新しいお家3
引越しをしてコムギに使える時間が増えた。
仕事に一日が押し潰されていた頃は部屋のことを思うと気が気ではなかったが、幸いなことに拾った子犬はお転婆ではあるが問題なく過ごしてくれていたことに救われた。
が、気になることには違いなく、これを機に生活を変えることができてよかったと崇仁は思う。
日差しを浴びながら微睡んでいる子犬を眺めて、今日も平和だなとため息をついた。
あの雨の日の自分は、目前にこんな未来が待っているとは想像していなかっただろう。べしゃべしゃになって震えていた生き物が、まさかこんなにあたたかなものだとは。
拾わない選択肢も、もちろん脳裏をよぎった。一時的でも動物の世話は手間もお金もかかる。まして崇仁にそんな余裕はない。ないのだけれど。
天気予報のチェックさえできずに雨に降られた自分は、帰る家があり愚痴を聞いてくれる人もいる。けれども、目の前で弱々しく鳴いた生き物には、このとき崇仁しかいなかった。それならやれるだけのことはやろう。
ただでさえ朝起きるときの気分は最悪なのだから、見殺しにして更に目覚めを悪くするのはうんざりだ。
自分のために崇仁はソレを連れて帰った。それだけだった。そして、そのおかげで取り巻く世界がひっくり返ったのである。
言っていたとおり飼うつもりなどさらさらなくて、初めは貰い手を探した。職場でも聞いて回ったし、最近連絡を取っていなかった友人にも声をかけたがなかなか色良い返事はない。さらに範囲を広げるべきだとわかってはいたものの、片付けても片付けてもなくならない伝票、メール、鳴り止まない電話に書類の山。時間が圧倒的に足りなかった。
家には寝に帰っているだけだったのだが、深夜にも関わらずドアを開けると全身で喜びを表す生き物が出迎えてくれたのにはかなり参った。これは、クる。
そこにペットカメラの映像が追い討ちをかけ、膝から崩れ落ちたのはまだ記憶に新しい。
こんなに穏やかな休日なんていつぶりだろう。
新規採用で勤め始めたときは、もしかしたらこんな休みがあったかもしれない。しかし思い出せないほど霞んでいる。
考えるだけ無駄だな、と目の前の呼吸するコッペパンを触りたくてうずうずしながら崇仁はため息をついた。
構いすぎも、恐らく良くない。
友人からはなんでもかんでも与えすぎはダメだと釘も刺されている。喜ぶから餌もたくさん与えたいし、オモチャも買いたい、寝ていようが撫でくりまわしたいし早く外にも出してやりたい。
だがしかし、何事もちょうどよいという量やタイミングというものが存在することを、幸いなことに崇仁は知っていた。
だから餌は決められた分量を毎日与えるし、グッズも厳選して必要最低限に絞っているし、寝ているところを邪魔しないようにぐっと堪えている。
まさに今、堪えている。
それにしても、この寝方は大丈夫なのだろうか。
床にべったりと張り付いているみたいに、腹這いになっている。足は無事なのか? 関節の可動域が気になる。
覗き込むと、いつかと同じように陽を浴びたいい匂いがした。
最近はちゃんと子犬用のフードを用意できているし専用の餌皿もシートも揃え、ダンボールで間に合わせていたときに比べると住み心地がよくなっているはずだ。
崇仁がいれば窓を開けても心配ないし、コムギもこうして日光浴ができ、足元をよちよちぴょんぴょんついて歩いたり、足をもつれさせて転んだり、耳を掻こうとして転んだり、トイレを失敗して情けない声で縮こまっていたりするのも見ることができる。
もしもあのまま仕事を続けていたとしたら、こんな様子を知る機会もなく日々が過ぎていたのかと思うと辞めた自分に賞賛をおくりたい気分だ。
動物と生活するのは初めてだから、たくさんWeb検索もしたし本も読み漁って知識を増やした。お互いに快適に過ごせるよう今後も情報収集は怠らないようにしたい。
金もかかるが次の仕事も決まっているから、ひとまずは神経質にならずにすみそうである。
耳を澄ませすと、ぷすーぷすーと鼻を鳴らしているのが聞こえて思わず崇仁はカメラを向けた。ピントを合わせて明るさを調整。
まだ片手に乗りそうな彼女が、大きくなっていく様子をしっかり見守っていこうと思いながらシャッターを切った。