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中編

 起こしてきたのは、朝のまぶしい日差しでもお兄さんの呼びかけでもなく、ブブブブッと鳴り出したアラーム音だった。

 なんの音! とびっくりして飛び起きると、薄暗い部屋の中で携帯の無機質な音楽が響いている。お隣さんに聞こえないのかなとドキドキしているわたしなのだけれど、当のお兄さんは芋虫のままもぞもぞと動いただけ。

 にごったうめき声が聞こえたけれど、ピタリと動きを止めてまた寝息が聞こえる。

 お兄さん、昨日わたしを連れてきてくれて寝る時間がなくなっちゃったから眠いのかな。このままだとお仕事に遅れちゃうのかな。

 気が気じゃなくて呼びかけようとしたけれど、吠えてはいけないのだと思い出して声を飲み込む。

 きゅうん、くんくん……お兄さんお兄さん、起きないと遅刻しちゃいますよう!

 ダンボールのなかから、お兄さんとスマホと玄関とをぐるぐる見て回っていると急にガバリと布団の塊が膨らんだ。ぼさぼさ頭で目が半分くらい閉じているお兄さん。こちらを見て動きを止めると、3秒くらいわたしを見てからため息。枕元の眼鏡をかけて、億劫そうにベッドから這い出た。


 無言で冷蔵庫から牛乳を出して、お皿にフード。ひたひたに牛乳を注いでからわたしの箱の中に入れてくれる。

 わー! 一番にご飯だ! ありがとうお兄さん!

 わたしが尻尾をプロペラみたいにしながら牛乳を飲んでいる間に、お兄さんは顔を洗って髭を剃って、クローゼットから出したシャツとスラックスに身を包む。お財布とスマホを鞄に入れて玄関に置くと、わたしのところまで戻ってきてシートを変えてゴミ袋をまとめた。無駄がなくて早い。

 もう行っちゃうのかなと見上げると、お兄さんは変な顔をしてわたしを見下ろす。


「……大人しくしててくれ」


 大きな手が、わたしの頭を触った。

 お兄さんのいい匂いに尻尾が揺れたけれど、やっぱり行ってしまうのかと耳が下がってしまう。

 鞄とゴミ袋を持ったお兄さんは一度こちらを振り返ったけれど、そのまま玄関を出てバタンと扉が閉まった。カツンカツンと足音が遠ざかっていってしまうのがさみしくて、わたしはひとりできゅんきゅん鼻を鳴らした。


 けれども。お兄さんにもっと迷惑をかけるのはよくない。

 内緒でつれてきているのだから、せめてなるべく静かにこっそりいさせてもらおう。

 ダンボールのなかに水を入れてくれたお皿があるから、たまに喉を潤しながら少しのスペースをうろうろして、タオルの上で寝て、またうろうろ。

 それでも夕方まで我慢したけど、やっぱり箱の外が気になってしかたがない。

 お部屋の中を歩くくらいさせてもらえないかなあ。トイレはちゃんとシートでするし、なにかを壊さないように気をつけるからさあ。

 箱は小さめのだ。ジャンプすれば出られるくらいには。ものは試しだ。

 ぐぐっと足に力を入れてよいしょ! と飛んでみると縁に足がひっかかって、ガタンとダンボールが大きく動いた。あ、お皿。

 横に倒れたダンボールの中で皿もひっくり返ってタオルがびしょびしょになっている。あ、あ、あ。迷惑をかけないようにと思ってはずなのに……! 外に出てみたくて忘れてしまっていた。お、お兄さん、ごめんなさい。


 幸いにもタオルが全部吸ってくれて、他のものを濡らさずにすんだけれど。シートが変な向きに広がってしまったから、短い足でたしたし触ってなんとか吸水面を確保する。トイレしたくなったら気をつけてこの上でしよう。

 ベッドはお兄さんのいい匂いがいっぱいして、わたしはそこに上りたいけれど届かなくて、何度か立ったりジャンプしたりしたあとに諦める。体の大きさがよくわからなくて、足がもつれて転んでしまう。なんか胴が長い気がする。犬ってこんな感じなのか。

 窓の外とか見てみたいなあ。あ、でもわたしが見えたら犬がいるとわかっちゃうんだった。だめだめ。お外は我慢。

 ベッドの下と、キッチンとかユニットバスの前をうろうろしてお部屋の中を散策して、たまにストンと眠くなって寝て、またダンボールの前に戻って……を繰り返してお兄さんが帰ってくるのを今か今かと待ち続ける。


