エピローグ②『悪魔の夜①』
しっとり静かな夜。人々が眠りについた頃、ある城の地下にいる牢獄では罪人たちのわめく声か、あるいはいびきが響いている。しかしひと際静かな囚人がひとりいた。クレイグ・オルディール。コールドマン家の令嬢殺害事件の主犯である。
大勢が罵声を浴びせ合い、嘆き、自分たちを正当化しているなかで、彼はひとり静かに罪を受け入れ──かといって罪悪感は感じておらず──真っ暗闇の石に囲まれた牢でにやにやと笑っていた。どうせ何を言っても変わらないのだから最後まで嘲って生きてやろう、と汚れ切った手を重ねて。
「ずいぶんと余裕ですね。参考までに理由をお聞きしても?」
こつん、こつんと響いて近付いてくる靴音。自らに向けられた言葉にクレイグは顔をあげた。手燭のうえで揺れる炎の灯りに彼は目を細めて愉快そうにする。
「罪悪感が必要ないからだよ。たとえば俺の行いは私利私欲であったが、それでエイリンを殺したからといって首を吊られることもない。知ってるか、ヴェルディブルグでは『生きることこそ贖罪に繋がる』と信じている。笑えるだろ?」
手燭を持つ女性の冷めた雰囲気。紅い瞳が闇夜に輝いて見えた。
「たしかに、あなたは人を殺しておきながら法という絶対的な壁によって命を守られる。本当に正義感のある方々だからこそ、あなたを許せなくとも遵守すべきものがあるわけですね。それも見越したうえで裁判でも堂々となさっていたと」
そっと手燭を足下に置き、彼女はどこかから鍵を取りだす。
「……なんのつもりだ? お前、たしかシトリンとか言ったな」
「ええ、ここから出してあげようかと思いまして」
錠を外す。いつの間にか地下牢はしんと静まり返っている。
「クレイグ・オルディール。ひとつ私とゲームを致しませんか」
訝しげにシトリンを睨む。
「冗談が上手いな。俺がここから出るメリットがあるのか?」
「自由を。人々の記憶からあなたの悪事を消して差し上げます」
「記憶を消す……? ハッ、いったいどうやって──」
「できますとも。たとえばこんなふうに」
扉を開け、クレイグに近寄った彼女の手が頬に触れる。瞬間、クレイグはさきほど彼女から聞いたにも関わらず「私の名前が分かりますか?」と尋ねられて、何度絞り出そうとしても出てこないことに冷や汗を垂らす。
「いったい何をした。まさか近くに魔女でもいるのか」
「いいえ? 私だけですよ。なにせ私、魔女より有能ですから」
クレイグを見つめる瞳は異様に恐ろしく感じた。
「ところでゲームを始める前に、すこしだけ話をしてもよろしいですか。あなたにとっては退屈かもしれませんが、私はいささか興味がございまして」
鍵をぽろっと手から落とす。金属音が小さく響いた。
「死んだ人間の魂はどこへ向かうと思いますか?」
「……は? なにを言っているんだ、お前は」
「人々の魂は亡くなったとき、神のもとへ帰ると思いますか?」
クレイグが苛立っても、シトリンは構わず続ける。
「それは半分正解で半分間違いです。いくらかの魂は未練に縛られ、世に残ることもある。さらに稀有なケースでは〝悪魔に魂を売り、転生さえできず消滅する魂〟も存在しています。──その悪魔が私だとしたら興味が湧いてきませんか」
その言葉はどうしてだかひどく魅惑的で、彼の首に触れられた指先がぞくりとするような冷たさをしているのに惹かれた。
「は……ハハ。つまりなんだ、お前は悪魔で、そのゲームとやらで俺が勝てば悪魔として契約し、俺の願いをかなえてくれるって話か?」
「理解がはやくて助かります。期待はできるかと存じますが」
願ってもない話だ。ソフィアという魔女の邪魔さえ入らなければ、今頃は誰に疑いをかけられることもなく出世コースだった。エイリンを失ったあとでも違う女をまた見つければいいだけだったのにと腹立たしさすらあった。
今、彼の目の前にいる女は魔性だ。抗えぬ魅力がある。不思議と彼女の言葉は信じられたし、仮に提案されたことが嘘でも本当でも、とにかく狭く息苦しいだけの地下牢からは出られるのだ。乗らない理由はない。もし面倒だとなれば逃げ出してしまえばいいのだから、最初から自分に有利だと思った。
「いいだろう、乗ってやる。ルールを説明してくれるか」
シトリンはこくりと頷き、人差し指をピンと立てて。
「至極単純。あなたの好きな場所へ逃げて、隠れて、夜明けまで私に見つからないように。陽が昇ればあなたの勝ち、もし見つかればあなたの負け。あなたが勝てば絶対的な自由を約束しましょう。そのかわりあなたが負ければ魂を頂きます」
いつのまにか彼女の手には一枚の羊皮紙と羽ペンが握られている。
「さあ、契約を交わしましょう。クレイグ・オルディール」
「……フッ、ずいぶんと楽なゲームだ。では遠慮なく」
渡されてすぐに彼は名前をさらりと書く。返された羊皮紙をくるりと丸めたシトリンは、それを手燭の炎で焼いてしまう。
「よろしい、では──楽しい楽しい遊びの始まりです」