第二十八話 打ち明け話
本来ならば、アルレスは領主である王太子が治めるべきだ。だが、前王太子のアルトゥルは、まだ少年だった上に病弱で、とても政務ができる状態ではなかった。そこで、国王メルヒオーアは王太子の代理人として地方長官を自ら選任し、アルレスを治めさせた。
多少の問題はありつつも、二年前までは地方長官の統治は大過ないものだった。
ところが、前任の地方長官が退官し、バスティアーン・ブレッターが新しい長官となってから、全てが変わってしまう。
ブレッターは地方長官の地位に就いてすぐ、税を急激につり上げ始めたのだ。村々は反対の意を申し出るために、有志を募り、リーパへと送り出した。
これでは生活できない、と村人たちが訴えると、ブレッターは「二度と口出しするな。もし、これ以上何かしたら、それ相応の手段を取るぞ」と脅迫し、村人たちを追い返した。
憤慨した村人たちは、今度は王都に向かおうと話し合った。国王は無理でも、なんとか高級官僚に上申しようと考えたからだ。
だが、出立直前に有志が何者かに襲われ、半死半生の目に遭わされた。ブレッターが裏で手を引いていることは明らかで、アルレスの村人たちはそれ以来、ことごとく委縮し、ブレッターに怯えるようになる。
しかも、各村からリーパの城館に奉公にいった者たちは、「神降節」になっても誰一人として帰ってこない。彼らは人質に取られているのだろう、とみなは考え、抵抗しようとしていた数少ない者たちの士気も、下がらざるをえなかった。
さらに悪いことに、リーパに出入りしている村人が、こんな話を持ち帰る。
「お前たちが王都に上申する間に、家族がどんな目に遭うか分かっているだろうな」とブレッターに脅され、彼の凶悪な私兵に恐れをなした市民たちは、すっかり反抗する気をなくしてしまったようだ、と。
王都から派遣される監査役も、なぜかブレッターの不正には気づくことができず、重税と恐怖に喘ぐアルレスの民の悪夢は、これからも続くと思われた。
今日、シュツェルツたちが訪れるまでは。
「わたしが目を通したアルレスの税収を報告する書類には、適正な税額が記載されておりました。おそらく、あの長官は、定められた税と、取り立てた税の差額分を不正に着服しているのでしょう。これは、重大な法律違反にも当たります」
アウリールが真剣な声で、シュツェルツに知らせた。
(酷い……)
統治者が民を恐怖で支配し、食い物にするなど、あってはならないことだ。ロスヴィータは強い憤りを感じたが、それはシュツェルツも同じだったに違いない。灰色がかった青い瞳の中を、炎が踊っているかのようだった。
「お信じ……いただけますか?」
村長の問いに、シュツェルツは力強く頷いた。そのあとで、ゆっくりと村人たちを見回し、口を開く。
「わたしが王太子となったのも、ブレッターが地方長官となった時と同じ、二年前だ。その間、書類に記された数字を信じ、自らアルレスを統治することを避けていたのは、わたしの手落ちだ。まず、そのことを赦して欲しい」
村人たちが、ざわめいた。雲上人である王太子が自分たちに赦しを請うなど、考えたこともなかったのだろう。
ロスヴィータも、シュツェルツの率直さに少し驚いたのだが、その反面、殿下らしいとも思った。
シュツェルツは、よく通る声で続けた。
「わたしは、そなたたちに誓おう。必ずブレッターの不正を暴き、彼を地方長官の地位から退けることを。そして、もう二度とアルレスの民には手出しをさせぬことを。その時、わたしは名実ともに真の王太子となり、そなたたちが平穏な暮らしを送れるよう、力を尽くそう」
わっ……と、若者を中心に歓声が上がった。シュツェルツの言葉が、人々の心を掴んだのだ。
ロスヴィータの胸も、彼らに負けないくらい熱くなった。
(これが、お父さまが殿下をお選びになった理由……)
シュツェルツには、人の心を動かす才能がある。それは、上っ面だけの弁舌の才ではなく、もっと根源的なものだ。シュツェルツはよき王太子であろうとしているが、その志を支えているのは、おそらく、他者への思いやりなのだろう。
このお方のお役に立ちたい。ロスヴィータは今までよりも、ずっと強くそう思い、シュツェルツの横顔を眩しい気持ちで見つめていた。
*
それから、シュツェルツ一行は、残りの村々を回れるだけ回った。ルエンの故郷、メリタ村の村長は、シュツェルツが他の村でも率直な話を聞けるようにと、乗馬のできる顔役を一人つけてくれたので、そのあとの視察は順調に進んだ。
日の落ちる前、ロスヴィータたちはリーパの城館に戻ってきた。城館に入る前に、シュツェルツが乗馬から供の者全員を見回す。
「今日はみな、疲れただろう。調査は明日からにしよう」
「あの……」
恐る恐るといった風に、発言したのはルエンだ。
「長官の悪事を暴くのに、村の人たちの証言だけじゃ、ダメなんですか?」
シュツェルツは諭すように問う。
「村の人たちの証言を基にして監査を行った場合、証拠が出てこなければ、今よりももっと酷い扱いを受けるのは、誰だと思う?」
ルエンは、悔しそうな、それでいて悲しそうな顔をして答えた。
「……村の人たち、です」
「そうだね。だから、こちらで明確な証拠を押さえておく必要がある。みな、ゆっくり休んでくれ」
