第37話「良い経験だった」
「……う、ああ、生きてる。生きてるぞ」
瓦礫のなかから声がした。いくらか弱っていたが、はっきりと意識はあるようだった。幸いにも彼女が生きていられたのは、入り口付近であったからか被害も少なく、剥がれた岩盤同士がぶつかり合って重なり、小さな隙間を生んでいたからだ。
しかし、それが幸いしたというだけで、じゅうぶん死とは隣り合わせだ。脚力を感じられた鍛えた足のいっぽうが押しつぶされている。かなりの激痛を伴っているはずで、その証拠に額からは冷たい汗を流し、顔は青ざめていた。なのに気丈に笑って心配をかけまいとしているのが見て取れるほど彼女の精神力は強い。
「馬鹿やらかしちまったなあ、足が完全にイカレちまった」
「笑いごとじゃないでしょう!? ど、どうしよう……」
いくら魔法で多少の怪我を治せるとはいっても失った足を取り戻せるほどではない。荊で彼女を瓦礫の下から救出はできても、すでに流し過ぎた血を元通りにはできず、せいぜいが止血だ。かなり危うい状態なことに変化はないだろう。
「いい、いい。血が止まっただけでありがてえさ」
「強がり言ってる場合? いくら止血したってあなたは──」
「そういうお前だって体調悪そうだぜ」
「魔法を使えばだれでもそうなるの。でも休めば平気だから」
「だったら今は温存しとけ、無理が祟ればお前も死ぬぞ」
壁にもたれかかり、息も絶え絶えなオルガは優しくソフィアの頬に触れる。額から流れた血を気にもせずに他人の心配ばかりをする彼女が心から愛しく思えた。
「……なあ、ソフィア。触れてみると魔法ってのはそう便利なだけじゃねえのがよく分かるよ。オレと同じくらい冷や汗をかいてるし、体温も下がってる。目の下にクマだって出来てるぜ。可哀想に、オレなんかのせいでこんなに疲れちまって」
フッ、と力なく笑う。心配されるのは嫌じゃなかったが、悲しそうな瞳を見るのは心苦しいものがあった。
「オレさ、本当は全部知ってたんだ」
「……なにを知ってたの」
「親父が本当は誰よりもおふくろを愛してたこと」
彼女はズボンのポケットから綺麗な宝石のはまった指輪を取り出す。美しく輝く宝石はピンクとオレンジを行き交うような色をして、ソフィアを魅了する。
「こいつは〝パパラチアサファイア〟っつってな。プラキドゥム山脈で採れたのは三例ほどしかない貴重なモンでさ。親父が結婚するときに贈ったっていう、おふくろがなによりも大切にしてた指輪なんだ。それをずっと持ち歩いてたみたいでよ」
ソフィアの手を取り、指輪をしっかり握らせた。
「岩盤事故があったあと鉱山を見に行ったんだ。入口の近くになんか綺麗な小さい箱が土被っててさ。危険だからって誰も近寄らなかったから運よく見つけたんだと思う。いつもおふくろがしてた指輪だからすぐ気付いたよ」
それでも彼女には許せなかった。不器用な父親の、不器用な愛情表現のせいで自分たちがどれほど傷ついたか。そして愛する弟が偽りの父親のすがたを模して家族さえ顧みないようになってしまうのが不安で、自分を捻じ曲げてでも彼が同じ思いをほかの誰かにさせてはならない、と。
「──石言葉は〝一途な愛〟。察しの良いアイツなら分かるはずだ、ここを出たら渡してやってくれないか? 大事な両親の形見だからな」
外から誰かの叫ぶ声がしてふたりの会話は途切れる。
『ソフィア、オルガさん! そこにいるんなら返事して!』
リズベットが必死に呼びかけている。ソフィアが叫んで返した。
「無事よ、しばらくしたら自力で出るわ! それよりお医者様を呼んできて、オルガがひどい怪我をしているの! このままだと彼女が死んでしまうわ!」
『わかった、すこし時間が掛かるからそれまでなんとか耐えて!』
急を要する事態にリズベットも察して町へ引き返す。あとは坑道の入り口を塞ぐ岩を動かすだけだ。多少の無理をしてでも助けなければと立ち上がろうとするソフィアの服の裾をオルガは掴んで引き留めて、ゆっくり首を横に振った。
「話はまだ終わってないんだ、聞いてくれよ」
「何言ってるの? はやくここを出ないと──」
「いいから座れって。最後まで……もう少しだから」
ふうふうと息も荒くなってきた。どこを見ているのかも分からない。焦点が合わず、ぼんやりとした視界ではソフィアの表情さえハッキリと掴めなかった。
「ルーカスがどうだったのかは知らない。でもオレはたしかに愛情に餓えてた。……いつも弱ってて、愛する暇もなかったおふくろ。まるで空気みたいに扱って仕事ばかりの印象が強かった親父。どっちにしがみつくことも出来ないまま時間が経って、オレは孤独を感じてた。だからかな、家を飛び出したときは自由になった気がしたよ」
ふっ、と力なく笑いながら手を伸ばす。
「それでも真剣に向き合ってくれる誰かがいなかった。仲間は出来ても寂しくて、物足りなくて……。そうやって過ごしてたら、お前が現れた。赤の他人の、それも悪いことばっかして同情の余地もないオレなんかのことを本気で考えてくれる奴が現れた。それが嬉しくて嬉しくて、手放したくなくて、わがままな小さいガキの頃に戻った気がした。欲しくなったんだ、愛情ってヤツが」
ソフィアが伸ばした手を掴んで「当たり前よ、あなたにも事情があったんだから」と答えた。それもそうだな、と思いながらオルガは彼女をそっと引き寄せて、弱々しい腕の力で抱きしめる。それからゆっくり頭を撫でて小さく言った。
「人生で初めて恋って奴をした気がするよ。──良い経験だった」
たくさんの思い出が溢れて、溶けて、消えていく。涙と共に流れていく。自分の人生は泥まみれで大して胸を張れるものではなかったが、それでも生きてみた甲斐はあった。価値も見いだせた。これ以上に求めるのは贅沢だろう、と。
「何言ってるのよ、これからもっと経験できるわ。あなたの人生はまだ短いじゃない。世界は広いの、だから……オルガ? ねえ、どうしたの? 返事をしてよ。オルガ……!? だ、駄目よ! 起きて、返事をしなさい!」
彼女は動かなくなっていた。顔を涙で濡らし、けれども立派な笑顔で息を引き取った。最後の最後に、声に出さないまま『愛してる』と口にして、とても満足そうに。