第4話「焚火の跡」
ソフィアは彼の名前にどこかで聞き覚えがあったが、すぐには思い出せなかった。
握手を求められて嫌悪感はあったものの事を荒立てる理由はない、と渋々──表情は取り繕って──握り返そうとすると、今度はリズベットが割って入った。
「どうも、ハストンさん。アタシはリズベット・コールドマンです」
「え? あ、ああ……どうも。お名前は伺っておりますよ」
困惑しながらも握手を交わしてから、ハンデッドはニヤニヤとする。
「たしか家を飛び出したとかいう不良少女……でしたかな? コールドマン殿のご息女はずいぶんとお転婆らしいですなあ。身分も捨てて旅行者をしているとか」
明らかに見下した物言いだ。ソフィアのことは聞き及んでいても、リズベットについて何も知らないらしい。今や彼女が両親との関係が良好であるとも思わず、いまだ家名を背負わなかった愚か者程度に考えているらしい。
しかしリズベットは毅然としたまま。
「ええ、とても楽しいですよ。お父様に近況報告も兼ねて手紙を送ったんですが、ほかにもいくつか観光に良い町を教えて頂いて。……あ、そうだ。ハストンさんにここで出会ったのも何かの縁ですから、お父様にも伝えておきましょうか? とても優しく声を掛けてくださった、とでも。いかがでしょう」
強気な返しと実情を聞かされると、ハンデッドはたじろぐ。
「い、いやあ……構いませんよ、旅先のことですから」
「そうですか? でしたらアタシたちは失礼します。忙しいので」
ソフィアの手を引き、ツンとした態度をハンデッドに向けてから馬車に戻る。御者台に並んで座り、さっさと手綱を握って出発させた。
「ずいぶんとその、機嫌が悪いわね、リズ……?」
「当たり前だよ。あんなのにソフィアを触らせたくないもん」
ぷくっと頬を膨らませてリズベットは怒った。
「覚えてない? 裁判のときにソフィアがデモンストレーションの手伝いをしてもらったひと。王都じゃ有名な資産家で、グレーリー侯爵って言ってね。あのひとが言ってたでしょ、いちばん嫌いなひとは〝ハストン卿だ〟ってさ」
言われてみればと振り返る。まだ数カ月前のことなのに、ソフィアはがっかりした顔で「私の記憶力、悪くなったのかしら」と小さく呟いた。
「ま、それよりもさ。とりあえずどこから行く?」
「そうねえ……近場から済ませましょうか」
地図を広げて指をさしたのは、ロッチャからそう離れていない、小さな炭鉱だ。アジトにするにはいささか手狭だが深く掘られておらず、崩れる危険がないので安全度だけでいえばどこよりも高い。すぐ傍まで来たら馬車を停め、途中からは歩きだ。
ふたりが炭鉱までやってきてなかを覗くが気配はない。真っ暗闇が続くだけで何かが出てくるとしたら、せいぜいが虫か蝙蝠くらいではないかと感じた。
「ここじゃなさそうだね。どうする、地図を見た感じだと……うーん、ほかはどこもちょっと離れてるみたいだから日が暮れるかも。いったん町に戻る?」
「そのほうがいいかも。あ、でも待ってちょうだい」
差し込む陽の光で、わずかに見えた何かへ駆けよっていく。
「なになに、面白いものでも見つけた?」
「んー、どうかしら。収穫はあったけれど」
ソフィアが見つけたものは焚火の跡だ。それも比較的新しい。
「誰かがいたのは間違いないわ、それも夜遅くに」
「でも炭鉱には何もないみたいだからアジトじゃないよね」
「ええ。なんらかの理由で、この場所に来る必要があったんでしょう」
触れた指の煤をはたいて落とし、そとへ出る。陽射しに目を細めた。
「うーん、とりあえず戻ったほうが良さそうね」
「そうしよっか。アタシちょっとお腹も空いちゃったし」
「ふふ、私も。ルーカスに美味しいお店がないか聞きましょ」
万がいち強盗団に鉢合わせても面倒だ。陽が昇っているうちに調査を終え、ほかの場所へ向かうのは翌日へ持ち越すことに決めて早々に町へ戻った。陽が落ち始めるとロッチャの町にもポツポツと灯りがつき、昼間の陰気な様子よりいささかマシに見えた。住民たちもあれこれとすべてが尽きたわけではなく、まだ気力を保てている。
「ああ、おかえりなさい。どうでしたか?」
門の近くでルーカスが自警団の男たちと話すのを中断し、帰って来たソフィアたちに小さくお辞儀をする。昼間よりもすこしやつれているように見えた。
「今のところ一か所だけ。誰もいなかったけれど収穫はあったわ。……あの、ルーカス。顔色があまりよくないみたいだけれど、大丈夫?」
「え? ああ、おふたりがいないときに色々ありまして」
苦笑いを浮かべるだけで済ませてしまう。ただでさえ大きな仕事を頼んでいるのに、余計なことを話して抱え込ませるのは申し訳ないと思ったのだろう。リズベットが「ね、いっしょに食事でもどう?」と気を利かせて尋ねる。
「僕は構いませんが、おふたりはよろしいのですか」
「アタシたちは全然。さっき見て来た炭鉱のことで報告も兼ねてね」