エピローグ④『悪魔の夜③』
誰も喜ばないのは分かっている。しかしシトリンにはやらざるを得なかった。そうして自身が邪悪であると示し、彼の魂を恐怖に縛るためには。丁寧に遺書も用意して彼の腕に縄でくくりつけ、肉体は川に捨てることで陽が昇れば誰かが見つけることだろう。そうして仕事を終えて彼女はようやくひと息つく。
「……これで良かったんですか?」
水路のそとで、壁にもたれかかっていた誰かに声を掛ける。
「ええ。これでなんの憂いもありません」
「そうですか。では私はこれで失礼します、オクタヴィア様」
「待ってください。ひとつ聞かせてほしいんですけど……」
「なんです、大した話なんてありませんよ?」
オクタヴィアがきょろきょろと周囲を見渡す。
「どうして誰もいないんです? 王都はもっと賑やかなのに」
朝から晩まで町はいつまでも眠らない。王都に集う人々の生活がどこにもないことに彼女は不思議だと首を傾げた。シトリンは簡単なこと、と指を立てて。
「周囲の人々と私たちがいる場所はわずかながらに違います。ここは私の創り上げたジオラマのようなもの。……朝を迎えるのも夜がやってくるのも、そして人々の往来を表現するかどうかさえ私の一存で決まる、もうひとつの世界と言いましょうか」
常人には到底理解できない話だ、彼女が悪魔でなければ。
「しかし驚きました、シトリンさん。あなたがいわゆる人間ではない……悪魔だなんて。どうして私なら取引に応じると思ったのですか?」
正義感の強い人間として周囲からも信頼のあるオクタヴィア。彼女が悪魔に頼ったのは、いわば代理殺人のようなものだ。あるいはシトリンから持ちかけたのだとしてもそう変わらない。取引に応じる相手声を掛けるのはとても難しい。
シトリンは〝だからこそ〟だと微笑む。
「裁判で堂々としていた彼を許せなかった、どうしても。あなたなら、それを理解してくれると思ったからです。……だってそうでしょう? たとえ解決したとしても、彼がのうのうと生きているかぎり誰かが苦しむことになるのですから」
ヴェルディブルグの法は不完全だ。どれだけの罪を犯していても、その規定に従えば十数年もしたのちに再び社会へ戻すことになる。あまりに有名な男なので基本的には彼が陽の当たるところで生きるのは難しい。しかし世の中には〝アウトロー〟を歓迎するような場もあり、腕さえあるのなら雇われることも珍しくない。
そうしてまた誰かが命を落とす。エイリン令嬢の死などなかったように、あるいは彼がそれを武勇伝のようにして語るときが来ることだってある。オクタヴィアは正義感が強い──いや、強すぎて、自制が出来る気がしなかった。彼ほどの悪辣を放置する社会ではいけない、誰かが裁かねばならない、と。
「……ふふっ、でもこれで私は悪魔と契約した最低な人間だ。振り返ってみれば、あの男と同じ。ただの人殺しになってしまったのだから」
俯いてがっくりとする。握った拳は震えていた。
「いいんじゃないですか、別に」
真剣な顔をしていたシトリンは、けろっとして答える。
「ふたりの魔女でさえ、あれほどの能力を持ちながら私と契約しているのです。そしてふたりの魔女はどちらも〝自分が大切にする者のためなら手段を選ばない〟ような人間ですよ。自覚があるかどうかは別にしてもね。ああ、それから」
彼女はまたのんびり歩き出しながら。
「あなたと契約なんて交わしてないので」
「えっ!? ちょっと待って、じゃあ裁判のあと話しかけてきたのは……」
「さあ、なんででしょうね。気が向いた、とでも言っておきましょうか」
あとを追いかけようとしたが、いつの間にかシトリンのすがたはなく、陽は昇っていた。オクタヴィアは気が付けば人混みのなかに立っていて、何度か目をぱちくりとさせて彼女が見つけられないかと周囲を探す。
