第二十九話 秘密の小部屋
思ってもみなかった告白にロスヴィータが目を見張ると、シュツェルツは悲しげにほほえんだ。
「物心ついた頃にはもう、亡くなった母は病弱な兄の看護に忙しくて、わたしのことなんか、振り向いてもくれなかったからね」
単なる恨み言ととも取れるその言葉以上に、シュツェルツは亡くしたばかりの母王妃のことを思い起こしているようだった。憂いを帯びた灰色がかった青い瞳を、そっと伏せる。
「兄が羨ましかった。だけど、兄は兄で、わたしを羨んでいたんだ。たまにしか出歩けない自分とは違い、どこにでも行けるわたしを」
それは、兄弟仲のよいロスヴィータには、全く思い当たらない感情だった。女よりもずっと自由に振る舞える兄を、少し羨ましいと思うことはあったけれど。
「でも、兄を恨んでいたわたしと違って、兄はわたしのことを憎んでいなかった。本当に思いやり深い人だったよ。歳はひとつしか違わなかったのにね」
シュツェルツは見るともなく、開いたままの本に視線を落とした。
「わたしがそのことにようやく気づいたのは、兄が亡くなる直前だった。後悔したよ。どうして、今までこの人と、心を開いて話をしてこなかったのか……とね」
シュツェルツがデキャンタを手に取り、自ら酒を注ごうとしたので、ロスヴィータは慌てた。シュツェルツはロスヴィータを手で制し、慣れた手つきで白ワインをグラスに注いだ。そのあとで、ふっと笑みをこぼす。
「わたしはね、お茶も自分で淹れられるんだよ。アウリールに教えてもらったんだ。シーラムに留学している時にね。兄の余命が幾ばくもないことを悟って、代わりに王太子になろうと決意したのは、マレに帰る直前だよ」
シュツェルツはグラスを回した。
「兄が亡くなったおかげで、わたしは王太子になることができた」
「それは──」
仕方のないことではございませんか、と言おうとして、ロスヴィータはやめた。シュツェルツが、悲しみではなく、とても強い光を瞳に宿していたからだ。
「兄には借りがある。だから、なんとしても、兄から受け継いだアルレスとその民を、平穏に導かなければならない」
シュツェルツはグラスに口をつけた。
「兄への申し訳なさから、アルレスに背を向けるのは、もうやめる。その踏ん切りが、ようやくついたよ──それだけを、君に聞いて欲しかった」
シュツェルツの表情は、もはや迷いのない、すっきりとしたものだった。
このお方は、一度決めたことは、なんとしてもやり遂げるのだろう。そう信じさせてしまうような顔だった。
ロスヴィータはひとつだけ、どうしても気になっていることを尋ねてみる。
「あの……」
「何だい?」
「どうして、わたくしにそのような大切なお話を? ロゼッテ博士や、エリファレット卿にお話しされたほうがよろしかったのでは……」
シュツェルツはグラスをテーブルの上に置いた。
「なぜかな……君には不思議と、なんでも話してしまいたくなる」
はぐらかしているわけではなく、その理由は、本当にシュツェルツにも分かっていないようだった。
にもかかわらず、ロスヴィータはシュツェルツの言葉を嬉しいと思った。胸の奥がほっこりと温かくなる。それでいて、身体の芯は焼けるように熱い。
(あれ……?)
今、何か、とても大切な何かを掴みかけているような気がする。だが、それがなんなのか捉える前に、シュツェルツが立ち上がった。ロスヴィータの座る長椅子にもたれかかると、手を伸ばしてくる。
身構える前に、彼はロスヴィータの頭をフード越しに撫でた。
「おかげで気持ちが晴れたよ、ありがとう。ロスヴィータはいい子だね」
「もう……」
くすぐったい気持ちを隠すように、小さく文句を言うと、シュツェルツの手の動きが、いっそう優しくなった。
見上げれば、シュツェルツのボタンは、相変わらず外れている。
ロスヴィータは消え入りそうな声を出した。
「あの……殿下、先ほどから、ボタンが外れております……」
「ああ、窮屈だから外しているんだけど……気になる?」
「き、気になりません! ただ、たまたま目に入っただけで……」
「ふふ、ロスヴィータもお年頃だね」
(わたくし……もしかして、殿下に色気……を、感じていたの?)
