ポジションは譲れない
最近、友人がいい感じだ。
毎回メッセージへの返事は深夜だし、予定をなんとか合わせてたまに会ってもくたびれ切っていたやつが、である。
愚痴などこぼす質でもない彼が上司の理不尽さを口にしたときは、本当にヤバイ職場なのだろうとこちらが真顔になったほどだ。たぶん、言葉にされた分の10倍くらいが実情だと凌は思っている。
実際、自宅の滞在時間は寝ているときだけ。食事も携帯食品やパン、おにぎり。休みは、あるけどない。それなら手当てが厚いのかと思えばその様子もなく、見事なブラックであった。
このままでは崇仁が潰れてしまうといくつか助言をしたものの、おそらく正常な判断力がなくなっている彼は日々の流れから抜け出すために消耗するのなら現状維持でいいと思ったのだろう。辞めることを考えただけで疲労するのは確かだが、そこを乗り越えたほうのメリットが勝ると崇仁ならばわかるはずなのに。
その判断さえも鈍らせている現状は、まったくもって芳しくない。
そんな彼をどろどろの海底から引っ張り上げたのは、気を揉んでいた凌でもなく、はたまた労働環境が改善されたわけでもなく、突然現れた小さな子犬の存在だった。
真夜中。唐突に送られてきた【狸を拾った】というメッセージは凌にいろんな意味での衝撃を与えた。
狸と称され名前もつけられなかったその子犬は、特別なことなどせずにただいるだけで崇仁に仕事を辞めさせ、生活環境を改善し、日々の癒しまでをももたらしている。
おかげで友人はよく眠り、よく食べ、よく休むようになった。
そして、その一匹の小さな子犬に振り回されているのである。あの眠気と頭痛と疲労で屍のようだった男が、子犬の挙動で一喜一憂し、健康を思って早く寝て、餌を与えるのと一緒に自分も食事をし、子犬に害がないよう部屋を清潔に保ち、床をちょこまか動くのを踏まないようにしたりする。これを素晴らしいと言わずになんと言おう。
「ムギちゃん、こんにちは」
休日、友人宅を訪れると玄関でぴょんぴょんしている毛玉に迎えられた。まだ片手ほどしか会っていないのに、警戒するどころか大歓迎である。
これがまったく知らない人だったらどうなのだろう。
あまり人懐っこすぎるのも心配だ。まあ、今はいいけれど。俺に懐いてくれるのはぜんぜん、これっぽっちも問題ないんだけれど。などと秒で顔が溶けるのは、もうこの小さな生き物が相手だからしかたがないと凌は考えることを破棄した。
しかも、今日の自分は武器として子犬用歯磨きガムを携えている。
友人にはオヤツのあげすきはダメだダメだと言い聞かせたので、真面目な相手はきっと律儀に言葉を守っているはずだ。
凌はコムギにたまにしか会えない。
だからこそ【たまに会うけどおいしいものをくれる人】と認識されるようにして好感度を維持するのである。
眉を寄せて憮然とする崇仁の顔が浮かぶが、毎日べったりしている飼い主に勝てるわけがないのだからこれくらい大目に見てくれ。何事も心の余裕は大事だ。
「ムギちゃーん」
呼べば、パッと振り返ってシャカシャカ爪を滑らせながら駆けてくる。はあ? なにこれ、天使?? 走るだけでも癒し……というかもうそこにいるだけで世の中平和になるのでは???
なぁになぁに? と見上げて目を合わせたままくるくるその場で回るのだが、はじめの頃より転ばなくなっていて成長を感じる。あんなによちよちしていたのに。
勝手に熱くなる目頭をおさえてから、凌は鞄から必殺技を取り出した。
「あげてもいい?」
パッケージをひらひら見せて飼い主に伺うと、それがなにかを察した相手は案の定不味いものを堪えるような顔をする。
けれどもコムギがもらう気満々で、行ったり来たりしながら尻尾をびゅんびゅんしているのを見ると悔しそうに口を開いた。
「……少しだけなら」
あげているところを見たいし自分もあげたいし、でもあげすぎはよくない。そんな葛藤をしていることが明らかで凌は声を上げて笑ってから膝をつく。切り口からパッケージを開けて一本取り出すと、膝に前足がぴょこぴょこ乗って待ち構えている笑顔がいた。
足が短すぎてずり落ちるのに腹を抱えたが、口元に先っぽを向けてやる。
くんくんくん嗅いでから、ぱくりと口が動く。
両手で挟んだそれを必死にガジガジやりはじめたのを、男二人でパシャパシャ写真を撮りまくった。
餌とは違う味に瞳を輝かせたように見えるコムギは、すっかりガムの虜で夢中になっている。狙い通りだ。
ニヤリとすると憮然とした崇仁が表情を歪めた。この男がこういう顔をするのも、いい感じなのである。
「明日病院なんだっけ? 散歩いつから?」
撮った写真の加工をしているのに話しかけると、画面を見たまま返事がされる。
「来月に入ってからだな。最低でも二週間、余裕をみて三週間程あけるそうだ」
「へー。なんか犬飼ったらさっそく散歩行くってイメージあったけど、そーでもないんだな。そういえば首輪どうすんの?」
「今選んでいる途中」
軽くて、毛が絡みにくくて、肌触りがよさそうなやつがいい。そう言いながら崇仁がスワスワ液晶をいじりだしたので、凌もどれどれとアプリを起動する。
リボンや鈴がついたものも多く、首輪と一口に言っても色はもちろん模様も様々。
リードも必要だとか、雨のときはカッパもないととか、あーだこーだ言いながら画面を見せ合っていると崇仁の足によいしょとコムギが乗ろうとし始めた。
どうやらガムは一段落したらしい。短すぎる足のおかげでぜんぜん上れていないから、落ちたり起きたりコロコロしている様子に凌はああ~とため息と一緒に変な声が出た。
似たような状態の崇仁が、助けようと手を差し出したのだが。
なにを思ったのか、コムギは尻尾をパタパタさせたまま手のひらに前足を揃えてちょこんと乗せる。二足で立ち上がった格好でヘヘヘッと舌を見せて尻尾ふりふり。くぅんきゅーん、くんくん。
うぐぅ……と変な声で唸って崇仁が顔を覆った。
「し、死んでる……」
動かなくなった隣に、息も絶え絶えそう言えば。
隙間からくぐもった声がかろうじて絞り出された。
「……死んでいない」
はいはい。
どうせこの子犬には勝てないし、オヤツごときで自分が飼い主に勝てるわけもないのは知っている。知っているからこそ、凌はこれからも毎回オヤツは持参しようと決めるのである。
これからコムギはいろんな人たちに会うだろう。この部屋だけの狭い世界はおしまい。
だから自分は、いつまでも二番目に好きな人でいられますように。