もう見つけることは出来ず、しばらくして諦めた。
「おや、オクタヴィア副隊長。ここでなにをされているんです?」
巡回中の近衛兵ふたりが驚いた顔をする。休暇をもらったとはいえ、まだ彼女は制服を着たままだ。部下のふたりは心配そうに「我々では頼りになりませんか?」と尋ねた。
「……いや、なに。これを着ているほうが落ち着くんだ」
どこかで叫び声があがる。おそらくクレイグの遺体が見つかったのだろう。「なにかあったみたいだ。あとはお前たちに任せよう」と、自分は休暇を満喫するふりをして、肩をポンと軽く叩いてから立ち去っていく。
それを少し離れた場所で気配を消しながら見つめるシトリンがいる。傍には馬車が停まっており、彼女のすがたを見えにくく隠していた。
「ご苦労様、シトリン。あの子、大丈夫だった?」
「ええ。すべてを見届けさせましたが問題ないかと」
馬車のなかから顔をのぞかせたのはアニエスだ。こっそりと城から脱け出して──シトリンに手伝わせた──クレイグが殺害されるまでのすべてを彼女は知っている。なにしろ本当に契約したのは彼女のほうだったからだ。
無期刑や死刑制度のないヴェルディブルグではクレイグたちを裁けない。アニエスは彼を野放しにするのに反対だったし、自分の友人に手を出したことがどうしても許せなかった。だからシトリンと契約を交わして間接的に手を下すことを選んだ。
「それにしても驚いたわ。あなたが『オクタヴィアに見届けさせたほうがいい』なんて言い出すとか、耳を疑ったもの。正義感が強い子なのにどうして?」
「彼女がこの先、行き過ぎた正義に染まらないようにですよ」
見るものを見終えて彼女は馬車に乗り込む。
「ローズ様にしろソフィア様にしろ……行き過ぎた想いや正義感はやがて毒となり邪悪と化すこともあります。オクタヴィア様は、そう遠くない未来でそういった問題を引き起こすはずでした。隊長となったあとクレイグの一件がトラウマとなって」
シトリンには端切れのような断片的な未来を見ることができる。関わることでわずかに変えることも。オクタヴィアは正義感の強さからクレイグの一件以来、さらに規律に厳しく生きるようになる。二度とエイリン令嬢のような不幸な人間を出さないためだ。しかしそれが裏目に出て何人からかの不評を買い、そのうち逆恨みから大きなトラブルに発展することになる。具体的にシトリンは話そうとしなかったが、それを回避するためには彼女のなかにひとつのストッパーを用意する必要があった。
自身にも邪悪が存在するという隙があれば、彼女のなかに後ろめたさが生まれる。厳しく律しようとしても、正義感が強いからこそ〝自分にも非難されるべき部分がある事実〟がこれから多くの人間への『許容』へと変わるはずだ、と。
「……アニエス、あなたが私と契約を交わしたのも同じこと。エイリンという人物への愛情が強い復讐心になることもあるんです。もう過ぎた話ですが」
「そういうものかしらね。でも、あなたはどうして契約してくれたの?」
魔女があえてそうしなかったのを覆してまでクレイグを始末したのだ。シトリンが主従関係を結ぶ者の想いよりも他者を優先して構わなかったのか、と尋ねられて。
「私もまた感情のある生物ということですよ。もしオクタヴィアが傷つくようなことがあれば、きっとエイリン令嬢も悲しむでしょう。そうならないように永遠を生きる私が手を汚してでも解決すべきだと思った。本当に、ただそれだけです」
馬車からそとの景色を眺め、陽射しに手で陰を作り空を見上げた。
「エイリン令嬢は怒るかもしれないですけど。やり方が間違ってる、なんて。でも私はときどき思うんです、こんなふうに晴れた日でも誰かが泣かなくてはならないのなら」
今日は良い日になりそうだ、と微笑みながら。
「──ほかの誰より私がいい。私でいい。そのためなら何でもする、とね」