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雲と蜘蛛の向こう側

作者: jh

 どこかで読んだことがある、人生には三つのステージがあると。最初はサンタクロースの存在を信じる。次はサンタクロースの存在を信じない。そして最後のステージでは、自分がサンタクロースになる。

八月の終わりに思うことじゃないか…、僕は心の中で呟くと、両手でお湯をすくってゆっくりと自分の顔にかけた。雲一つない南アルプスの眺望を満喫したあとに、まだ標高の高いこの場所で、ぬるい露天風呂のお湯に一人で浸かっていると、今の季節はいつかとか、自分の年齢がいくつかとか、自分を縛っていたすべてのたがが静かに緩んでいく。気持ち良さには二種類ある。頭の中を空っぽにする気持ちよさと、頭の中を普段思わないことで満たす気持ちよさ。その両方を行ったり来たりできる時間が僕は一番好きなのかもしれない。

 二十代と三十代の間に超えられない差があることを思い知ったのは、ヨーロッパを一人で旅をした30の時のことだ。初めてヨーロッパ一人旅は大学生の時。イギリス、フランス、スペインを移動し、行く先々で子供から老人まで現地の人に何度も声をかけられた。一人旅をしたのは、もちろん一人になりたかったから、孤独を楽しみたかったから。そうは言いながらも、知らない誰かにかまってもらえるのはすごく嬉しかった。一般的に人は旅行者に親切だ。旅行者は生活者の地位を脅かさない。いつも近くにいたら我慢がならない存在でも、二言三言言葉を交わして二度と会うことがないとわかれば、嫌う必要もない。自分の生活圏で起こる、時間だけはたっぷりありそうな二十歳そこそこの外国人旅行者との邂逅は、単調な日常を鮮やかな色彩で染めるのだろう。でも、その旅行者が三十を超えるとこうはならない。カフェで暇そうにしていても、誰も声などかけてこない。観光地に出かけても、事務的な言葉の交換以上の会話に招待されることもない。好きな料理だって毎日食べていたらありがたみがなくなるように、一人になりたいからと言って何日も誰からもかまってもらえなければ、そこにはもう楽しみはない。年齢とともに失うものを身をもって感じたのもあの時だ。


 そんな思索を巡らせたのは、登山者の中に二十代前半に見える白人女性の姿があったから。

 彼女は一人タクシーに乗って朝の戸台口のバス停に現れた。きっと伊那市内のホテルに前泊したのだろう。身長は165くらい、グレーのTシャツ、オレンジの短パン、ハイカットのトレッキングシューズ、パステルカラーのグラデーションのヘアバンドを頭に巻いて、紫の25リットルほどのリュックを背負っていた。タクシーを降りると、バスの案内所に入り、迷うことなく自動販売機でチケットを買って、バスを待つ列に並んだ。空は雲一つなく晴れ渡り、少し上流にある段差のせいか、道路のすぐ向こうの川は透明な水が勢いよく流れている。ここは標高860メートル。八月の日差しを浴びても汗をかくほどの暑さでもない。コロナのせいでみんなマスクをしているけど、同行者の間では会話を控えることもなく普通に言葉を交わしている。でも、誰も初対面の人には話しかけない。

 この時期に日本に旅行に来たということはないだろう。おそらく彼女は留学生だろう。あるいはずっと日本に暮らしていて日本語しか話さない人かもしれない。自然の中に一人で身を置きたくてここに来たのなら、話しかけられることは迷惑だろう。でも、ここでバスを待っている三十人弱の人々は全員、甲斐駒ヶ岳か、栗沢山か、仙丈ケ岳か、南アルプスの山に登る登山者だ。同じ目的の人間が集まっている。その中にひとり妙齢の外国人の女性がまざっているのに誰も話しかけないなんて、いくらコロナが蔓延しているとはいえ、ホスピタリティがなさすぎるのではないか。話しかけられるのが迷惑なら、彼女の方が無視すればいいだけのことだ。どうせお互い二度と会うことのない間柄なのだから。せっかくここに来た彼女もかわいそうだ。そう思いながらも、僕も声をかけることはしない。こんな四十過ぎのオッサンに話しかけられても、彼女は嬉しくないだろう

 数年前の道路が損壊がまだ完全には復旧せず、林道バスは終点の北沢峠の手前までしか運行していない。そこから損壊区間を400メートルほど歩き、小さめのシャトルバスに乗り換えて北沢峠までの1時間弱、補助席に座った彼女は誰とも言葉を交わさず、窓の外に連続する南アルプスの稜線を遠慮がちに眺めていた。

北沢峠から、僕は栗沢山に向かって歩き出した。前を見ても後ろを振り返っても彼女の姿はなかった。おそらく甲斐駒ヶ岳に向かったのだろう。栗沢山の山頂で絶景を拝み。北沢峠に戻って帰りのバスに乗った時は彼女のことなどすっかり忘れていた。

 終点の戸台口でバスを降りると、昨夜前泊した仙流荘は目と鼻の先だ。僕は大浴場を目指した。八月の登山というのに驚くほど汗をかいていなかったけれど、登山の後の温泉は極楽だ。逆に山登りもしないで温泉に浸かって何が楽しいのか、いまだにわからない。僕はぬるめの露天風呂にゆっくりと浸かった。