 電話の人が言ったとおり、待てどもちっとも帰ってこなくて。玄関がガチャガチャ音を立てたのは23時を過ぎていた。

 はっとしてわたしは玄関に駆けて、扉が開いてお兄さんの匂いが入ってくるのと一緒に尻尾を躍らせる。

 お兄さんはちょっとだけ息が上がっていたけれど、わたしを見るなり変な顔をして部屋の奥へと向かう。わたしは慌てて倒れたダンボールのところでお座りした。

 そうでした、わたし大人しくするように言われていたのに飛び出しちゃったんだった。

 お兄さん、ごめんなさい。お水こぼしちゃったのと、ダンボール倒しちゃいました。鳴かないようにはしたし、明日は今日より大人しくしますから。

 きゅんきゅん言うと、お兄さんはため息をついてダンボールを置き直してシートを取り替えて元どおりにしてから、わたしをひょいと中へと入れる。まだ湿っているタオルも取り替えて、空のお皿には牛乳とフード。お、怒ってはいないのかな? お兄さん、やさしい。


 もぐもぐしている間にお兄さんはまた驚きの早さでシャワーを浴びて、スウェットに着替えて歯を磨く。

 ご飯食べないのかな。朝も食べていなかったな。お兄さん、大変そうだな。

 ダンボールから見上げるわたしを一瞥して、お兄さんはスマホを忙しくいじっている。何度か画面をタッチしてから枕元に放ると、今度はなぜかわたしを箱から出してわしゃりと頭を触る。キッチンからハサミを持ってくると、ダンボールの角に切り込みを二箇所。一枚の壁がペロリと倒れる。

 ベッドの脇にその箱を据え直すと、わたしを捕まえてタオルの上に戻した。出入りができるようにしてくれたみたいだ。ダンボールから出てもいいのか! やった~!

 でも寝るのはそこと言いたいだろうから、わたしは素直にタオルのところで丸まることにする。

 明日はもうちょっといい子でいよう。



***



 翌日は、またアラームに叩き起こされて。お兄さんは慌ただしく支度をしながらわたしのご飯を用意して、またちょっと気がかりそうに一瞥した後で出かけていった。

 わたしは食べて飲んで寝て部屋を散策。

 時間がたっぷりあるから、お兄さんの帰りが待ち遠しかった。やっぱり帰ってきたのは23時を過ぎている。

 コンビニ袋とダンボールを抱えたお兄さんは、玄関でくるくる回りながらお迎えしたわたしが外に出ないよう気をつけながら扉を閉めて、部屋が無事なことを確認すべく首を巡らせる。

 ちゃんとトイレはシートでしたし、いい子にしてました。おかえりおかえり。

 わふわふ、くんくん。

 話しているわたしがちゃんとついてきていると見て、お兄さんは荷物を置いて手が自由になるとわたしの頭をくしゃりと触った。

 わーい、お兄さんお兄さん。

 鼻をこすりつけてジャンプしたり駆け回るわたしをひょいと抱えてダンボールに置くと、わたしのご飯を出してからささっとシャワーを浴びてスウェット姿になり、置いたままだったダンボールに手をかけた。


 辞書くらいのサイズの箱が出てきて、その中身を取り出す。スマートフォンよりも少し大きい四角いものを、キッチンの床に置いてコンセントへコードをさした。

 なあにこれ? 加湿器……にしては頭に出口はないし、丸くて黒いものがついているだけ。くんくんしてもプラスチックの匂い。

 わたしが検分している間にお兄さんはスマホをいじって何かをしている。少しすると、四角いそれが小さなモーター音と一緒に左右に向きを変えるように動き出した。

 あ! これカメラだきっと。お兄さんがこちらを見ながら画面をいじっているのに合わせてカメラも動いている。いない間に部屋が無事なことを確認するために買ったのかもしれない。

 黒い丸いところがレンズだとわかり、くんくん近寄るとスマホを見ているお兄さんがブハッと吹き出した。

 くつくつ笑いながらスマホを置いて、わたしを抱き上げるとダンボールへ入れる。どうやらおやすみの合図らしい。

 歯磨きしたお兄さんがベッドに入るのを見上げながら、わたしもまたタオルの上に丸くなったのである。


 次の日。

 同じように手際よく支度してお兄さんが出かけると、ひとりになったわたしは相変わらず暇である。

 ゴロゴロして、タオルかみかみ。

 ベッドの下は衣装ケースがあって、たぶん衣替えとかベッドシーツとかそういうものをしまっているんだなと、隙間を探検しながらなるほどと帰還。埃が溜まっていたけど、なんだか楽しくなってしまってぜんぜん気にならなかった。

 ベッドの上にはやっぱり上れなくて、何度かチャレンジしたけど足はもつれるし頭が重くてバランスが難しいし、フローリングが滑ってコロンと倒されてしまう。まだ勝てない。

 体をひねってなんとか起き上がると、悔しいから一度住処に戻ってタオルをかみかみした。そして気づくと寝ていた。


 カツンカツンと玄関の向こうで音がしたのにハッと目を覚めて、寝ていたことに気づいたわけだけれど。そんなことより足音!

