後編
引越ししたのは、わたしがコムギになって二週間くらいだった。
あの日からお兄さんは何日かお仕事に行ったけれど、そこからぱったり行かない日が続いている。お友達の助言のとおりいろいろもぎ取ったのかもしれないなあと思いながら、わたしはお兄さんがお家にいてくれることがうれしくて狭い部屋なのにあっちこっちついて回った。
お留守番も多かったけれど、お仕事をしているときみたいにお兄さんが夜しかいないって日はなくて、朝出かけてもお昼に帰ってきてまた出かけて夕方戻ってくるということが多かった。
一度わたしを病院にも連れて行ってくれ、そこで初めてウェルシュ・コーギー・ペンブローク生後一か月半程だと知る。コーギーだった。狸じゃなかった。そして至って健康と太鼓判を押され、注射も打たれた。病院怖い。
お家にいるときはなにか書類を作ったり荷造りをしたりしているお兄さんは、初めのころの気怠そうな雰囲気は薄まって何事も無駄なくテキパキしている。
いつの間にか物件も見つけてきたらしく、この日はキャリーバッグにわたしを入れて、残りの荷物は業者さんに頼んで一足先に新居までやってきた。
手荷物を運び込んで窓を開けて換気。ベランダもある~!
いや、前のところもあったけど出たことなかったからね。思わずね。
キッチンのシンクとかお風呂とかをチェックしたお兄さんは、途中のコンビニで買ってくれた牛乳をわたしにくれて自分も茶色いコッペパンみたいなものをもぐもぐしていた。
部屋のいろんなところを写真に収めている間に業者さんが到着して、ベッドや冷蔵庫、ダンボールがどんどん運び込まれてあっという間にお兄さんの部屋になる。
間取りはたぶん1Kかな。今度はトイレ風呂別でお部屋も前のところよりちょっと広い感じがする。
お兄さんは、部屋の隅にわたしのゲージを置いてくれた。ダンボールよりずいぶん立派な住処にわたしは大興奮である。しばらくそこにいてくれ、と言って荷ほどきをするお兄さん。やはり手際がよくてあっという間に荷物は収納され、ダンボールはぺちゃんこになった。
ベッドにボフンと倒れたお兄さんにお疲れ様ですと声をかけると、せっかく寝転んだはずのお兄さんがのそのそ起き上がってゲージの扉を開けてくれる。わーい! お兄さんお兄さん、お疲れ様です。引越しありがとう! いっぱい休んでくださいよー!
足に頭突きしながら、飛んだり跳ねたりぐるぐるしたりするわたしをわしゃわしゃと撫でくりまわし、楽しくなってテンションマックスなわたしが更に元気になるという流れもありましたが、ご飯を食べて、お兄さんはシャワーを浴びてこの日はおしまい。
次の日もゆっくり起きたお兄さんは出かける支度をして、わたしをゲージに入れようか出したままにしようか悩んで結局ゲージの扉を開けたままお出かけして行った。
引越ししたばかりだからやることもたくさんあるんだろう。
まだここはお兄さんの匂いが少なくて、よそ行きの顔をしている部屋だからわたしは自分の城を自分の匂いでいっぱいにすることに専念する。
ゲージから出たり入ったり、広くて綺麗な部屋を探検したりしていると時刻はお昼を過ぎて、お兄さんはいつ帰ってくるのかなとわたしをそわそわさせた。
しばらくすると玄関のほうで音がして、わたしは急いで駆ける。お兄さんが帰ってきたんだ!
上がり框の手前でくるくるしていると、鍵が開いてお兄さんが――
……誰だろう。お兄さんだけど、誰だろうこの人。
髪がすっきりツーブロックになって、前髪は横に流れている。黒縁の眼鏡はそのままだけど、匂いがなかったらお兄さんだとわからなかったかもしれない。
怯んで尻込みしたわたしに、お兄さんらしくないお兄さんは目を丸くして、それから少し肩を落とした。靴を履いたままその場でしゃがんで手を伸ばしてくるので、わたしは恐る恐る鼻を向けてしっかり匂いを嗅いだ。
紛れもなくお兄さんである。
お、おかえりなさい~。誤魔化すように尻尾を振って鼻を鳴らすと、お兄さんはようやく靴を脱いでわたしと一緒に部屋まで行った。
「引越し、転職おめでとー」
数日後。
電話越しに聞いたことのある声が聞こえたのは、夕飯の時間にちょうどいいときである。
もうすっかりこの部屋に馴染んだわたしは、日が沈んでから出かけて行ったお兄さんをがっかりしながら見送ったのだが。
30分くらいで帰ってきたお兄さんに大喜びで、その後ろにもうひとり人がいたことに遅れて気づくという失態を犯した。お兄さんじゃない匂いがする! 全然違うけどこの人もいい匂いだ! わーい! あの電話の人だ~!
ローテーブルに買ってきた食べ物を並べたお兄さんたちは、興味津々に周りをぐるぐるしているわたしの相手もしてくれる。
食べながらわたしのことも撫でたり揉んだり、おいしそうな食べ物から遠ざけたり。
「名前なんにしたの?」
ピザを大きなひと口で食べながら、お友達が首を傾げる。それにお兄さんが一言。
「コムギだ」
「小麦」
意外! と驚いたその人に、お兄さんはフライドチキンを上手に食べる手を止めずに付け足す。
「パンに見える」
「寝ろ」
た、食べられるー!???
