第40話「不器用な想い」
ベッドに潜り込み、まだ陽も沈み切らないうちから眠りにつく。ほどなく寝息を立てて熟睡し始めたのが一時間経った頃だったが、それはリズベットだけだ。となりで目を瞑ったままのソフィアはどうにも落ち着かず、そっと物音を立てないように毛布を脱いで座り、はあ、と大き目のため息を漏らす。
(……眠れない。疲れてはいるんだけれど)
仕方なく一階にあるキッチンへ向かう。水を飲めば気分も変わるかもしれないという小さな期待だ。重たいからだを引きずるようにしてふらふらと歩き、全身が筋肉痛にでも襲われている気がした。
そうしてのんびり辿り着いたキッチンの前で、ドアノブに伸ばした手が止まる。なかからすすり泣く声が聞こえた。
ゆっくり開いてみるとルーカスの背中が見える。そのまま立ち去ろうとしたが、扉が、ぎい、と軋む音を立てて気付かれてしまう。
「ああ、これはソフィアさん。どうされたんですか?」
「水を飲もうと思って。邪魔しちゃったかしら」
「ハハハ。お恥ずかしいところを見られてしまいました」
目に浮かんだ涙を指で拭ってルーカスは頬を紅くする。
「すみません、ちょっと昔のことを思い出してしまって。ほら、帰って来たときにソフィアさんが渡してくださった指輪があったでしょう」
「ご両親の形見の。パパラチアサファイアと言うんですってね」
とても美しい輝き方をする貴重な宝石。つまんで持ち上げた指輪を眺めながら、ルーカスはすこしだけ嬉しそうな表情を浮かべた。
「何気ない日常を思い出すんです。本当に些細な、いっしょに出かけたときのこととか、食事をしたこと。たまに夜、酒場へ足を運んだこともありました。母は病気がちでしたが遊びに出るのが大好きで、父はいつも心配そうに『無理だけはするな』と言っていたんです。……結局、最後は歩くことさえ難しくなってしまって」
時は残酷で、徐々に彼らの母親の命を蝕んでいった。最初は体調が悪い程度だったものから、ついぞベッドで寝たきりの生活になってしまい、それから亡くなるまでは早かった。せめてもの救いだったのは傍にいられたこと。最後に『ありがとう』と感謝を伝えられたことだけは悔いの残らない別れだったと語って寂しそうにする。
「本当は誰よりも想っていたのに、僕たちには分からなかった。あのひとが不器用なのは分かっていたことなのに、僕らはそれでも理解ができなかった」
たったひとりしかいない母親の死は、若い姉弟には耐え難い辛さがあった。にも拘わらず父親はいつもの仏頂面で、いつもと変わらず仕事に励んでいた。あまりにも薄情に見えたことだろう。いや、実際に周囲から見れば薄情でしかないのだ。
それでも何も言わずに普段通りのすがたを見せ続けた理由は、もう誰にも分からない。憶測だけで言うとするのなら、自分の弱いすがたを見せまいと気丈に堪えただけだったのかもしれない。ルーカスがそう考えたのには理由があった。
「母が亡くなってすぐの頃、家のなかから誰かの泣く声が聞こえたんです。……ちょうど、このキッチンでした。扉を開けたら父がコーヒーを飲んで静かに窓のそとを眺めていて。雲ひとつない星空の綺麗な夜だったのを覚えています」
ルーカスはそのとき父が泣いているとは思わなかった。だが今思えばおかしな話だ。ひとりでコーヒーを飲むすがたはいつも通りだったが、いちども彼を振り返ることなく『そとを見てみろ』と言うだけで、表情も見せようとしなかった。
「思えばあのとき泣いていたのは父だったんですね。僕はあのひとが泣くわけなんてないと勝手に思っていたし、そのうえ冷たいひとだなんて軽蔑すらした。本当は僕たちなんかよりもずっと辛かったんでしょう」
いまさら理解したところで言葉をかけてやることもできないが、不器用な父親の実像を知れたのは良かったとルーカスは嬉しそうに言う。
「せっかく姉も帰って来たので、目を覚ましたらいっしょに墓参りにでも行こうと思います。ソフィアさんはこれからどうするんですか?」
「そろそろロッチャを出るわ。強盗団もいなくなったし」
完璧とはいかなかったが、依頼された件に関しては解決している。忙しかったぶん、しばらくゆっくり羽を伸ばそうと考えていた。
「そうですか。……本当にありがとうございました、ソフィアさん。ロッチャを離れていったひとたちにも新しい生活があるのですぐに戻って来ることはないでしょうけど、新しくここで暮らしてくれる仲間も増えました。おかげで僕たちの町も新しい活気で満ち溢れてくれると信じられそうです」
固い握手を交わす。ソフィアは小さくうなずいて言った。
「オルケスにも会ったら伝えておくわ」
「ええ、よろしくお願いします」