第十五話 抱擁
シュツェルツのことをより深く知る、といっても、具体的にどうすればよいのだろう。
ロスヴィータは解けない謎を考えるように、ぐるぐると思い巡らせながら休暇を過ごした。
短い休暇が明け、家族と生家に別れを告げたロスヴィータは、馬車で幻影宮に戻った。父とはあの一件以来、一言も言葉を交わしていない。
ロスヴィータと入れ替わりに休暇に入ったティルデの分まで仕事をこなすうちに、あっという間に大晦日となった。
大晦日には「光溢祭」という祝祭が国を挙げて行われるため、廷臣全てが出仕することになっている。
「光溢祭」当日は、夜の十二時になると、大神殿の塔に炎が点されるのを合図に、街中の家々がいっせいに窓辺や軒先に明かりを灯す。高台から見渡せる、王都中が光に包まれる光景は何度見ても壮観で、ロスヴィータも大好きなお祭りのひとつだ。
それに、この日ばかりは大っぴらに夜更かしができるので、わくわくしてしまう。
本来なら、ティルデも休暇から戻ってきているはずだったが、母親が体調を崩したらしく、「光溢祭」に伴って開かれる夜会の途中から出仕する予定だ。
「あなたなら、もうティルデさまの手助けがなくても、殿下の夜会用のご衣装を選ぶことができるでしょう。期待していますよ」
そうオスティア侯爵夫人に背中を押され、ロスヴィータは衣装部屋でシュツェルツの夜会服を選んでいた。
シュツェルツは普段、着たがらないが、一年に一度の「光溢祭」なのだから、白もいいだろう。彼のすらっとした体躯と長い黒髪がよく映えそうだ。
そう思って白の上下を手に取ったとたん、父から言われた台詞が脳裏に蘇った。
──女官を辞めて、一からお妃教育をやり直せ!
どうして、あそこまで酷いことを言われなければならないのだろう。せっかく、ティルデとも仲良くなり、オスティア侯爵夫人にも認められるようになってきたというのに。
姉は父のことを肯定していたけれど、父にとっては結局、自分は王室と縁組をするための道具に過ぎないのではないか。
いったん考え始めてしまうと、また、涙が溢れてきた。
(嫌だ。今は仕事中なのに……)
衣装に雫がつかないように、手の甲で涙を拭うと、ロスヴィータは白の上下を丁寧に畳み、靴とベルト、装身具を選び終えた。しばらくして、ノックのあとに衣装部屋に入ってきた顔見知りの侍従が、ぎょっとしたように瞠目する。泣いていたせいで、まだ目が赤いのかもしれない。
ロスヴィータはうつむき加減に、衣装を侍従に手渡した。
もう泣きたくなかったので、何も考えないように努めながら、侍従が退出の合図をしてくるのを待つ。
やがて、ノックの音がしたので、ロスヴィータは扉を開けた。
そこにいたのは、侍従ではなく白い上下に身を包んだシュツェルツ本人だった。
ロスヴィータはびっくりしてしまい、とっさに何も言うことができない。衣装部屋に入ってきたシュツェルツが、こちらを安心させるように笑った。
「君が泣いていた、と侍従が言っていたから、気になってね」
「も、もう、大丈夫でございます」
ロスヴィータは慌ててお辞儀をすると、無礼かとは思ったが、シュツェルツの脇をすり抜けようと試みる。彼に捕まってしまったら、全てを白状させられそうな気がした。
シュツェルツは衣装部屋の扉の前に立ち塞がり、動こうとしない。
「側仕えの精神衛生の管理も、わたしの仕事だよ。何があったんだい?」
仕方なく、ロスヴィータは口を開いた。
「……実は、帰省中、父と喧嘩をしてしまって……」
シュツェルツは何かを思い出しているような目をした。
「なるほど、ベティカ公は手強そうだ」
その言葉を聞いたとたん、シュツェルツと自分を比べていた時の、父の表情と台詞を思い出してしまい、ロスヴィータの目から、また涙がこぼれ落ちた。
(殿下の前で泣いてしまうなんて……)
一刻も早くこの場を立ち去りたい。でも、扉の前にはシュツェルツがいる。どうしたらよいのか分からないでいるロスヴィータに、そっと手が伸ばされた。
次の瞬間、背に手が回され、ロスヴィータはシュツェルツに抱擁されていた。
