第16話「嫌悪」
「……ええ、そのようで安心したわ。よろしくネフェルさん」
打って変わって笑顔を向け、握手を交わす。背筋が凍り付きそうな気分の悪さを覚えながらも、彼女は笑みを崩さないままわざと名残惜しそうに手を離した。
「これから戻るところだったんだが、君たちもどうだ?」
「あっ、あのねルクス。アタシたち今、仕事中でさ」
「少しくらい時間はあるだろう? お前の仕事とやらは」
ぎろりと睨まれてリズベットはまともに彼を見ることができない。期限を損ねないようにしようとするのは、まだコールドマン家での習慣が根幹に残っているから、つい他人に対して必要以上に反抗してはならない、と咄嗟にそうしてしまうのだろう。
そしてソフィアはそれ以上に彼女からルクスへの恐怖や遠慮といった雰囲気が感じられ、普段の明るいリズベット・コールドマンのすがたはなかった。
「ぜひ行かせてもらうわ、ネフェルさん。あなたの言うようにリズの仕事は急いてい゛るわけではないから、すこしだけお邪魔してもよろしいかしら?」
言われたネフェルは舌なめずりをして彼女見つめる。
「もちろんだとも。なんなら泊っていきたまえ、貧相な宿に預かってもらうより良い。妻がいるが、あまり気にすることはないさ。大した女じゃない」
彼の馬車はすぐ近くにあるらしく、用を済ませての帰り道に彼女たちを見つけたようだ。「こっちへおいで」と案内された馬車はひとりで乗るには大きく、彼は「義父とその友人を送り届けたところでね」鼻で笑ってうんざりした顔をする。
「ネフェル家は金を持っているし、美しいものに目がないから良いと思ったんだが。こうも使い走りのような真似をさせられると腹も立ってくるもんだ。……おっと、嫌な話を聞かせてしまったな。まあ乗ってくれ、御者は俺がやるよ」
ふたりは馬車に乗り込む。怯えたリズベットの手にそっと小指を添えて、彼女のほうを見ずにソフィアは小さな声で言った。
「気にすることないわ、リズ。この男から指輪を取り上げるまでの辛抱よ」
「……知ってたんだ。チャントさんたちから聞いたの?」
「ええ。なにがあったかまではいちいち聞かないけれど……」
にやりとしたソフィアは、御者台に座る男の背中を見つめて──。
「罰が下るのはそう遠い話ではないわ。あの指輪を取り上げてしまえば、あなたが考えるよりもキツいお仕置きをしてあげる。……私の友達に手を出した報いよ」
何を企んでいるのかリズベットには分からなかったが、少なくともからだの震えは止まった。彼女ならきっと助けてくれると信じられたのだ。添えられた手に触れて「ありがとう」そう言って泣きそうになるのを堪える。
「ところで、指輪って彼がしているヤツのこと?」
「ええ。薔薇の刻印というか銀の飾りがある指輪ね。あれは危険なの」
人を惑わす指輪。嵌められた手を握ろうものなら彼と目を合わせただけで洗脳、催眠の効果がある。他者を操る最悪な代物で、かつてはスケアクロウズ家が懇意にしていたある男爵のもとに渡ったものだ。世界にふたつあったが、ひとつはソフィアの城に残され、のちに彼女が自身で処分した。
「私は城を出られなかったから行方知れずだったけど、彼が持っていたなんて幸運かも。でもどういうわけか彼はそれが魔道具だと理解してるみたいね。……ネフェル家の令嬢と結婚して姓が変わっているのなら、元の名前が気になるところだわ」
口もとに手を添えてじっくり考え込む。リズベットが「その男爵家って?」と尋ねると、彼女はまた深く考え込んでしまった。
「そう、それなのよね。もうずいぶん前だから忘れちゃって……たしか、ロマーリア家? ええ、そんな名前だった気がするわね」
「……あ。それなら彼の名前と合うよ、たしかだけど」
ロマーリア家は没落貴族として名を残している。ルクスはそんな家庭に生まれ育ち、あるとき家を捨てた。幸いにも彼は美しい顔立ちをしており、女性ならば引く手あまたと言った具合で、リズベットと組んでから彼はうまく女性を利用して金を儲けるようになった。彼女が『女の人の気持ちを弄ぶなんてよくない』と反抗すると彼はいつでも暴力を振るったし、言葉で押さえつけていた。
しかしそのうちリズベットが邪魔になりだした彼は、彼女を騙して旅の資金に貯めていた金と彼女の大切な贈り物の馬車さえ取り上げて、モンストンでネフェル家の令嬢と婚姻を結び今のように好き勝手をしているのだという。
「……アタシもね、最初はルクスが良い人だと思ってたの。でも次第に疎ましく思われるようになって、しまいには全部奪われた。なのにアタシってば今でもこんな感じで、情けないよね。君にもっといろんなものを見せたいなんて偉そうにしたのに」
落ち込んでしまうリズベット。ソフィアは馬車の中からルクスのご機嫌そうな背中に胸の悪さを感じ、目を細めながら。
「まさか。あなたは立派よ、リズ。……生きててくれてありがとう。────でも今、私はあなたに少しだけ嫌われてもいいと思ってる。大事な友達を傷つけたヤツをどうしても許せない自分がいるのよ。先に謝っておくわ、ごめんなさいね」




