第三十三話 恋
翌日の正午、ロスヴィータは初めてメリタ村を訪れた時のように、シュツェルツ、アウリール、エリファレット、ルエン、五名の近衛騎士とともに、宴に招かれた。
村内は様々なガーランドで飾りつけをされ、屋外にテーブルが並べられている。料理の皿や木製の酒器で溢れ返ったテーブルを、ロスヴィータは驚きの目で見た。重税を搾り取られ、財政状況が逼迫しているというのに、村人たちは大切な食料をふんだんに使って、宴を催してくれたのだ。
感動していると、シュツェルツも同じことを思ったらしく、村長に「わたしたちのために、すまない」と声をかけている。村長は笑顔で応えた。
「いえいえ、宮廷の料理に比べれば、大したことはないでしょうが、これはわたしどもの、ささやかな気持ちです」
シュツェルツも笑顔で首を横に振った。
「そんなことはない。今日の料理は、宮廷で出されるどんなものにも勝る」
それからシュツェルツは、積極的に村人たちと語り合い、大いに飲み食いした。普段の彼は、どちらかといえば少食な印象があったので、ロスヴィータは少しびっくりした。フォークがないことに戸惑いながらも、恐る恐る、振る舞われた肉のパイ包みを手に取って食べる。
「……おいしい」
熱々で香ばしい料理を食べるうちに、気持ちもほぐれてきた。
それにしても、先ほどから村の少年たちがじーっと自分を見ているのはなんなのだろう。ルエンが友達連中からつつかれて、何かを訊かれているようだが。
ルエンの声が風に乗って届いた。
「……確かにすごい美人だけど、あの人は王太子殿下の恋人だよ? 俺なんかが気安く声をかけられないよ」
ルエンは大きな勘違いをしている。やっぱり、彼の目の前でシュツェルツが抱きついてきたのがいけなかったのだ。
顔を赤らめながら、ロスヴィータが間違いを訂正しにいこうと一歩踏み出した時、賑やかな音楽が奏でられ始めた。曲に合わせて、男女がペアを組んで踊り始める。ロスヴィータが習った踊りとは違い、ずいぶん躍動的だ。
「ロスヴィータ、わたしたちも踊らないかい?」
声のしたほうを見上げると、村人たちと話していたはずのシュツェルツが、すぐそこに立っていた。
人前でシュツェルツと踊れば、ルエンたちにますます誤解を与えてしまう。ロスヴィータは断ろうと試みた。
「ですが……わたくし、こういう曲では踊ったことが……」
「わたしだって、踊ったことはないさ。大丈夫、基礎ができていれば踊れるよ」
シュツェルツはロスヴィータの手を取り、踊っている人々の輪の中に入っていった。シュツェルツはだいぶ気分が高揚しているらしい。宮廷にいる時よりも、ずっと楽しそうだ。
シュツェルツが踊り始めたので、ロスヴィータも周囲の人たちの動きを真似しながら、呼吸を合わせた。音楽に乗って踊り続けるうちに、楽しくなってくる。
シュツェルツと何度目かに手を繋いだ時、ロスヴィータはティルデから勧められた恋愛小説で読んだ、ある場面を思い出した。
仮面舞踏会で、貴族令嬢が幼なじみの青年にダンスを申し込まれる。幼なじみは令嬢の正体に気づいた上で誘い、彼女もまた、青年の正体にすぐに気づいた。申し出を受けた令嬢は、踊っているうちに、初めて青年への恋心を自覚するが、彼女には既に婚約者がいて──という悲恋ものだ。
ハッピーエンドを好むロスヴィータは、その小説の終わり方があまり好きではないのだが、それでもそのダンスシーンの美しさは、強く心に残っている。
なぜ、そんなことを急に思い出したのだろうか。主人公たちが踊っていた状況と、今自分たちが踊っている状況は、全く違うはずなのに。
やがて、ロスヴィータの息が上がってきたことに気づいたのか、シュツェルツが踊るのをやめた。こちらの手を引き、人々の輪から離れる。
シュツェルツがロスヴィータを振り返り、優しくほほえんだ。
「君が大人になったら、また踊ろう」
その瞬間、ロスヴィータは思った。自分はまだ、シュツェルツと踊っていたい、と。
(……わたくし、もしかして、そうなの……?)