 お兄さんが帰ってきたのかなと玄関に駆けていってお座りする。

 耳と鼻を澄ませ、くるくる回ってお座りして、ドアが開くのを待つけれど。カコンと郵便受けに何かを入れて去ってしまった。お兄さんじゃなかった。

 なんだぁ……今日は早く帰ってこれたのかなと思ったのに。きゅうん、くんくん、ふすん。

 残念すぎてまたタオルのところで不貞寝する。

 それでも、ちょっと息の切れたお兄さんが帰ってきたのはいつもより1時間くらい早かった。すごい! お仕事頑張ったんですね!

 大歓迎のお出迎えをすると、お兄さんはわたしをひょいと抱えてベッドに腰掛ける。膝の上に下ろすと、わたしの鼻先や頭、耳などを撫でてくれた。そのあとでゴミ袋に何かを入れていた。もしかしてゴミでも付いていたのだろうか。

 お膝の上でぐるぐるすると、足が滑ってお兄さんから落っこちた。それにまた頭を撫でてくれた手が床に下ろしてご飯を用意してくれる。お兄さんもコンビニ弁当を食べていた。


『どうなの、貰い手見つかりそう?』


 シャワー後の電話は、この前と同じ人が相手のようだ。

 通話をスピーカーにしたお兄さんは、洗濯物をまとめたり床の掃除をしたりしながら口を開く。


「今のところいないな」

『こっちも飼いたそうな人はいたけど、ペット可じゃないからって断られたよ。動物病院とか区役所に届けたりする?』

「……いや、悩んでいる」


 悩んでいるの? お兄さん、日中忙しくてそういうことできないからかなあ。


『代わりに俺やろうか?』

「そうではなく。探さなくてもいい気がしてきた」

『え。崇仁が飼うの?』


 たかひとさん。お兄さんはどうやらたかひとさんらしい。

 ようやくお名前がわかって、わたしはふすふすと鼻を鳴らす。


「そうしてもいいかもしれないと思い始めたんだが」

『無理だよ。全部生活変えないとダメだし金もかかるぞ。病気だってする。安易に考えるな』

「わかっている」

『……じゃあなに、転職と引越しも考えてるってこと?』

「一応」

『マジか。それなら応援するわ。辞めるときいろいろ取りっぱぐれないように準備しろよ? 揉めそうなら金使え』

「わかった」


 お兄さーん!!!

 お兄さん、わたしのこと飼ってくれるんですか! お兄さんお兄さん!

 うれしくてぴょんぴょん飛んで跳ねると、静かにしなさいとダンボールへ戻された。すみません。



***



 それからお兄さんは、夜遅くに帰ってきて朝早くに出かけていくのを繰り返しながら、それでもこっそりわたしの世話をしてくれている。

 一週間くらい経った朝、アラームが鳴らなくてわたしはびっくりした。

 目が覚めるとカーテンの隙間からいい天気が窺えて、お兄さんはすやすや眠っていて、お仕事はいいのかなとわたしがひとりでそわそわしてしまう。

 相変わらずベッドには上れないから床をてけてけ駆けて転んだり滑ったりしていると、お兄さんがもぞりと動き出す。


「今日は休みだ」


 お休みあったんですか! びっくりして見上げるわたしの頭をポンと撫でて、大きな伸びをしながらわたしのご飯を出してくれた。

 お兄さんは寝溜めするのかなと思っていたら、意外なことに身支度をして、茶色いパンをひとつ食べて、いい子にしていろとわたしに言って出かけてしまった。なーんだ、一日一緒じゃないのかあ。残念だな……お兄さんいつ帰ってくるかなあ。

 しょんぼりしながら、始めのときよりいくぶん綺麗になっている部屋を行ったり来たりして暇をつぶす。

 夜に帰ってくるのかと思っていたら、これまた意外なことにお昼を過ぎた頃には帰ってきてくれた。書類封筒とかいろんなものを持っている。

 書類を読んだりスマホをいじったり、どこかに電話をかけたりとテキパキしているお兄さんは、電話のお友達が言ったとおりお仕事のできる人なのかもしれない。優しいしいい匂いだし、こんなくたびれちゃう生活じゃなくてもっとのんびり過ごせたらいいのになあ。

 そんなことを思いながら、わたしはカーテンの開いた窓際で日の光を浴びながら気持ちよくお昼寝をしたのである。


「コムギ」


 お兄さんの声。

 こちらに呼びかけられる声。

 それがわたしを揺り動かして、もう日の落ちた夕方に目が覚める。

 お兄さんがわたしの横に座っていて、うーんと伸びをした。もしかしたらお兄さんもうたた寝していたのかもしれない。


「コムギ。決めた」


 わたしの名前。コムギ。

 小麦のコムギなのかな。なんだか、うん、とってもすてきだ。

 ありがとうお兄さん!

 わん! と声が出てしまって、お兄さんとわたしは目を丸くすることになる。

 思わず鳴いちゃったわたしをわしゃわしゃして許してくれたお兄さんは、飯にしようと言いながら立ち上がってご飯の用意をしてくれた。

 牛乳とフードを食べながら、わたしはお兄さんの引っ越しがすむまでなんとしてもこっそりしていようと心に決めるのである。


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