第三話 嫌味を言ってみる
シュツェルツの部屋は、東殿の端にあるロスヴィータの部屋から遠く離れていた。二人の部屋は、ちょうど東殿の両端にあるのだ。
許可を取って部屋に入ると、そこは寝室だった。青と銀の錦で飾られた天蓋付きの寝台が右奥にあり、手前には四角いテーブルを挟むように、二脚の長椅子が置かれている。
奥の長椅子に、黒髪を背にかかるくらいに伸ばした若者が座っていた。間違いない。先ほどの若者だ。
女官長がロスヴィータの背中を押す。
「さあ、ロスヴィータさま。王太子殿下にご挨拶なさって」
「……はい」
ロスヴィータは小さく頷くと、一歩前に進み出た。シュツェルツに向けて、女官長やオスティア侯爵夫人に挨拶した時より膝と腰を深く曲げ、頭を垂れる。
シュツェルツが立ち上がる気配がした。そのまま、ロスヴィータの前まで歩いてくる。
ロスヴィータは驚いた。身分の高い者が下位の者の前まで、自ら歩いてくるなんて。
シュツェルツは立ち止まった。
「楽にして。もう知っていると思うけど、わたしは王太子シュツェルツ・アルベルト・イグナーツ。君は?」
ロスヴィータはゆっくりとシュツェルツを見上げる。ツァハリーアスと同じくらいの背丈で、瞳の色は灰色がかった青。白皙の顔立ちは彫刻家が丹精込めて彫り上げたかのように繊細だ。今年で十七歳ということもあり、まだ強く少年の面影を残している。
どことなく中性的な美貌は、優れた容姿揃いの家族に囲まれて育ったロスヴィータでも、思わずため息が出るほどだった。
(でも、いくらお顔がいいからって、この方と結婚なんかするものですか)
大切なのは中身だ。
内心は押し隠して、ロスヴィータは今まで礼儀作法で習ったように、丁重に答えた。
「お初にお目にかかります、王太子殿下。わたくしは、ベティカ公爵家の次女、ロスヴィータ・イーリス・ハーフェンと申します。本日より、殿下の衣装係を拝命致しました」
「へえ、君がベティカ公の……」
シュツェルツは何かを考え込むように、ロスヴィータをじっと見つめる。
ロスヴィータは心ならずも、どきりとしてしまった。シュツェルツが無駄に美形なのがいけない。
ロスヴィータは無意識に、スカートを片手で握り締めていた。
「な、なんでございましょう?」
「いや、君、前に会ったことがないかな?」
「それでしたら、先ほど廊下で……」
ロスヴィータにとっては記憶から消去したいほど嫌な思い出だが、シュツェルツにとっても同じようなものらしい。神秘的な色合いの目が泳いでいる。
「……ああ、君、あれを見ていたんだ。まあ、そんなことはどうでもいい」
ちっとも、どうでもよくないと思うが。
「もっと前に、君に会ったことがあるような気がするんだ」
シュツェルツは、なおもロスヴィータを見つめている。ロスヴィータは全く思い出せなかった。
まだまだ子どものこちらを口説くはずもあるまいし、一体なんなのだろう。
ロスヴィータの不審が頂点に達しそうになった時、シュツェルツがぽん、と手を叩く。
「そうだそうだ! 前に幻影宮の中庭で君に会ったよ。……確か、二年くらい前かな。わたしが王太子になる前だ。この東殿の回廊を出たすぐそこだったと思うけど、覚えていない?」
確かに二年ほど前、ロスヴィータは父と兄に連れられて、幻影宮を訪れたことがある。一度、王宮を見てみたい、とツァハリーアスにねだって実現したことだった。
あの時、父と兄は先に用事があるとかで、東殿に入ったあと、ロスヴィータを残して行ってしまった。これ幸いとロスヴィータは、同行していた侍女の目を盗んで回廊への扉を発見し、花々が咲き誇る、すてきな眺めの中庭へと一人出た。
そこを歩き回って、ひとしきり堪能したところで──そうだ、見知らぬ少年が現れたのだ。
肩口で切り揃えられた髪は、ロスヴィータと同じ黒。貴族の子弟であることが一目で分かる、身なりのよい、高貴なたたずまいの十四、五歳の少年だった。
ただ、同年代のツァハリーアスと比べて、身長がさほど高くない。中性的な外見も手伝って、少女のような印象を受けた。
少年はこちらに気づくと、首を傾げていたが、すぐに声をかけてきた。なんと言われたのかまでは覚えていない。
「あ! あの時の!」
ロスヴィータは思わず声を上げたあとで、慌てて両の掌で口を抑える。
「も、申し訳ございません。失礼致しました……」
「いいんだよ。わたしも驚いたし」
シュツェルツは本当に気にした様子もなく、にこにこしている。
それにしても男性の成長とは著しいものだ。二年間で、こんなに身長が伸びて、凛々しくなるなんて。
いやいや、そんなことに感心している場合ではない。外見は美麗なこの王太子の中身は、ろくなものではないのだ。美形は兄で間に合っている。
それにしても、二年前にシュツェルツに声をかけられて、自分はなんと答えたのだろう。
(確か……)
──……あなたもお父君に連れられて、王宮にいらっしゃったの?
急にはっきりと思い出された記憶に、ロスヴィータは「ひっ」と変な声を出しそうになった。
相手の身分を知らなかったとはいえ、王宮で生まれ育った王子に、「いらっしゃったの?」はないだろう。顔から火が出るとはこのことだ。
あまりの恥ずかしさに、ひとしきり心の中で悶絶したロスヴィータはあることに思い至った。
そうだ。この過去を利用して、シュツェルツの心証を悪くすることはできないだろうか。
普段なら、「お顔を存じ上げなかったのでご無礼を申し上げました。申し訳ございません」と許しを請うところだが……。
うしろの女官長とオスティア侯爵夫人に表情を見られる心配がないことを確認したあとで、ロスヴィータはシュツェルツを見上げる。次に、挑発的かつ、ふてぶてしい笑みを浮かべた。
「あの時は申し訳ございませんでした。わたくし、失礼なことを申し上げたでしょう? 何せ、あなたさまが王子殿下ではなく、貴族のご令息だと拝察したものですから」
「あなたは威厳に欠けるから、王子には見えませんね」とも取れる、ぎりぎり無礼な言葉である。表情を見られていたら、間違いなくオスティア侯爵夫人に叱責されるだろう。
王子だと気づかれなかったことは、シュツェルツにとっておもしろくない記憶に違いない。少なくとも、自分が彼の立場だったら、失礼だと思う。
不敵な表情とさりげなく嫌味な台詞で、シュツェルツの過去の腹立ちを再燃させる作戦だ。
シュツェルツはきょとんしたが、それも一瞬のことで、再び笑顔になった。
「いやいや、普通、ひょっこり現れた相手が王子だなんて思わないよ。それにしても、わたしの記憶力はなかなかのものだろう? 一度会った女性は忘れないんだ。特に美人はね」
この王太子、どうやら根っからの女好きらしい。
彼に嫌われるのは難しいかもしれない。ロスヴィータは思わず天を仰ぎたくなった。