第三十二話 アルレスの夜明け
ドンドンドン、とエリファレットが音高く扉を叩く。しばらくして、部屋の中から、眠たげな、くぐもった声が返ってきた。
「……誰だ? こんな時間に何かあったのか?」
エリファレットが張りのある大声で呼びかける。
「王太子殿下のご来訪だ! すぐに扉を開けよ!」
「な、何……?」
ブレッターはびっくり仰天したのだろう。すぐに扉は内側から開かれた。寝間着姿のブレッターが顔を覗かせる。
おそらく、今、シュツェルツは皮肉気な微笑を浮かべているのだろう。ロスヴィータは彼のうしろにたたずみながら、目の前の光景を注視した。
「夜分にすまないな。元地方長官殿」
「も、元……?」
事態を呑み込めていないブレッターに、シュツェルツがアウリールから渡された二冊の帳簿を突きつける。
「右は今朝、そなたから借り受けた帳簿。そして、左は最上階の小部屋で見つけた裏帳簿だ。この二重帳簿の存在を、そなたはどう説明する?」
ブレッターは喘いだ。
「な、何かの間違いでございます。誰かが、わたくしめをはめようとしているに違いありません!」
「ほう? では、この書類については、どう説明する? ……アウリール、読み上げてくれ」
「御意。『アルレス地方長官バスティアーン・ブレッターの名において、リーパ市で商売をする場合は、一割の売上税を課す。なお、仕入れ等にかかった税額を売上税から控除することは認められない。この命に背くことは、偉大なる国王陛下に背くことと同義である』。……以上です」
シュツェルツが一喝した。
「これはどういうことか! 民への課税は、たとえ国王といえども、議会の同意を得なければ行ってよいものではない。国王陛下の御名を利用し、売上税などというものを課しただけでなく、リーパ以外の街や村でも、税を大幅に上げ、王都には今まで通りの税しか取っていないと報告をしたことは、既に分かっているのだぞ。着服した差額分の金で、私腹を肥やしていたのであろう」
シュツェルツの表情と声が、さらに厳しさを増した。
「その上、領民が反抗しようとすると、私兵に命じて彼らに暴力を振るったそうだな。どれも赦し難い罪だ。……エリファレット、ブレッターを捕縛しろ」
「はっ」
「お、お待ち下さい! 殿下、どうかお慈悲を……!」
見苦しく喚くブレッターに、シュツェルツはもはや何も答えなかった。
ブレッターはエリファレットによって、すぐに地下牢へと放り込まれた。後日、彼は裁判を受けるために、ステラエに護送されることになるはずだ。
ブレッターの手足のように働いていた執事は、尋問されると、知っていることを洗いざらい白状した。ブレッターに脅されて、仕方なく従っていただけなのだ、と言い訳をしていたそうだ。
既に元地方長官となったブレッターに代わり、シュツェルツは自らアルレスを治めることを宣言した。
ステラエに帰ったら、正式にアルレスを直接統治できるよう、改めて父王に上申するらしいが、今はこれが最適な判断だろう。
さらに、シュツェルツは兵士たちに、ブレッターの雇っていた私兵を探し出すよう命じた。
つい先刻までブレッターに従っていた兵士たちが、シュツェルツの命令を聞くのだろうか、とロスヴィータは心配したのだが、それは杞憂に終わった。
アルレス出身の者も多い兵士たちの中には、ブレッターの暴挙を見て見ぬふりをしなければならない事態に、憤っていた者たちが少なくなかったのだ。
彼らが奮闘してくれたおかげで、リーパから逃げ出そうとしていた私兵たちは、無事捕まえることができた。これからは、市民を脅し、村人を痛めつけた罪に問われることになるだろう。
不眠不休で指示を出し続けていたシュツェルツは、仮眠を取った翌朝、ブレッターを地方長官の任から退け逮捕したことと、税額を元に戻すことを、アルレス中に布告した。
忙しい中、ほほえましい出来事も起きた。
「お願いします! どうか、僕を弟子にして下さい!」
ルエンを前に、エリファレットが困り切った顔で、立ち往生している。報告のために執務室を訪れたところを、待ち構えていたルエンに捕まったのだ。
ルエンは畳みかけるように「お願いします!」と繰り返す。
「僕、あなたの剣技を見て、この人についていきたいと思ったんです! 雑用でもなんでもしますから、お願いします!」
「しかし、お前は殿下の近侍であるわけだし、俺の一存では……」
シュツェルツがルエンに助け舟を出した。
「いいじゃないか、弟子にしてあげればいい。わたしの近侍をしてもらいながら、空いた時間にエリファレットから武術を習えばいいんだから」
「いえ、しかし、殿下の護衛の任もございますし……」
「ルエンは、人の動きが遅く見えるんだろう? そんな逸材に武術を教えないなんて、将来、重大な損失になるかもしれない。それに、地方出身の兵士が戦で功を立てて騎士に叙任されることだってある。ルエン、目指すなら、エリファレットと同じ騎士だ」
ルエンは目を輝かせた。
「僕が騎士に……」
そんなルエンを見て、エリファレットも戦意を喪失したようだ。渋々といった様子で、ルエンに語りかける。
「殿下がそこまでおっしゃるのなら、仕方ない。……ただし、俺は厳しいぞ」
「はい! 望むところです!」
このようにして、ルエンはエリファレットの弟子となった。
*
「殿下、もう少しお休みになられませんと……」
様子を見に、執務室を訪れたロスヴィータが声をかけると、シュツェルツは疲労を滲ませた顔で笑った。
「今がアルレスにとって、大切な時だからね。ぐっすりと眠るわけにはいかないよ。それより、君もあまり眠っていないんだろう? 部屋で休んでくるといい」
逆に気遣われてしまい、ロスヴィータはどうしていいか分からなくなった。
主君と同じく働き詰めで、疲れているはずのアウリールが優しくほほえんだ。
「ロスヴィータ嬢、殿下のおっしゃる通りになさったほうがよろしいですよ。あなたがご体調を崩してしまわれたら、殿下がご心配なさいます」
「そうそう」
二人に休むように言われてしまったロスヴィータは、仕方なく部屋の寝台で横になることにした。
寝不足は相当なものだったらしく、眠りについたのは昼だったのに、起きると既に夕暮れ時だった。
慌てて身だしなみを整えたロスヴィータは、シュツェルツが詰めているはずの執務室に向かう。
入室したロスヴィータの顔を見たシュツェルツは、笑顔になった。
「これからアウリールと、ここで食事を摂るんだ。書類に埋もれながら食事をするなんて、初めてだよ」
自らの状況を笑い飛ばしたあとで、シュツェルツが嬉しそうに付け加える。
「実は、メリタ村から、さっき使者が訪ねてきてね。明日、わたしたちを招いてアルレス解放の祝宴を開いてくれるらしい。君も来るだろう?」
ロスヴィータは瞬きした。
「わたくしが、お招きにあずかってもよろしいのでしょうか。ほとんど、お役に立てなかったのに……」
「君は鍵束をすり替えてくれたじゃないか。それに、わたしの話も聴いてくれた」
シュツェルツにとって、あの夜の会話は、それだけ重要な意味を持っていたのだ。ロスヴィータは胸の奥が熱くなるのを感じ、はっきりと答えた。
「かしこまりました。わたくしも、宴に出席させていただきます」




