第四十二話 敗北宣言
ロスヴィータが生まれたのは、ツァハリーアスが四歳の時だ。
「ツァハ、この子はお前の妹なのだから、ちゃんと守ってやるんだぞ。それが、兄になるということだ」
「ツァハ、お父さまの言う通りよ。イザベレがあなたにしてくれたように、この子を可愛がってあげてね」
両親にそう言われて、生まれて初めて兄となった誇りに胸を熱くしながら、ツァハリーアスは頷いた。今まで母のお腹の中にいた小さな妹は可愛く思えたし、ミニチュアのような手で自分の指を握り返してくれたのが素直に嬉しかった。
両親の関心が、しばらく妹に向いてしまったのは、寂しかった。けれど、嫡男の自分には変わらず屋敷中の愛情が注がれていたので、ツァハリーアスは妹に嫉妬せずにすんだ。
だが、ロスヴィータ・イーリスと名づけられた妹は、何かあるとすぐ泣き出すし、世話を焼くのは結構面倒くさかった。
それでも、日を追うごとに成長していき、言葉もしゃべれるようになった妹に、初めて「お兄ちゃま」と呼ばれた時は、今まで味わったことのない感動に心が震えた。
ロスヴィータは五つの時、幾日にも渡る高熱を出し、生死の境をさまよった。ツァハリーアスは、妹を連れていかないで下さい、と神々に必死に祈りを捧げた。
祈りが届いたのか、それとも医師のおかげか、助かったロスヴィータを前にツァハリーアスは誓う。これからは決して、妹をこんな苦しい目には遭わせない、と。
それからしばらくは、ロスヴィータは体力を回復することに専念するため、屋敷の外に出られなくなり、友達を作る機会も失われた。もちろん、ツァハリーアスは姉とともに、何くれとなく妹の世話を焼いた。
屋敷の者以外とは接することのない、閉じた生活。今から思えば、ロスヴィータの外の世界に対する好奇心や、どこか他人に対して用心深い性格は、その頃に形作られたのかもしれない。
赤ん坊の時から愛くるしかったロスヴィータだが、すっかり快復し、成長するにつれて、周囲から「小さな女神」と呼ばれるようになった。
姉を王妃に売り込むことに失敗した父が、ロスヴィータと王太子を婚約させようと考えるようになったのは、おそらく、その頃からだ。
厳しいお妃教育を受けるようになったロスヴィータは、よく自分や姉に泣きついてきた。
公爵家の娘といえど、同じ貴族に嫁ぐのなら、これほど厳格な教育は受けずにすんだろうに。
そう思ったツァハリーアスは、ロスヴィータを王室に嫁がせることを考え直して欲しい、と父に再三かけ合った。
しかし、父は頑固だった。王妃のお眼鏡にかなわなかったイザベレには無理だったが、ロスヴィータには最高の縁談を用意するのだと言って聞かない。
そして、二人の王子のうち、どちらをロスヴィータの結婚相手に選ぶべきか悩んでいた父は、ついに六年前、答えを出した。
「シュツェルツ殿下こそ、ローズィにふさわしい」
父がそう言い出した時、ツァハリーアスは複雑な気分になった。
当時のシュツェルツは、留学先のシーラムから帰国したばかりで、どちらかというと小柄で中性的な容姿だった。自分と同い年の軟弱そうな少年に、可愛い妹の結婚相手が務まるのか、とツァハリーアスは本気で思ったものだ。
しかも、兄王子が亡くなり、立太子されたシュツェルツは、ほどなく浮名を流すようになった。
こんな男と結婚したら、妹が不幸になる。
そう思ったツァハリーアスは、ロスヴィータにシュツェルツの身持ちの悪さを伝え、あんな男と婚約することはない、と諭した。
元々、王太子との結婚に幻想を抱いていなかったらしいロスヴィータは、落胆した様子は見せなかったが、その代わり、「婚約する前に女官になります。もうお父さまとお母さまの許可はいただきました」と周囲に表明するようになった。
結婚する前に、仕事をして世の中を見たい、という動機自体は、自立心の強いローズィらしい、とツァハリーアスも賛同した。だが、少し不安も覚えた。もし、ロスヴィータがシュツェルツの目に留まったら、父の思う壺ではないか。
不安は的中し、父はよりにもよって、ロスヴィータをシュツェルツの衣装係女官に据えてしまった。
女官として出仕したロスヴィータは、女好きから端を発した、シュツェルツのいい加減さを目の当たりにして、彼を嫌いになったようだ。
