第14話「スタート地点」
コールドマンは歴史こそ浅いが、ヴェルディブルグの女王の側近として手腕を振るい国のために尽力してきた。姉妹の長女であるリズベットには相応の立ち振る舞いが求められ、幼少のころはそれが当たり前だと思って生きた。
しかし歳を重ね外の世界に興味を惹かれ始めるようになり、あるとき読んだ旅行者の手記に書かれた内容に憧れ、自分も旅をして自由に暮らしてみたいと思い始める。
もちろんコールドマン家はリズベットを除いて誰もが反対した。自分たちは由緒正しき家系で有り続けなければならない。女王に仕え、歴史に名を刻み続けなければならない。それがコールドマン家のあるべき形。ヴェルディブルグ王家のために生き、そして死ぬのだと耳を塞ぎたくなるほど繰り返し聞かされた。
「仕方ない、仕方ないって自分を説得しながら生きて来たんだ。アタシはコールドマンの長女で、誰よりも立派に王家に仕えて家名を継がなくちゃならないんだってね。他の国はそうじゃないらしいけど、ヴェルディブルグは代々女性が主権を握ってきた特殊な慣わしみたいなものがあるでしょ? うんざりな話だよ」
もし自分が男だったら、ほかの誰かが継ぐことになって自分はすぐにでも言えを出られたに違いないと彼女は口先を尖らせた。
「アタシは画家にもなってみたかった。あるとき町を馬車で走ってたら、きれいな絵を描くひとがいて話しかけたの。もちろん父さんには『そんなことをしている暇がお前にはないだろう』なんて厳しく言われたんだけどね……でもそのときだった」
父親の厳しい言葉に殴られて諦めようとした彼女に声を掛けて来たのは、少年のような服装をした女性だった。大事そうに古ぼけたキャスケット帽をかぶり、美しく流れる腰まで伸びた金髪を軽く髪で梳きながら青空色の瞳でリズベットを優しく見つめるのが印象的で、女性は親子のあいだに割って入るように言ったのだ。
『親が子供の人生を決める権利はないよ。彼女の幸福は彼女のものだろう、ばかばかしい。君も……名前は知らないけど、君にだって生きるうえで誰にでも譲れないわがままがあるでしょ? 君が苦しい思いをしても、君以外の誰かが幸せになるだけだよ。たったいちどの人生を誰かに左右される必要はないんじゃないかな』
そのときは言葉の意味を理解できないまま『いいんです、アタシは』と、彼女が父親と口論になって嫌な想いをしてしまうのが怖くなって断り、そそくさと馬車に乗り込んで急いで帰路に着いたのを覚えている。
けれども胸に楔のように突き刺さった言葉は微塵も揺らぐことなく、夜も眠れないほど彼女は考え込んだ。このままでいいのか。本当にそれで自分は納得できるのか。ただ目の前のものを受け入れて我慢する必要が本当にあるのか、と。
「結局、朝まで考えて納得できなくて、やっぱりアタシはアタシらしく生きたい! って思ったんだ。だからどれだけ反対されても知らない、無一文で出て行ったって構うもんかって啖呵を切って家を出たのさ。……悔しかったなあ、あのときは。『お前になんぞできるものか、臆病者のくせに』って。本当はそんなふうに思われてたんだよ」
リズベットの人生は欺瞞だらけだった。笑顔の仮面を被り、常に良い子を演じて来た。誰に何を言われても声は荒げなかったし、いつだって誰かの言いなり。間違っていると言われれば「そうだね、ごめん」と答えて頷くだけ。
楽しくもないのに楽しいと喜び、悲しいのに悲しくないと涙を拭く。うんざりするほど自分以外の誰かの言葉を呑み込んで、コールドマン家の長女として立派なレディになりさえすれば良いのだからと言い聞かせて来たことが、彼らには理解できていなかったのだ。そのとき悔しさといっしょにぷつんと緊張の糸が切れたのを思い出す。
「アタシ、だからね、当時に両親が決めてた婚約者のところへ行ったの。さすがに迷惑掛けるし、挨拶しようとしてね。そしたら『いいよ、君にはきっと俺と過ごすより良い時間になるよ』って言ってくれたのが、すごく嬉しくてさあ」
家族よりも他人のほうが分かってくれていると思うと、不思議と心強い気持ちになった。ようやくリズベットは自分の人生が動き出した気がして、思わず人生で初めての大泣きをしてしまった。そのうえ元婚約者の男は『彼女に馬車を。彼女の門出を祝いたい』と、背中を押してくれもした。
「それがアタシのスタート地点。……また王都に戻ることもあるだろうし、そのときはきちんとお土産持って、挨拶に顔を出さないとだね」