ディルと離れ離れになった凜とジュンタ。旅を続ける二人は、砂漠の世界に迷い込むことになる。果たして凜は、ディルと再会し、呪いを解くことができるのか。
八
「だめだ、ここも毒の砂漠になってる」
ジュンタはペペから降り、地べたに座って地図を広げた。凛はジュンタの隣に座り、地図をのぞきこんだ。
ディルと別れた後、凜はジュンタから、ディルは本当はエルマドワ国の王子であると告げられた。なぜディルだけ弱者なのかは分からないが、きっとディルは城に連れ戻されたに違いないということだった。ディルを迎えに行くために、たった二人でエルマドワ城に乗り込むのはあまりに無謀なので、やはり一刻も早くリュウリンの墓場に向かい呪いを解くことにしたのだ。
エーリアの村からまっすぐ東に進んだところ、目の前はもはや毒の砂漠に呑み込まれてしまっていた。その終わりを探すため、南へと向かったが、いまだ毒の砂漠は続いており、果てが見えない。ジュンタは地面の砂を指先でつまみあげた。少しすると、指先が赤くなった。
「この程度の量なら害はないけど、さらされ続けると皮膚がただれてくるんだ。砂漠では常に風が吹き続けて砂が舞っているから、この中を進むのは無理なんだ」
ジュンタはため息をつき、再び地図に目を落とした。
「地図だとここに一つ国があることになってるけど、毒の砂漠に呑まれたみたいだね。このまま南に進み続けても、今のところ砂漠が終わりを見せる気配はない」
「ジュンタ、まずいんじゃないの、これ」
「うん、かなりまずい。どうしよう」
二人は宙を睨みつけた。二人の今の状況などおかまいなしに、綿菓子のような雲が呑気に空に浮かんでいた。
早速考えることに行き詰った凛がふと砂漠を見ると、そう遠くないところから、人影がこちらに向かって歩いてくるではないか。凛は我が目を疑ったが、やはり何度見ても、そこには人影があった。
「ジュンタ見て、人だよ。毒の砂漠を、人が歩いてる!」
凛は立ち上がって前へ進んだ。言われてジュンタも人影を見たが、凛とは対照的に、何の驚きも示さなかった。
「あれは人じゃないよ、リブドだよ」
「りぶど?」
「大昔から砂漠に生息していて、砂を食べる変わった生き物さ。リブドにだけは、なぜか砂の毒が効かない。だから、毒の砂漠に何かいたら、それは間違いなくリブドなんだ」
ジュンタが説明している間にも、リブドはどんどん二人に近付いてきた。近付くにしたがって、その姿がはっきりと見えてきた。リブドは、体中に銀色のうぶ毛が生えており、手と胴はやたらと長いが、足は短い。頭はわりと小さく、そこには黒くて小さな丸い目と、黒くて大きな口がバランス悪く並んでいた。体は、黒と茶色と赤と深緑がまだらに混じったような色をしていて、決して美しい生き物ではなかった。そんなリブドが、三、四メートルはあろう巨体を左右に揺らしながら、のっそりと二人に歩み寄ってきた。
「リブド、こっちに来るよ」
「大丈夫だよ。リブドは決して人に害を与えるような生き物じゃないって聞いたことある」
あっさりこう言って、ジュンタは地図に視線を落とした。しかし、リブドはどんどん歩みのスピードをあげ、こちらに近付いてきた。そしてとうとう二人の目の前に来たとき、ジュンタもようやく顔を上げ、立ち上がって凛の傍に寄った。
その瞬間であった。今までの歩みの遅さからは想像もできないほどの速さで、リブドは右手を伸ばして凛を、左手を伸ばしてジュンタを引っ掴んで持ち上げ、二人の体を握りしめたまま踵を返し、走って砂漠の中に向かっていった。
「ちょっと、何するの!離して!」
凛は叫び、ジュンタはもがいた。しかし、リブドは聞く耳を持たなかった。全身を力いっぱい握り締められていたので、二人は文字通り手も足も出なかった。
ふいに、前方から強風が吹いた。それと一緒に、砂が飛んできた。凛は顔を手で覆ったが、砂にさらされた手の甲はところどころ赤くなっていき、しだいに血が滲んできた。凛は手の甲と、リブドに握られていなかった足に、肌を思い切り擦りむいたときのような強い痛みを感じた。
「痛い!」
凛が叫ぶと、リブドがさらに強く握り締めたので、凛は呼吸が苦しくなった。そうしているうちに、凛の意識は、激しさを増す痛みと息苦しさのせいで、次第に遠のいていった。
ライムのような、甘酸っぱくて爽やかな香りが、目覚めたばかりの凛の脳を刺激し、心地よい気分にさせた。目を開けた瞬間、辺りは真っ白で何も見えなかったが、しばらくするとそれが湯気であることが分かった。同時に、自分が裸でお湯に浸かっていることに気付き、凛は慌てて立ち上がった。
そこは浴場であった。浴槽はそれほど大きくないものの、浴場の中央には、派手な彫刻が施された立派な柱が立っていた。右側の壁は天井からガラス張りになっていて、浴場の外が一望できた。外には白い岩でできた大きくて立派な噴水があり、その周囲にはナツメヤシのような木々が生い茂っていた。左側の壁には巨大な壁画が描かれており、そこには人間とリブドが舞を舞っている様子が描かれていた。
この光景を見て、凛の頭の中は真っ白になった。寒くなったので、再び緑色のお湯に肩まで浸かった。すると突然、壁画に埋もれていた扉が開いた。そこから、太ったエプロン姿のおばさんが、微笑をたたえてズカズカと中に入ってきた。その瞳は、澄んだ緑色だった。
「目が覚めたのね。お怪我の具合はどうですか」
おばさんは、浴槽に浸かっている凛の体をのぞきこんだ。凛は少し顔を赤らめ、体を反対側に向けた。
「傷はすっかり治ったみたいね。もうお肌は痛くないでしょう」
確かに、意識を失うほどの激痛は、嘘のようになくなっていた。
「この薬湯で治せない傷はないのよ。特に毒の砂にはよく効くの。せっかくだから、もう少し浸かっていなさいな」
おばさんは立ち去ろうとしたが、凛は慌てて呼び止めた。
「あの、私の服はどこですか」
言った直後、凛は後悔した。もっと他に聞かなければならない大事なことがあったはずだ。
「あの変な着物?あんな汚いものは捨ててしまって、綺麗なものを差し上げるわ」
「だ、だめです!大事な着物なんです」
おばさんは、凛のあまりの必死さに少々たじろいだ。
「そんなに大事なものなら、洗っておいてあげるから、その間は用意した着物を着ててくださいな。脱衣所に置いておくから」
これだけ言い残すと、おばさんは足早に出て行ってしまった。おばさんが扉を閉めた瞬間、浴場の中は再び静寂に包まれた。凛は次第にこの静寂に耐えられなくなり、急いで浴槽を出て、出口へと向かった。
脱衣所の床に置かれたバスケットの中には、レースとビーズがセンス良く散りばめられた白いワンピースが綺麗に畳まれていた。凛はこの服を一目で気に入り、早速袖をとおした。
凛がちょうど服を着終えたとき、扉が開きさっきのおばさんが顔をのぞかせた。
「あらま、なんて美しい!それを着ると、ますます姫様の生き写しに見えるわ」
おばさんは微笑みながら、凛の服の皺をピンと伸ばした。
「さ、国王様に会いにいきましょう。ひどくあなたに会いたがっていらっしゃるのよ。私の後についてきて」
「あの、私と一緒に男の子がいたと思うんですけど」
凜は慌てておばさんを呼び止めた。
「ええ、ジュンタくんね。大丈夫、彼も違う部屋で今はゆっくりされてますよ。国王様にお会いしてから案内するわね」
おばさんはズカズカと歩き始めた。凛は慌てておばさんの後についていった。
脱衣所を出ると、そこは広くて長い廊下であった。床にはふわふわの赤絨毯が敷き詰めてあり、壁には古そうな絵画がいくつも飾ってあった。天井からは、シャンデリアがぶら下がっていた。
この建物の豪華さと、さっきのおばさんの言葉からしても、ここがどこかの国のお城であることは間違いなかった。だが、城に仕えているおばさんは弱者である。この国は弱者が支配しているのだろうか?