 稜線には真っ白な雲がかかっている。この時間に山頂に立ってももう眺望はないだろう。夏空は青く雨の心配はまったくない。でも午後になれば山には雲がかかる。露天風呂の先には目隠しのための塀があり、その前には背の低い木が植えてある。木の枝と枝の間に、蜘蛛の巣がかかり、その中央に胴体の真っ黒な、迫力のない大きさの蜘蛛がじっとしていた。僕は何の気なしにその蜘蛛をじっと見ていた。すると、蜘蛛が別のものに見えてくる。胴体の部分が動物の黒い鼻のようで、足の部分が目や口といった表情を作り、線で描かれた犬の顔が浮かび上がる。蜘蛛は胴体の位置を動かさずに足だけを動かす。そのたびに犬の表情は変わり、何を訴えたいのか僕は必死に探ろうとしている。…違う、犬なんかじゃない。蜘蛛だ。そう思うと、もう犬の顔には見えない。蜘蛛だ。その蜘蛛には足が七本しかなかった。一本欠落している。他の蜘蛛より足が一本少ないことをこの蜘蛛は知っているのだろうか。足を一本失ったときに痛みを感じただろうか。両方とも、答えはノーだ、と僕は想像する。地球上に生息する蜘蛛の数は、人間の数より桁違いに多いことだろう。痛みを感じる神経とか、羞恥心とか、尊厳といったものを蜘蛛が持っていたら、とてもその巨大な数を維持することはできないだろう。簡単に生まれて簡単に死ぬ。蜘蛛にとって生きることも死ぬことも、たいして差はないのだろう。蜘蛛にもし生まれ変わったら自分はどうするだろう、そんなことを考えた。

 蜘蛛は上部の二本の足を伸ばして胴体の位置を下げた。と思うと、その二本の足をぐっと縮めて胴体を上にあげると、今度は下部の四本の足を伸ばし、その足を折り曲げた。犬の鼻に見えた胴体がいまは人間の頭部に変わり、そこから手足が二本ずつ伸びている。シャーロック・ホームズの「踊る人形」に出てくる暗号にそっくりだ。ホームズ、19世紀のイギリス…、バスで見かけた彼女はイギリス人かもしれない。そんなことを思いながら僕は蜘蛛と雲を見ていた。


 風呂から上がり、仙流荘の建物を出て、リュックを背に茅野駅に向かう最終バスを待つ列に並んだ。最終バスといってもまだ18時前、太陽は十分に高い。バスは発車時刻の20分以上前に到着した。バスに乗り込むと、僕は乗車口より後ろの左側の二人掛けの座席に一人で座り、これからバスに乗る人を眺めていた。朝とまったく同じ格好で彼女が現れた。最終の林道バスで北沢峠から戻り、入浴の時間が取れなかったのだろう。つまり、丸一日山歩きを満喫したということだ。

 彼女は乗車口より前の、窓を背にした横並びの座席の真ん中あたりに座ると、リュックを下ろして両足の前に置いた。そして、一度立ち上がると、他の数名の乗客がするように両替機に千円札を入れて小銭に変えた。

 茅野駅までは一時間以上かかる。僕はバスが動き出すとほぼ同時に眠りに落ちた。

途中で目が覚めたが、まだ半分も来ていない。彼女もマスクをしたまま眠っていた。僕ももう一度目を閉じた。

 茅野駅に着くと、日がすっかり落ちていた。新宿行きのあずさの到着まで約50分。バスを降りると、僕は脇目も振らず、道路の反対側に見える蕎麦屋に向かった。閉店30分前だった。お昼は山頂で携帯食。およそ12時間ぶりにまともな食事にありつけた。

 食事をすませると、茅野駅の階段を上った。構内の立ち食い蕎麦屋がまだ営業していて、彼女が立ったままそばをすすっていた。僕は時間つぶしに駅構内の広い土産物売り場を眺めた。彼女もそこに現れて、ジャムを手に取ってラベルを真剣に見ていた。

 改札を通りホームの椅子に座ったのは18時50分。あずさが到着するまでまだ15分ある。僕は自販機でペットボトルのお茶を買って飲んだ。すぐ近くのベンチに彼女がいた。紫のリュックはベンチの横に立てかけて置いてある。結局、朝同じバスで南アルプスに入り、夜も同じ電車で都内に戻る。僕は彼女のことを気にしながらも、イギリス人の留学生だと勝手に思い込むだけで、そこから先は何も起こらない。僕はリュックをベンチに置いたまま、少しだけホームを歩き、そして戻った。

 先ほどの売店で買ったのだろう、彼女はマスクを外してカップのアイスを一人で黙々と食べていた。ホームの人の数が少し増えて、話し声が聞こえる。彼女はアイスを食べる手を止めた。彼女の目と僕の目が合った。彼女の全身像が僕の視界のすべてを埋め尽くす。彼女は座ったまま僕を見下ろしている。そして、彼女の手が飛んできた。僕はその手をかわすことができず。彼女のリュックの上から叩き落とされ、次の瞬間彼女のトレッキングシューズが僕を踏みつけた。


 露天風呂で僕を見ていた男は、蜘蛛にもし生まれ変わったら自分はどうするだろう、などと考えていた。僕に言わせれば、人間にもし生まれ変わったらそれこそ自分はどうするのだろう? 人間になるメリットなど何もない。僕は、露天風呂で目を合わせた男のリュックに潜んでここまで来けれど、彼女のリュックに上に移動したばかりに彼女に見つかり、トレッキングシューズに踏みつけられ、肉体は滅んだ。小さなことだ。蜘蛛には尊厳などなく、痛みも感じない。僕の意識はまた別の蜘蛛の体の上で生き続ける。肉体は消耗品だ。いくらでも替えが利く。それに、蜘蛛は人間と目を合わせることで、その人間の意識や感覚をバーチャルに体現できる。人間にそれ以上何ができるのだろう? だいたい人間は肉体が滅べばおしまいなのだ。

明日、僕はどんな蜘蛛の肉体に宿り、どこに現れて、どんな人間と目を合わせるのだろう。楽しみだな。今日はもう寝よう。


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[一言] 頑張ってくだされ^_^
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