お兄さんそんな意味で名前つけてくれたの?? わたし食料です??
お友達が真顔で一蹴したけど、お兄さんは気にしていない。もしかして最近コッペパンをよく食べていたのはわたしのせいだったのかな。
複雑な心境のわたしをよそに、仲良しな会話は続いていく。
「無事に仕事決まってよかったじゃん。辞められねーかと思ったけど、弁護士ってすごいのな」
「使える金が貯まっていたからよかった」
「……お前のそれは貯金ていうより、使う休みもくれなかっただけだぞ」
「もう辞めたのだからいいだろう。有給も未払いももらった」
「面接用に髪切ったの笑ったわ~」
「清潔感があればなんでもいいと言ったら勝手にこうなっただけだ」
お洒落な髪型は美容師さんのセンスの賜物だったらしい。
見慣れるとやっぱりもさもさしていなくてもお兄さんはお兄さんだった。初めはあまりの変わりっぷりに驚いたけれどよく似合っている。
お兄さんはいつの間にか次のお仕事も決めてしまっていた。早い。いろんなことを同時進行でやったのだろう。すごく疲れるだろうに、お兄さんは淡々としていた気がする。
「仕事、来月からだろ? うち家賃補助もあるしよかったな本当うまくいって」
「ああ、助かった」
「ムギちゃんもアパートでバレないでいたのえらいぞ~」
もしゃもしゃとわたしの首や背中を揉み撫でしてくれる指圧が絶妙で、尻尾がプロペラになって鼻も鳴った。
ピザを食べるお兄さんが肩を竦める。
「ムギはどうやら大人しい性格らしい」
「吠えたりしないの?」
「ほとんど。走り回ることはするが、おかげでバレずにすんだ」
「立ち合いでバレないって奇跡だぞ」
えっへん。わたし、お兄さんの言いつけを守ってキャリーバッグの中でじっとしてましたからね。
バッグが一見ペット用に見えないタイプだったのもよかったのだろう。お兄さんすごい。
「それにしても。初めは飼う気なかったのにな」
いい感じに撫でてもらえて目がとろんとしてきたわたしの横で、お友達がからかうように笑った。
「転職だって今まで勧めてたけどなかなか踏ん切れなかったのに。どういう心境の変化?」
「……あまりにコムギが気になって仕事が手につかなかった」
「嘘でしょ」
だはははっと笑いながら、優しい手がわたしの眉間を撫でる。
お兄さんが憮然とした声で続けた。
「留守中に部屋がどうなるのか気になって、手頃なカメラを設置したんだが。一日中俺の帰りを待っているんだぞ? 音が聞こえたら玄関まで走って、違うとわかるときゅんきゅん鳴いて。それなのに、俺はなぜこんな一銭にもならないクソみたいな仕事をしているんだと思うと馬鹿らしくなった」
「ムギちゃんすげ~。崇仁にここまで言わせるのすげ~」
「お前なら放っておけるのか?」
「んなわけないじゃん。こんなに小さくてぷりぷりよちよちしている子だぞ。ソッコー休みとって遊び倒すわ」
「そうだろう」
まだ寝たくないのに気持ちよくて意識がふわふわする。
お兄さんがわたしのことを話してるから聞きたいのに。
お兄さんの匂いが近づいて、わたしの耳の付け根を撫でるからどんどん追い打ちがかけられてしまう。
「それで一か月かからずに引越しして次の仕事見つけるとか。ほーんと、仕事できるよね」
「当然だ」
「会社見る目はなかったけどね」
ぐっとお兄さんが黙った。
すると、電話と同じように呆れたような優しい声が笑って続ける。
「まあ、遠回りしたけどいいじゃん。これからちゃんと自分の生活しなよ」
「ん」
「てことで、ビール。おかわり」
自分で取れと言いながらお兄さんが立ち上がった気配がして、あとおつまみがどうとか何かを言っている声が聞こえたような、そうでないような。
相変わらず、お友達さんはわたしを撫でる手は止めずにぷにっと鼻を指で押す。
ぼんやり開けた視界に、うれしそうな顔が見えた。ぱちりと目が覚める。
「ムギちゃん。これからどんどんあいつをしんどくさせてやってね? いい奴が貧乏くじばっかりなんておかしいからね、メロメロにしてやって」
それならできるかもしれないなあ。頑張ろう。
くーん、きゅんきゅん。
パタパタ尻尾を振って答えると、戻ってきたお兄さんが腰掛けるのに合わせてそのお膝に乗せてもらった。
お兄さんの匂いは安心する。
これからお兄さんも無理しないでお腹いっぱい食べたり、ゆっくり寝たり、息抜きたくさんしてほしいなあ。お友達さんもいい人だから、ふたりともいいことあるといいねえ。
楽しく続くご飯の様子を眺めながら、わたしはさっそく明日からたっぷり遊んでもらおうと心を弾ませるのである。