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京の小料理屋~郁~

 虎月堂の店舗から京都御苑方面へ、碁盤の目と呼ばれる道を進んでいく。

すると、『いく』と書かれた入り口の狭い小さな京町屋づくりの小料理屋があった。

 石畳の細い路地を進み、少し奥まったところに出されている暖簾をくぐると、蔵王は引き戸を開けた。

 店は一本木づくりのカウンターで、たった八席だけの小さな店だ。けれども、すっきりとした印象で、席数の少なさが逆に落ち着いた場を演出していた。


「こんにちは」

「いらっしゃいませ。すんません。まだちょっと準備中なんです……って、何や、蔵王君か。久しぶりやな!」


 カウンターの奥にいたのは、二メートル近くはあると思われる大柄な壮年の男性だった。

 板前の調理白衣を身に着けているのを見ると、この男性が店主なのだろう。快活な表情で笑う男に、蔵王はぺこりと一礼した。


とおるさん。ご無沙汰してます。開店前にごめんなさい。大丈夫でしたか?」

「何を他人行儀な。蔵王君やったら、もちろん大丈夫や」

「ありがとうございます。あ、これ、ちょっとしたお土産です」


 笑いながら手渡したのは、いつの間に購入していたのだろうか。虎月堂の紙袋だ。


「おお。虎月堂の古都ノ葉やないか。みんな好きやし喜ぶわ。ほな、お茶持ってくるさかい、座っててや」


 融がのれんの奥へ下がっていくのを眺めながら、葛葉は蔵王に案内されるようにしてカウンターの席についた。


「随分親しいのね」

「まあね。旧知の仲だから」


 こそこそと耳打ちすると、蔵王はくすりと笑って肩をすくめた。


「旧知って、随分年上じゃない」


 顔が広いとは思っていたが、蔵王の交友関係は謎だらけだ。

 しばらく待っていると、ぱたぱたと軽い草履の音が聞こえてきた。

 暖簾をくぐり、ひょっこり顔を見せたのは、三十代に見える華奢な女性だった。

 ここの女将をしているのか、美しく髪を結いあげ、露草色の着物に薄柑子色の帯を締めている。


「蔵王、帰ってくるんやったら帰ってくる言うといてよ。びっくりするやないの」


 顔を合わせるなり頬を膨らませて蔵王を睨みつけるが、その仕草もどこか愛らしい。

 そんな女性に蔵王は苦笑した。


「あはは、ごめんごめん。ちょっと急に寄りたくなっちゃってね」

「もう。いくつになっても自由なんやから。ほんまに困った子やわ。融さんが、蔵王が可愛らしい女の子連れてきた言うてはったから、びっくりして飛び出してきてしもたわ」


 ぽんぽんと飛び出す女性の物言いに、葛葉は思わず呆気に取られてしまった。


(この蔵王に、『困った子』って……)


 そんなこと言う人を、葛葉はこの世で一人しか知らない。


「もしかして、藍乃あいのさん?」


 おそるおそる声をかけてみると、藍乃は改めて葛葉の存在に気づいたのだろう。

 まじまじと葛葉の顔を見つめてきた。


「そうですけど……もしかして、葛葉ちゃん?」

「はい。虎月葛葉です。お久しぶりです」


 ぱあっと花が咲いたように顔をほころばせる藍乃を見て、葛葉も微笑んだ。

 藍乃は蔵王の母親で、長年虎月家で住み込みのお手伝いさんをしてくれていた人だ。

 幼い頃は葛葉も随分とお世話になった。とても優しい人柄で、ちょっとのんびり屋さんなところはあるが、それが逆に葛葉にとっては安心できた。

 今もその時のふんわりとした印象は健在のようで、まるで十代の娘のように嬉しそうに葛葉の近くに駆け寄ってきた。


「ええ、うそお! ほんまに葛葉ちゃん? いやあ、よう顔見せて。えらい別嬪べっぴんさんになって。何年ぶりやろうね」


「最後にお会いしたのは多分、大阪に移られた時なので、二十年ぶりぐらいでしょうか」

「もうそんなに時間たったん。早いねえ」

「相変わらずお綺麗でいらっしゃいますね」

「いややわ。葛葉ちゃん、相変わらずそんな上手言わんといて。うちも随分おばさんになってしもて」

「いえいえ、全然変わっていらっしゃらなくてびっくりしました」


 ほうと悩むようにため息をつく藍乃に、思わず真顔でそう伝えた。


「ありがとう。それはそうと、雅世様から、葛葉ちゃんは東京行ってしもたって聞いてたけど、どうしてたん?」


 喧嘩別れのようにして家出同然で出て行ったことを、小さい頃からお世話になった藍乃には何となく言いづらい。

 けれども、キラキラとした目を向けられては、何かを答えなければならない。


「ちょっと自立したいなと思って東京の大学に行って、今はそのまま出版社で勤務してるんです」


 ふんわりとぼかして答えると、藍乃はすごーいと手を叩いて、我が事のように喜んでくれた。


「立派にならはったねえ。どんな本書いてるの?」

「あ、いえ。書いているわけじゃなくて、私は編集で」

「そうなん? 編集さんってどういうことしてるの?」

「私は雑誌の方で、例えばこういったお店なんかもライターさんやカメラマンさんと一緒に取材させていただいて、紹介記事を作ってるんですよ」

「まあ、素敵やわ。いつかうちの店も載せてね」


 すっかり藍乃のペースに持って行かれて、ついついと答えてしまう。

 もしかすると、この押しの強さと、自分のペースに他者を巻き込む力は、蔵王に受け継がれているのかもしれない。

 葛葉のしどろもどろな様子を感じ取ったのか、融がのれんから少し顔を出した。


「藍乃、無理言うたらあかんって。それよりお茶出したげて」

「あ、そうそう。つい嬉しくなってしもて、お茶も出さんとごめんね」


 慌てたように藍乃がのれんの奥に下がっていった。

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