ロスヴィータはようやく腑に落ちた。シュツェルツと一緒にいると、なぜ、こんなにも身体が熱くなるのか。なぜ、心が温かくなるのか。
だが、シュツェルツは以前、言ったのだ。
──たとえベティカ公が君との縁談を持ちかけてきても、わたしは断るつもりだから。
ロスヴィータを気遣って紡がれたその言葉が、今はただ恨めしい。
好きな相手を見つけて、その人と結婚するように、とシュツェルツは言ったけれど、初めから勝ち目のない戦いに、どう挑めというのか。
ロスヴィータは泣き出したい衝動をこらえながら、シュツェルツに「──はい」とだけ答えた。
*
残りの日程を終えたシュツェルツは、ひと月に及ぶ長い視察から王都ステラエに戻った。
その日のうちに、玉座の置かれた幻影宮の「七柱神の間」で、シュツェルツは国王メルヒオーアに謁見した。アルレスの地方長官が起こした不祥事を報告し、罷免した彼に代わり、自分が王太子領を直接統治したいと願い出るために。
これが認められると、シュツェルツは、さらに申し出る。
「今回、元地方長官ブレッターがしでかした不正の証拠を掴めたのは、部下たち──とりわけ私設秘書、アウリール・ロゼッテのおかげでございます。是非とも、この功績を加味し、彼をわたし付きの秘書官に命じるお許しをいただけますよう」
これには、アウリールを嫌うメルヒオーアも首を縦に振らないわけにはいかなかったようだ。元々、ブレッターをアルレスの地方長官に任命したのは彼なのだから。
紆余曲折を経て、ようやく王太子付き秘書官アウリール・ロゼッテが誕生した。
*
アウリールが秘書官になったという知らせを聞いて、ロスヴィータは喜んだ。彼のように優秀で、シュツェルツへの忠誠心も強い人が、秘書官になるのは当然だと思う。
その喜びが消えぬ間に、久し振りにティルデと再会を果たす。
リーパで買ったお土産を渡しながら、ロスヴィータは女官用の食堂で、視察中に起こった出来事をティルデに話して聞かせた。
もちろん、シュツェルツを好きだと気づいてしまったことは伏せたままで。
(わたくし、これから、どうすればいいんだろう……)
シュツェルツはロスヴィータに甘いが、恋愛感情を抱いているわけではないし、婚約する気もないのだ。女官の任期が終わる三年後に、父がロスヴィータとの婚約を打診しても、受け入れてくれるとは思えなかった。
アウリールは、二、三年もたてば必ず状況は変わる、と言っていたけれど……。
「ロスヴィータさま、大丈夫ですか? 先ほどから、少しぼんやりしていらっしゃるように見えます」
心配げな表情でティルデに指摘され、ロスヴィータは我に返った。
「だ、大丈夫です。少し、旅の疲れが残っているのかもしれません」
「そうですか? では、お話はこのくらいにしましょうか」
部屋まで送る、とティルデが言ってくれたので、ロスヴィータはお言葉に甘えることにした。今は友人の存在が心強い。いつか、シュツェルツのことをティルデに相談できればいいのだが。
初めての恋に胸を締めつけられながら、ロスヴィータはティルデとともに廊下を歩き出した。
*
雨が降っていた。
エリファレット一人を護衛に連れたシュツェルツは、母の墓前に花を手向けたあとで、別の墓地を目指した。
そこは、歴代の国王の側妾たちが眠る墓地で、王妃の墓地とは離れた場所にある。まるで、両者が死後も相争う関係であるかのように。
王室墓地もそうだが、準王族である側妾の墓参りが許されているのは、彼女たちの親族と王室の一員だけだ。それ以外は、墓守や祈りを捧げる聖職者、王室の護衛の立ち入りが認められている。しかし、その事実はシュツェルツの心を安らげはしなかった。
傘を差しながら歩いていくと、シュツェルツはある墓の前で立ち止まる。
「第二十代マレ王国国王メルヒオーアの寵姫、第十一代ラヴェンナ女侯爵ベアトリーセ・ヴェレ、ここに眠る。帰年歴三五九九年八月二十五日──三六一八年十一月十八日」
女性は爵位を世襲できないマレだが、側妾には身を飾る宝飾品のように一代限りの爵位が与えられる。
墓碑銘を眺めながら、シュツェルツは怒りが沸き起こるのを抑えきれなかった。彼女の半生が無視され、父の寵姫としての名しか残されていないことが憤ろしかった。
ベアトリーセの幽霊は、今でも東殿に現れるという。その噂を耳にした時、シュツェルツの心は楔を打ち込まれたように痛んだ。
(彼女は、死後も父に縛りつけられている……)
跪くように、故人の好きだったラヴェンダーの花束を供えようとすると、うしろに控えていたエリファレットが傘を持ってくれた。花を捧げながら、シュツェルツは呟く。
「ベアトリーセ、ようやく、アウリールが秘書官になったよ。今度は、必ず、彼をここに連れてくるから……」
答えはなかった。自分の前に、ベアトリーセの幽霊が現れてくれれば、とシュツェルツは思わずにはいられない。彼女がどんな気持ちで亡くなっていったのかを訊くことができれば、どんなにいいか。
アウリールも、きっと同じ気持ちだろう。
墓碑に供えた早咲きのラヴェンダーに、雨粒が降りかかった。青紫色の花々から、一瞬だけ、爽やかな甘い香りが立ち上る。
エリファレットから傘を受け取ろうとすると、彼はいつも以上に真剣な面持ちで、一言だけ口にした。
「殿下なら、必ずおできになります」
「……ありがとう」
シュツェルツは涙をこらえて目を細めると、エリファレットを連れて墓地をあとにした。




