第十九話 視察への誘い
外濠が埋められていく。
シュツェルツと結婚してくれ、とアウリールにほのめかされた翌日、ロスヴィータはせっかくの休日だというのに、自室で悩んでいた。
君とは婚約するつもりはない、とシュツェルツは言っていたけれど、本当に約束を守ってくれるのだろうか。アウリールの言うように、ロスヴィータの任期が終わる頃に、やっぱり気が変わった、ということもありうるのではないか。
そんな風にぐるんぐるんと考え込んでしまうと、そもそも、自分はシュツェルツの何が嫌で結婚したくないのかすらも、曖昧になっていくような気がした。
(殿下が二股をおかけになるような女好きだから? それとも、殿下と結婚したら、王子を授からない、と占い師に言われたから?)
改めて並べてみても、婚約を断念するには十分すぎる理由のような気がする。……気はするのだが、ロスヴィータは以前の自分の判断に、漠然とした違和感を抱くようになっていた。
理由は分からない。いくら考えても見当がつかないのだ。
よい恋をするために読み始めた、ティルデお勧めの恋愛小説も全く手につかず、ロスヴィータは考え込んでしまう。
その時、扉を叩く音がした。ティルデは今日、出勤のはずだから、侍女の誰かだろうか、と思ったのだが、ロスヴィータが返事をすると、ノックの主は驚くべき名を名乗った。
「シュツェルツだけど、入ってもいいかい?」
ロスヴィータは慌てた。化粧台の前に立ち、急いで髪型や服装が乱れていないか確認する。
「だ、大丈夫でございます。どうぞお入りになって下さいませ」
扉の前に立って、シュツェルツを出迎える。なぜだか外套を着込んでいる彼はほほえんだ。
「押しかけてしまって悪いね。ちょっと、君に用があって訪ねさせてもらった。……ところで、休日は髪を下ろしているんだね。そのほうが、ずっと魅力的だ」
すらすらと出てくるシュツェルツの褒め言葉が恥ずかしくて、ロスヴィータはいたたまれなくなった。
なんなのだろう。他の人から外見を賛美されても、またか……としか感じないのだが、シュツェルツに褒められると、心が奇妙にくすぐったくなるというか……。シュツェルツは誰にでもこういうことを言いそうなのに。
それよりも、昨日のアウリールとの会話の内容を、シュツェルツに伝えるべきだろうか。
「それで、ご用件とは……?」
判断に迷いながらロスヴィータが尋ねると、シュツェルツは振り返り、視線を扉に向けた。
「少し外に出ようか。淑女の部屋で長話をしたとあっては、みなの噂の種になってしまうからね」
「わたくしは、まだ子どもでございますよ」
背の高いシュツェルツを見上げて主張すると、彼はくすりと笑った。
「そう思ってくれない連中も多くてね。たとえば、君の兄君とか」
「兄は、少し特殊でございますから……」
ツァハリーアスは過保護すぎるのだ。
「はは、ロスヴィータが言うのなら、そうなんだろうね。さ、外は寒いよ。君も外套を着て」
シュツェルツに促されて外套を着たロスヴィータは、彼について廊下に出た。シュツェルツは、人目を避けるように回廊への扉に向かう。扉を開け、回廊に出た彼についていくと、一月の寒気が頬を刺した。
シュツェルツは中庭へと足を踏み出す。庭園には、色とりどりのシクラメンやアネモネが咲き誇っている。
シュツェルツとこの場に立つのは、約三年振りだ。彼も同じことを思ったらしく、呟くように言う。
「そういえば、前にも君とここで話したね」
「その節は、大変失礼致しました」
「別に構わないよ。ところで、ロスヴィータは王都の外に出たことはあるかい? ああ、国内の話だけど」
ロスヴィータは瞬きした。
「父の領地になら参ったことがございます」
「そうか。先を越されてしまったな。……わたしは自分の領地にさえ行ったことがないんだ。だけど、そのうち父の許可を得て、視察という形で訪れてみようと思っている。ただし、シーラムに行った時よりも少人数でね。あの時は、マレの威容を示す必要があったから、大人数になってしまったが……」
