お日様と風に乗って:中編
広場まで戻ってみても、茶色い姿はそこにはない。
弾む息を整えながら視線をぐるりと走らせる。コムギが走っていった植え込みから公園の外までいってみたものの、見失うまでは早かった。方向しかわからない。
「崇仁! どうだった?」
入口へ続く道から凌が駆けてきたのに合流すると、崇仁は眉を寄せて首を振る。
「……だめだ、いない」
「ああ畜生。クッソ頭にくる……! あっちの飼い主、自分の犬は戻ってこれるくらい頭がいいのに、そっちは帰れないほどバカなんだから公園なんて来るなとか言い始めて」
崇仁がコムギを追っている間、凌はあの犬の飼い主を探してくれていた。
コムギを追いかけ回したあとで相手の犬は悪びれもせず戻ってきて、そのころようやく飼い主が現れたそうだ。
「うちの子のが頭いいっつーの! まったく……!」
いつも飄々としている凌にしてはめずらしく、苛立ちを隠しもしないで頭をガシガシ混ぜた。
悪態を吐くかわりに大きなため息をこぼして落ち着きを手繰り寄せると、むっつりした表情で崇仁にスマートフォンを示してみせた。
「俺、ムギちゃんと遊んでるところから全部動画に撮ってる。あの犬に襲われたところも、飼い主とのやり取りも切らずにおいたから。つべこべ言わずに連絡先教えろって言ったけど逃げる気満々でさあ、マジで糞。追いかけて車のナンバーはおさえといた」
「……すまない。俺の落ち度だ」
初めにリードを確認していたら、そもそももっと金具のしっかりしたリードを買うべきだったし、周りの犬の様子を見てからリードを調整すべきだった。
毎日の散歩にも慣れ、この公園も初めてではない。気が緩んでいたのは事実だ。
初めてではないとはいえ、まだ3回。しかも公園の周りなんて行ったこともないから、あの勢いで必死に逃げたコムギがまっすぐ帰ってこれるとは思えなかった。
「崇仁」
「俺がもっと周りに注意すべきだった。放されている犬がいることにも、近づいてきていることにも気付いていなかったんだ。これでコムギになにかあったら――」
「……あの」
肩を落とす崇仁へ、凌が口を開こうとしたとき。
控えめに声がかけられて、振り返ると女性がふたり。それぞれの腕にはチワワとプードルがいる。
目配せし合ってから、彼女たちはまっすぐ崇仁を見つめた。
「私たちも、ワンちゃんが追われているの見ました」
ひとりがそう言い、もうひとりも頷いて続く。
「ここ、放し飼いは禁止なのにノーリードだったし。前からマナーが悪いって言っていたんですあの飼い主」
「ほかの犬友たちも、みんな見てましたよ。協力できることがあったら力になりますから」
「今から帰りながら周りも見てみますね。一応これ、よかったら連絡先です」
差し出されたメモに崇仁は言葉を失う。
周りを見なくてはと思ったばかりなのに、ここでも自分は至らないのか。こんなふうに気にかけてくれている人たちが周りにいたことに、微塵も気付くことなく打ちひしがれていた。
ぐっと奥歯を噛み締めて、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「ワンちゃん賢いし、戻ろうとしていると思います。諦めちゃダメだし気落ちしないで」
「はい。しばらくこの辺りを探すつもりですが、もし見かけたら連絡をいただきたいです。よろしくお願いします」
名前はコムギで、呼べば反応します。そう添えながら崇仁も自分の連絡先を渡して、頭を下げ合ってその場は別れた。飼い主の先輩の言葉は心強かった。そうだ、落ち込んでいる場合ではない。
凌がポンと肩を叩いた。
「よし、探すぞ」
「ん。俺はコムギがいった方向に行く。外で迷っているかもしれない」
「じゃあ、俺は一応公園の中見て回るわ」
「ありがとう」
きゅうん、と困りきった鳴き声が耳の奥で響く。
どうしているだろうか。怪我などしていないだろうか。
公園で雨に濡れていた小さな姿が思い浮かぶ。
早く見つけたい。ひとりにしたくないから、あの日拾ったはずなのに。
崇仁はぐっと拳を握って先を急いだ。
***
目の前に、知らない女の人がいる。
公園に戻ろうと、ぜんぜんわからないけど道を小走りに進んでいたら。前から歩いてきたのがこの人だった。
人通りが少ない住宅街の道路である。
歩道と車道は分かれていなくて、歩いている人がひとり、ふたり。自転車が一台シャアァと走った。
女の人は、まだ遠くだったところからじっとわたしを見つめていてあと1メートルになったとき、その場に屈んで手を伸ばしてくれた。
「こんなところにいたのね」
わたしはその手と、その人の顔を交互に見上げる。
お兄さんに頼まれて探してくれていたのかな。そんな希望が頭をよぎって、わたしは一歩前へ出た。
すると、びっくりするくらいの勢いでガシッと首輪を掴まれ、わたしの目が丸くなる。
「あなた、うちの子でしょう。なにしてたの行くわよ!」
えっ! なんで??
