第四十四話 幼い日の記憶
「十一歳の時だった。ベアトリーセ・ヴェレという女官が、わたしの新しい衣装係として配属されたのは。ちょうど、エリファレットがわたし付きの近衛騎士になった直後だ」
ベアトリーセ。どこかで聞いた名前だと思い、ロスヴィータは小首を傾げながら、シュツェルツの話に耳を傾けた。
それに、彼女が自分と同じ衣装係だったというのも気にかかる。
「こんなことを君の前で話すのは、どうかと思うけど、わたしは彼女に憧れていた」
「構いません。今、あなたの傍にいるのは、わたくしでございますから。──どんな方でいらっしゃったのですか?」
シュツェルツは含み笑いをした。
「わたしより五歳年上で、可憐という言葉がぴったりの、可愛らしい人だった。髪は褐色だったけど、瞳は黒真珠のような色合いでね。とても、神秘的に見えた。それに、本当に優しい人でね。わたしがたまに風邪を引くと、アウリールと一緒に看病してくれた」
「それは、褒めすぎでございますね」
「ごめん。でも、彼女はアウリールのことが好きだった。だから、わたしは身を引くことにして、二人をなんとか恋仲にしようとしたんだ。今でもそうだけど、アウリールは色恋には鈍感だからね」
「……お二人を、お好きだったから?」
「そうだね。子ども心に、二人には幸せになって欲しかったんだと思う」
「それで、お二人は恋仲に?」
「ああ。アウリールも彼女に惹かれていたからね。六歳も歳が離れているから、と最初は尻込みしていたけど。……その気持ちは、今なら分かる気がするよ」
自分との交際に、二の足を踏んだことを思い出しているのだろうか。シュツェルツの声は、懐かしさとほろ苦さがないまぜになっているように聞こえた。
だが、妙だ。アウリールの性格からすれば、交際した女性とは結婚を考えそうなものなのに、彼は三十を過ぎた今でも独身なのだ。
アウリールのような人がなぜ、未だに恋人の一人すらいないのだろう、とロスヴィータはたびたび不思議に思ったものだ。
「二人はね、とても仲睦まじかった。アウリールは真面目だから、ベアトリーセとの結婚を真剣に考えていたよ。ベアトリーセの父親は盾持ちの家の出身で、宮廷の官吏をしていてね。その縁で、貴族ではなかったけど、彼女は女官になることができたんだ。わたしの侍医ならば申し分ない、とベアトリーセの両親も二人の結婚には賛成だったらしい」
シュツェルツはロスヴィータから視線を外した。
「だが、父がベアトリーセに目をつけたせいで、全てが変わった」
「え……」
「二人は引き裂かれ、ベアトリーセは父の側妾になることが決まった」
(あ……)
ロスヴィータはようやく気づいた。四年前に深夜の廊下で出会った幽霊。彼女もベアトリーセという名で、国王メルヒオーアの側妾ではなかったか。もし、同一人物なら、彼女は難産で……。
「そんな……」
「そういう惨いことを平気でする人なんだよ、父は。あの人は、自分自身の欲望を充足させることと、王朝の存続しか考えていない。──わたしは父に謁見を申し出た。ベアトリーセを側妾にしないで欲しい、と訴えるためにね」
悪い予感しかしなかったが、ロスヴィータは訊かずにはいられなかった。
「……どうなりましたか?」
「子どもは黙っていろ、と怒鳴られたよ。そればかりか、父はこう言った。『男のほうは、誰か適当な女と娶せればよい』と」
背けられたシュツェルツの瞳が、正視し難いほど凄絶な光を放っている。いつも自分に向けてくれる優しい目とはまるで違う、憎悪に染まった眼差しだった。
ロスヴィータは悟った。彼と父王の仲が悪い本当の理由を。アウリールを手酷く傷つけたメルヒオーアを、シュツェルツは決して赦さないだろう。
「わたしは必死だった。もう、なんと言って父を説得したのかは、覚えていない。でも、アウリールを守ることには、辛うじて成功した」
シュツェルツはうつむいた。
「わたしはアウリールを選び、ベアトリーセを見捨てたんだ……」
ずっと不思議に思っていた。シュツェルツが衣装係だけ、女官に任せている理由を。彼は、あえて衣装係女官を自分の傍に置くことで、ベアトリーセのことを忘れまいとしているのかもしれない。
だが、それは同時に、シュツェルツが自らを責め続けることに繋がっていたのだ。
「殿下……」
「わたしは、ありのままをアウリールに伝えることができなかった。ただ、アウリールはこれからも侍医でいられることになった、と言っただけだ。彼に嫌われると思っただけで、足がすくみそうになったから」
シュツェルツは自嘲の笑みを浮かべる。
「わたしは大馬鹿だよ。アウリールとベアトリーセの後押しをしなければ、少なくとも、あれほど二人は苦しまずにすんだだろうに。しかも、アウリールの前で自分を責めて、彼に慰められる始末だ──」
「殿下」
ロスヴィータはシュツェルツを抱き締めた。
「殿下は何も悪くございません」
顔を見ずとも、シュツェルツの驚きが伝わってくる。彼が泣き出しそうな顔でほほえんだことも。
「……アウリールにも、同じことを言われたよ」
「きっとロゼッテ博士は、先ほどの殿下のお話をお聴きになっても、同じことをおっしゃると存じます。ですから、もう、お苦しみにならないで下さい」
ロスヴィータの肩口に額を当てながら、シュツェルツが答えた。
