円形の水滴を見て、自分が涙を流していることに気づく。
私、泣いてるの…?
無意識に泣いている自分に驚きつつ、慌てて袖で涙をぬぐった。お客さんの前だよ。何してんの。
「いいですね。」
「え…。」
「希望って花言葉、素敵です。」
彼女がニコッと笑った。まるで何もなかったかのように。
そうだ。彼女には―、見えていない。
「ですよね。ほんと素敵です。希望…。」
堪えきれず、嗚咽が漏れた。私は何を言っている。もし何か望みや願いがあれば…、なんて。希望を持ちたいのは私じゃないか。望みや願いがあるのは私じゃないか。失明なんてしたくない。見えているまんまがいい。今の生活を失いたくない。そんな望みを、願いを、希望を、持ちたいのは私なんだ…。
「あの、大丈夫ですか。どうかしたんですか。」
彼女が慌てる。必要以上に、心配そうに私を見ている。
それはそうか。見えない彼女にとって、目の前の人が突然泣き始めたら、困惑するのは当然のことだ。いや、見えていても困惑するだろう。だからこそ、必要以上に怖いのだ。何があったのかわからないから。気づけないから。どうしたらいいのかわからないから。
「大丈夫です。すみません。お見苦しいところを…。」
「いえ、私は全然…。その、どこか痛いとか、苦しいとかではないんですか?」
彼女が心配そうに私を見つめる。本当に、心配している。
「はい。全然、そういうのではないので。本当に大丈夫です。すみません。ご心配をおかけして。」
その言葉を聞いて、彼女は少し安堵したようだった。見えない彼女にとって、信じられるのはその人の言葉と態度なのだろう。少し不安は残るが、私のはっきりとした口調と言葉で、少なくとも異常事態ではないと、信じたのかもしれない。
「それなら、良かったです。」
彼女はホッとしたように微笑んだ。
この子は、どこまで優しい子なのだろう…。
そう、思わずにはいられなかった。そして同時に、自分のことしか考えられない自分を恥じた。
「あの、ハゴロモジャスミンという花もありますか?」
彼女がそわそわしながら聞いた。
「え?あ、はい…。ありますけど…。」
瞬間、彼女の顔がぱあっと輝いた。
「もし良かったら、持って来てもらえませんか?」
生き生きとした声で彼女が言う。わくわくを止められない、というような感じだ。その愛らしい彼女の姿を見て、私は思わず笑みをこぼした。
「もちろんです。すぐにお持ちします。」
お読みいただきありがとうございました。
引き続き楽しんでいただけたら幸いです。