第23話「元気が出たかも」
見つかる前にシトリンを待たず邸宅を出る。アゼルが気付くのは彼女たちが経ってからしばらくしたあとになるだろう。
敷地を急いで駆け抜け、私服姿で待機していたクレイグたちが彼女を隠すようにやってきて大きめのローブを渡す。
「ご無事でしたか。さあこちらへ、リズベットさんは?」
「……ここに残ってもらったわ。色々事情があって」
「そうですか。何か計画の変更があったようですね」
細かく聞きたそうだったクレイグに彼女は何も語らない。
「すこし休ませてくれないかしら。疲れたの」
「馬車を用意してあります。見つかるとまずいのでこちらへ」
全身がだるく、足を持ちあげるのもおっくうだった。邸内で歩き回った時間など大したものではなかったが、精神的には何時間もそこにいたような気分だ。押し寄せる波のように疲れが彼女を飲みこもうとして、まぶたが重たく感じた。
(……このまま目覚めなければいいのに。まるで悪夢だわ)
まだ現実が受け止めきれないでいる。リズベットと交わした約束は、これほどにも簡単に崩れてしまう脆さだったのか。ただ自分が甘えていただけに過ぎず、彼女にとっては何気ない約束のひとつだったのかもしれない。考えれば考えるほど泥沼にはまっていくような危うさを覚え、なんとか振り払おうと頬をばしっと叩く。
(しっかりしなさい。リズにだって事情はある、気持ちは分かってるでしょう? 捨てられたわけじゃないし、忘れられたわけでもないんだから……だから……)
泣きそうになるのをぐっとこらえる。スカートにしわが付きそうなほど強く握りしめ、俯いた。もう旅はこれまでなのかもしれない。そう思うと、今までのすべてが閉ざされた城にいたときよりも耐え難い孤独を連れてくる気がして怖くなる。
「きれいなお顔が台無しですよ、お嬢さん」
馬車に乗り込んできて同じく疲れた顔のシトリンが対面に座る。呆れ顔でふうと息をつき、彼女を見つめてやんわりと微笑む。
「リズベット様は連れ出せなかったようで……。せっかく計画まで立てたのに残念でしたね。それでなにかほかに収穫はございましたか?」
尋ねられてうなずく。収穫と言えるほどなのかどうかは分からなかったが新しい協力者を得たことを伝えると、話をすべて聞いたシトリンは「ふむ」と小さく唸った。
「それは興味深いですね……。イレーナ様とは面識がありませんでしたが、同じ考えを持たれている方がいて嬉しいかぎりです。どんな話が聞けるか」
「ええ。最初は正直に言って半信半疑だったけれど、イレーナもエイリンが自殺するのは考えられないようだったから……殺人という可能性が真実味を帯びて来たような気がするわ。このまま曖昧で終わらせないよう、しっかり私たちで解決しましょ」
ヴェルディブルグのどこへ行っても野蛮な話を聞くことはない。実際にゼロというわけではなくとも、それほど平和な国なのだ。あるのは誰が誰と喧嘩をしたとか、夫婦のいさかいだったり、貴族同士のくだらない権力争いの縮図についてありもしない話を真実のように語らうことばかり。
殺人や誘拐が身近で起きるなど、あまり信じられる話ではなかった。
「おふたりとも。そろそろ出発させますが、忘れたことはございませんか」
御者台に乗ったクレイグがふたりに尋ねる。問題がないと返事があってすぐ馬車は走り出した。長居でもしてアゼルに気取られては問題だ。早急に場を離れるのが正解で、あとは城へ戻って数日しないうちにイレーナと顔合わせをする予定を立てた。
「気になりますか、リズベット様のことが」
「え?……ああ、ごめんなさい。すこしだけね」
ぼんやりと外を眺めているのは、まだ気持ちが残っているから。また会えたら、いつかまた旅ができたら。もしかしたら永遠に来ないかもしれない。でも期待は捨てきれなかった。何百年を超えた先で待っていた奇跡に出会えたから。
シトリンは、こほんと咳ばらいをして──。
「……『ソフィア、どうしてそんな暗い顔をしてるの?』」
まぎれもないリズベットの声に驚く。真似たというより本人のものだ。シトリンの喉から発せられたのが怪しく思うくらいに同じで、彼女はいつの間にか手にリズベットそっくりのぬいぐるみを握って手で小さく振りながらソフィアに笑いかける。
「びっくりしたわ。そのぬいぐるみはなに?」
「作ってみたんです、即席で。落ち込んでいらっしゃったので」
そういってまたリズベットの声を真似て彼女は言った。
「『泣くのはあとだよ、今はやるべきことをがんばろう!』」
「もっ……ふふっ、もういいわよ。ちょっと元気がでたかも」
「そうですか? ではこちらのぬいぐるみは差し上げます」
受け取ったぬいぐるみを大事そうに抱えて、ほんのちょっぴり照れた様子でソフィアは小さな声で「ありがとう」と顔を埋める。
「おかげで今日はよく眠れそうな気がするわ」
「ふふっ、それはなによりです」




