第九話 隣国シーラムへ
ティルデが復帰したあと、ロスヴィータは彼女の監督下から離れた。シュツェルツの普段着に限り、もう一人で衣装を選んでも差し支えない、とオスティア侯爵夫人に見なされ、少し早いが独り立ちをすることになったのだ。
仕事ぶりが認められ、ロスヴィータは嬉しくて誇らしい。
その代わり、ロスヴィータの「王太子殿下に嫌われよう計画」は一向に進んでいなかった。
たとえば、こんなことがあった。
朝の衣装選びを終えて部屋を退出する時、シュツェルツが「今日も可愛いね」と声をかけてきた。
自分が嫌な女であることをアピールするために、ロスヴィータは「わたくし、言われ慣れておりますの」と答えた。
一瞬の間のあと、シュツェルツは爆笑した。
「……確かにそうだろうね。本当におもしろい娘だね、君は」という感想をいただくだけに終わり、ロスヴィータは穴があったら入りたいほどの羞恥を味わうことになった。
一体どうすれば、どんな嫌味も柳のように受け流してしまうシュツェルツに、嫌われることができるのだろう。
かといって、そのために問題行動を起こせば、オスティア侯爵夫人から精神を抉られるような大打撃を食らってしまう。
シュツェルツが自分との結婚を望むとは限らないし、もういっそ、成り行きに任せてしまおうか。
(ダメよ、自分の人生を諦めては)
将来浮気をしまくりそうな男性を夫にするわけにはいかない。ロスヴィータは弱気になりそうな己を叱咤した。
鬱々とするロスヴィータの耳に、ある噂が飛び込んできたのは、七月の終わり頃のことだ。
北東の隣国シーラム王国で、第一王位継承者たるレオニス女公の結婚式が行われる(シーラムでは、王太子のことを「レオニス公」と呼ぶのだ)。
もちろん、各国の王や王族が式に招待されているが、マレからは国王の名代として、シュツェルツが出席するらしい。
廷臣たちの間では、誰がシュツェルツのお付きとしてシーラムに行くのかという話題で持ちきりだ。
おそらく自分は無理だろう、とロスヴィータは思った。今ではロスヴィータにも、お雇いと正官の区別がはっきり分かる。お雇いは正官と違い、お仕えする主君の外出にはお供しないことになっていた。
オスティア侯爵夫人はもちろん随行するだろう。ティルデは先輩女官が職を辞したあとに正官に任じられたと聞いているから、シーラム行きに加わるはずだ。
ティルデさまと旅行にいきたかったのに……とロスヴィータは残念な気持ちになった。
それに、シュツェルツのお供になど興味はないが、外国に行くなどめったにできる経験ではない。一生籠の中に囚われていることが嫌で女官になったロスヴィータにとって、シーラム行きはまばゆく感じられた。
その日の朝、いつものように衣装を選び終え、部屋を退出しようとしたロスヴィータに、シュツェルツが話しかけてきた。今日の彼の衣装は、濃い藍色の上着に紺色のズボンだ。
「ロスヴィータはシーラムに行ってみたいかい?」
目をしばたたいたあとで、ロスヴィータはためらいがちに答えた。
「はい……できることなら」
「なら、君も今回の随行に参加するといい。女官長やオスティア侯爵夫人には、わたしから話を通しておくから」
「本当でございますの!?」
自分でもびっくりするくらいの大きな声が出た。ロスヴィータが赤面すると、シュツェルツはくつくつと笑った。
「本当だよ。君くらいの歳に外国へ行っておくと、のちのち大きな財産になるからね。わたしがシーラムに留学したのも、十二の時だったし」
そういえば、シュツェルツはつい二年前まで、シーラムに留学していたのだった。
当時の王太子派と、シュツェルツを次期国王に擁立しようとする派閥の間に争いが起こり、シュツェルツにまで危害が及んだことが原因だと言われている。
暗殺を避けるために、国王はシュツェルツを隣国に避難させたのだ。
その時分、父はロスヴィータと前王太子との婚約を考えていたようだ。結局、前王太子の容態が急変したため、実現することはなかったが。
今、悠々と暮らしているように見えるシュツェルツが暗殺の危険に曝されていたなんて、とても信じられない。
ロスヴィータは微妙な心の揺らぎを振り払い、シュツェルツに礼を言った。
「殿下のご配慮、ありがたき幸せに存じます」
「いいんだ。マレ王室とシーラム王室は縁続きだし、新郎新婦はわたしの友人だからね。きっと君たちにもいい部屋を用意してくれるよ。それに、結婚式は女性の憧れだろう? 彼女たちは絵に描いたような美男美女だから、見る価値はあると思うよ」