よかった。これなら、ローズィの任期が明けるまでに、父を説得し、シュツェルツとの婚約を諦めさせるだけだ。
ツァハリーアスはそう思っていたのだが、傍目にも明らかなほど、次第にロスヴィータはシュツェルツに惹かれていった。当たり前というか、これでは父への説得などうまくいくはずがない。
そして、この前、「シュツェルツと何かあったらしい」ロスヴィータは、かわいそうなほどに落ち込み、任期が終わる前に退官したいと言い出した。
これは最後のチャンスだ、とツァハリーアスは思った。あの好色王太子からロスヴィータを遠ざける最後の。
しかし、それから数日後、宮廷に放っている間者がもたらした報告は無情なものだった。
ロスヴィータとシュツェルツが交際を始めたようだ──というのだ。
*
ツァハリーアスはシュツェルツと謁見するために、幻影宮の廊下を歩いていた。
ひと月前、ロスヴィータと結婚する意思がシュツェルツにあるかどうか、確認してこい、と父から命じられていたからだ。
だが、この一か月間、ツァハリーアスはシュツェルツに謁見するどころか、ロスヴィータにすら会いにいかなかった。
それには、理由がある。
事実を確認することが怖かったからだ。それに、腹も立った。
(なんで、俺の可愛いローズィが、あんなろくでなしと付き合わなければならんのだ!)
しかも、あの男はロスヴィータを散々もてあそんだ挙句、捨てかねない。それがツァハリーアスのシュツェルツに対する認識だ。
今日の謁見は、正殿にある王太子の謁見の間や執務室ではなく、東殿のシュツェルツの部屋で行われることになっていた。
なぜだろう、と首を傾げつつ、ツァハリーアスはシュツェルツの部屋の前に立った。ノックをして名乗ると、いけ好かない王太子の声が返ってきた。
(本当は、お前なんぞに許可なんて取りたくないんだよ)
心の中で憎まれ口を叩きながら入室したツァハリーアスは、思わず息を呑んだ。シュツェルツと並んで、ロスヴィータが長椅子に腰かけていたからだ。
「ゲヌア侯、座ってくれ」
動揺してしまったツァハリーアスは、素直にシュツェルツの言うことに従い、彼らの向かいに座った。
シュツェルツが、いけしゃあしゃあと言う。
「驚かせてしまったかな。だが、そなたが今回の謁見で、わたしに訊きたいであろうことは、大方予想がついていたゆえ、彼女に同席してもらった」
その言葉で、ツァハリーアスは臨戦態勢に入ることができた。
向こうがローズィを味方につけるつもりなら、こちらは取り戻すまでだ。
そうは思ったが、やはり事実を本人の口から確認するためには、今までよりもずっと勇気が必要だった。
「お噂は、わたしの耳にも入っております。もちろん、父の耳にも」
「そうであろうな。ベティカ公の間者は優秀だそうだから」
さらりとそう言ったあとで、シュツェルツはこちらの目を見据える。
「わたしが妹君と交際しているという話は、事実だ」
不意打ちを食らい、ツァハリーアスは瞠目した。
これではいけない、と己を叱咤し、内心の動揺を隠すべく、皮肉を口元に浮かべる。
「さすが殿下、話がお早い。……失礼ながら、わたしは殿下が信用できかねます。今まであなたさまがお付き合いされてきた女性たちのように、妹のことも、どうせお遊びで終わるのではございませんか?」
ロスヴィータが端麗な顔に悲しみの色を浮かべて、こちらを見つめる。ツァハリーアスは、一瞬、怯んだ。
シュツェルツが静かに答える。
「そのようなことはない。わたしは、妹君を愛している」
はっきりとした回答に、ツァハリーアスはとっさに返答することができなかった。
しかし、相手はあの、女好きで鳴らしたシュツェルツだと思い直す。
「一体、今まで何人の女性に同じお言葉をお囁きになってこられたのか……想像したくもございませんね」
シュツェルツは臆さなかった。
「わたしは妹君との結婚も視野に入れている。元より、その覚悟で彼女に交際を申し込んだ」
ツァハリーアスは驚愕した。
あの、ふしだらな王太子が「結婚」という言葉を使ったというだけでも驚きだが、元々そのつもりで妹と付き合い始めた?
