第六話 やり直しの機会
朝食の席でオスティア侯爵夫人の話を聞いてから、なんだか自分が、とてつもなく酷い人間になってしまったような気がする。
午前九時過ぎからは、北殿にある主拝殿で、君臣を集めた朝の礼拝が行われる。その直前、ロスヴィータは一人落ち込んでいた。周囲には国王一家を中心にして、礼拝に集まった廷臣たちが居並んでいる。
シュツェルツがにこやかに、マルガレーテと何か話しているのが見えた。この母子は、礼拝が始まる前に談笑していることが多い。あの話を聞いたあとでも、以前は二人の仲がよくなかったなどとは、とても信じられない。
だが、いくら幼少期に寂しい思いをした母親想いの王子だといっても、シュツェルツが二股をかけていたことは事実だ。
そう思い直しても、なかなか胸の中のもやもやは消えてくれなかった。
不意に、こちらに礼を述べてくれた時のシュツェルツの笑顔が思い浮かぶ。
ロスヴィータは我知らず、ぽつりと呟いていた。
「……わたくし、もっとちゃんとお仕事がしたい……」
せっかく念願の女官になれたのだ。いくらシュツェルツと結婚したくないからといって、一か月間頑張ったこの仕事をふいにすることもないだろう。
それでも、また一人で衣装を選ばなければならないのだろうか、と考えると、なぜだか足がすくんだ。
(早く、ティルデさまが出仕していらっしゃいますように……)
ロスヴィータは崇拝している月の女神ファルセーレにそっと祈った。
*
翌朝になっても、ようやく熱が下がったばかりだということで、ティルデの出仕はかなわなかった。
「今日も、あなたがご衣装を選びなさい」
昨日、ロスヴィータがわざと衣装を選び間違えたことを分かっている様子なのに、オスティア侯爵夫人は無慈悲にそう告げた。
ロスヴィータは覇気のない返事をすることしかできない。
「はい……」
でも、どうやって衣装を選べばいいのだろう。ティルデに教えられたひと月分の知識が全て流れ去ってしまうような錯覚に陥り、ロスヴィータはかすかに身震いした。
それでも、詰め所からシュツェルツの部屋へと向かう。
部屋の扉を開けると、この時間はまだ眠っているはずのシュツェルツの姿があった。白い寝間着のままで、両脇に二人の侍従を控えさせている。
シュツェルツが起きていたことにも驚いたが、家族以外の男性の寝間着姿を見るのなんて初めてだ。目のやり場に困ってしまう。
「何かございましたか」と問おうとする前に、シュツェルツがこちらに向けて歩いてきた。
「淑女の前だけど、寝間着姿のまま失礼するよ。実は、今日は君に、ある頼みがあってね、少しばかり早く起きさせてもらった」
「頼み……?」
「ああ。君が普段、自分の服を選ぶように、わたしの服を選んでくれないか。選び終えたら、ここに持ってきてくれ。靴はあとで取りにいかせる」
「自分の服を選ぶようにとおっしゃいましても……わたくしが着用しておりますのは、女官用の服ですし……」
「君は他の女官と同じ服を、見事に着こなしているじゃないか。ほら、襟元のリボンの結び方を少し変えたり、フードのかぶり方を工夫したり」
ロスヴィータは言葉を失った。
衣装係がシュツェルツと接するのは、一日のうち、ほんのわずかな時間だ。それなのに、そんなに細かいところまで見てくれていたとは。
シュツェルツは、こちらを安心させるようにほほえんだ。
「大丈夫、君ならできるよ」
夜の静寂を思わせる、乾いているようでしっとりとした声が耳を打った。
その瞬間、胸の奥が熱を帯びたように温かくなる。
本当に、できるかもしれない。
「かしこまりました」
ロスヴィータは頷くと、衣装部屋に入った。
(自分の服を選ぶように……)
シュツェルツに言われたことを頭の中で繰り返しながら、ロスヴィータは衣装をひとつひとつ丹念に見ていく。
まず上着を選ぶ。これは、すぐによさそうなものが見つかった。シュツェルツが普段から好みそうな深緑色の服だ。
彼が実際に着たら、どんな風になるかを思い描いてみると、しっくりきた。
次にズボンを探す。上着よりもさらに深い、よく見ないと黒と間違えてしまいそうな緑を選ぶ。
ベルトは差し色になるよう、太めの象牙色のものを。遊び心があって、シュツェルツなら喜びそうだ。靴は艶やかな黒。
これで、シュツェルツは満足してくれるだろうか。
けれど、これ以上の組み合わせは、今の自分には選べないだろう。
ロスヴィータは衣装を丁寧に畳み、ベルトを載せ、シュツェルツの元へ持ってゆく。
シュツェルツがこちらを見た。
「ずいぶん時間がかかったね」
もうそんなに時間がたっていたのだろうか。ロスヴィータは壁掛け時計を見やる。
本当だ。集中しすぎて、実際よりも時の流れが早く感じられていたらしい。
「申し訳ございません」
「いや、いいんだよ。それだけ真剣に選んでくれたということだしね。服を見せてくれないか」
シュツェルツに向けて、ロスヴィータは恭しく衣装を差し出した。シュツェルツはごく自然に受け取ると、じっと見つめる。
ロスヴィータの心臓が、トクントクンと音を立て始めた。
シュツェルツは破顔する。
「いい組み合わせだね。ありがとう」
ロスヴィータは両足の力が抜けてしまいそうなくらい、安堵した。
「……ありがたき幸せに存じます」
ようやく絞り出すように答えると、シュツェルツはおかしそうに笑ったあとで、侍従に声をかけた。
「せっかくロスヴィータが仕事を成功させたんだ。敬意を表して、今日は自分で着替える」
慌てたのは侍従たちだ。
「殿下、それではわたしたちの仕事がなくなってしまいます!」
「いいじゃないか、君たちは休んでいれば」
この王太子は型にはまらないところがある。ロスヴィータはなんだかおかしくなり、吹き出しそうになった。慎みに欠けることに気づき、慌てて口元を手で覆う。
それにしても、どうしてシュツェルツはあんな提案をしてきたのだろう。まるで、自分が自信をなくしていることを知っていたかのような……。
「あの、殿下」
「なんだい?」
「今日は、なにゆえ、わたくしにあのようなことを?」
シュツェルツはいたずらっぽく笑って、ウィンクした。
「秘密。ほら、着替えを始めるから、女性は出ていって」
結局、やんわりと追い出されてしまったので、ロスヴィータの疑問は解けないままだった。
少し引っかかりを感じたものの、この一件で、ロスヴィータが抱くシュツェルツへの不信感は、少し弱まった。
(……女好きだけれど、確かに優しいし、悪い人ではないみたいね)
だが、午後の職務である、洗濯やアイロンがけに出すための衣装の点検が終わったあとで、廊下を歩いていたロスヴィータは、またもや見てしまった。
主に二階を持ち場としているはずの王妃付きの女官が、なぜか一階にいて、傍らにいるシュツェルツに熱心に口説かれていたのだ。多分、彼が連れ込んだのだろう。
シュツェルツが母王妃を大切にするのは、もしや彼女の女官に手を出して叱られた時に、言い訳がしやすいからではないだろうか。
(やっぱり、殿下とは結婚できないわ!)
もう仕事に私情を挟むことはしないけれど。
そう思いながら、ロスヴィータは次の作戦を考え始めたのだった。
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