第三十九話 エリファレットの助言
もしかしたら、ロスヴィータは、いつの間にか自分に好意を寄せてくれていたのかもしれない。
思い当たる節は色々あった。いくら主君とはいえ、嫌いな男から頭を撫でられたり、抱きつかれたりしたら、普通、女性はより嫌悪を深めるものだし、視察にだってついてこなかっただろう。
女官になったばかりの頃は、シュツェルツに嫌われようと奮闘していた彼女が、ぱたりとそれをやめた時点で気づくべきだった。
何より、好きでもない男と、続けて三回も踊るはずがない。
彼女は少し抜けているところもあるが(そこがまた可愛いのだ)、賢いし、言いたいことははっきり言うタイプだ。もし、シュツェルツのことを嫌っていれば、少し体調が優れないとでも言って、踊るのをやめていただろう。
アウリールとの会話がきっかけで、その可能性に思い至ったシュツェルツは、激しい後悔に襲われた。
そして、後悔するということは、やはり自分は彼女のことが本気で好きなのだろうか。
相思相愛かもしれない相手に、修復不可能なくらいの仕打ちをしてしまった己の愚かさをシュツェルツは呪ったが、かといって、すぐにロスヴィータに謝りにいく勇気など、持てるはずもない。
アウリールに叱られた翌朝まで、らしくもなく、ぐじぐじと悩んでいたが、行動を早めに起こさないと今度こそ取り返しのつかないことになってしまう、と、ようやく悟った。
しかし、ひとつ問題がある。ロスヴィータに交際を申し込んで、よい返事をもらった場合、絶対に彼女と結婚しなければならない、ということだ。
彼女の父親、ベティカ公は、以前からシュツェルツとロスヴィータを近づけたがっていた。それに、彼は、いったんこうと決めたことは必ず達成する人物だ。
おそらくロスヴィータは、宮廷に送り込まれるに当たり、父親によって厳格なお妃教育を受けさせられたに違いない。
その証拠に、出仕し始めた頃から、ロスヴィータは非の打ち所がない淑女だった。そんな彼女が時折見せる素の一面が、とてつもなく可愛らしく、自分を悩ませる。
少々、話がそれた。とにかく、シュツェルツとロスヴィータを結婚させるために、ベティカ公は何年もかけてお膳立てをしてきたのだ。
おそらく、野心から出た行動というよりは、我が子の結婚相手には最上の者を、と決めているからだろう。息子の結婚には無関心な父を持つ身からすれば、ほんの少しではあるが、羨ましいくらいだ。
ロスヴィータのような類稀な令嬢に相応しい男が自分なのかどうかは、甚だ疑問だが。
(前から、わたしはあの人に気に入られていたからなあ……)
部屋をぐるぐると歩き回ったあとで、シュツェルツは経験者に話を聴いてみることにした。
……三十分後、シュツェルツの呼び出しに応じて、エリファレットが現れた。
昨年から、今までの功績が認められ、近衛騎士団副団長に出世した彼とは接する機会が減ってしまったものの、何かあればこうして駆けつけてくれる。
エリファレットの顔を見て、シュツェルツは、ようやく笑みを浮かべることができた。
「よく来てくれたね。ありがとう、エリファレット。座ってくれ」
「とんでもないことでございます、殿下。……失礼致します」
エリファレットが長椅子に腰かけるのを待ってから、シュツェルツは口を開いた。
「実は、ちょっと訊きたいことがあってね。……エリファレットと奥方の馴れ初めを知りたいんだ」
エリファレットは明らかに怪訝そうな顔をした。
「……馴れ初め、とおっしゃいましても、わたしと妻は親同士が決めた許嫁同士でございましたし……」
「いや、何かあるだろう。君と奥方の夫婦仲は良好だって、アウリールから聞いているよ。去年に子どもだって生まれたじゃないか」
シュツェルツが畳みかけると、エリファレットは照れたように、ホワイトブロンドの髪が輝く頭を掻いた。
「……そうですね。やはり、妻がわたしを気に入ってくれたことが、始まりといえるかもしれませぬ。どこがよいと思ったのかは、分かりかねますが」
「じゃあ、エリファレットの結婚の決め手は?」
「……あえて申し上げるとすれば、一緒にいると落ち着くから、でしょうか」
「落ち着く……」
