第四十三話 涙
シュツェルツと休日が重なったその日、ロスヴィータは彼の部屋で過ごしていた。
シュツェルツは長椅子の肘掛けと背にもたれかかり、本を読んでいる。対してロスヴィータは、その隣でそわそわと落ち着きなく室内を眺め回していた。
シュツェルツの部屋は自分にとっても親しみ深い空間だが、彼と二人きりで過ごすことには未だに慣れていない。
シュツェルツのページを繰る手に淀みがないことが、ロスヴィータは少し悔しい。彼はもう、自分といることに慣れきってしまったのだろうか。
「ロスヴィータ、部屋の中を探検してもいいよ。隣の書斎に入ってもいいから」
まるで、小さな子に対する台詞である。ロスヴィータとしてはもっと構って欲しいのだが、シュツェルツはいったん本を読み始めると、なかなか集中が切れないことは、この二か月間で学習ずみだ。
ロスヴィータは内心で不満を感じつつも、「はーい」といささかお行儀の悪い返事をした。シュツェルツの部屋自体には興味がある。特に足を踏み入れたことのない書斎には。
寝室を兼ねた広い部屋を歩き回ってしまうと、ロスヴィータは書斎へと続く扉に手をかけた。
扉を開くと、奥の大窓から入る午前の陽光に照らされた、壁際に書棚の並ぶ部屋が広がった。右側の書棚から少し離れたところに、机と椅子が置かれている。
(あ、これ、わたくしも読んだ本だわ)
書棚を一通り眺めたロスヴィータは、机に足を向けた。大きな机には、一通の手紙が置かれている。
誰からの手紙だろう。それとも、シュツェルツが書いたものだろうか。いけないと知りつつも、思わずロスヴィータはその手紙を手に取った。封蝋に押された印章は、シュツェルツのものではない。
表にひっくり返すと、そこには、達筆でこう書かれていた。
『愛するシュツェルツへ』
ロスヴィータは、思わず固まった。
女性からの手紙だろうか。
まさか、二股をかけられている……?
そんな。まだ、付き合い始めてから二か月しかたっていない。言い契っただけだが、婚約もしたし、シュツェルツは甘いくらいに優しいのに。
ロスヴィータは手紙を持って、書斎を出た。
相変わらず本を読んでいるシュツェルツの前に立つ。
「殿下! これは、一体、どなたからのお手紙ですの?」
シュツェルツは顔を上げ、訝しげに手紙を見やる。
痛いくらいに、心臓が脈打っていた。
手紙を受け取ったシュツェルツは、宛名を見ると吹き出した。
「ああ、この手紙? そういえば、机の上に置いたままだったね」
ロスヴィータが目をぱちくりさせると、シュツェルツはおかしそうに言った。
「これはね、イペルセの叔父からの手紙だよ。ほら、中身を読んでごらん」
(え……!?)
予想外のなりゆきに戸惑いつつ、ロスヴィータはシュツェルツから返された手紙を開けた。焦りのせいか、手元がおぼつかない。
折り目のついた文面を食い入るように見ると、確かにシュツェルツの叔父、ダヴィデ・チェーザレ王子の署名がされていた。
ロスヴィータは、へなへなとその場に座り込みそうになってしまった。よりにもよって、シュツェルツの叔父からの手紙を、女性からのものだと勘違いしてしまうなんて……。
シュツェルツは、ぱたんと本を閉じた。
「二十歳の甥の名の前に、『愛する』とつける叔父も、どうかと思うけどね。家族愛の強いイペルセ人らしいというか、茶目っ気があるというか……あの人は、そういう人だから」
ダヴィデ王子をそう評したシュツェルツは、ロスヴィータをいたずらっぽく見つめる。
「うーん、わたしがどれだけ君のことが好きか、まだロスヴィータには伝わりきっていないようだね。わたしのことを、信じてくれないなんて」
「そ、そんなことは……」
「おいで」
優しいが有無を言わさぬような声。ロスヴィータは引き寄せられるようにシュツェルツの隣に座った。シュツェルツが、わずかに眉を上げる。