抱き締める、というのではない。壊れ物を抱いているかのような、優しい、全く嫌らしさのない抱擁だった。まるで、兄や、昔の父がそうしてくれているような……。
それに、シュツェルツのつけている香水の匂いだろうか。レモンのよい香りがする。
(この匂い……)
そうだ。シュツェルツが脱いだ服を片づける時に、ふわっと漂うことのある香りと同じだ。
シュツェルツの声が降ってくる。
「この香り……ラヴェンダーだね。好きなのかい?」
シュツェルツも、ロスヴィータがつけている香水に気づいたらしい。ロスヴィータは、頷こうとして失敗した。頭にはシュツェルツの手が添えられ、固定されている。
「……はい。落ち着きますから」
「どうして、お父君と喧嘩したの?」
不意打ちだ。まさか、シュツェルツとは結婚したくないと相談したことが、そもそもの原因だとは言えない。ロスヴィータは必死に言い訳を考えた。
「わ、わたくしの将来のことで、意見が食い違って……」
「それは、君がわたしに嫌われようとしていたことと、関係があるのかい?」
シュツェルツは完全に感づいている。父の企みも、自分がシュツェルツをどう思っているのかも。ロスヴィータは言葉に詰まり、身を固くした。
シュツェルツが囁く。
「答えたくないのなら、何も言わなくていいよ。これ以上、君を泣かせたくない」
優しい声と言葉に、ロスヴィータの目から、次々に涙が溢れ出る。いっそ、洗いざらい話してしまえば、楽になるのかもしれない。ロスヴィータは、つっかえながら声を絞り出した。
「ち、父は殿下のご意思も、わたくしの気持ちも考えずに、わたくしたちを婚約させようと考えていて……でも、わたくしは殿下とは……」
シュツェルツは頷きながら手の力を緩め、ロスヴィータの背をぽんぽんと優しく叩いた。
「わたしたちのような身分に生まれると、好きな相手とは結婚できないのが当たり前だ。……だけど、ロスヴィータ、君は何も心配しなくていい。たとえベティカ公が君との縁談を持ちかけてきても、わたしは断るつもりだから」
ロスヴィータは、はっとして顔を上げた。シュツェルツは小さな子どもにでも言い含めるように語を継ぐ。
「多分、お父君はお父君なりに、君のことを考えているんだと思うよ。だから、喧嘩になるんだ。……わたしなんて、父親に心から心配されたこともない」
付け加えられたシュツェルツの言葉が気にはなったけれど、ロスヴィータは思わず呟いていた。
「……父が?」
「そうだよ。だから、元気を出して。今夜は年が明けるまで、寝られないんだしね。ロスヴィータ、君は好きな相手を見つけて、その人と結婚できるように力を尽くすべきだ。違うかい?」
シュツェルツにそう言われると、なぜだか針で刺されたように、胸がちくりと痛んだ。ロスヴィータはその痛みを無視して答える。
「……いいえ。違いません。ですが、なぜでしょうか」
「うん?」
「殿下は、どうしてわたくしを手助けして下さるのです?」
「そうだな……あえて言うなら、おもしろくないからかな。誰かの思惑通りになるということが」
それは、父の目論見通りには婚約したくない、という意味だろうか。
他者から押しつけられたものをよしとせず、抗おうとする──確かに父の言う通りだ。彼なら、決して占いの結果に惑わされたりしないだろう。この時、ロスヴィータは、シュツェルツの人となりが少しだけ分かったような気がした。
「それと……あの、どうしてわたくしを慰めて下さるのに、こうなさる必要がございますの?」
口にしているうちに恥ずかしくなってきた。頬を染めてロスヴィータが尋ねると、シュツェルツはきょとんとした。
「え? だって、泣いている年下の子がいたら、こうするものだろう?」
「普通、家族や、親友……あとは、恋人でもない限り、しないと存じますが……」
「そうかあ……」
もしかして、シュツェルツは親しさの尺度というものが、常人とは違うのかもしれない。
しばらく考える素振りをしたあとで、シュツェルツはにっこりと笑った。
「じゃあ、妹がいたら、こんな感じなのかな?」