自分でも分からなかった心の動きを言い当てられてしまい、ロスヴィータが動揺していると、シュツェルツが真顔になった。
「それはさておき、もう部屋に戻りなさい。明日から、忙しくなるよ。君も手伝ってくれるんだろう?」
ロスヴィータは背筋を伸ばす。
「はい、もちろんでございます!」
「じゃあ、おやすみ。今日はありがとう」
シュツェルツが微笑してくれたので、ロスヴィータもほほえみ返す。
「おやすみなさいませ、殿下」
ようやく解放されたことを喜ぶべきなのか、それとも残念がるべきなのか分からないまま、ロスヴィータは盆を手に退出したのだった。
*
翌朝、シュツェルツがアウリールとエリファレットを連れて、ブレッターの執務室を訪れるというので、ロスヴィータもついていくことにした。
「実は、アルレスの統治について勉強したいと思っていてな。行政に関する書類や帳簿に目を通したいのだが……可能か?」
シュツェルツが切り出すと、ブレッターは焦るどころか、余裕の笑みを浮かべた。
「もちろんでございますとも。殿下は非常に政務に熱心でいらっしゃる。マレ国民として、喜ばしいことです。……お見せしろ」
ブレッターは秘書に命じ、書類や帳簿の山を持ってこさせた。
シュツェルツは綺麗にほほえんだ。
「ありがとう。じっくりと拝見させてもらう」
廊下に出ると、ロスヴィータは小声でシュツェルツに話しかけた。
「……長官は、全く焦っておりませんでしたね」
「ああ、よほど自信があるんだろうね。絶対に不正が露見しないという自信が」
シュツェルツの部屋に入ったロスヴィータたちは、長椅子に座って書類や帳簿に目を通し始めた。
シュツェルツがこちらを見ながら瞬きする。
「ロスヴィータ、君、帳簿が読めるのかい?」
「はい。父の教育方針で」
未来の王太子妃たるもの、国の財政状況を示す帳簿くらい、読むことができて当然だ。
父にそう言われた時は、本当に役に立つ時が来るのだろうか、と思ったものだが、帳簿の見方を習っておいてよかった。ロスヴィータは大変だったお妃教育に少しだけ感謝した。
……三時間後、休憩を挟みながら調査を続けていた四人は、揃ってため息をついた。
「やはり、と申しますか、書類にも帳簿にも、不審な点はございませんね」
アウリールの言葉に、シュツェルツは頷く。
「ああ。だが、税を余分に取っている以上、収支の記録はつけているはずだ。あの男は金にうるさいから、必ずそうしている。多分、証拠をどこかに隠しているんだと思う」
「問題は、どうやって、それを探し当てるか……でございますね」
エリファレットがそう指摘した時、ノックの音がした。
シュツェルツが許可を出すと、入室してきたのは盆を持ったルエンだった。彼は書類の調査が始まってからというもの、一時間置きにお茶を運んでくれているのだ。
茶碗を注意深くテーブルの上に置き、ポットからラズベリーティーを淹れたあとで、ルエンは書類や帳簿の山とロスヴィータたちを見回した。
「……あの、先ほどから、みなさんは何をして──いらっしゃるんですか?」
シュツェルツが、ぐったりと椅子にもたれながら答える。
「長官が不正をしているという手がかりがないかと思って、書類や帳簿を確認していたんだけどね。証拠が見つからなくて困っているところだよ」
「そうなんですか、お役に立てなくて申し訳ございません。僕、字が読めませんから……」
アウリールが優しい笑みをルエンに向ける。
「今度、教えてあげるよ。まあ、字が読めても、坊やくらいの歳の子には、この書類は難しい内容かもしれないけどね。……ところで、ルエン坊や、長官が大切なものをしまっていそうな場所に、心当たりはないかな?」
アウリールは大した期待もなく、その質問を口にしたのかもしれない。だが、ルエンは実にあっさりとこう答えた。
「ええ、ありますよ」
一同はびっくりし、しばらく無言だった。
ルエンがおずおずと口を開く。
「……あのう、僕、何か変なことでも言いましたか?」
シュツェルツが首を振った。
「いや、変なことだなんてとんでもない。それこそ、わたしたちが欲しかった情報だよ。ルエン、その部屋はどこにあって、どんなものが置かれていたんだい?」
ルエンは思い出すように上を向く。
「場所は最上階の小部屋です。長官の荷物持ちとして入った部屋なんですけど、紙がここにあるよりもたくさん置かれていました。他にも高価なものが入っていそうな箱とかもありましたね」
もしかして、そこには不正の証拠だけでなく、ブレッターが着服した税金も保管されているのかもしれない。
アウリールがシュツェルツに視線を送った。
「これは、当たりかもしれませんよ、殿下」
「ああ、そうだね。きっと連中は、ルエンが字を読めないから、油断していたんだろう。ルエン、その部屋に鍵はかかっていたかい?」
「はい。執事が鍵を開けているところを見ました。鍵は、執事がいつもぶら下げている鍵束の中にありましたよ。それに、部屋の前には、すっごく強そうな見張りもいましたね」
シュツェルツが形のよい顎に手を当てる。
「ふむ。見張りの件は今は置いておくとして、問題は、どうやってその鍵を手に入れるか、か……。アウリール、何か案はあるかい?」
「はい。いくつかございますが、殿下や、わたしやエリファレットでは、執事に警戒されてしまうでしょう。彼らも馬鹿ではございません。我々が何かを察していることに感づいているでしょうしね」
エリファレットが問う。
「では、どうする?」
先ほどから事態の推移を見守るばかりで、発言できないでいるこちらに目を向け、アウリールは意味ありげにほほえんだ。
「ロスヴィータ嬢、ひとつ、お願いできますか?」
「え……?」
ロスヴィータは自分を指差し、小首を傾げた。