「本当は、膝の上に座って欲しかったんだけど」
「む、無理でございます!」
ロスヴィータが即答すると、シュツェルツは残念そうな顔をして、ロスヴィータの腰を引き寄せた。空いたほうの手で顎を上向かされ、口づけされる。優しくなぞるような接吻は、いつの間にか、ついばむようなものへと変わっていた。
この二か月で、キスをしている時の呼吸がだいぶうまくなったような気がしていたけれど、シュツェルツは息継ぎする間すら与えてくれない。
「でん……か……」
ロスヴィータが吐息とともに喘ぐと、シュツェルツはようやく唇を離した。
「ごめん。ちょっと、味わいすぎたかな。どう? これで、わたしの気持ちを理解してくれた?」
ロスヴィータは何度もこくこくと頷いた。シュツェルツは満足そうに笑うと、ロスヴィータの耳元で囁く。
「ねえ、ロスヴィータ。膝枕をしてくれないかな?」
「ひ、膝枕!?」
膝枕とは、あの膝枕だろうか。人の膝を枕代わりにする、あの。母が妹のザビーネにしてあげているところなら見たことはある。だが、シュツルツが要求しているのは、そういったほほえましい愛情表現ではないだろう。
「嫌?」
蠱惑的な瞳で問われ、ロスヴィータは顔を真っ赤にした。もし、断ったら、もっと恥ずかしいことを要求されそうな気がする。
(膝に乗るよりは、恥ずかしさがマシ、なはず……)
ロスヴィータは、苦渋の決断をした。
「かしこまりました……」
シュツェルツはにっこり笑うと、長椅子の端をぽん、と叩いた。
「ありがとう。じゃあ、ロスヴィータはここに座って」
「……はい」
ロスヴィータとシュツェルツは、座っている位置を交換した。シュツェルツは長椅子に寝そべり、ロスヴィータの両膝に頭を預けた。
「あー、気持ちいい……」
膝の感触を楽しむように、シュツェルツは寝返りを打って頭を横向きにする。ロスヴィータは恥ずかしくてたまらない。シュツェルツがこちらを見上げる。
「ロスヴィータ、頭を撫でてよ」
これは無理な要求ではなかったので、ロスヴィータも素直に応えた。頭を撫でて、シュツェルツの艶やかな黒髪を指で梳くと、彼は頭や身体を愛撫された猫のように、心地よさそうな顔をしている。
そんな彼を愛おしく感じてしまい、ロスヴィータは相好を崩した。
疲れていたのだろうか。目を閉じてロスヴィータの手に身を委ねていたシュツェルツが、やがて規則正しい寝息を立て始めた。完全に寝込んでしまったようで、仰向けに寝返る。
シュツェルツの寝顔は、少年のようで可愛らしい。ロスヴィータは彼と再会したばかりの頃を思い出し、ほほえんだ。中には、思い返したくもない記憶もあったけれど。
名工が彫り上げたような端正な顔を、飽きずに見つめていると、不意にその頬を、つうっと涙が伝った。
ロスヴィータは驚いて、「殿下」と呼びかけた。シュツェルツは苦しそうな表情を浮かべていたが、しばらくすると目を開けた。
「──ロスヴィータ?」
「はい、ロスヴィータはここにおります」
ロスヴィータがはっきりと答えると、シュツェルツはようやく安堵したように息をつき、身を起こした。彼の頬に残った涙を指で拭いながら、ロスヴィータは問いかける。
「悪い夢でも、見ておいででしたか?」
「……ああ」
シュツェルツは頷いた。
「また、あの時の夢だ」
「あの時……?」
ロスヴィータの問いかけに、シュツェルツは何も答えず、ただ、抱き締めてくる。まるで、母親にすがりつく、幼い少年のように。
ロスヴィータはシュツェルツの背をさすり、幼子に語りかけるように優しい声を出す。
「わたくしで、何かお役に立てることはございますか?」
シュツェルツが、ためらいがちに、ようやく答えた。
「懺悔を……聞いてくれないかな」
「懺悔……?」
「ああ、そうだ」
シュツェルツは話し始めた。