凛がそうこう考えているうちに、廊下の突き当たりにある、大きい両開きの扉の前に辿り着いた。
「国王様、例の少女を連れて参りました」
「入ってもいいけど、そっとね。揺らさないように頼むよ」
中から若い男の声が聞こえてきた。凛がこの言葉の意味を理解できずに扉の前で立ち尽くしていると、おばさんは壁側に退き、手で「早く入れ」と合図をした。その後、口の前に指を立てて、「静かにね」の合図をした。そして、凛の体を叩いてせかすので、やむなく凛は、思った以上に重いその扉をゆっくりと、なるべく静かに押した。
部屋に入った瞬間、凛は思わず体の動きを止めてしまった。扉の大きさのわりに、部屋は広くなかった。いや、あまりに乱雑としていて、広く感じられないだけだった。戸棚には、石や鉄くずなどどう見てもガラクタにしか見えない物がぎっしりと詰め込まれていた。床には動物の人形が散乱しており、足の踏み場がなかった。極めつけは、いたるところからぶら下がっている、気味の悪い模型であった。それは主に髑髏や鳥であったが、凛の頭上にぶら下がっていたのは、リブドであった。凛は思わず小さな悲鳴を上げ、半歩後ろに下がった。そして、正面の大きな窓の傍にある、ガラクタの山が乗っかっている机の上に、カードを積み上げ真剣にタワーを作っている青年に視線をやった。「揺らさないように」とは、こういう意味だったのか…凛が呆れ果てていたその横で、青年は凛にかまうことなく、ひたすらカードを積み上げていた。
「あと一段…」
八段積み上がった見事なタワーの頂上となる二枚を、そっと、微かに震える手で置こうとしたまさにそのときであった。凛は、部屋中を舞う埃に耐え切れず、手で押さえるよりも早く、大きなくしゃみをしてしまった。それと同時に、青年が全魂を注ぎ込んで積み上げてきたタワーは一瞬にして吹き飛び、消えた。
「あ…」
凛は慌てて口を押さえた。しかし、遅かった。青年の視線は、タワーの頂上となるはずだった場所一点に注がれていた。その手は、頂上になるはずだった二枚のカードを持ったまま、ちょうど九段目の位置で静止していた。しばらくして、青年の首だけが動き、凛を睨みつけた。初めて青年の顔を正面から見たこのとき、凛は不覚にも胸を高鳴らせてしまった。凛よりも少し年上に見える青年の目鼻立ちは、非の打ち所がないほど整っていた。瞳の色は、澄んだエメラルドグリーン。ハーフアップにして結ばれている、肩まで流れるように伸びた髪は見事な金色で、光沢があった。そしてその肌は、シルクのように白く美しかった。凛はしばらく青年に見とれていたが、ようやく我に返った。
「あの、ごめんなさい。決してわざとではないんです。我慢できなかったんです。この部屋が、あまりにも、あの…」
凛は口をつぐんだ。
「この部屋が何だって?」
青年はズカズカと凛に歩み寄り、目の前で立ち止まった。青年はしばらく凛を眺めていたが、突然ふっとこぼれるような笑顔を見せた。
「君、可愛い。いいよ、僕のタワーを壊したことは、その可愛さで帳消しにしてあげる」
青年は、近くの棚に置いてあった古びた写真たてを手にとった。そして、その写真と凛をしげしげと見比べた。
「うーん、やっぱり似ているな。特に目元が。僕の妹にそっくりだ」
「妹さん?あなたの?」
凛は驚いて写真をのぞいた。そこには、長いブラウンの髪に黒い瞳の、色白で美しい少女が写っていた。
「私なんかに全然似てない。すごく綺麗」
「僕ほどじゃないけど、確かに妹も可愛かった。だけど、僕にとっては君が一番さ」
写真たてをガラクタの中に戻してから、青年はウインクした。凛は思わず眉根を寄せた。
「君がどう思おうと、君は確かに妹に似ている。それも、リブドが妹と間違えてここまで連れてきてしまうくらいにね」
「そうだったの?」
凛は目を丸くした。青年は、人形の中に埋もれていた椅子に、どかっと腰を下ろした。
「妹は、半年前に病気で亡くなったんだけどね。リブドには何度も、妹はもう帰ってこないって言い聞かせたんだけど、今でも信じられないみたい。でも、それも仕方のないことなんだ。リブドは妹に一番なついていたから」
青年は勢いよく立ち上がり、美しく整った白い歯をみせてにっこり微笑んだ。
「僕の名前は、シャイカル・アンジュレーム。『この砂漠のオアシス』という意味の、アンジュレーム国の王さ」
「あなたが、王様なの?」
「だってしょうがないじゃん。父さんが亡くなっちゃったんだ。それも、妹が亡くなったたった一カ月後だよ。父さんも病気だった。全く、僕の一族はどうかしている」
あなたがいる時点で、すでにどうかしている…とは、凜は口には出さなかった。
ふとシャイカルは表情を一変させ、真顔になり、目を細めて凛のことをじっと見つめた。そして、そっと凜に近付いた。近付くと、シャイカルはとてもいい匂いがした。この匂いと、憂いを帯びたその表情に、凛は思わず顔を赤らめた。シャイカルは凛の耳元に口を近付け、そっと囁いた。
「僕は君に支えて欲しいんだ。ねぇ、僕と付き合ってみない?」
耳にかかる息と甘い声に、凛はくらくらした。シャイカルはそのまま凛を抱き締め、首筋に唇を押し当てた。
すると突然、天井からぶら下がっていたリブドの人形が、凛の目の前でドンと床に落ちた。これに凛ははっとして、ようやく我に返った。慌ててシャイカルを突きとばし、息を荒げた。
「何するのよ!」
シャイカルは落ちたリブドを拾い、それを弄びながらすねた顔をした。
「あーあ、惜しかったなぁ。大体これでうまくいくんだけどな」
シャイカルは、突然声を上げた。
「そういえば僕、まだ君のこと何にも知らないんだけど。名前は?どこの国の人?どうして毒の砂漠の近くにいたの?」
名前も知らない女子にあんなことするなんて…凛はシャイカルに対し、底知れぬ恐怖を感じた。
凛はシャイカルの「毒の砂漠」という言葉から、ふとトールの話を思い出した。トールは、東の果てにある砂漠の小国の弱者からリュウリンの墓場の話を聞いたという。もしかすると、ここがその国なのでは…シャイカルへの不信感は拭えなかったが、呪いを解くための手掛かりが少しでも欲しかったので、凛はシャイカルにリュウリンの墓場を目指して旅をしていることを全て話してみることにした。
凛が話し終えると、シャイカルは「うーん」とうなりながら腕を組んだ。
「すごく言いにくいんだけど、正直に言うと、リュウリンの墓場には何もないよ。これまでこの国から何人かあそこに行っているけど、皆何も見つけられなかった」
「そんな!」
凜の心は絶望で覆われた。そんな凜の様子を見て、シャイカルは気遣うように笑顔を見せた。
「だけど、行ってみる価値はあると思うよ。君になら何か発見できるかもしれないし。ただ、ここは毒の砂漠に囲まれているから、あそこに行くのはちょっと難しいんだ」
そう言うと、シャイカルは窓際に向かった。
「ちょっと来て。窓の外を見てごらん」
シャイカルは手招きした。凛は、何度も人形を踏んづけ、転びそうになりながら、シャイカルの傍に辿り着いた。そして、窓の外を眺めた。
まず目に飛び込んできたのは、豊かに茂っているナツメヤシであった。そしてその奥に、表面がぼそぼそした、細長くて大きな石がたくさん積み重なってできた高い壁があった。シャイカルは、その壁を指差した。
「あの壁が、この国を毒の砂から守っているんだ。ここからだとただの石に見えるけど、実はあれ、リブドの死体を積み重ねたものなんだ」
「リブドの死体?」
「驚いた?外に出て、間近で見てみようか」
嬉しそうにこう言うと、シャイカルは人形をかき分け、部屋の隅に向かった。そして、そこにひっそりと佇んでいる、見るからに怪しげな、古びた壺の蓋を開けた。シャイカルは壺の中の勺を使って、中から白いクリーム状の物体をすくい、それを顔にまんべんなく塗りたくった。凜はいよいよシャイカルを不審者としか思えなくなっていた。
「あの、何してるの」
シャイカルは、にやっと笑った。
「これは僕の命さ。紫外線を一二〇%カットしてくれる、特注の日焼け止めクリームだ。なんといってもここは砂漠のど真ん中だからね」
シャイカルは壺の蓋を閉めた。
「これ、とっても貴重だから、リンには塗らせてあげないよ」
シャイカルは、あはっと笑い、床に無造作に置かれていた茶色いシルクのようなマントを拾い、優雅にそれを羽織った。
「さ、行こう」
シャイカルは凛の手首を握って、扉を開けた。
広い廊下を進み、巨大なシャンデリアが吊り下がっている大きなエントランスホールに出た。出口には、警備員が二人立っていた。彼らは、その姿を見るなりシャイカルに敬礼をした。シャイカルは笑って手を上げた。凛はなぜか、この光景に違和感を覚えずにはいられなかった。
外に出た瞬間、凛はその日差しに目を眩ませた。少し歩くと、汗が吹き出てきた。ドライヤーの風を全身にずっと当てられているような暑さだった。隣にいるシャイカルを見ると、全く汗をかいている様子はなかった。