シュツェルツは何かを思うように冬空を見上げる。その様子を見て、ふとロスヴィータは思った。このお方は本来、権威にこだわるのがお好きではないのだ。
シュツェルツが再びこちらを向く。どこか自信がなさそうな色を、灰色がかった青い瞳に浮かべて。
「視察の際には、君も来てくれるかい?」
胸の奥が、急に熱を帯び始めた。こんな感情は知らない。ロスヴィータは戸惑いながら、シュツェルツに問いかけた。
「……なぜ、わたくしを?」
「君といると落ち着くんだ」
それはどういうことだろうか。少なくとも、ロスヴィータはシュツェルツと一緒にいても、落ち着いた気分にはならない。むしろ、その反対で、常に心がむずむずするような気さえする。
ロスヴィータの怪訝な表情に気づいたのだろう。シュツェルツは微笑した。
「心が安らぐ、というのかな。一緒にいると、安心するんだよ」
「……それは、お褒めにあずかっている、ということでよろしいのでしょうか?」
「うん、すごく褒めてる」
シュツェルツはロスヴィータの頭をぽんぽんと叩いた。髪が乱れないように気をつけてくれていることがよく分かる、優しい触れ方だった。
なんだか気恥ずかしくて、ロスヴィータは頬を膨らませた。
「子ども扱いなさるのは、おやめ下さいませ」
「おや、さっき、君は自分のことを、まだ子どもだと言っていたじゃないか」
シュツェルツはロスヴィータの頭をもう一撫でしたあとで、わずかに顔を伏せ、暗い表情をした。
「……この前、今は恋人募集中だ、と言ったろう? 実は、付き合っていた女性に、『結婚が決まりそうだから別れて欲しい』と、言われてしまってね。当分、恋愛はしたくない気分なんだ」
(もう! 台無しじゃない!)
何が台無しなのかは、自分でもよく分からなかったが。
シュツェルツはなおも話し続けている。
「わたしは遊びで付き合うような男に見られているんだろうか……。まあ、確かに、まだ結婚する気はないんだけどね」
「殿下とご自分は不釣り合いだと思われて、ご結婚は無理だという結論を出されたのではないですか。もしくは、このままでは適齢期を逃してしまうと思われたとか」
ロスヴィータはツンとして、適当にシュツェルツに言い放った。
「うーん、そうかもしれないなあ。ロスヴィータは鋭いね」
シュツェルツは感心したように頷くと、こちらと目を合わせた。
「……それで、まだ、返事をもらっていないんだけど?」
本当は、もうとっくに心は決まっていたのだ。ロスヴィータはシュツェルツを見つめ返した。
「わたくしでよろしければ、お供致します」
シュツェルツはほほえんだ。
「ありがとう。シーラムへ行った時のように、わたしのほうから女官長に話は通しておくから」
その笑顔を見て、寒空の下にいるのにもかかわらず、ロスヴィータは身体の芯が温かくなるのを感じた。
視察の随行を承諾すれば、父やアウリールを喜ばせることになるだろう。
そう考える前に、ロスヴィータはシュツェルツにお供したいと思った。
理由は分からない。シュツェルツのことを、もっと知りたいと思ったからかもしれないし、未知なる土地への憧れなのかもしれない。とにかく、心がそう望んでいるのだ。
ロスヴィータは昨日知ったアウリールの思惑を、シュツェルツには話さないでおこうと決めた。もし、話してしまえば、シュツェルツは自分を領地に連れていってくれないのではないか、と危惧したからだ。
シュツェルツが表情を明るくした。
「わたしの領地はふたつあってね。第二王子だった頃に授かった北西のメッサナ州と、王太子領アルレス州だよ」
「メッサナとアルレス……」
どちらも家庭教師から教わり、名前だけは知っている州だ。
不意に冷たい風が吹いた。
この風もメッサナとアルレスを通ってきたのだろうか。
ロスヴィータは綿毛のような雲の浮かぶ冬空を見上げ、まだ見ぬ土地に思いを馳せた。
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