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前編

 目が覚めたら屋根のない部屋だった。たぶん。

 自分より大きい壁が周りを囲っていて、部屋の半分にはくしゃくしゃの薄い布団。染み付いた匂いはよく知ったもので、それが自分のものだのわかるまでしばらくかかる。

 壁に手をついて、足を踏ん張ると――足を踏ん張る? 踏ん張らないと立てないし、手と足の感覚がおかしくてすぐにズリっと床にすべった。外の様子はちっともわからない。

 空はもう暗くて、星がないかと見上げても分厚い雲があるだけ。風も強くてごうごう音がする。鼻に湿った匂いがするなあと思ったところで、びっくりするくらい大きな雨粒がボタボタと落ちてきた。


 雨だ! 思いつくまで時間がかかり、すぐに全身びしょ濡れになる。壁も床もグジュグジュになっていて、踏むと水が染み出す。そう、前足で踏む。前足がある。どうやら犬かなにからしい。雨はどんどん強くなるし、布団だと思っていたタオルは貯水場になってしまっているし、これはもしかして結構危ないのでは。

 どうしようどうしようとその場で歩き回っても、きゅんきゅん鼻が鳴るだけだった。

 さむい。おなかがへった。さむい。どうしよう。

 助けてとも言えず、なにかを言おうとすると哀れっぽい声が出て雨音に溶けていく。

 犬として生まれて、捨てられたのだろうか。どうしよう、このまま雨に濡れてお腹も空いて、そのうち動けなくなったらどんどん冷たくなってしまうのだろうか。いやだ、いやだなあ、どうしよう。きゅうん、きゅんきゅん。

 隅っこで小さくなって、情けない声で泣いた。

 そのときだった、ぬっと夜色が深くなって雨粒が途切れたのは。


 闇夜に、ずぶ濡れの人がいた。

 こちらを見下ろしている顔にはべったりと黒髪がくっついて、役をなしているのかわからない黒縁眼鏡がかろうじて鼻に乗っている。

 じっと向けられる視線に、またきゅうきゅうとわたしの鼻が鳴った。

 湿った雨に混ざっていい匂いがする。

 きゅうきゅう、くぅん、くん。

 お兄さん、行っちゃうのだろうか。この人も雨に困っているから、こちらのことを構う余裕なんてないかもしれない。

 きゅーん……。

 必死に見上げると、レンズ越しに目が合った。

 そしてぬっと差し伸べられた手は、こちらをひょいと持ち上げると着ている上着の内側に入れて足早に歩き出す。

 あ、とってもいい匂い。

 きっとこの人はいい人だ。そう思いながらすでに濡れていたシャツに鼻先を押し当てる。あたたかくて、いい匂いで。上着越しに支える手は思いのほか力強かった。


 お兄さんはしばらく走ったり歩いたりしながら進むと、どこかの階段を上がって、片手でゴソゴソ鞄を漁ってから扉を開けた。雨の音がずっと遠くになる。お家に着いたようだ。

 上着を脱いだお兄さんはどこからかタオルを出してきて、わたしの体をわしゃわしゃ拭いた。両手ですっぽり包まれちゃうくらいのサイズだったらしい。

 しっとりしているわたしを見下ろすお兄さんは、自分がまだ髪の毛から雨を降らせていることを気にした様子もなくスマホをいじって、少し考え込んだあとでため息をついた。

 見上げているわたしと目が合うと、顔にかかった髪を払ってわたしごとお風呂場に入る。ユニットバスだった。

 きょろきょろとなにかを探したけれど、諦めたように頭を掻いてわたしにゆっくりとシャワーを浴びせる。ふわふわとあたたかさが体を包んだのに、今度はわたしがため息をつきたくなった。


 タオルでわしゃわしゃとわたしの水気を拭き取ると、包んだままなにも溜まっていない洗面器に置き去りにする。

 シャッとカーテンが引かれてザアァァァとお兄さんがシャワーを浴びているなあと思ったら、すぐにカーテンがまた開いて手早くタオルで身体を拭き、さっさとTシャツとスウェットを身につけていた。びっくりするほど早い。

 お兄さんはタオルの中で目を丸くしているわたしを、また新しいタオルで念入りに拭いた。ドライヤーがあれば早いのになあと思うけれど、ぶるるるっと体を震わせると水が飛ばないしわりと大丈夫なのかもしれない。

 わたしの毛の世話を終えたお兄さんは、自分の頭もガシガシと拭いてしんなりしていた髪をまた元どおりのもさもさにしていた。あまり見た目を気にしない人なのかもしれない。

 そこまで終えると、お兄さんは置いてあったスマホでパシャっと一枚写真を撮った。レンズを向けた先はわたしだ。またスワスワいじってから大きな欠伸をひとつ。

 お兄さんお兄さん、お家に連れてきてくれてありがとうございます。

 きゅんきゅん、わふわふ。話しかけると眼鏡を足した顔で見下ろしてため息。


「……静かにしろ。隣に聞こえる」


 も、もしかしてペット禁止のお部屋だったのかな。

 それなのに連れてきてくれてうれしいから、わたしの尻尾はびゅんびゅん風を切ってしまう。

 そんなわたしにもう一度ため息をこぼしてから部屋を見渡して、捨てる予定なのか畳まれていたダンボールを持ってくると、組み直してわたしとタオルを一緒に入れる。

 鞄から財布っぽいものを取り出すと首をコキコキしながら、玄関から出て行ってしまった。


 行っちゃった。しん、とした部屋の中をわたしはダンボールの中から眺める。

 どうやらわたしは犬で、寒いし雨粒は痛かったしお兄さんはいい匂いなので夢ではなく、ここはペット禁止のお兄さんの部屋。

 物は多くないけれど、服が投げられていたり中身の入ったゴミ袋があったり埃っぽかったり。たぶん、ワンルームにユニットバスの間取りだ。ベッドとクローゼットと、テレビ。使っていなさそうな小さなキッチンに冷蔵庫。