城の門からは、大きい道路がまっすぐ伸びていた。それに沿ってレンガ造りの建物が建ち並び、人々が道路を往来していた。人々は皆、シャイカルのマントと同じような布を、頭からすっぽりかぶっていた。
城の庭を進んでいくと、凛が浴場から見た大きな噴水があった。そこは、まさにオアシスの様相を呈していた。周辺には植物が豊かに生い茂っていた。
緑に囲まれた美しい庭をしばらく歩くと、二人はようやくリブドの死体の壁に辿り着いた。壁に顔を近付け、間近で見てみると、それは確かにリブドであった。その一つ一つに、目と口の痕跡が残っていた。表面を覆うぼそぼそした物体は、リブドのうぶ毛が硬くなったものであった。
凛がリブドの死体に見入っている間に、シャイカルは急いで近くのナツメヤシの木陰に入り、手で日差しを遮った。
「リブドは死ぬと、こんな風に石のように固くなってしまうんだ。リュウリンの墓場に行くためには、死んでこうなる前のリブドの死体が必要になる。まだ柔らかいリブドの皮で、リブドのスーツを作るのさ。リブドの皮には毒の砂が効かないからね。一応リブドたちには、そういう状態の死体があったら運んでくるように言っておくけど、時間がかかるかもしれない」
シャイカルは目を細め、壁をじっと見上げた。
「強者の世界では、リブドはその見た目から悪魔の化身として忌み嫌われているみたいだけど、僕たちにとっては悪魔は強者の方で、リブドは大切な友達なんだ。この国の人たちは、強者が生まれるずっと前から砂漠で生きてきた。その中で自然と、砂漠を住みかとするリブドと共存するようになったんだ」
凛も日差しに耐えられなくなり、ナツメヤシの木陰に駆け込んだ。シャイカルは凛を見てにこっと笑った。
「アンジュレーム国は大国ではないけれど、湧いてくる地下水のおかげで、豊かで平和な暮らしをしていたんだ。だけど、世界が呪われてから、この国はどんどん毒の砂に蝕まれていった。幸いなことに、国から強者が生まれなかったから、魔力を使った戦をすることはなかったんだけど、砂漠は風が強いからね、毒の砂はどんどん広がっていった。そうして、この国は領土の半分を失った。もっとも、これは僕が生まれるだいぶ前の話だけど。
外の人からは、この国はもうとっくに滅びたと思われているけど、リブドが残りの半分を守ってくれたんだ。彼らは、死期を悟ると国の周囲に立って積み重なり、そのまま死んでいくようになった。若いリブドは、そこらに転がっている死体を持ってきて、どんどん積み上げていってくれた。そうやって、この壁が出来たのさ」
凜は、リブドの壁を見上げた。
「あの、ここに、外の弱者も連れて来れないかな。私たちがリブドに連れてこられたみたいに」
シャイカルは目を見開いた。そして、ちっちっと舌を鳴らしながら、人差し指を立てて横に振った。
「その考えは甘いよ。まるで僕の美貌のように甘すぎる」
シャイカルは凛と向き合い、人差し指を凛の鼻の先に当てた。
「僕の美しさはさておき、言っておくけど、君たちは本当に運が良かったんだよ。今日は珍しく穏やかだけど、普段の砂漠はこんなもんじゃない。四方八方から強風が吹き荒れて、舞い上がった砂で何も見えなくなるくらいなんだ。リブドがどんなに巧く体を覆ってくれたとしても、その中を無事に通り抜けられると思う?百歩譲って、君がそうしたように、何とか薬湯で治して弱者をここに連れてきたとしよう。でも、それから先はどうなる?いくら豊かと言っても、ここが砂漠の真ん中だってことを忘れちゃいけない。栽培できる作物の種類も量も限られている。肥沃な土地には敵わないんだ。そうすると結局、連れてきた弱者だけでなく、この国の人たちをも飢え死にさせてしまうことになる」
凛はすっかり黙りこくってしまった。そんな凛を見て、シャイカルはふっと微笑み、凛の頭をポンポンと撫でた。
「でもね、確かにリンの言う通りなんだ。僕も弱者だから、仲間が外で苦しんでいるのは辛い。でも、この世界にはどうにもできないことが多すぎる。そう、例えば君の心を射止めることとか」
シャイカルは全く以て自然に、凛の胸に手を当てた。あまりに自然すぎて、凛は最初違和感を覚えなかった。しかし、今自分の身に起きている恐ろしい事態を把握したとたん、顔を真っ赤にしてシャイカルの手をひっぱたいた。
「どこ触ってんの!」
凛は息を荒げて怒鳴った。一方シャイカルは、凛に怒鳴られても気にする様子はなく、突然「あっ」と声を上げると、慌てて懐中時計に目をやった。そのとたん、情けない叫び声を上げて、手で顔を覆った。そして、むんずと凛の手首をつかんで走り始めた。
「ちょっと、どうしたの?」
「大変なんだよ、僕もう二十九分も紫外線を浴びてる。クリームの効き目が切れちゃう」
シャイカルは泣きそうな声で叫んだ。凛は強引にひっぱられて、何度も躓きそうになった。そんな凛を見かねて、シャイカルは突然凛を抱き上げた。
「きゃ!降ろして!」
「嫌だ。君のペースに合わせてたら、間に合わないんだもん」
「じゃあ私を置いて一人で行けばいいでしょ」
「そんな訳にいかないよ。だって僕たち、結婚するんだから」
「何言ってるの?バカじゃない!」
シャイカルはものすごい勢いで城に駆け込み、凛を抱いたままエントランスホールの目の前にある階段を一段とばしで上り始めた。
途中で何人かの家来とすれ違ったが、その都度一人一人が深々とシャイカルに頭を下げた。しかし、シャイカルはそれに見向きもせず、無我夢中で階段を上っていった。この国は、どうやって治められているのだろう…凛は、疑問を抱かずにはいられなかった。
かなりの階段を一気に駆け上り、シャイカルの息は完全に上がっていた。ようやく最上階に到着し、シャイカルは廊下の突き当たりの部屋に向かって突進していった。シャイカルは部屋の真ん中にある大きなベッドの上に凛を放り投げ、鏡台の前に飛んでいった。そして、鏡をじっとのぞき込んだ。
凛はシャイカルを睨みつけたが、だんだんシャイカルに対して怒りの感情を抱くことが面倒になってきた。怒鳴る代わりに、ため息をついた。
部屋は、一人部屋にしては広かった。ベッドの他に、ソファー、机と椅子に、大きな本棚と美しい観葉植物がセンス良く配置してあった。一階のガラクタ部屋とは大違いであった。
突然、横からシャイカルの呻き声が聞こえてきた。凛は、人形のようにくたっとなって、鏡台に顔を突っ伏しているシャイカルに目をやった。
「もうだめだ。僕の肌は真っ黒だ。こんなに汚い肌じゃ、もう外も歩けない…」
シャイカルは肩を震わせた。凛は唖然としたが、ため息をつき、ゆっくりベッドから降りてシャイカルの隣にしゃがんだ。
「肌がちょっと黒くなったくらいで落ち込んでる場合じゃないでしょ。明日生きられるかも分からない中で必死に生きてる弱者の前でも同じことが言えるの?それに、焼けたって言うけど、まだ私よりもはるかに白いから」
シャイカルはゆっくり顔を上げ、その美しい瞳で凛をじっと見つめた。
「本当に?本当に僕、まだ白い?」
「うん、白いよ。すごく白い」
「あぁ、リンって本当に優しいよ」
シャイカルは凛に抱きついた。凛は、シャイカルの匂いにまたドキッとしてしまった。この匂いにはしばらく慣れないなと凛は思った。
「ねぇ、リン。リブドの死体が見つかるまで、この城に住んで、僕の傍にいてくれない?リンがいなくなっちゃったら、僕すごく淋しい」
シャイカルの傍にはいたくなかったが、泊まる場所を提供してもらえるのはありがたかった。
「うん。ここに泊まらせて欲しい」
「本当に?それじゃあ、この僕の部屋で一緒に…」
「他の部屋はないの?」
「何言ってるの。夫婦ってのは、同じ部屋で寝るもんだろう」
「なにまたバカなこと言ってるの」
「そう照れないでよ。でもそこもまた可愛いなぁ」
シャイカルはウインクして、部屋の奥の扉を指差した。
「あそこが客室につながっている。僕と同じ部屋がどうしても照れるって言うなら、そこを使って」
「え、あなたの寝室の隣?」
「そうだよ、決まってるじゃないか。あ、リンと一緒にいた男の子もそこにいるはずだよ」
凛はさっと立ち上がり、大股で客室のドアに向かった。部屋に入ると、ジュンタが一人ソファに座っていた。「リン!」ジュンタが凜に駆け寄ってきた。凜はしっかりと扉の鍵をかけ、ジュンタを抱き締めた。ドアの向こうから、「夕食の時間になったら呼ぶからね」という無邪気な声が聞こえてきた。
「隣の部屋に誰がいるの?」
ジュンタは首を傾げた。
「とっても変な人。ジュンタは気にしないほうがいいよ」
それから凜は、リュウリンの墓場に行く方法も含め、シャイカルから聞いたこの国のあらましをジュンタに話した。
話し終えると、凛は一人バルコニーに出た。いつの間にか、外はもう暗くなりかけていた。真下では、噴水が水しぶきをあげており、それは暗がりの中で微かに残る空の光を反射して、まるでダイヤモンドが飛び跳ねているかのようであった。
