第二十二話 視察への誘い、再び
ロスヴィータが少しゆっくりと衣装部屋を出ると、ちょうど侍従たちがシュツェルツにお辞儀をして、退出するところだった。ロスヴィータが選んだ紺と黒の衣装にお召し替えをしたシュツェルツが、こちらを振り向く。
「おはよう、ロスヴィータ。今日も君の選んだ服は、わたしによく似合っているよ。仕事には、すっかり慣れたようだね」
彼に褒められると、胸の奥がじんわりと熱くなる。ロスヴィータは喜びを顔に出したあとで、恥ずかしくなってしまい、ややうつむいた。
「……もったいなきお言葉にございます」
「ふふ。ところで、ひと月くらい前に話した領地の視察の件、覚えているかい?」
もちろん覚えている。それどころか、その話が実現しそうだという噂すら聞かないので、少しやきもきしていたところだ。
「はい。日程が決まりましたの?」
「そこまでは、まだ決まっていないんだけどね。今、アウリールが調整を進めてくれている。来月には、出発できるんじゃないかな。……もっとも、父の許可が下りればの話なんだけど。それで、ロスヴィータ」
「はい」
「視察に随行したいという気持ちは、変わっていないかい?」
ロスヴィータは胸をつかれた。シュツェルツの立場なら、随行員の人選の際、臣下の意向など無視してもよいはずなのに、彼はそうしなかったのだ。
ちゃんと自分の意思を尊重してくれていることが嬉しくて、心にぽっと明かりが灯ったような気さえする。
「ロスヴィータ、どうしたんだい?」
返事をしないロスヴィータを怪訝に思ったらしく、シュツェルツが重ねて尋ねてきた。
ロスヴィータは慌てて応える。
「も、もちろんでございます! 気持ちは変わっておりません!」
シュツェルツは、再び笑顔になった。
「そう。よかった」
「あの、ところで」
「なんだい?」
「ティルデ嬢も随行するのですよね?」
「いや、今回ティルデには、ステラエに残ってもらうつもりだ。幻影宮に置いていくわたしの衣装を管理する者も必要だからね」
あまりの意外さに、ロスヴィータは再び質問していた。
「では、オスティア侯爵夫人は?」
「彼女にも残ってもらう。前にも言ったろう? 今回の視察は、臣下をぞろぞろと連れていきたくないんだ」
それでは、自分は供をする少人数の臣下のうちに選ばれたのだ。
(喜ぶ、べきなのかしら)
妙に居心地の悪い感覚だった。心は浮き立つようなのに、理性は「そんなことではお父さまやロゼッテ博士の思う壺だわ」と警鐘を鳴らしている。
自分はよほど難しい顔をしていたらしい。シュツェルツが小首を傾げている。
「ロスヴィータ、本当に領地に行きたいのかい? わたしに気を遣っているのなら、無理はしなくていいよ」
「いえ! お供させていただきます!」
シュツェルツに不審を抱かせないために、ロスヴィータは勢いよく答えた。
そうなのだ。この機会を逃せば、当分はステラエの外に出られないかもしれない。
(わたくしが殿下にお供できて嬉しいのは、見聞を広められるからだわ)
そうに違いないと自分に言い聞かせながら、ロスヴィータは心の中で何度も頷いたのだった。
*
「ローズィ、俺は反対だ!」
応接室に入って向かい合うなり、ツァハリーアスは断言した。
その反応をなんとなく予想していたロスヴィータは、小さくため息をつく。
「……そこまでお言い切りにならなくても、よろしいではありませんの」
ツァハリーアスは、ロスヴィータがシュツェルツに随行することを事前に知っていて、反対の意を伝えるためにここに現れたのだ。
ベティカ公家は、子飼いの密偵を何人も宮廷に放っているので、基本的に幻影宮での出来事は、父や兄に筒抜けなのである。
今回はシーラム行きの時とは違い、ロスヴィータを随行の人員に加えた書類をアウリールが早めに提出したのだろう。おそらく、その書類の内容が密偵に伝わったのだ。