ロスヴィータも初耳だったらしく、瑠璃色の瞳を大きく見開いている。
シュツェルツが真摯な眼差しをこちらに向ける。
「頼む。わたしたちの仲を、認めてはもらえぬだろうか」
膝の上で組まれたシュツェルツの手に、ロスヴィータがその白い繊手を重ねた。まるで、難題に挑む恋人を励ますように。
いつの間にか、妹は一人の女性として成長していたらしい。頻繁に会っていたというのに、まるで気づかなかった。
シュツェルツが、優しくロスヴィータを見つめる。
ツァハリーアスは束の間、両目を閉じた。
(負けたな……)
そもそも、シュツェルツは王太子という地位にある以上、父に命じて、無理やりにでもロスヴィータを妃にすることもできるのだ。だが、彼はそうしなかった。
妹のことを大切に思い、その生家であるベティカ公家を尊重している証拠だ。
ツァハリーアスは立ち上がった。
「……殿下のご意思は、父に報告させていただきます。結婚までは、くれぐれも行き過ぎた真似はなさいませぬように。……失礼致します」
二人の表情を確認せずに扉へ向かって歩き出したツァハリーアスは、意を決して振り返る。
「妹を……どうか、よろしくお願い致します」
シュツェルツは真顔で応えた。
「もちろんだ」
再び前を向き、廊下へと出たツァハリーアスは、不意に、北風が吹き抜けるような寂しさを感じた。
あの小さかったローズィが、ついに嫁いでしまう。
報告すれば、父はすぐにでもロスヴィータとシュツェルツの婚約を推し進めようとするだろう。そうなれば、妹はますます自分の手を離れていく。
ロスヴィータが結婚したところで、自分が兄だということに変わりはないが、それでも切ないものだ。
父にシュツェルツの言葉を伝えるのは、もう少し先にしよう。ツァハリーアスは、ほろ苦い気持ちでそう決意した。
のちに、ツァハリーアスはその選択をした己を、死ぬほど責めることになる。
*
兄が去ったあと、ロスヴィータは、ふわふわと落ち着かない気持ちで、隣に座るシュツェルツの顔を見上げた。
「……先ほど、兄におっしゃったことは、ご本心でございますの?」
不安が顔に出ていたのだろうか。シュツェルツはロスヴィータの頬を撫でた。
「あんなこと、本心でなければ言わないよ。まして、君と義理の兄になる人の前ではね」
今度は、笑みを含んでシュツェルツが問う。
「ロスヴィータは、わたしと結婚するのは嫌かい?」
「そ、そんなことはございません!」
慌てて答えると、シュツェルツに抱き寄せられた。至近距離で、顔を覗き込まれる。
「わたしと、結婚してくれないか?」
これは夢ではないだろうか。だが、背に回されたシュツェルツの手は温かく、どこまでも優しい。
このひと月、何度もシュツェルツに抱き寄せられたけれど、彼はいつも、壊れ物でも扱うかのように優しく触れてくれる。
ロスヴィータは頬を染めて頷いた。
「はい……わたくしでよろしければ」
「ありがとう」
シュツェルツが初めて抱き締めてきた。おずおずと抱き返し、彼の体温を衣越しに感じながら、ロスヴィータは幸福に酔いしれた。