第二十三話 国葬
母の呼吸が、次第に弱く、少なくなっていく。
これで、母に会うのは最後になるのだろうか。
切羽詰まっているようでぼんやりとした気持ちで、シュツェルツは母の寝台脇の椅子に腰かけていた。
シュツェルツとよく似た美貌を誇る母は、ここ数日で、急速にやつれていた。数か月前から体調を崩していたところに、風邪をこじらせてしまったのだ。アウリールや母付きの侍医たちにも、ほとんど予想できなかった事態だ。
──申し訳ございません。殿下……。
沈痛な面持ちで詫びていたアウリールの姿を思い出し、シュツェルツは心の中でかぶりを振った。
アウリールのせいではない。どんな優秀な医師にも、想像の範囲を超えた出来事は起こるのだ。
それにしても、生命というものは、こんなにも儚いものなのだろうか。兄の臨終に立ち会った時に実感したことを、またしても嫌というほど思い知らされる。
母が身じろぎした。青白い手を、こちらに伸ばしてくる。
「……シュツェルツ、手を握っていて」
苦しそうな呼吸の中で紡がれた、吐息を漏らすような声だった。
「──はい、母上」
シュツェルツはおずおずと、母の小さな手を両手で包み込む。
自分は、ずっとこの手に憧れていた。頭を撫でて、手を繋いで欲しかった。
母はほほえんだ。
「ありがとう。わたくし、不思議と死ぬのが怖くないのよ。アルトゥルに会えるからかしらね……」
「母上……そのようなお気の弱いことをおっしゃいますな」
いや、この言葉は本心ではない。心の底では、早く母を楽にしてあげたかった。
この人は、心底疲れ果てている。異国に嫁いだものの、夫からは愛されず、義務のように二人の王子を産んだ。最愛の長男は病弱で、人生の大半を懸けた看護の甲斐もなく先立たれた。
その上、じわじわと病に蝕まれ、苦しむ母の姿を見ていたくはない。
神々はどんな悪意から、母にこのような過酷な運命を押しつけたのだろう。
(運命神ロサシェートよ……)
憎んだらよいのか、それとも、祈ったらよいのか分からぬ神の名を、シュツェルツは心中で唱え続けた。
やがて、間遠だった呼吸音が止み、部屋の中が静寂に包まれると同時に、シュツェルツの掌の中にあった母の手が、ぐったりと力を失った。
うしろに控えていた侍医が、母の状態を確認し、乾いた声で「王妃陛下は神界に旅立たれました」と告げるのを、シュツェルツは呆然としながら聞いた。
分かっていた。分かっていたはずなのに、嘘だと言って欲しかった。
だが、今まで見たことがないほどの母の安らかな顔を見て、喉元に熱いものが込み上げてきた。
扉を叩く音がした。返事をする気にならず、無言でいると、扉を開く音ののちに、絨毯を踏み締める音が近づいてきた。
「……マルガレーテは逝ったのか」
シュツェルツの隣に並んだのは父だった。侍医が恐縮して答える。
「はい。つい先ほど……」
「……なぜ、もっと早くにおいで下さらなかったのです」
気づくと、シュツェルツは立ち上がり、父に押し殺した声をかけていた。
「予が来たところで、マルガレーテは喜ばぬ」
父のすげない言葉に、シュツェルツは怒りを押し止める堰が崩れる音を聞いた。
「あなたに、母上の何が分かるとおっしゃるのです! ろくに夫らしいことをなさらなかったくせに、最後くらい──」
全てを言い終わる前に、シュツェルツの頬を涙が伝った。
声が、思うように出ない。
シュツェルツは涙を流しながら、それでも父を睨めつけた。
父は無表情のまま、踵を返した。
「……視察の許可を出す。喪に服す必要はないゆえ、どこへなりともゆくがよい」
(それが、罪滅ぼしのつもりか!)
