第三十六話 焦りの代償
翌朝、いつものように衣装を侍従に手渡したロスヴィータは、シュツェルツの着替えが終わったという合図のあとに、衣装部屋を出た。
シュツェルツは侍従たちをうしろに控えさせ、濃紺と黒の上下を優美に身に纏い、たたずんでいた。
緊張で尻込みしそうになる自分を励ましつつ、ロスヴィータは無礼を承知で、自らシュツェルツに声をかける。
「殿下、お話ししたいことがございます」
シュツェルツは、これまで見たことがないような冷めた目でこちらを見下ろした。
「それは、人払いをする必要がある話かい?」
「はい」
怯まずにロスヴィータが頷くと、シュツェルツは二人の侍従に下がるよう命じた。
侍従たちが退出し、扉が完全に閉められると、ロスヴィータは意を決して尋ねる。
「殿下は、わたくしに何かご不満があられるのでしょうか?」
「別にないよ」
嘘だ。それなら、なぜ、急に態度を変える必要があったというのだ。
シュツェルツのすげない態度にもめげず、ロスヴィータは食い下がる。
「ずっと考えておりました。昨年の誕生日パーティーで、わたくしが何か殿下のお気に障るようなことをしてしまったのではないかと」
シュツェルツは煩わしそうに答えた。
「だから、君は何もしていないと言っている」
「わたくしと三度踊られたのは、お気の迷いでございますの?」
シュツェルツは沈黙した。ロスヴィータは己を励まして、潤みそうになる目で彼を見上げる。
「どうして、以前のように接して下さらないのです」
シュツェルツは、少し考える目をした。
「今まで、君に目をかけすぎていたからね。他の女官と同じように扱うことにした。食事やお茶に呼ばなくなったのは、それが理由だよ」
思わず、ロスヴィータは叫ぶように言い放っていた。
「他の女官以下ではございませんか!」
これでは、シュツェルツに特別扱いしてもらいたい、と言っているようなものだ。口にしたあとで気づいたが、前言撤回する気はない。
自分はシュツェルツのことが好きなのだ。その人に大切に想われたいと願うのは、悪いことだろうか。
もちろん、その立場を利用して、シュツェルツに無理を言うようになっては言語道断だし、そんな女に妃になる資格はないと思う。
今まで通りとは言わない。ただ、少しでいい。シュツェルツに笑いかけて欲しいだけなのだ。
シュツェルツは仕方なさそうに、ため息をついた。大股で近づいてくると、冷え渡るような目で、こちらを見つめる。
「他の女性たちと同じように扱って欲しいのかい?」
シュツェルツは、長い指でロスヴィータの顎を持ち上げた。その一瞬だけ、彼の灰色がかった青い瞳が、熱を孕んで揺れた。とっさのことに反応できないでいるロスヴィータの耳元で囁く。
「君も大人になったことだし、わたしと火遊びをしたいのなら、拒否しないけど」
侮辱されているということが分かり、顔と身体が、カッと熱くなった。反射的にシュツェルツの手を振り払うと、逃げ出すように走って部屋を出ていく。
とんでもない非礼を働いたということは、頭では分かっていたが、そんなことはどうでもよかった。
シュツェルツは、まるで、金銭で売り買いされる女性を扱うように、自分に触れてきた。
大好きな──あの、優しいシュツェルツはもういないのだろうか。
そのことが無性に悲しく、涙が頬を伝った。
こんな姿を人に見られるわけにはいかない。ロスヴィータは回廊へ出ると、中庭まで歩いていき、柱の陰にしゃがみ込んだ。
(わたくしは、殿下にとってなんなの……?)
そう思っただけで、あとからあとから涙が溢れ出てきた。
嗚咽を押し殺しながら、うずくまって泣いていると、頭上に影が差した。
「ロスヴィータ嬢、大丈夫ですか?」
アウリールの声だ。ロスヴィータが涙を拭いながら顔を上げると、果たしてアウリールがそこにいた。
「殿下のお部屋から、あなたが走り出してこられたのが見えたので」
アウリールは芝生に片膝を突き、白いハンカチを差し出す。
「あなたにこんなお顔をさせたのが誰か、想像に難くないのが残念です」
アウリールには全てお見通しのようだ。しかし、さすがに先ほどの出来事をつまびらかに話すわけにもいかず、ハンカチを受け取りながら、ロスヴィータは返答に困った。
アウリールは、こちらを安心させるように笑う。
「まず、勘違いなさらないでいただきたいのですが、殿下は決して、あなたのことがお嫌いなわけではありませんよ。ただ、きっと、戸惑っておいでなのだと思います」
では、どうして、シュツェルツはあんなことを言ったのだろう。戸惑っているとは、どういうことなのだろう。
訊きたいことは色々あるが、アウリールは全てを答えてはくれないような気がした。
「ロスヴィータ嬢、あなたはどうなさりたいですか? 酷い目に遭わされても、まだ殿下を好きでいて下さいますか?」
ロスヴィータがシュツェルツを想っているということは、アウリールには、とっくにばれていたらしい。
「わ、わたくしは……」
ロスヴィータは、それ以上、言葉を続けられなかった。代わりに、ハンカチで涙の跡を拭き取る。
シュツェルツのことを好きでい続けることができるのか、それとも、あんな男はもう願い下げだと、昔のように断じてしまうのか──自分でも判断がつかなかったからだ。
アウリールはそんなロスヴィータの態度にもいらいらした様子を見せず、優しくほほえんだ。
「では、気持ちを切り替えることがおできになるまで、しばらくお仕事をお休みなさい。オスティア侯爵夫人には、わたしからもお話し致しますから。もちろん、殿下にもお伝えしておきます」
アウリールのような、大人で優しい男性を好きになることができたら、どんなによかっただろう。そう思ったが、自分が好きになったのはシュツェルツである以上、どうしようもなかった。
ロスヴィータは、こくんと小さく頷く。
「……はい。お手数をおかけ致しますが、よろしくお願い致します」
「かしこまりました」
アウリールはすっと立つと、手を貸してくれた。ロスヴィータは彼の手を取って立ち上がり、中庭を見渡した。
ここは、シュツェルツと最初に出会った場所だ。あの時から、もう六年がたとうとしているけれど、時ばかりが過ぎて、自分は幼いままだった。だから、シュツェルツとの関係を、主君と臣下から発展させることができなかったのだ。
でも、もう、それも終わりにしなければならないのだろう。
(殿下を諦めるためには、女官を辞めたほうがいいのだろうけれど……)
だが、何らかの行動を起こすためには、まだ時間が必要だ。
ロスヴィータはアウリールとともに、廊下まで戻ってきた。オスティア侯爵夫人とティルデに事情を説明する必要があったので、二人で女官の詰め所に向かう。
オスティア侯爵夫人もティルデも、真っ赤に泣き腫らしたロスヴィータの目を見て驚いたようだったが、何も訊いてはこなかった。
アウリールと二人で交互に、しばらく休ませて欲しいと伝えると、侯爵夫人は「どうしても、その必要があるのですね。ならば、仕方ありません」と欠勤を了承してくれた。
詰め所を出ると、ロスヴィータはアウリールにお辞儀した。
「ありがとうございました、ロゼッテ博士」
アウリールも胸に右手を当てて、軽く頭を下げる。
「いいえ、ごゆっくりお休み下さい」
あとでハンカチを綺麗にして返さなければ。去ってゆく姿勢のよいアウリールのうしろ姿を、ロスヴィータはしばらくの間、感謝を込めて眺めていた。
次回、シュツェルツはアウリールに怒られます。




