第33話「出発の前に」
その日は、いちど宿に戻ってゆっくりと休んだ。帰ってすぐにぐっすりと深く眠ったのは、彼女たちが思っていたよりも忙しい一日を過ごしたからだろう。
翌朝には疲れを残さず退散させて、またドマリの店で練習──デザートづくりに挑戦した。もちろん彼の手助けも含んでの話だが、ブランデーケーキは大いに成功。店でも出せるレベルだと褒められると調子も出てきて、結局昼を過ぎるまでカフェに居座り、すべて済んだらお決まりのデザートを食べる。
「まだ二日目なのに上手くなったもんだな。明日も来るのか?」
「うん、その予定だったんだけどね。仕事が入ってさ」
ウェイリッジを出てケトゥスに行かなければならない話をすると、彼はすこしだけ残念そうに「そうか」と頭を掻く。客を相手にするよりも、彼女たちにてきぱきと教えている時間が楽しくて仕方なかったようだ。
「あ、それならコイツを持っていけ。大したもんじゃないが」
自室に戻って、複数枚の紙の端に穴をあけて紐で束ねたものを持ってくる。一枚ずつが文字と挿絵でびっしりと埋められていた。
「保管してあるレシピの写しだ。君らが言ってた馬車での移動中にも使えそうな簡単なものばかりに絞ってあるし、出来る限りおふくろの描いてた挿絵も真似てみた。……絵心がねえとがっかりするかもしれねえが、そこは諦めてくれると助かるよ」
今回はケトゥスに行くのに列車を使うので必要はなかったが、ドマリも彼女たちが再びウェイリッジを訪問した際に絶対また教えられるとは限らない。そこで先にまとめておいたレシピを彼女たちに渡しておけば、いつでも自分の培ってきたものを役立ててもらえるはずだと昨晩のうちに纏めていた。
「こんなにたくさんレシピを……アタシたちのために?」
「ああ、楽しませてもらった礼だよ。誰かに作ってやってもいい」
彼のレシピを使って作ったといえば宣伝にもなる。リズベットたちは貰うのを一瞬ためらったが、カフェの経営を後押しできるならと受け取ることにした。
「にしてもケトゥスか、気をつけろよ。昔と比べりゃマシになったらしいが、いまだに金持ちが偉そうにしてるって話だ。エドワードがいりゃそうもならねえんだが」
カレアナ商会はヴェルディブルグのみならず世界各地に顔が利く。身分としてはさほどでもないが、はるか昔にマリー・カレアナが仲の良かったとされる魔女の庇護にあり、関係が薄れている今も多くの者たちは聞けば納得して信頼するだけの名声はあった。
エドワードといっしょにいれば、貴族たちから見下される心配もないと思い口にしたが、ソフィアは「大丈夫よ、それくらいのことは」凛として言う。
「言いたいひとには言わせておけばいいのよ」
「そういうもんかねえ。俺だったらキレちまってるかもなあ」
「アタシたちは気にしないし、気にもならないからね」
どちらもかつては爵位を持った家の者であり、見下されるよりも辛く苦しい環境の中で生きてきた。いまさら誰かに向けられた言葉ひとつで、そう簡単に傷つくほどの脆さではなくなっていた。
「ありがとうね、ドマリさん。すっごく楽しかった!」
「美味しいブランデーケーキも褒めてくれるあなたも好きよ、ドマリ」
もうそろそろ店を出なければとデザートを食べ終えたふたりは支度をする。ドマリは照れくさそうに「へへっ、そりゃよかった」そう言って頭を掻いた。
「それじゃあ元気でね、ドマリ。また来るわ」
「とびきり美味しいデザート楽しみにしてるよ!」
しばらくの別れを告げて馬車に乗り込み、ふたりはカフェをあとにする。遠くに見えるウェイリッジでも特に大きなカレアナ商館を見つめて「今回も大きい収穫があったねえ」と喜びながら、空を飛ぶ一羽の鳩に目をやった。
「あ、ソフィア。見て見て、あの鳩ってば何か持ってるよ」
「本当ね、……手紙みたい。誰に持っていくのかしら?」
「町の外へ向かってるから、きっと遠い場所かもねえ」
飛び去っていく鳩を見送り、うーんとリズベットは考える。
「でもいまどき伝書鳩? っていうか、あんな持たせ方するっけ」
「……言われてみるとそうでもない気が。まあ、気にしても仕方ないわ」
ふたりは珍しいものを見たら幸運の前兆だと思うことにした。
「さて。アタシたちは今日めいっぱいウェイリッジを楽しんだら、明日の朝にエドワードさんたちに挨拶して出発だよ。どこか行きたい場所はあるかい」
「時間が許されるかぎり全部、って言ったら?」
「できるかぎり連れまわるよ。アタシのオススメでね」
ソフィアは彼女の答えが気に入ったのか、くすっと笑った。
「それなら、お願いしようかしら。楽しそうだから」