遠くに目をやると、国が一望できた。隙間なく灰色の壁に囲まれ、そこから外は全て砂漠であった。空は、ピンクと紫が混ざりあった幻想的な色であった。それは一面に広がる砂漠を染めた。砂漠は、全ての命を奪う死の世界だということを忘れてしまうほど美しかった。
凛は、手すりに歩み寄った。手すりを握り締めながら、空に浮かび始めた星をじっと見上げた。
「ディル…会いたい…」
震える声で呟くと、ぎゅっと目を閉じうつむいた。しばらく経ってから、凛は再び空を見上げた。そこに浮かぶ星は、滲んでよく見えなかった。
九
「初めての外の世界は、楽しかったか」
国王は椅子に座り、ディルに向かって憎しみに近い嫌悪感と一緒に、吸っていた葉巻の煙を吐き出した。ディルは、国王の前で家臣二人に鎖で体を縛り付けられていた。その様子を、国王の隣でカルディスがにやつきながら眺めていた。
国王は立ち上がり、ディルの前に静かに歩み寄った。そして、再び葉巻の煙をディルの目の前で吐き出し、その顔を力任せに殴った。ディルは思い切り咳込み、その口からは血が流れた。
「貴様、自分のしたことの意味が分かっているのか。自分が弱者であることを知らしめて、我が国を滅ぼすつもりだったのか」
国王は、ディルの首筋に葉巻を押し付けた。ジュッという嫌な音と、少し焦げた臭いが部屋に立ちこめた。ディルが国王を睨みつけると、国王はその胸ぐらをつかみ、ディルの顔を何度も殴り、腹を思い切り蹴った。ディルは首をうな垂れ、荒い息遣いで、ぐっと奥歯を噛み締めていた。
「貴様が弱者として生まれてきたことだけですでに怒りの域を超えているが、そのうえ勝手に城を抜け出し、挙句の果てにはその態度ときた!」
国王は再び椅子に座り、頭を抱え込んだ。
「本当ならば、今すぐにでも殺してやりたいが、祖先の神の血が貴様にも流れている以上、殺すわけにはいかんのだ。一体どこでどう間違えて弱者の血が混ざり込んだというのだ!」
国王は歯ぎしりをし、握り拳で椅子の肘掛けをドンドンと叩いた。
「当初は、貴様を産んだ女の家系に弱者の血が混ざっていたのであろうと、あの女の一族を王家侮辱の罪で奪眼の刑に処してやった。だが、結局何度調べても血は混ざっていなかった。にもかかわらず、なぜ貴様は生まれた。許せん…この崇高なるエルマドワ一族の伝統と威厳を穢した、貴様の存在が許せん!」
「黙れ」
国王を睨みつけながら、ディルは静かに言い放った。国王は、ものすごい剣幕でディルを凝視した。
「許せないのは貴様だ。なぜ他国との戦争をやめない。なぜ新王軍との交渉に乗りださない。貴様らがくだらない戦争をしている間に、毒の砂漠はもうそこまで迫ってきている。こんなことをしている場合ではない。貴様にはそれが分からないのか」
国王の顔は真っ赤になり、その体は怒りで震えた。国王は、ディルに無言でその掌を向けた。そこから放たれた赤黒い光は、ディルの体を貫通した。とたんにディルは震え始め、言い表しようのない全身の痛みに体をよじり、呼吸を荒げた。
「ディアロス。今度そんな口を利いたら、その程度じゃすまないぞ。二度と口が利けないようにしてやる」
国王は不敵な笑みを浮かべた。
「城を抜け出し、私に無礼な口を利いた罰だ。この男を鞭で百回打て。手加減はするな。そうしたらその後は、そうだな…濃い塩水に浸けてやるのはどうだ。そうしたら、最上階の牢屋に閉じ込めておけ。また抜け出すことのないよう、何重にも鍵をかけろ。もし途中で反抗したら、そのときは容赦なく口をそぎ落とせ。これは命令だ、いいな」
「承知致しました」
ディルを縛り付けている家臣は、そろって国王に敬礼した。国王はディルを見て、満足げに笑った。
「王に反抗するとどうなるか、身をもって知るがいい」
家臣は動けないディルを引きずるようにして部屋から出て行った。
「それにしても、本当に困った男ですね」
カルディスがため息をつきながら首を振った。
「調べてみると、どうやらあいつの乳母だった女が抜け道を教えたそうだ。あの女は最後あいつに惚れていたからな、殺して正解だった。今度閉じ込めておく牢屋に抜け道はない。あいつは死ぬまであそこに入れておく」
「それなら安心ですね。それより父上、実はあの男を見つけたのは偶然で、イムロク軍の戦場跡に行っていたのは、クロムニクの尻尾を掴むためだったのですよ」
「ほう。それで、尻尾は掴めたのか」
カルディスはにんまりと笑みを浮かべた。
「ええ、奴はイムロク軍に指示を下していました。そして、イムロク軍は新王軍と手を組んでいます。あともう少しだけお待ちください。間もなくここに、奴の首根っこをひっつかんで連れて参ります」
石造りの牢屋の中で唯一の、壁をくりぬいただけの小さな窓から星明りが差し込んでいた。人が一人横になれるだけの空間の中に、ディルは横たわっていた。何重にも鍵をかけられた重い扉の向こうで、見張りが話している声が微かに聞こえてきた。
体中の皮膚は裂け、いまだに体のいたるところから血が滴り落ちていた。視界がどんどんかすんでいく中で、呼吸をしているという事実だけで、ディルは自分がまだ生きていることを確認していた。
こうなることは分かっていた…今まで、死を通り越すほどの痛みも経験してきた。だから、耐えられると思っていたが、やっぱりだめだった…ディルは心なく笑った。
ディルの脳裏に、最後に見た凜の顔が浮かんだ。それと同時に、抱き締めたときに感じた凛の体の温もりを感じた。あれから、無事に旅を続けているだろうか、戦に巻き込まれてはいないだろうか、もう二度と会えないのだろうか…凜のことを考えると、この体中の激痛も忘れてしまうほどディルは苦しくなった。凜がどこかで生きていてさえくれれば、それ以上のことは望まない。でも、もしたった一つ望みを叶えられるのであれば…もう一度だけ、リンに会いたい…。
ふとディルは目を開け、窓からわずかに見える星空を見上げた。それは、真っ暗な牢屋の中からだと一層輝きを増して見えた。その空は、凛が見上げた空と同じように、滲んで星がよく見えなかった。
十
「あら奥様、外にお出かけですか」
アンジュレーム国に来てから数日が経った日の昼下がり、今日は日差しがそれほど強くなく、少し外にいても平気な気温だったので、城の周辺を散策しようと凜がエントランスホールに向かったとき、城の若い女中に話しかけられた。この女中は、今朝廊下ですれ違いざまに、シャイカルに「肌が前より綺麗になったんじゃないのかい?とっても素敵だよ」と言われ、素直に喜んでいた女中だった。凜は女中を睨みつけた。
「あの人がなんて言ってるのか知りませんが、私はあの人と結婚する気はさらさらないですし、そもそも好きでもないですから」
女中は、おほほと笑うだけであった。
シャイカルは、初めて凜と会ったときにはカード遊びをしていたくせに、意外と忙しいようで、城にいることはあまりなかった。ただ、国王としての務めを果たしているのか、女の子と遊んでいるだけなのかは定かでない。
凜とジュンタは、ただ泊まらせてもらうだけというのも申し訳ないし、ここでのあまりに平和すぎる時間に退屈しないよう、自ら率先して城の掃除や料理といった雑務を手伝っていた。家族を亡くしたジュンタは、城の女中たちに本当の息子のように可愛がられ心底嬉しそうにしており、ジュンタはこのままずっとここにいてもいいかもしれないと凜は思い始めていた。
話しかけられたついでに、凜は日頃疑問に思っていることをこの女中にぶつけてやろうと思った。
「あの、一つ聞いてもいいですか。絶対に告げ口しませんから、正直に言って欲しいんです。本当のところ、皆さんはシャイカルのこと、どう思ってるんですか」
女中は自信たっぷりに、胸を張って答えた。
「城に仕えている者だけでなく、全国民が心の底から国王様のことを尊敬し、慕っております。シャイカル様は今までの国王様の中でも、特に王にふさわしい、素晴らしいお方だと思います」
「ええー!」
予想もしていなかった答えに、凛は思わず叫び声を上げた。
「本当にそう思ってるんですか?あれは他に類をみないセクハラ男ですよ。あなただって、何度もセクハラされてるでしょう。それに、自分勝手で子供だし、群を抜いたナルシストだし…」
女中は声を立てて笑った。
「そこが、国王様の魅力的なところです。そういったところも含めて、私たちは国王様を尊敬しております。奥様も、そのうち国王様の偉大さに気付くと思います」
「いえ…気付くときは永遠に来ないと思います」
期待外れの答えに、凜はため息をついて城の外に出た。
凜は巨大な噴水の前に辿り着き、傍にあった小さなベンチに腰掛けた。そして、太陽光を反射して、キラキラと宝石のように水しぶきを輝かせている噴水をぼうっと眺めた。
「リン!よりによって僕が一番嫌いな屋外にいたの!探しちゃったじゃん」
突然横から、凛が嫌いな声が聞こえてきて、凛は現実に引き戻された。顔を横に向けると、そこには案の定、凛が嫌いなシャイカルが立っていた。シャイカルはつばの広い帽子を深々とかぶっていた。そのため顔がほとんど見えなかったが、帽子の下からのぞいている鮮やかな金髪で、すぐにシャイカルだと分かった。シャイカルは、凛の隣に腰掛けた。