「……そういうわけにはいかない。ベアトリーセは、亡くなってしまったんだから。もう、謝ることもできないんだ」
「やっぱり、東殿に出る幽霊が、ベアトリーセさまだったのですね」
シュツェルツがはっとして、顔を上げる。
「知っているのかい……?」
「わたくし、ベアトリーセさまの幽霊に、会ったことがございますの」
「……彼女は何か言っていたかい?」
ロスヴィータは長らく忘れていた──いや、恐ろしくて、あえて記憶の隅に追いやっていたベアトリーセの姿形や表情を、思い出そうと努める。
「何も。ただ、酷く悲しそうなお顔をしていらっしゃいました」
シュツェルツの声が影を帯びた。
「やっぱり、彼女はまだ、苦しんでいるのか……それとも恨んでいるのか……だから、晩年に住んでいた西殿ではなくて、東殿をさまよっているんだろうか……」
言われてみれば、彼女が命を落としたはずの、側妾やその子どもが暮らすことになっている西殿には現れずに、東殿を徘徊しているというのは、不思議な話だ。
未だに魂が神界に旅立っていないということは、何か心残りがあるからなのかもしれない。
それに、彼女はなぜ、自分の前に姿を現したのだろう。しかも、よりにもよってロスヴィータの誕生日の夜に。
あの頃の自分はシュツェルツと結婚したくなかったけれど、彼の恋人となり、非公式の婚約をした今となっては、何か意味があるのかもしれないと思えてくる。
「分かりませんけれど……何かお伝えになりたいことがあるのかもしれません」
シュツェルツは考え込んでしまった。
「伝えたいこと……」
「考えても、そうやすやすと分かることではございません。……あの、殿下」
「何?」
ロスヴィータは、頬を熱くさせながら、思い切って言った。
「殿下のことは、わたくしが必ず、お幸せに致しますから!」
シュツェルツが幼少期から寂しい思いをしてきたことは、以前から知っていたが、今日聞いた話はあんまりだと思う。彼をこれ以上、辛い目に遭わせたくない。彼を、幸せにしたい。
ならば、彼を幸せにできるのは、口約束とはいえ、結婚を誓った自分だけだ。
シュツェルツはきょとんとしていたが、やがて、笑い出した。
「……普通、逆だろう? わたしが君に言うのならともかく」
「さ、さようでございますか……?」
「でも、嬉しいよ。ありがとう」
シュツェルツは、ロスヴィータにもたれかかった。急な重みに、ロスヴィータの身体は傾ぎ、シュツェルツの背に手を回したまま、長椅子の肘掛けに倒れ込んだ。ねじった身体が、少し痛い。
気づくと、シュツェルツの顔が胸元にある。ロスヴィータは、思わず悲鳴を上げた。
「きゃっ……」
シュツェルツは声に反応するように顔を上げると、身を離して、ゆっくりとロスヴィータの頭のてっぺんから爪先までを眺めた。頬がほんのりと赤く染まっている。
そして、今度は顔を近づけ、至近距離からロスヴィータの面輪を覗き込んだ。その瞳が、切羽詰まったような光を発する。
「ロスヴィータ……」
呟くように呼びかけると、シュツェルツはロスヴィータの額に、頬に、唇に、次々と口づけを落とした。
今までとはどこか違うその様子を訝しみながら、ロスヴィータは息をついた。
と、シュツェルツがロスヴィータの髪を掻き分け、耳朶に口づけた。今まで味わったことのない刺激に、ロスヴィータが軽く身震いしていると、襟元のボタンが外される。
これは、もしかして、まずいことになりつつあるのではないか。
嫌ではない。嫌ではないけれど、最後までいってしまったらどうしよう。
まだ、結婚していないのに子どもができてしまったら。
シュツェルツの子どもは欲しいけれど、ちょっと早すぎるのではないか。
様々な考えが頭の中を突風のように駆け巡る。
さっきまでハイネックに隠れていた首筋を、シュツェルツに口づけられた瞬間、ロスヴィータは思わず叫んでいた。
「あの! ダメです、殿下! まだ、わたくしたちには早いです!」
シュツェルツは呆気に取られたように、しばらくロスヴィータを見つめていたが、吹き出すと盛大に笑った。
「──そうだね。君にはまだ早いか」
ロスヴィータの背に手を回し、抱き起こすと、シュツェルツは妖しく微笑した。
「でも、途中でやめるつもりだったんだよ。君の兄君と約束したからね。……アウリールからも、うるさく言われているし」
信じてもいいものだろうか、とロスヴィータが首を捻っていると、シュツェルツは先ほど自ら外したボタンを留め直してくれた。
そのあとで、ふと、何かを思い出したような顔をする。
「君の兄君といえば、ベティカ公に、ちゃんとわたしの意思を伝えてくれたんだろうか。もう、あれからひと月たつのに、一向に連絡がこないんだ。改めて、こちらから会いにいったほうがいいのかな」
「そういえば、不思議でございますね。ずっと、殿下とわたくしを結婚させたがっていた父なら、すぐさま拝謁を申し込んで参りそうなものですのに」
「明日まで待って、何も音沙汰がないようだったら、わたしから声をかけてみよう。わたしだって、早く君を妃に迎えたいんだからね。今日、君と過ごして、その思いがより強くなったよ」
シュツェルツがウィンクする。ロスヴィータは照れと先ほどの余韻から、顔を真っ赤にしてうつむいた。