 くんくんタオルの匂いを嗅いだり噛んだり、ゴロリと転がったりしたところでガチャガチャ音がして玄関が開いた。お兄さんだ。思ったよりもずっと早かった。コンビニ袋を手に下げている。

 ガサガサと中身を取り出すと、小さいサイズの牛乳とドッグフード! わあ! お兄さんわたしのご飯を買ってくれたんだ!


 ぴょんぴょんするとダンボールが揺れてゴトゴト動き回るからお兄さんが慌ててわたしをひょいと抱き上げた。じっと視線を向けてくるなかに、静かにしてほしさが滲んでいる気がしてペット禁止の言葉を思い出す。ごめんなさい。

 しかたがないので、下された床ではお兄さんの周りをぐるぐるするだけにする。少し鼻が鳴ってしまうのは許してください。お腹すいた!

 棚の奥から取り出されたお皿に牛乳とフード。わたしの前へ置いてくれたのに尻尾が勝手にびゅんびゅんしたまま、鼻先を突っ込んだ。おいしいおいしい! いい匂い!

 カリカリしたものは意外に食べにくくて、まずは牛乳を飲んでからふやふやになったものを食べることにした。これならなんとか大丈夫そうだ。わーい。

 そんなわたしの横でお兄さんは10秒チャージ系のゼリーと携帯食品をもそもそ食べて、そのゴミをゴミ袋に足した。そしてコンビニ袋から出したペットシートをダンボールにセットして、タオルを整えて――


「なに?」


 そのとき、震え出したスマホ。

 わたしの住処を整えていた手を止めて、お兄さんは通話ボタンを押したらしい。相手の声が漏れ聞こえる。


『なに? じゃないよ。こんな夜中になにかと思ったら、狸拾った?? どう見ても犬だよね!』

「そうか」


 た、たぬき? お兄さんにはわたしが狸に見えていたのだろうか。相手がきっぱり犬と言っているから犬なんだろうけど、いったいどんな見た目をしているのか気になる。

 電話の人は淡々としているお兄さんに呆れたような声で続ける。


『ツッコミどころ満載で寝る気も失せるっつーの。なに、どこにいたの。写真だとびしょびしょじゃん』

「いや、これはシャワーのあとだ」

『お前がびしょびしょにしたんかい』

「ダンボールで捨てられていた。体温が下がっているときはお湯で温めるとよいらしい」


 お兄さん、スマホで調べたのかな。たしかにシャワーは気持ちよかった。


『……今、どうしてんの』

「餌を食べさせた」

『名前は?』

「ない」

『なんで』

「俺が飼う気はない」


 がーん!

 衝撃の事実。そ、そっか、お兄さんと一緒に暮らせるわけじゃないのか。ペットダメだもんねえ。えー……そっかぁ……。


『飼う気がないのにどうして拾って甲斐甲斐しく世話までしてんだよ』

「貰い手がつくまでは当然のことだ」

『……里親探しする気なんだな? でもお前会社休めんの?』


 ぐっ、とお兄さんが黙った。


『さっき見つけたってことは帰り道だったんだろ。終電で帰ってきて始発で行くような生活でどうやってその子の世話するんだ』

「……なんとかする」


 部屋の時計は1時を過ぎた頃。

 お兄さん、もしかしてブラック企業にお勤めなんだろうか。朝も早いのに、わたしを見捨てずに時間とお金を割いてくれたのか。

 きゅーんと鼻が鳴る。


『無理ばっかりしてんじゃないよ。それ異常だからな』

「……わかっている」

『お前のスキルと仕事っぷりなら正規の時間だけで倍の給料もらっていいくらいだろ』

「なぜ俺の給与額を知っている」

『いや知らねーよ。でも想像つくだろこの生活してたら。マジでさ、うちの会社受けたら? 超ホワイトだよ? たぶん秋採用の募集かけるぞ』


 むっつり押し黙ったお兄さんに、相手の人はまったく気にせずため息なんかついてみせた。たぶん、とっても仲良しさんなんだろう。


『とりあえず今日は寝たら? 俺も周りに聞いてみるよ』

「ん。助かる」


 電話は終わって静かになった。

 見上げるわたしに視線をよこしたお兄さんは、じっと眺めたあとでため息をこぼしてわたしを箱の中へと戻す。首をこきりと鳴らして立ち上がると、シンクで歯磨きして、冷蔵庫の水をゴッゴッと飲んで、そのままベッドに潜っていった。

 パチリと電気が落ちる。

 真っ暗な部屋に、お兄さんの寝息が聞こえるまで耳を澄ませたわたしは、それを聞く前にすとんと眠りに落ちてしまった。


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