あるいは、お雇いのロスヴィータを随行させる許可を得るために、女官長がなんらかの手続きをした結果かもしれない。
ツァハリーアスは、長椅子の肘掛けを軽く掌で叩いた。
「お前はシーラムでさらわれそうになったんだろう!? もう、ローズィを遠くにやりたくないんだ。心配でたまらん」
「でも、殿下が助けて下さいました。きっと、また危ないことがあっても、なんとかして下さいますよ」
ツァハリーアスが目に見えてむくれる。
「……ずいぶん、王太子を信用するようになったんだな」
「『殿下』が抜けていらっしゃいます、お兄さま。……それは、お仕えするようになって、もう半年以上もたちますし、殿下のことも分かって参りましたから」
「そうやって安心していると危ないんだ。あいつは色魔だからな。俺はお前が王太子に手を出されたらと思うと……」
ツァハリーアスのシュツェルツへの評価は、当たらずとも遠からずかもしれない。だが、一点だけ確実に間違っているところがある。
「……お兄さまもご存知でしょう? 殿下は年上の女性がお好みのようですよ。わたくしのような子どもは、女としてご覧にならないのです」
やり場のない怒りを持て余したロスヴィータが、顔を伏せながらそう口にすると、ツァハリーアスは固まった。
「そ、そうか……」
もごもごと答えたあとで、ツァハリーアスはためらいがちに問いかけてきた。
「ローズィ、お前、今でも王太子と婚約したく……ないよな?」
予期せぬ質問に、ロスヴィータは言葉に詰まる。
父の目論見通りになるのはご免だ。でも、以前のようにシュツェルツに嫌われたいとは思えなくなってきたことも事実だ。むしろ、彼に嫌われたらと思うだけで、胸が締めつけられるような気さえする。
最近はいつもそのような感じで、シュツェルツのことを考えると、今まで味わったことのない感情が沸き起こるのだ。
(わたくし、一体、どうしてしまったのかしら……)
ロスヴィータが不思議に思っていると、ツァハリーアスが話題を元に戻した。
「なあ、ローズィ、俺はやはり心配なんだが……考え直してはくれないか」
それはできない。見聞をもっと広めたいし、それに……シュツェルツのことを、もっとよく知りたい。
「お兄さま、わたくしは結婚するまでに、できるだけ世間を見ておきたいのです。決して、危険に巻き込まれるようなことは致しませんから、許して下さいませ」
ツァハリーアスは渋い顔をして考え込んでいたが、しばらくすると、大きく息をついた。
「……仕方ないな。無茶はしないという約束は守れよ。それと、見送りには必ず行くからな」
ロスヴィータは笑顔をツァハリーアスに向けた。
「ありがとうございます、お兄さま」
ツァハリーアスは笑い返すと、「それじゃ、またな」と言って立ち上がった。
「もうお帰りになりますの?」
ロスヴィータが引き止めると、ツァハリーアスは頷く。
「ああ。父上にお前の意志が固いことをご報告しないといけないしな。……もっとも、父上は今回の随行に乗り気でおいでなんだが」
「全く……お父さまらしいですね」
ぼやいたあとで、ロスヴィータはツァハリーアスとともに応接室を出た。
ふと、思い出したように、ツァハリーアスが小声で告げた。
「……そういえば、ここだけの情報なんだが、王妃陛下のご体調が芳しくないそうだぞ。王太子はそれでも視察にいくつもりなのかな」
驚きのあまり、ロスヴィータは二の句が告げられなかった。
王妃マルガレーテは、体調不良が続き、朝の礼拝にもしばらく出席していなかったが、そこまで病状が悪化しているとは知らなかった。
多分、ツァハリーアスも話が話だけに、言うタイミングを迷っていたのだろう。「不安にさせてごめんな」と、こちらの頭に手を乗せる。
落ち着かない気持ちで兄を見送りながら、シュツェルツのお供をするための用意をしなければ、とロスヴィータは気持ちを切り替えることにしたのだった。