「そんなに外が嫌なら、来なきゃいいでしょ」
凛が不機嫌な顔をすると、突然シャイカルはぐっと顔を近付け、凛の顔をのぞき込んだ。凛は思わずのけぞった。
「リン、浮気をしているね」
「何言ってんの。浮気も何も、私たちはそういう関係じゃないでしょ」
シャイカルはくすっと笑って、凛の頬を指で突っついた。
「図星だね。残念ながらリン、僕にはそういう事がすぐ分かるんだ。ねぇ、その人は僕より美しい?僕とどっちが色白い?」
「あなたなんかと比べ物にならないくらい、ずっとずっとかっこいいよ!」
ついむきになって凛は声を上げてしまったが、言った直後、顔を赤くしてうつむいた。そんな凛を見て、シャイカルは声を出して笑った。
「へぇ、僕よりかっこいい人がこの世にいるんだ。一度会ってみたいなぁ」
シャイカルは突然立ち上がった。
「ねぇ、リン。高いところは好き?実はこれから、まだ誰にも見せたことのない僕の隠れ家に、リンを特別に招待しようと思って。一緒に来てくれない?」
「うーん、行ってもいいよ。どうせやることないし」
「嬉しい!さあ、行こう」
二人は手を握って…というよりも、シャイカルが強引に凛の手を握りしめて歩き出し、噴水を後にした。
城の敷地を抜け、町とは反対側の、人気のない荒地に出た。岩がそこら辺にごろごろ転がっており、寂寥とした風景であった。しばらく進むと、目の前に石造りの塔が見えてきた。その高さは、ゆうに城の倍はあった。その色はかなりくすんでおり、遥か昔に造られた遺跡のようであった。
「ここには昔のアンジュレーム国の城があったんだ。僕が生まれる何百年も前、初代の国王が建てた城なんだってさ」
周囲には広範囲にわたって、四角く切られた岩が塔を囲むように並んでいた。シャイカルは塔に触れ、その頂を見上げた。
「今のお城に移ってからは、解体して石材を再利用したみたいで、今じゃこの通り見る影もないけど、この見張り台だけは今でもここにこうして立ち続けて、国を見渡しているんだ」
シャイカルは瞳をキラキラさせて凛を見つめた。
「この塔が僕の隠れ家さ。今からリンを招待するよ」
シャイカルは突然凛を抱き上げた。そして塔の中に入り、中の螺旋階段を上り始めた。凛は思わずシャイカルの首にしがみついたが、しばらくして大声を上げた。
「ちょっと!どさくさに紛れてどこ触ってるの!」
凛を抱くシャイカルの右手は、見事に凛のお尻に触れていた。
「わざとじゃないよ。触れちゃうんだから仕方ないじゃん。なんならここで降ろしてもいいけど?」
凛は、この途方もない螺旋階段を見上げた。見ただけで体中にどっと疲れが襲ってきた。
「あのね、もう少しその右手を足の方にずらしてくれればそれで良いの」
優しい口調で言いながら、凛は思い切りシャイカルの首に腕を巻きつけた。
「リン、く、苦しいよ…」
それからシャイカルの右手は、徐々に足の方へずれていった。
どのくらい上っただろうか、シャイカルの息も上がり始めた頃、頭上から光が差し込んできた。
「あともう少しだよ」
シャイカルはペースを上げ、残りの階段を一息で上りきった。
頂上に着いたとたん、二人は強風に襲われた。凛の青い制服とシャイカルの茶色いマントが風に吹かれて翻った。シャイカルがかぶっていた帽子は、遥か彼方空の中へ飛んでいってしまった。この風に一瞬二人は顔をふせたが、すぐに顔を上げ、しばらくの間そこから見える景色に息を呑んだ。
空と平行して、金色の砂漠の大地が広がっていた。青色の中で、西の空がわずか黄金色に染まり、それが神々しく大地を照らしていた。砂漠を越えたずっと遠くには、町であろうか、多くの建物が並んでいるのが見えた。さらにその向こうには、ここからでもはっきりとその形が分かるほど巨大な建物が見えた。
「どう、ここからの景色、最高でしょ?」
シャイカルは凛を降ろした。凛は塔の柵にかけ寄り、じっとこの光景に見入った。
「すごい、なんて美しいの…」
シャイカルはくすっと微笑んで、凛の横に立った。
「シャイカル、あの巨大な建物は一体何なの?」
凛は遥か遠くに見える、巨大な建物の影を指差した。
「あれは、エルマドワ国の城だよ」
「エルマドワ国のお城…」
とたんに凜の胸が痛んだ。きっとあそこにディルがいる…あんなに遠い、だけど、今私が見えているところに…どうしたらあそこまで行けるのだろう?鳥のように、この空を飛び越えていきたい…凜の頬を涙が伝った。
「リン、急にどうしたの?大丈夫?」
シャイカルが心配そうに凜の顔をのぞき込み、肩を抱いた。凜は涙をぬぐった。
「ごめん、何でもない。ここからでもこんなにはっきり見えるってことは、あのお城はとてつもなく巨大なんだね」
「そりゃそうだよ。エルマドワ国はこの世界のほとんどの領域を支配しているからね。砂漠の小国にすぎない僕の国とは、規模が違う。でも、支配している領域の広さがその国の豊かさを計る物差しかといったら、それは違うけどね。豊かさを計る物差しは、ここなんだ。国も世界も、人間の心で決まる。何故なら、全ては結局、一人一人の人間によって動かされているから」
「え?」
凛は、思わずシャイカルを見つめた。胸に手を当て、エメラルドの瞳で地平線を見つめるシャイカルの横顔は、スッと鼻筋が通りまるで西洋の絵画のようであった。
「シャイカル、どうしちゃったの?」
「僕だってマジメなこと言うよ、たまには」
シャイカルは微笑み、柵にもたれかかった。
「実はここ、僕の父さんの隠れ家だったんだ。僕は小さい頃、よく内緒でここに連れてきてもらった。そして、ここで父さんからたくさんの事を教わった。国の歴史や政治、経済や今の世界情勢。それから、女の子のことも」
シャイカルはウインクをした。女好きは遺伝するのか…凛は妙なところに感心してしまった。
「この場所は、僕の原点なんだ。ここに来ると、あの時真剣に国の未来とか平和について、父さんと一緒に考えた僕になれるんだ。その時たくさんのことを決意したんだけど、日々の生活に流されて、行動に移せていないことに気が付いて、時々すごく反省する。そんなときにここに来ると、あの時の僕を思い出して、今からまた頑張ろうって思えるんだ」
シャイカルは体を凛に向けた。そして、ふっと真顔になって凛を見つめた。シャイカルの髪が夕日に照らされ、より一層美しく金色に輝いた。凛は思わず顔を赤くした。
「ねぇ、リンが最初に、外の弱者をここに連れてくればいいって言ったの覚えてる?そのとき僕は、内心すごく驚いた。僕と同じことを考える人が他にもいたんだって。僕も昔、父さんに同じ事を言ったことがあるんだ。そうしたら、僕が君に言った事を言われたけどね」
シャイカルはそっと凛の頬に触れた。
「あのとき思ったんだ。この人となら、一緒にこの国に平和を築いていけるかもしれない。この人といれば、僕は僕のままでいられるかもしれないって。そして君は、僕の期待を裏切らなかった。それどころか、君と接すれば接するほど、この気持ちは強くなっていったんだ」
シャイカルは、鼻先がくっつきそうな距離で、じっと凛の瞳を見つめた。
「僕じゃ、リンの恋人の代わりにはなれない?」
かすれた声だった。凛はシャイカルの目を見つめていたが、静かに首を振った。
「ここに来て、シャイカルのこと嫌いじゃなくなった。だけど私は、ディルを忘れることなんてできない」
しばらくシャイカルは真顔で凛を見つめていたが、顔の筋肉を緩めて微笑んだ。それから、プツッと糸が切れたように、にんまりと笑みを広げた。
「リンもようやく僕の魅力に気付いたみたいだね。それでも僕を振るなんて、普通じゃ考えられないな。でもいいさ、今夜はミリアちゃんに慰めてもらおう」
シャイカルの手が、自然と凛の胸に触れた。凛はその手をひっぱたいた。
「そんなに怒るとお腹もすくし、お肌にも良くないよ。そうだ、もうじき夕食の時間だよ。そろそろ戻ろう」
シャイカルは、凛に先に階段を降りさせた。凛の後ろで、ふとシャイカルは後ろを振り向き、目を細めてじっと遠くを見つめた。その視線の先には、エルマドワ国の城の影が、紫色へと変わりつつある空の中で浮かび上がっていた。
今朝も凛はひどい頭痛で目が覚めた。ここ数日間、ずっとそうだった。激しい頭痛が一日中、波になって凛を襲う。それだけでなく、波はあるが、ひどく疲れやすくなっていた。シャイカルと塔の遺跡まで行った日の翌日は、疲れがとれずほとんど一日中寝たきりになってしまった。また、急に動悸がしたり、呼吸が苦しくなったりするという症状にも襲われ始めていた。
ふと凛の脳裏に、トールの言葉が鮮明によぎった。「異世界の人間は、しばらくすると何の理由もなく死ぬ」この数日間の体調の変化で、それは事実かもしれないと身をもって思い始めた。この世界に来て、どのくらいの月日が経ったかは分からないが、長い時間が経過していることは間違いなかった。凛の心臓は、死に対する恐怖で激しく波打ち始めた。