ちがうちがう、わたしはお兄さんのところの子だもの! ヤダヤダヤダ! 離してー!
ワウワウ言ってもこの人はすごい力でわたしを強引に抱えた。苦しい。きゅうきゅう鼻が鳴る。
「大人しくしな! 家に帰るよ!」
やだよう! お家はここにないもん! この人のにおいも好きじゃないし、離して離して!
道路の真ん中で、わたしは体をよじって腕を解こうとしたけれどびくりともしない。どうしよう、なにか――
唸りながらグッと全部の足に力を入れたとき、ププッと車のクラクションが響いた。
驚いて振り返ったそのとき、ほんのちょっとだけ緩む。一瞬の隙で足が出せたから、わたしは思い切り蹴った。勢いよく道路に着地。そのまま振り返りもしないで走る。
後ろを叫びながら追ってきているみたいだったけど、角を2つ曲がって横断歩道を渡ったあたりでまたわたしはひとりになった。
どうしよう。お兄さん、どこにいるかな。ここがどこかもわからないし、どうしよう。
きゅうきゅう鼻が鳴る。
途方に暮れたとき、助けてくれるのはいつだってお兄さんだ。
それなのに、今は誰もいない。
どうしよう。
とぼとぼ道に沿って歩く。もう日が暮れてきて、遠くに夕焼けが見えて街は夜になろうとしている。
すれ違う人もたくさんいて、あれ? とわたしを気に留めてくれたのか足を止める人もいたけれど。またさっきみたいに連れていかれそうになったら困る。
またひとり、わたしを見て目を丸くしてからその場にしゃがんでくれた人がいる。でも、わたしは尻込みした。手を伸ばしてくれているのに、また捕まえられてしまいそうで素直に近づけない。においは大丈夫そうなだけど……やだなあ、また変な人だったら困るなあ。
悩んだ末に、パッと向きを変えて走り出す。
お兄さん以外の人についていっちゃダメだ。あ、お友達さんならいいけど。他の人はダメ。だからわたしはひたすら歩くしかない。
そうこうしているととっぷり夜になってしまった。
冷たい風が吹いて、地面を踏み締める足も寒い。だんだん疲れてきて、でも道路に座り込むのは余計に寒くなってしまうから、わたしはしばらく歩いた先にあったダンボールの隙間に潜り込む。ラーメン屋さんの横らしい。おなかすいた。
ここは、どこなんだろう。
公園に戻れたとしてもお兄さんはもういないだろうなあ……探してくれているかなあ、どこにいるだろう。どうしよう、お兄さんに会いたい。お家にいるかなあ。
――お家に帰ろう。
そうだ、だってわたし、お兄さんのお家の場所も駅の名前も知ってるし! そうだ帰ろう。お兄さんのところへ。