ロスヴィータが幼い頃は、シュツェルツも彼女といると安らぎを感じたものだった。だが、むしろ今は、こうして離れている時でさえ、心を乱されてばかりのような気がする。
シュツェルツが黙り込んでしまうと、エリファレットは慌てたように、もうひとつ付け加えた。
「ああ、それとですね、わたしと妻はかなり歳が離れているのですが、久し振りに会ったある日、妻が今までとは全く違って見えたのです。その時、自分はこの娘と結婚するのだな──と、初めて自覚を持つことができました」
シュツェルツははっとした。同じような瞬間は、自分にもあった。やはり、結婚を覚悟の上で、ロスヴィータに交際を申し込むべきなのだろうか。
一人思い悩むシュツェルツを前に、エリファレットは首を傾げていたが、「もしかして」と沈黙を破った。
「殿下にも、ついにご結婚なさりたいお相手がおできになったのですか?」
「いや、というか、付き合ったら、即座に周りから結婚させられそうな相手を、好きになってしまったというか……」
エリファレットは微笑した。
「そのお相手とは、ひょっとして、ロスヴィータ嬢でございますか?」
シュツェルツは目を見張る。
「え、どうして分かったんだい?」
「伊達に、長年殿下にお仕えしているわけではございませぬ。それに、殿下は何年も前から、ロスヴィータ嬢を好いておいででしょう?」
まさか、そんなはずがない。自分がロスヴィータを気になり始めたのは、一年ほど前からだ。シュツェルツが目をしばたたいていると、エリファレットがくすりと笑う。
「やはり、気づいておいでではなかったのですね」
ロスヴィータが子どもの頃から、彼女のことを好きだった? このわたしが?
聞き捨てならないものを感じ、シュツェルツは反論した。
「それはないよ。わたしに美少女好みの気はない」
父上じゃあるまいし、という言葉を、シュツェルツは辛うじて呑み込んだ。父が若い娘を好むあまりに起こった悲劇が、未だに自分のみならず、アウリールやエリファレットにも暗い影を落としているからだ。
だが、父のようにはなるまい、と思い続けた結果、自分は年下の女性に目を向けなくなってしまったような気がする。ロスヴィータが美しく成長するまでは。
言い切ってしまったあとで、シュツェルツが戸惑っていると、エリファレットが苦笑した。
「では、殿下はお好きでもなければ、性愛の対象にもならないお相手に、むやみやたらに抱きついておいでだったのですか? わたしには、そうは思えなかったのですが」
「そんなわけない。誰にでも抱きついていたら、変質者じゃないか」
ロスヴィータ以外の年下の少女には、抱きついたことはない。ついでに言うなら、彼女以外の頭を撫でたこともない。
「あ」と思わずシュツェルツは声に出していた。
初めは、ただの興味だった。以前に会ったこともある、自分に嫌われようとしていた少女が目に留まっただけだった。
それが、明確な好意へと変わったのは、いつからだろうか。
シーラムへの随行を持ちかけた頃からか。泣いていた彼女を、思わず抱き寄せてしまった頃からか。
ただひとつ、はっきりしていることがある。つまるところ、シュツェルツはロスヴィータが可愛くてならなかったのだ。ただ、まだロスヴィータが幼かったゆえに、それは「恋」とは認識されなかった。だから、「妹」だと思ってしまった。
多分、そういうことなのだろう。
明らかになった新事実に、シュツェルツは呆然とした。
せめて同い年だったなら、これほど気づくのが遅れはしなかったろうに。自分たちは、なんと遠回りしたことだろう。
まだショックから抜け出せないでいるシュツェルツを眺めていたエリファレットが、ふと、優しくほほえんだ。
「わたしもアウリールも、殿下のお幸せを心から願っております。どうか、悔いなきご決断をなさいますよう」
生真面目でお堅い印象のあるエリファレットだが、シュツェルツが困っている時は、いつもそっと手を差し伸べ、背中を押してくれた。
単なる忠誠以上のものを、彼は与えてくれるのだ。エリファレットとアウリールには、今までどれほど助けられたことか。
シュツェルツは胸の奥が温かくなる感覚とともに、答えを返した。
「ありがとう、エリファレット。何を伝えるべきかよく考えて、ロスヴィータと会ってみるよ」