(羨ましいかどうかは、花婿にもよりますが)
心の中で突っ込みを入れながら、ロスヴィータは少し複雑な気分になった。真意のほどは分からないが、シュツェルツがこちらを気遣い、融通をきかせてくれたのは事実だ。
今は感謝をしておこうと思いつつ、ロスヴィータは無難に「はい、楽しみでございます」とだけ答えておいた。
*
その日の午後、面会に現れたツァハリーアスと応接室で対面した時、ロスヴィータは抑えていた喜びを爆発させた。
「ねえ、聞いて下さいな、お兄さま! シーラムで王女殿下のご結婚式が行われるのはご存知でしょう? わたくし、王太子殿下のお供として、シーラムへ行ってもよろしいのですって!」
だが、ツァハリーアスは片眉を跳ね上げた。
「ローズィがシーラムに……?」
兄がこういう反応をする時は、よくない傾向だ。ロスヴィータは注意深く尋ねる。
「……お兄さまはご反対ですの?」
「シーラムに行くには海路を使うだろう。船が沈んだらどうする」
「不吉なことをおっしゃらないで下さいませ!」
思わずロスヴィータが声を上げると、ツァハリーアスは気にせず言い募った
「それに、ローズィは可愛いからな。シーラムの貴族にでも見初められたらどうする。俺はお前が他国に嫁ぐなんて耐えられない」
「わたくし、まだ子どもでしてよ」
「変態の貴族だったらどうする」
「そんな殿方、こちらから願い下げです!」
そもそも、昔から娘を王太子妃にと望んでいる父が、ロスヴィータを他国の貴族に嫁がせるはずもないのだが。
昔から兄は、ロスヴィータのこととなると、とたんに心配性になる。方向性は違えど、シュツェルツが絡んだ時のアウリールに近いものがあるのかもしれない。
ツァハリーアスは、ふう、とため息をついた。嘆息したいのはこちらだ。
「第一、ローズィはまだお雇いだろう? 誰がそんな許可を出した?」
「どなたって……王太子殿下ご本人ですけれど」
「王太子が……?」
「『殿下』が抜けていらっしゃいます、お兄さま」
「そんなことはどうでもいい。あの王太子、昔から俺は好かん。笑顔の裏で何を考えているのか、まるで分からんからな。父上はなんだって、あんな男のことを買っているんだか……」
いつしか、ツァハリーアスは真顔になっていた。
「ローズィ、父上がなんとおっしゃろうと、あんな女好きと婚約することはないぞ」
「ご安心下さいませ。わたくしも、そのつもりでおります」
ツァハリーアスは安心したように表情を緩めた。
「そうか、それならいい」
「ですから、シーラム行きを認めて下さいませ」
兄の機嫌がよくなったのを見逃さず、ロスヴィータが食い下がると、ツァハリーアスは渋い顔になった。
「しかし、俺が同行するわけにもいかんからなあ……国王陛下の行幸なら、陛下は父上をご帯同くださるだろうから、なんとか俺がついていくこともできると思うんだが……」
「大丈夫ですよ。王太子殿下も、ご自分で連れていくとお決めになったベティカ公家の娘を、むざむざ危険な目にお遭わせにはならないでしょう」
ツァハリーアスはしばらくの間、納得がいきかねるように考え込んでいたが、結局は頷いてくれた。
兄の心配性には困ったものだが、自分が大切に想われていることが分かるので、ロスヴィータは心から嫌だと思ったことはない。
気になるのは、兄から報告を受ける時の父の反応だった。どうせ今回のシーラム行きを、「娘と殿下がお近づきになる好機だ」とでも考えるのだろう。
後日、予想通り、父からも許可が出たので、ロスヴィータは実家の力を借りつつ、心置きなくシーラム行きの準備を進め始めた。
準備するのは自分の身の回りのことだけではない。旅行中のシュツェルツの衣装や装身具、靴も用意しなければならないのだ。出立までの期限が迫っているので、目の回るような忙しさだった。
だが、そんな大変さを吹き飛ばすような出来事も起きた。
今回の結婚式のために仕立てられたというシュツェルツの礼服が、デザイナーから届けられたのだ。
シュツェルツは去年の立太子の儀の時に着た服を使いたがっていたのだが、背が伸びたために仕方なく新調したのだった。
仕立て直せばいい、とシュツェルツは最後まで反対したらしいが……。意外に倹約家である。
箱を開けたロスヴィータとティルデは揃って嘆声を上げた。銀糸によって縁取られた黒の上下で、装飾用の剣がよく似合いそうだ。シュツェルツが着たら、さぞ凛々しく見えるだろう。
礼服が届いた二日後、ロスヴィータはシュツェルツの供として王都ステラエの港から旅立った。帰年暦三六二一年、八月二十日のことである。