「リン、入っちゃうよ」
凛が一人で震えていたとき、ノックの音とシャイカルの声がドアの向こうから聞こえてきた。
「入っちゃうよって何よ。勝手に入らないでよ」
凛は、今湧いてきた恐怖を無理やり心の奥に押し込め、慌ててベッドから飛び降り、髪の毛をとかした。ジュンタは、早朝から城の手伝いをしておりもういなかった。
いつものように颯爽とマントを翻して、シャイカルが部屋に入ってきた。凛の顔を見るなり、シャイカルは目をまん丸にし、ズカズカと凛に近寄り、そっと凛の頬に触れた。
「リン、ここのところやけに顔色が悪いけど、どうしちゃったの?」
凛は、自分の頬をさすり始めたその手をひっぱたくことも忘れ、思わず言葉を詰まらせてしまった。
「そうか、もしかすると、僕に恋しちゃったんだね」
「それだけはあり得ないから」
ようやく凛はシャイカルの手をつねった。
「あなたのそういうセクハラまがいの行動がストレスになってるのよ」
「なるほどね。『恋の病』と書いて『ストレス』って読むもんね。リンをこんなに苦しめているなんて、僕も罪な男だ。うん、全く罪だ」
凛の辞書には、もはやこの男に返す言葉は載っていなかった。
「そうそう、最近様子がおかしいのはリンだけじゃないんだ。リン、ここのところ、リブドを見かけたかい?」
この国では、いたるところで普通にリブドが歩いているのを時々見かける。城の中を普通に歩いていることもあり、凜は何度か度肝を抜いたことがある。言われてみると、ここ数日間全くリブドを見かけていないので、凜は首を振った。
「やっぱりそうか。この数日間、国中のどこにもリブドがいないんだよ。今までこんなことなかったから、外で何か起きてないか心配でね。心配で、僕の肌も荒れ気味なんだ」
シャイカルは、どう見ても荒れているようには見えないその美しい肌を撫でてため息をついた。
「でも、僕の肌がいつも自然とツヤツヤになっていくように、このおかしな事態も自然と良くなっていくよね。うん、これは僕の杞憂だ」
シャイカルはにっこり笑った。
「リンの恋の病だって、きっと治るよ。大丈夫、僕がついてるから。何かあったらいつでも言うんだよ」
凛の頬に、ほんの少し赤みがさした。
「よし、朝食を食べに行こう。美味しい朝食は、美容と健康の素だからね」
シャイカルは優しく凛の肩を抱いた。そして二人は、部屋を後にした。
「リブドだ!怪我を負ったリブドが何人か来るぞ!」
城の見張り台にいた家臣のこの一声で、城中が騒然とした。
凜はちょうどその頃、城の庭掃除の手伝いをしていた。今朝のシャイカルの話も気になり、慌ててリブドのもとに向かっていく人たちの後に続いた。その中には、ジュンタもいた。ジュンタは凜を見つけると、凜に駆け寄ってきた。
リブドの壁の近くに、何頭かのリブドが折り重なるようにして倒れていた。リブドは、体中に深い傷を負っているようで、全身血だらけであった。そこにはすでにシャイカルがいて、普段からは考えられないような真剣な顔つきで、てきぱきと家臣たちに指示を下していた。どうやら、リブドの手当ての指示をしているようだ。
「シャイカル、これは一体…」
凜はシャイカルに近寄った。凜の姿を見つけると、シャイカルはふっと表情を緩めた。だが、すぐに険しい顔に戻った。
「どうやら強者がリブドの巣を襲って、大量にリブドを殺しているようだ。ここにいる彼らは、僕たちに助けを求めるために命からがら逃れてきた。僕たちは、昔からリブドの手当てをしてきている。ここに来たリブドは一人も死なせない」
こうしている間にも、続々とリブドが壁をよじ登り、国の中に入ってきていた。多くの家臣たちが手当てに取り掛かっていた。
「私たちにも手伝わせて」
目を覆いたくなるようなリブドの痛々しい姿に、凜はいたたまれなくなった。「ありがとう」シャイカルは悲しげに微笑み、凜とジュンタも手当てに加わった。手当てをしながら、シャイカルは話を続けた。
「リブドの皮は毒の砂を通さないって前に話しただろう。実はね、強者の魔力も通さないんだよ。だから、強者が鎧として使うためにこれまでもリブドは殺されてきた。だけど、一度にこんなに襲われたのは僕が知る限り初めてだ。とても嫌な予感がする。もしかすると、大きな戦争が始まるのかもしれない」
凜とジュンタは顔を見合わせた。二人とも、「世界戦争になるのは、時間の問題だ」というディルの言葉を思い出していた。
「国王様!リブドが国王様を呼んでおります」
一人の家臣がシャイカルを呼んだ。シャイカルは、特に怪我が酷いリブドの元へ駆け寄った。そして、リブドの口元にしゃがみ込み、じっと耳を傾けていた。少なくとも凜とジュンタには、リブドが言葉や音を発しているようには全く見えなかったので、なぜシャイカルがリブドの言葉が分かるのか不思議でならなかった。
しばらくの間、シャイカルは目を閉じ一人考え込んでいた。ようやく目を開くと、リブドに何かを話しかけながらその頭を優しくなでた。そして、意を決したように立ち上がり、そのまま凛たちの元へ歩み寄った。
「彼がね、自分はもう助からない、だから自分の皮でスーツを作り、リュウリンの墓場に行って欲しいと言っている」
「リュウリンの墓場…」
凛はリブドを見つめた。リブドは、誰かをリュウリンの墓場に連れて行こうとしている…。
「彼は、リンたちをここに連れてきたリブドだ。確かに、この怪我では正直僕たちにもなす術がない。何より、それが彼の強い意志だ。だから、それを尊重しようと思う。ただ、彼から作れるスーツは一着だけだ」
「私が行く」
凜は一歩シャイカルに近寄った。
「リン一人じゃだめだ!もう少し待って、もう一つスーツを作ってもらって僕も行く!」
ジュンタが凜を見上げて叫んだ。凜は首を振り、しゃがんで両手でジュンタの顔を包んだ。
「ジュンタはここで待ってて。何なら、ずっとここで暮らし続けてもいい。ジュンタ今とっても幸せそうだもん。リュウリンの墓場には何があるか分からない。強者がいるかもしれない。そうだとしたら、魔力が効かない私の方が適役なの」
「嫌だ!リンと離れたくないよ!」
ジュンタの大きな瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。凜はジュンタを抱き締めた。
「離れないよ。大丈夫、きっとまた戻ってくるから。ジュンタのこと、絶対に忘れないから」
凜は立ち上がった。それを見て、シャイカルは微笑み腕をまくった。白くて細い腕がそこからのぞいた。
「じゃあ、支度を始めよう。日中の砂漠の気温はゆうに五〇度を超す。だから、夜中に移動した方がいい。リュウリンの墓場はここからそう遠くないから、今晩ここを出発すれば、途中で休みながらでも明日の昼前には着けるだろう。今からスーツを作るから、ちょっと待ってて」
シャイカルは後ろを振り向き、家臣たちに次々と指示を下していった。そして、凛とジュンタの方を振り返った。
「君たちは、後ろを向いていた方がいいよ。ここからの作業は、君たちには耐えられない」
「ちょっと待って」
凛は、リブドの元へ駆け寄った。傍にしゃがみ込み、血に染められたリブドの顔を優しく撫でた。
「リブド、あなたの気持ち、無駄にしないから」
リブドは表情を変えなかったが、凛には何となく笑ったように見えた。
空はいつの間にか暗くなっていた。シャイカルの「できたよ」という静かな声に、手当ての手伝いをしていた凜とジュンタは顔を見合わせ、ゆっくりと振り向いた。
スーツは、まさにリブドの着ぐるみだった。首から上と下とでパーツが分かれていた。スーツの隣には、リブドの皮の包みが置いてあった。
シャイカルが静かに二人の前に立った。その顔には、いつもの柔和な笑みはなかった。自慢のその肌はリブドの血で汚れ、美しい金髪も乱れており、エメラルドの瞳はうっすら充血していた。
「待たせたね。さぁ、早速着てみて」
凜は数人に手伝ってもらいながら、スーツを身にまとった。全身をリブドの皮で覆われると、少し息苦しかった。リブドの水晶体で作った小さな穴からしか外が見えないため、視界がかなり狭められた。
シャイカルは、リブドの皮の包みを凜に手渡した。
「この中には、水と食糧が入っている。あっちに着いたら食べるといいよ」
凛は、シャイカルに歩み寄った。
「シャイカル、あの…今まで、本当にありがとう」
シャイカルの顔に、ようやくいつもの微笑が戻った。
「僕の方こそ、リンといれて幸せだった。感謝しているよ。いつでもここに戻ってくるんだ。浮気をしに会いに来てよ。それで、今度こそ僕と同じ部屋で…」
「それ以上言ったら、今度こそ本当にセクハラで訴えるから!」
こう怒鳴ったものの、凛はなんだか悲しくなった。シャイカルも、どこか悲しげに微笑んだ。そして、真顔になった。
「いいかい、リン。絶対に死んではいけない。何があっても生き抜くんだ」
「リン、絶対また戻ってくるんだよね、約束だよ」
