第10話「譲れないもの」
────翌朝、リズベットは軽い頭痛がして目を覚ます。傍にはぐっすり眠るソフィアのすがたがあり、自分に記憶がないので彼女が部屋に運んでくれたに違いないと申し訳なさそうに頭を掻いてベッドから出る。
思っていた以上に飲み過ぎたか、それとも自分が酒に弱かったのか。いずれにしろ迷惑をかけてしまったのは頂けないとため息をつく。
「……んん。おはよう、リズ。もう平気?」
「あ、ごめん。起こしちゃったかな」
「気にしないで、私もよく眠っていたから」
外はすっかり明るく朝日が昇っている。ソフィアは実のところあまり眠れていなかったが、元気な振る舞いをして小さなあくびを手で隠す。
「それよりも今日はダルマーニャ子爵に会いに行くんでしょう?」
「うん。魔道具を回収するのに都合もいいだろうしね」
ふたりで宿の一階へ下りる。たまごの焼ける良い香りがした。
「おはよ、ふたりとも。朝ごはんの準備出来てるよ」
「おはようアイリーン。チャントさんは?」
「買い出しに行ってくれてる。バターを切らしちゃってさ」
「そっか。じゃあ先にありがたく頂こうかな」
席に着き、こんがり焼けたパンに切ったバターを乗せる。じんわりと蕩けて染みていくと、ひと口かじりつく。口の中にほんのり広がる濃い味に、塩と胡椒を利かせたスクランブルエッグといっしょに食べればなお美味しく感じられた。
「昨日もたくさん食べたけれどやっぱり美味しい。モンストンの人たちはみんなが料理人のように上手なのね、どこにいっても良い香りがしたもの」
これまで何百年か食事を必要としてこなかったソフィアはいつなにを食べても新鮮で、そのうえ味まで良いとなると頬が緩んでしまうのも当然だ。褒められたアイリーンは「ふふーん、でしょ。いっぱい食べてね」鼻を高くする。
「私の店はモンストンでも結構評判なんだ。食材にもこだわってるし、席が少ないからって予約の手紙までくれる人だっているんだよ」
「アタシもそれくらい人気になんないかなあ、なんでも屋として」
エイリーンがそれを聞いてプッと笑った。
「あんた、そんなこと言いながらめちゃくちゃ顔広いじゃん。コールドマン家のご令嬢だった頃よりも交友関係が広いんじゃないの?」
コールドマン家は由緒正しき伯爵位を持つ。リズベットは立派な家柄で不自由なく育ちながら、しかし自身を鳥かごで育ったと例えて両親の連れて来た結婚相手との婚約を破棄して家を飛び出し、もう何年もひとりで旅を続けている。
ソフィアはそんなことなど知らず、首を傾げて尋ねた。
「ご令嬢……。じゃあリズは平民の出身ではないの?」
「今は平民だよ。もともとは伯爵家の娘だったけど」
威厳ある伯爵、コールドマンには三人の娘がいた。その長女がリズベットだ。生まれたばかりの子犬のように可愛がられる妹たちとは違い、彼女はいつでもコールドマンの名に相応しい振る舞いを求められた。
男の子に恵まれなかったがために好きでもない相手との婚約までして家名を守るよう言い聞かされて育ち、自分はまるで檻のなかに閉じ込められているようだと感じながら生きてきた。
楽器はいつまで経っても上手くならなかったし、刺繍は好みじゃなかった。絵を描いてみたいと言えば鼻で笑われて諦めたこともある。そんな彼女が、すべてを手に入れるために家を飛び出した理由はひとりの女性に掛けられた言葉だ。
「アタシね、自分の家が嫌いだった。何かにつけて『お前は長女なんだから』って自由な時間もなかったし……でもそれが当たり前だと思ってたの。仕方ないんだって言い聞かせて諦めてた。でもね、あるとき町であった綺麗な人に言われたのさ」
コップを満たす水をひと息に飲み干し、彼女は言った。
「──『生きるうえで誰にでも譲れないわがままがあるでしょ? 君が苦しい思いをしても、君以外の誰かが幸せになるだけだよ』って。そりゃそうかって思ったよね。父さんも母さんも、結局はアタシの人生の責任なんか取っちゃくれないんだって」
求められた生き方をして従順になったところで、守られるのはコールドマンが持つ爵位だけだ。もし自分が年老いて『こんなはずではなかった』と叫んだとしても、両親は必ず彼女よりも先に旅立ってしまい、責任など取ってくれない。だったら自由に生きたっていい。いや、自由に生きるべきだ。リズベットはそう考えた。『たったいちどの人生なんだから』と。
「そうしたら世界は広がった。アタシはずっと狭い檻の隙間から見えてる世界だけがすべてだと思ってたから、まあ楽しかったね。嫌なこともあったけど、こうしてソフィアにも会えたわけだし。君はどう、アタシに会えて嬉しい?」
尋ねられたソフィアはひと口だけ水を飲んで口を潤す。
「ええ、とても。今日まで生きてみたのは間違いじゃなかったわ」
朝食が済み、ひと息ついて窓のそとに視線をやった。
「こんなにも良い天気だもの。そろそろ行きましょ、リズ」