第29話「仕掛け」
持っていた銀貨一枚を握り締めた。ふわっと手の隙間から紫煙が漏れる。そのあと、足元の枯れ葉のなかに隠して準備は完了だ。男たちには彼女がなにをやったのか分からないまま、時間が経ってグラネフたちが取引のために現れた。
ふくよかだが決して金持ちの雰囲気はなく、どこにでもいる商人──と言えば聞こえはいいかもしれないが、目つきはどこか卑しさを感じられるようなニヤニヤとしたもので、傍に護衛の──見るからに柄の悪い──男を数人連れている。
彼は周囲を見渡して「ハストン様がいらっしゃらないようですが?」と訝った。ソフィアが傍にいた男の足を悟られない程度に軽く蹴りつけて「ロッチャの門が開く時間が遅れていると見張りから連絡があったんだ」と答えさせる。
「……そうでしたか。では取引はあなた方だけで、と聞く前にひとつ。そちらの可憐な女性方はいったいどちら様なのでしょう? 実にお綺麗だ」
ぐふ、と品のない笑いが聞こえてソフィアは心底気持ち悪さを覚えたが、表情にはおくびにも出さず淑やかな振る舞いでスカートをつまみ上げ、やんわり頭を下げた。
「初めましてグラネフ様、お名前はお伺いしておりますわ。私は代理人のソフィア・スケアクロウズ、こちらは同じくリズベットと申します」
「ほほう、代理人の。ハハッ、ハストン様も隅に置けませんなあ、これほどお美しい秘書がいらっしゃったとは」
「まあ、お上手ですこと。それでは取引を進めましょう」
握手を求められて応じたとき、そのべったりとした手の汗にはひどい不快感を覚えた。今すぐにでも引っ叩きたいほど、まるで品定めするかのように握られて胃がむかむかする。隣でリズベットも一瞬だけ嫌そうな顔を浮かべてしまい、すぐに取り繕う。
「それにしても、いつもより物資が少ないようですな」
「少々問題がおきまして、今は運び出しにくい状況なのです」
「……ふむ。具体的にお伺いしても?」
だらしのない男に見えるが、瞳はぎらりとしている。自分の醜態をさらすのを厭わず、相手を油断させるのもひとつの手なのだろう。しかしソフィアは既に彼がどういう男かを見抜いていて、質問をされると『来た!』と思った。
「モンストンから憲兵団が来ています。盗賊──それも質の悪い強盗団が頻繁に出没するというので、数日のあいだ哨戒任務に当たっているそうでして、私たちが目を盗んで運び出せたのはたったのこれだけなのです」
少々わざとらしくはあったが、真実と嘘の織り交ざった答えにはグラネフも納得したように「そうですか」と軽くうなずくだけだった。
「まあ致し方ありますまい。ではハストン様にはよろしくお伝えください、こちらの物資でしたら銀貨で支払いましょう」
取引を無事済ませられると思い、護衛の男たちに荷物を運ぶよう指示を出す。──直後、彼らの足下が不安定になる。紫煙が枯れ葉を吹いて舞わせ、土からは瞬く間に巨大な銀の荊が伸びて檻を作った。グラネフたちは咄嗟のことに対応しきれず、いとも簡単に捕らえられてしまう。
「な、なんだこれは!? あなた方はいったい……!」
「あら、ごめんなさい。自己紹介はしたつもりだったのだけれど」
さらりとした前髪を手でふわっと梳く。
「私はロッチャの町長ルーカスから依頼を受けてきた魔女の代理人よ。もう観念なさい、あなたはひとをみる目がなかったのだから」
魔女が方々で依頼を受けては確実に問題解決するのは誰でも知っている。善人からみれば神にも等しい存在で、悪人からみればこの上なく邪魔な存在であり、目を付けられれば終わりの死神だ。その代理人と聞いて膝から崩れ落ちてしまった。
「……ここまでか。ハストンめ、しくじりおって」
潔く敗北を認めたグラネフは抵抗もせずに座り込んだ。
「私をここで捕まえたということは最初から狙いはハストンなのだろう? 証拠ならば商会にある私の事務机にやり取りの手紙が残っている。紋付きだ、好きにしろ」
「あら。わざわざ探す手間を省いてくれて助かるわ」
「……ふん、あの男がしくじったのなら隠す理由もないわい」
もしハンデッドがうまくやっていたならば、裏でこそこそと彼女たちに足元をすくわれたりはしなかっただろう。彼の失態によってドラクマ商会が終わるとなったら、死なばもろともの道連れだとグラネフは腹をくくっていた。
「これからロッチャに戻るから、憲兵団が迎えに来るまで大人しくしてるのを勧めておくわ。オルガは私たちより優しくはないでしょうしね」
「ご忠告どうも。その通りにしておくとも……」
頑丈な檻は外側からしか開けられないようになっている。あとはロッチャに戻ってオルケスに場所を伝えておけば、彼らは町まで連行されて、現地の憲兵たちに引き渡されて終わりだ。彼らを置いて、まずは近くで待機してくれているオルガのもとへ向かった。
森のなかで潜伏している彼らはすがたを見つけるなり草陰から出てきて「終わりましたか」と尋ねた。ふたりが親指を立てて満足げに返すと、彼らを率いていたオルガが「お疲れさん、これから帰るんだな?」と労いの言葉をかける。
「怪我がなくてよかったぜ、心配してたんだ」
「……そういうあなたは頬に傷をしてるみたい」
「おう、実はふたりに報告があってな」
くい、と彼女があごで示す先で、ひとりの男が取り押さえられている。ハンデッドの私兵らしく、どうやら彼が町のそとへ出られなかったときにグラネフと接触するための伝令役を担っていたらしいと聞き出していた。
「良かったじゃねえか、あのクズ野郎はロッチャで今頃、頭を沸騰させるくらい苛立ってるだろうぜ。コイツにも使い道があるんじゃねえか?」
「ありがとう、オルガ。あなたのおかげでさらにうまくことが運びそうよ。──でも、その前にやらなくちゃいけないことがあるわ」
彼女の頬にある擦り傷に触れる。取り押さえるときに抵抗されて出来た小さなものだ。ふわっと紫煙が舞い、傷口はすうっと閉じて消えていく。
「ほら、これで綺麗になった。元通りの可愛い顔よ」
「……ッ。んだよ、平気だってのこんなもん」
「だめよ。もし傷が残ったら悲しいでしょう?」
ぽん、と肩を叩いてニカッと笑う。
「また怪我をしたら、次も綺麗に治してあげる」
「ちぇっ。敵わねえなあ……ありがとよ」