ジュンタは凜に抱きついた。凜は、リブドの皮の上からジュンタの頭を優しく撫でた。
「きっと、ディルと一緒に戻ってくるから」
凜は、リブドの壁に向かって歩き始めた。壁の傍まで来たとき、後ろを振り返った。そこには、シャイカルを先頭にして、大勢の人がこちらに向かって深々と頭を下げていた。その光景を見た瞬間、凛の視界は涙で滲み、何も見えなくなってしまった。
ふいに、壁の近くで待ち構えていたリブドが凜を背負い、壁をよじ登り砂漠に降ろした。リブドはそのまま東に向かって、ゆっくりと歩き始めた。リブドは歩きながら、何度も凜の方を振り向いた。
「私を案内してくれるのね」
凜は、一歩砂の上を踏み出した。真上に輝く三日月が、冷たく砂漠を照らしていた。砂が風に揺れ、まるで大海のように地面が波打っていた。
凛は、ふと後ろを振り返った。そこには、高く積み上げられたリブドの死体の壁が見えた。唯一、凛がシャイカルと上った塔の頂だけが、わずかに顔を出していた。灰色の壁は、月明かりを浴びて儚い光を放っていた。
遥か遠く北西の空が、うっすら赤く輝いていた。燃えているのだろうか。もしかしたら、あそこにリブドの巣があるのかもしれない。凛は、前を黙々と歩いているリブドに視線を移した。その背中を見て、一瞬歩みが止まった。だが、すぐに首を振って、再び歩き始めた。
何度も砂に足をとられ、つまずきそうになりながらも、凛は砂漠の中を進んでいった。全ての生命を奪う死の世界は静寂に包まれており、耳が痛くなりそうだった。一人の人間と一匹のリブドが砂を踏む音だけが、異様に響き渡っていた。
十一
太陽がもうじき真上に昇ろうとしていた。スーツは風を通さないため、中の熱はこもるばかりであり、太陽が地平線から顔を出したとたん、みるみる暑くなっていった。
凜の体力は、もはや限界であった。何度も砂に足をとられて躓いた。地面に座って何度か休憩したが、飲まず食わずで夜通し歩きっぱなしの上にこの暑さでは、地面に座って休むだけでは到底体力は回復しなかった。それどころか、上昇し続ける気温に体力は奪われるばかりであった。
もう駄目かもしれない…凜の脳裏に諦めの文字が浮かんだそのときであった。視界の先に、緑色のものが飛び込んできた。あそこには植物が生えている。ということは、毒の砂漠ももうじき終わりだ。凜は足を速めた。凜を動かしているのは、もはや気力だけであった。
しばらく進んでから凜は立ち止まり、足元を見つめた。そこには草が生えていた。凜はようやくスーツを脱いだ。久々にあたる風が心地よかった。凜は、空気をめいいっぱい吸った。そして、シャイカルからもらった包みを開き、ものすごい勢いで水を飲み、食糧を食べた。そして、地面の上であったが、構わず少し横になった。
凜がうたた寝から目を覚ますと、リブドは砂漠の方に戻り砂を食べていた。ふと、リブドは毒の砂を食べることによって、それを大地から除去しているのではないか…そんな考えが凜の頭をよぎった。強者から戦に使うためだけに殺され、忌み嫌われているのに、黙々と強者が汚した大地を回復させようとしている…砂を食べ終わり、凜を追い越し先導しようとするリブドを見て、沈痛な思いが込み上げてきた。凜は、リブドの後に続いた。
草が点々と生えているに過ぎなかった地面は、次第にサバナとなり、やがて背の高い木々の生い茂る森へと変わっていった。
そこは、同じ森でも死の森とは似ても似つかないものであった。どこからか、爽やかな鳥のさえずりが聞こえてきた。足元には、様々な色の可憐な花が咲いている。時々、木の幹をリスのような愛らしい動物が駆け登っていった。
雨が降ったばかりなのであろうか、木々や草の葉には露が残っており、それが太陽の光を浴びて、ダイヤモンドのように光り輝いていた。ひんやりとした風が森を駆け抜け木々をざわつかせ、湿った空気と土が心地よい匂いを放っていた。木漏れ日が差し込み、森をより一層神秘的で、美しくしていた。
毒の砂漠の向こうに、こんなに豊かな自然があるなんて…凜は胸を打たれた。この辺りも、一度は砂漠と化したはずだ。だが、毒の砂漠に阻まれここには人間がいない。きっと、リブドと自然の力が、長い時間をかけて、人間が破壊した大地を取り戻していったに違いない。諦めてはいけない、この世界が諦めない限り…。凜の歩調は、自然と早まった。
それからしばらくもしないうちに、どこかから波の音が聞こえてきた。ふいに、潮の香りが鼻についた。前から、明るい光が差し込んでくる。森を抜けると、そこには、どこまでも広がる美しい海があった。海の色は、青というよりエメラルドグリーンであった。太陽の光が波に反射して、海一面に宝石を敷き詰めたかのようであった。海のエメラルドグリーンと空の青、そしてそこに浮かぶ雲の白が絶妙なバランスで配置され、目の前の光景に、吸い寄せられるような無限の奥行きを与えていた。
しばらくの間、凜は言葉を失い、その場に立ち尽くしていた。なんて美しい世界なのだろう…ディルにも見せてあげたい…凜の目から、自然と涙がこぼれた。
ふと凜が我に返ると、リブドの姿がどこにもなかった。慌てて周囲を見回すと、森の出口の近くに灰色の壁が見えた。それは、リブドの死体であった。近付いてみると、死体の壁の一部が扉になっている。凜は息を呑んだ。少しためらったが、意を決してその扉をゆっくりと押した。すると、木がきしむような不気味な音を立てて扉が開いた。そこは、人が数人やっと入れるほどの小さな洞窟になっていた。中から、かび臭い湿った空気が漂ってきた。
中に入ると、一見、そこには何もないように見えた。しかし、その奥に、ほのかに青白い光を放つものがあった。
「リュウリン…?」
凜はその光に駆け寄り、しゃがみ込んだ。凜の顔が青白く照らされた。そこには、米粒ほどの石がたくさん積み重なっており、それが光を放っていた。
米粒のような石の中に一つだけ、凜の手の中にすっぽり入るくらいの大きさの石が埋もれていた。それは澄んだ水色の宝石のような美しい石だった。凜はそれを拾いあげた。すると、その石は突然強い光を放ち、凜は思わず目を閉じた。少しすると、光は弱まり、他の石と同じように青白い光をゆらゆらと仄めかしていた。
「ようやく呪いを解く者が現れたようですね」
突然、上から注がれた男の声に、凜は顔を上げ尻もちをついた。そして、目に飛び込んできた光景に思わず悲鳴を上げた。
目の前には、リブドをもっと人間の姿に近付けたような、得体の知れない生物が凜を見下ろしていた。その生物の頭には、明らかに一度も櫛を入れたことのない様子の銀色の髪の毛がもじゃもじゃと生えていた。顔はリブドのそれと全く同じであったが、肌は綺麗な緑色をしており、うぶ毛は生えていなかった。足は小枝のように細く、全身をねずみ色のマントですっぽり包んでいた。
得体の知れない生物は、凜を見てにこっと微笑んだ。リブドと同じ顔だったが、その表情はリブドよりはるかに豊かで、人間のようだった。
「そんなに怯えないで下さい。私は決してあなたの敵ではありません。ずっと、あなたが来るのを待っていたのです」
その口調はひどく優しかった。確かに、その穏やかな顔つきから、悪意は感じられなかった。
「あなたは、人間なんですか」
凛は恐る恐る立ち上がり、その生き物から何歩か後ずさった。
「この姿が、人間に見えますか」
謎の生物は、突然大声で笑い出した。
「私はリブドです。しかし、人間は私たちの存在を知らないのです。大丈夫、全てちゃんとお話しますから。ひとまず、私の家に来て下さい」
リブドは外に出た。凜も、恐る恐るそれに続いた。リブドは、マントの中から足と同じく小枝のように細い手を凜に差し出した。
「つかまって下さい。これから、私の家に案内します」
さすがに凜はすぐにその手を握ることができなかった。その様子を見て、リブドは再び笑いだした。
「私が信用できませんか。まぁ、無理もないでしょう。しかし、これならどうです。私がリュウリンに代わって、あなたに呪いを解く方法を教えると言ったら」
凜は目を見開いた。
「あなたは一体何者なんですか」
「大丈夫、これから全部お話しますから。私はそのために存在するのです。さあ、しっかりつかまって下さいよ」
リブドは凜の手首をぐっと握り、空に向かってジャンプをした。そのとたん、二人の周りにものすごい風が渦を巻き、体を包み込んだ。すると次の瞬間、ふわっと二人の体が持ち上がった。そうするやいなや、どんどん風が体を押し上げ、凛たちは空高くへと飛んでいった。
「きゃ!私、空飛んでる!」
凛が叫んだ。下を見ると、森がどんどん小さくなっていった。
「このマントは、上昇気流を自由に作り出すことができるんですよ」
リブドは得意気に話していたが、凜は全く聞いていなかった。
「すごい!鳥になったみたい!」
凛は興奮して腕をめいいっぱい広げ、風を吸いこんだ。帯状の雲が凛たちの周りを囲み、その中を泳ぐようにしてどんどん進んでいった。次第に、地上の景色が見えなくなり、雲で覆われ始めた。まるで、雪原を滑っているようであった。