シュツェルツは、声にならない声を父の背中にぶつけた。
侍医が断りを入れて退出していく。
控えの間で待っているアウリールの顔を見たい。心から、そう思った。彼なら、何も言わずとも、自分の気持ちを分かってくれる。
そのあとで、ふと、ロスヴィータの笑顔が脳裏をよぎり、シュツェルツははっとした。なぜ、今まで恋をし、付き合ってきた女性たちではなく、彼女の顔が真っ先に浮かぶのか。
彼女なら、今の自分を見て、どんな言葉をかけるのだろう。
答えにならない問いを持て余しながら、シュツェルツは再び椅子に腰かけ、ぼんやりと母の死に顔を眺めた。
*
幻影宮の北殿にある主拝殿で、王妃マルガレーテの国葬は、しめやかに執り行われた。
十二日前、突然の訃報にロスヴィータは息を呑んだものだが、そのあとで、見るからに気落ちしているシュツェルツの姿を見て、胸を痛めた。
それでも、シュツェルツは王太子として、自らを奮い立たせるように、ロスヴィータとティルデが用意した喪服に身を包み、誇り高く、各国からの列席者の応対をしていた。
「シュツェルツ! 久し振りだね。大きくなったなあ。……姉上もまだ若かったのに、このたびは残念だったね」
進み出た西のイペルセ王国の衣装を着た三十前後の男性が、シュツェルツを抱擁した。遠目から見ても、すらりとした体格や顔立ちがシュツェルツによく似ている。彼のほうが髪は短いし、シュツェルツよりも背が高いようだが。
「ありがとうございます、叔父上。お久し振りです。遠路はるばる、よくおいで下さいました」
では、彼が、姉に当たるマルガレーテとシュツェルツの仲を取り持ったという、イペルセの王弟なのだ。
シュツェルツのうしろに、ロスヴィータがティルデやオスティア侯爵夫人とともに控えていると、その最前列にたたずんでいたアウリールに、イペルセの王弟が声をかけた。
「アウリールも久し振りだね。君も、もういい歳なのに、相変わらず綺麗な顔をしているねえ」
「……ダヴィデ殿下、そのおっしゃりよう、あなたも相変わらずでございますねえ……」
アウリールの顔はこちらからは見えなかったが、ただならぬ怒気が感じられる。彼が容姿のことを口にされると激怒するという噂は、本当のことらしい。
「まあ、そう怒るなよ。シュツェルツ、あとでゆっくり話そう」
ダヴィデは爽やかに笑うと、次の挨拶に向かった。
「シュツェルツ殿下、このたびはご愁傷様です」
次に現れたのはロスヴィータも見覚えのある、シーラムのレオニス女公の夫君、フィラス王子だった。隣には、彼と面差しの似た四十手前くらいの男性が立っている。シーラムの宰相を務めているという、フィラスの実父だろう。
そのうしろには、フィラスと寸分違わずそっくりの若者が控えている。もしかして、フィラスは双子なのだろうか。
シュツェルツがフィラスと若者、宰相に笑顔を向ける。
「フィラス、それに、セオンに宰相閣下までいらして下さるとは光栄です。国王陛下にはよしなにお伝え下さい」
「はい、必ず。妻が出席できなくて申し訳ありません。何分、身重なもので」
シュツェルツがレオニス女公に想いを寄せていたらしい、と知っているロスヴィータは、思わず彼の動向を窺う。シュツェルツは穏やかにほほえんだ。
「マルヴィにもよしなに。どんな子が産まれるか楽しみだね」
シュツェルツの中では、レオニス女公への恋心は、既に遠き日のものなのだろうか。ロスヴィータは、なんとなくほっとした。
(どうして、わたくしがほっとしなければいけないのよ!?)
ロスヴィータが一人で悶えている間に、シュツェルツとフィラスたちの会話は一段落を迎えていた。
それにしても、シュツェルツから少し離れたところで、他国からの列席者の挨拶に応えている国王メルヒオーアは、先ほどからシュツェルツと目も合わせていない。
それどころか、長年連れ添った王妃の死を悲しむ素振りすら見せないでいる。マルガレーテ付きの女官から伝え聞いたことのある、国王夫妻の仲が悪かったという話は本当なのだろう。
彼らの婚姻は、国同士の友好のための政略的なものだったのだろうから、仕方ないのかもしれないが、はるばる異国から嫁いできて、最期まで夫と心が通い合わなかったというのも痛ましい。
そして、メルヒオーアとシュツェルツの仲が悪いということは、宮廷では周知の事実だ。ロスヴィータも朝の礼拝で二人が和やかに会話する場面など、見かけたこともない。
ロスヴィータも父との仲はあまりよくないが、シュツェルツとメルヒオーアの間に横たわっているものは、自分たち親子とは別の、凍えるような何かだという気がする。
シュツェルツが単に女好きなだけの能天気な王太子ではないと、ロスヴィータは既に十分承知している。だが、彼にはもっと深い部分があるのではないか、と思い始めてもいた。
シュツェルツに仕えていれば、いつか、それが分かる日がくるのだろうか。
もしかして中止になるかもしれない視察のことを思い起こしながら、ロスヴィータは列席者に挨拶を続けるシュツェルツの姿を見守り続けた。