ロスヴィータたちはいっせいに唱和した。
「御意」
視察をしている間は、ブレッターへの怒りから、あまり疲れを感じなかったのだが、ずっと馬に乗っていたせいもあり、ここにきて、どっと疲れが押し寄せてきた。
城館に入り、着替えてシュツェルツたちと夕食を摂ったあとで、ロスヴィータはお風呂に入った。アウリールはシュツェルツのために調合した薬湯を、随行員たちの分も用意してくれた。薬湯は落ち着くようないい香りがして、とても気持ちがよかった。
城館に仕える侍女に手伝ってもらい、清潔な夜用の衣服に着替えたロスヴィータは、自分に割り当てられた部屋に向かうため、廊下を歩いていた。すると、ルエンが向こうから盆を持って歩いてくるのが見えた。すれ違いざま、ロスヴィータはルエンに声をかける。
「あら、ルエン坊や、どうしたの?」
お姉さんぶってそう呼ぶと、ルエンはちょっと不服そうな顔をしたものの、会釈を返してくれた。
「殿下が寝酒をご所望になられた……えっと、なったので、これから運んでいくところです」
どうやら、ルエンは敬語を見よう見まねで覚えたらしく、少したどたどしいところがある。シュツェルツは、彼のそんなところもおもしろがっているようだが。
盆の上に載っている、白ワインの入った美しいデキャンタとグラスを見て、ロスヴィータはなんとなく不安になった。
「そのお酒、わたくしが殿下のお部屋に持っていくわ」
「え、でも……」
「いいから。運ぶ人が変わっても、お酒の味は変わらないでしょう」
ロスヴィータの押しの強さに負けたのか、ルエンは盆を差し出す。
受け取りながら、ロスヴィータは一安心した。
それに、気になることがある。城館に戻ってきてからというもの、シュツェルツの表情には、アウリールと話している時さえも、微妙な翳りがあるように感じられたのだ。
ロスヴィータがシュツェルツの部屋の前まで歩いていくと、扉の脇ではエリファレットが警衛していた。彼に黙礼して扉を叩き、「ロスヴィータでございます。寝酒をお持ち致しました」と告げると、しばしの沈黙ののち、返事があった。
「入ってくれ」
エリファレットが扉を開けてくれたので、ロスヴィータは礼を言って、部屋に入る。
豪華な調度品の並んだ広い部屋は、続き部屋になっていて、寝室は壁一枚隔てた扉の向こうにあるようだ。
部屋の中では、シュツェルツが長椅子に腰かけ、読書しながらくつろいでいた。よく見ると、シャツの襟元が第二ボタンまで外れており、鎖骨が覗いている。
(いつも詰襟の服を着ておいでなのに……)
ロスヴィータは訳も分からぬままに動揺し、そんな自分が無性に恥ずかしくなった。
「どうしたの? 顔が赤いよ」
シュツェルツにそう声をかけられ、ロスヴィータは今すぐ逃げ出したくなった。彼はさらに追い打ちをかける。
「こんな時間に、淑女が男の部屋に来るものではないよ。ルエンはどうしたんだい?」
ロスヴィータは頬の熱さを自覚しながら、グラスとデキャンタをテーブルの上に置いた。
「じ、実は先ほど、偶然、彼に会ったのですが、割れ物を運ばせるのは心配なので、わたくしが代わりに……」
「なるほどね。でも、人の仕事を取るのはよくないよ。せっかく、ルエンには自信を取り戻してもらおうと思ったのに」
たしなめるような言葉だが、口調は驚くほどに優しい。ロスヴィータは、いっそう上がってしまった。
「さ、さようでございましたか……申し訳ございません」
もう、これ以上は無理だ。シュツェルツの姿を見ていると、なぜか、心臓がばくばくと音を立ててしまうのだ。ロスヴィータは盆を持ったまま膝を曲げて、退出しようとした。
だが、シュツェルツは許してくれなかった。
「ロスヴィータ、座って。少し話がしたい」
そんなことを言われても、とても平常心ではいられそうにない。ロスヴィータはためらった。
「え……ですが……」
シュツェルツは、いたずらっぽく笑う。
「命令だよ」
そう言われてしまえば、ロスヴィータに拒否権はない。覚悟を決めて盆をテーブルの上に置き、おずおずと、シュツェルツの向かいの長椅子にかける。
シュツェルツが残念そうな顔をした。
「なんだ、隣に座ってくれてよかったのに」
「え!?」
「冗談だよ。それで、ロスヴィータ、話というのはね──君はアルレスの現状について、どう思った?」
ロスヴィータは頭の中で自分の考えをまとめたあとで、率直に答えた。
「民が気の毒だと存じます。地方長官のやり方は、高位にある者がしてよいことだとは、とても思えません。わたくしにできることがあれば、殿下がアルレスに平穏をお取り戻しになるお手伝いをさせていただきとうございます」
シュツェルツは、膝に乗せていた読みかけの本を、テーブルの上に置いた。
「君がそう思ってくれて、よかった」
ロスヴィータが、とっさにどう反応してよいか分からずにいると、シュツェルツは長い睫毛を伏せた。
「だが、アルレスの民が苦しんでいるのは、わたしのせいでもある。父の決めた地方長官についてろくに調べようともせず、自らアルレスを治めようとしなかった、わたしの」
「そのようなことは……」
「いや、気を遣わなくていいよ。……話は変わるけど、わたしはね、前王太子の兄が、ずっと嫌いだった」