前方には、地上から雲の上まで伸びている、巨大な木の幹が見えてきた。
「何あれ、ジャックと豆の木みたい」
凛が呟いた。これを聞いて、リブドは再び得意気に話し始めた。
「あの木は、ちょっと遺伝子を組み換えて作ったんです。あの木の上が私たちの棲家です。さぁ、これから乱気流に入ります。風が強くなるので、しっかりつかまって下さい」
すると突然、強風が四方八方から容赦なく吹きつけてきた。凛は前を向いていることができなくなり、リブドの腕を握りしめ、ぎゅっと目をつむった。
そこは、とても木の上とは思えない光景だった。まるで草原にいるようだった。ただ、雲がとてつもなく近かった。草原の中には、木造の質素な小屋が十軒ほど建っている他には何もなかった。オレンジに染まりかけた空が、草原を包み込んでいた。静寂に包まれたこの光景を見て、凛は初めて来た場所のはずなのに、どこか懐かしさを覚え、胸が痛くなった。
凜は一番大きな小屋の中に案内された。中は薄暗く、奥には二階に続く階段があり、中央には囲炉裏があった。そこでは小さな炎がオレンジ色の光を放っていた。
時が止まったような空間の中で、リブドは囲炉裏の傍に腰を下ろした。凛は囲炉裏を挟んでリブドと向かい合い、その場に座った。
リブドは大きなため息をついてから、その黒い目でゆっくりと凜を見つめた。
「あなたを待っているうちに、私もすっかり歳をとってしまいました。この日が来るのを、どれほど待っていたことか。あなた…というか、あなたの心の中にあるディアロス王子の心が、モデア女王に選ばれたのです」
「モデア女王?それに、ディルのことを知っているの?」
「ディアロス王子のことは当然知っています。彼は、本当に過酷な運命を背負っています。もちろん、彼は私のことは知りませんけどね。そして、あなたの首にかかっているその石には、モデア女王の慈悲の心が閉じ込められているのですよ」
凜は驚いて自分の胸元を見た。それは、リュウリンの墓場にあり光を放った大きな石に、この小屋に来たときにリブドがチェーンをつけ、「あなたが持っている必要があります」と言って、ネックレスにして凜の首にかけたものであった。
「その前にまず、私たちのことを話さなければいけません。四百年前のあの日、女王の呪いによって変えられてしまったのは、実は人間だけではなかったのです。どういう訳か、私たちリブドもあの日以来、二つの種類に別れてしまったのです。呪いの副作用とでも言えば良いのでしょうか。けれど、考えてみれば当然のことなのかもしれません。人間も自然の一部ですから、人間に何かしらの変化が起これば、その影響が自然界にも及ぶのは当然なんです。
リブドは、呪いによって何も変わらなかった者と、ある力を授かった者とに別れました。何も変わらなかった者は地上に残り、力を授かった者はこうして誰にも見つけられない場所へと逃げました。
私たちが授かった力とは、知能です。それも、人間なんかの比にならないほどの。その代わりに、体の強さは失いましたけどね」
リブドは、自分の折れそうな腕を撫でながら話を続けた。
「私たちがなぜこんなところへ逃げたのか。それは、人間に私たちの存在を知られてはならないと考えたからです。人間という生物は、本当に弱い。もし私たちの存在を知れば、自分の力で呪いを解こうとはせずに、すぐ私たちの知能に頼ろうとするでしょう。
しかし、私たちの知能を使ってどんなに素晴らしいものを作り出したとしても、決して呪いを解くことはできないのです。なぜなら、この呪いを生み出したものが、人間の憎しみの心だからです。人間の憎しみに打ち勝つことができるものは、この世にたった一つしかありません。それは、人間の慈悲の心です」
「人間の慈悲の心…」
凜は呟いた。リブドは頷いた。
「私たちはこの世界が呪われた時から、このままでは世界が滅びるということなど分かっていました。そして何度も、砂の毒を消す薬を作り、それを世界にばらまこうとしました。
しかし、あえてそうしなかった。薬をばらまけば、確かに毒の砂漠はなくなるかもしれない。ですが、根源的な問題は何も解決しません。むしろ、それによって人間は自然に対してもっと傲慢になり、戦争や自然破壊を何度でも繰り返すようになります。そうなれば、慈悲の心を持つ人間が現れることはなくなり、呪いを解くことは永遠にできなくなります」
リブドは凜の首元を見つめた。
「それで、その石ですがね、女王はこの世界を呪うとき、憎しみの呪いをかけるために邪魔な存在である、かつて心の底から平和を望んでいた自らの慈悲の心を消すために、それを自分から切り離し、封印の石に閉じ込めたのです。
封印の石とは、もともと異世界への道を封じている石です。慈悲の心を封じ込めるために、女王は普段隠されているその石を現したのです。それによって封印が解かれ、異世界へと通ずる道が現れてしまったのです。こちらの世界からの道は女王が再び隠しましたが、異世界からの道を隠すことはできませんでした」
凛は、自分の世界の雑木林と、こちらの世界の草原にあった、巨大なブルートパーズの原石のような岩を思い出した。確かに、それとこの石は、同じ色をしていた。
「女王の心が封印された石は、リュウリンの墓場の中に埋もれていました。リュウリンはかつて平和を望む人間の願いを叶えたもの。慈悲の心と共鳴したのかもしれませんね。
私たちはこの事実を知ったとき、女王の憎しみに心に打ち勝てるほどの慈悲の心を持った者であれば、必ず女王の慈悲の心と共鳴し、その石が何らかの反応を示すに違いないと考えました。そこで、世界中に噂を流したのです。リュウリンには、呪いを解く鍵があるらしいと。その噂に望みをかけ、リュウリンの墓場までやってくる人間には、深い慈悲の心があると思ったからです。
長い間に、何人かの人間がリュウリンの墓場にやってきました。ですが、女王の石は何の反応も示さなかった。もちろん、その者たちにも慈悲の心はあったはずです。しかし、女王の心とは共鳴しなかったのですね。その女王の心は、呪いの妨げになるから切り離された心です。それが呪いを解く鍵になることは間違いありません。その心と共鳴しなければ、おそらく呪いは解けないのです」
リブドはおもむろに立ち上がり、近くの棚に置いてある小さな壺から何本か串団子を取り出した。たれがたっぷりしみ込んで、見ただけで口の中に唾が溜まった。リブドはそれを、囲炉裏の中に刺していった。
「そんなときに、ディアロス王子が現れたのです。彼がなぜ弱者として生まれたのかは私にも分かりませんが、彼は女王の血を受け継ぎながら、かつての女王と同じように争いを止めようとしていました。私たちは、彼に望みをかけたのです」
「だけど、ディルはここに来れなくなってしまった。その代わりに私がやって来た」
「ええ。そうしたら案の定、石は初めて反応しました」
リブドは串団子をひっくり返した。香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。
「リブドさん。私、今すぐにでもディルを迎えに行きたいんです」
リブドは、にっこり微笑んだ。
「呪いを解くには彼が必要です。いいでしょう、協力しましょう。ただ、今すぐというのはだめです。あなたは昨晩寝ずに歩き通しでした。ここで休んでおかないと、体がもちません。明日の朝出発しましょう。まずはこれでも食べてください」
リブドはほどよく焼き色がついた串団子を凜に差し出した。そして、再び立ち上がり、部屋の奥から二つの小瓶と、ライフルのようなものを取り出してきた。全く想像もしていなかった、えらい物騒なものが出てきたと、凜は思わず身をすくめた。
「この瓶の中には、飲むと体が見えなくなる薬が入っています。そしてこちらの瓶はその解毒剤。飲むと体が元に戻ります。この物騒なものは、溶解器です。どんなものでも、一瞬にして溶かして気体にしてしまいます。おそらく王子はどこかに閉じ込められているでしょう。これらがあれば、城に忍び込んで、閉じ込められている部屋の鍵も一瞬で溶かせますよ」
「すごい…」
平凡な言葉しか出てこなかったが、凜は串団子を食べることも忘れてその不思議な道具に見入っていた。「こんなものを作るのは朝飯前ですよ」と言いながら、リブドも串団子をほおばった。
その晩、凜はリブドの小屋の二階にある部屋で泥のように眠った。何度か、寝言でディルの名前を呼んでいたことは、誰も知らない。
十二
「ここで何をしているんだ、クロムニク」
クロムニクは動きを止め、ゆっくりと振り向いた。そこには五人の家臣を引き連れたカルディスが立っていた。眼光は鋭かったが、込み上げてくるにやつきを抑えきれないのか、口元が歪み、バランスの悪い表情をしていた。
そこは、新王軍がエルマドワ国から奪った領土であった。そこの新王軍の上層部が出入りしている建物から、クロムニクが何人かの部下を引き連れて外に出てきたのだ。エルマドワ国の総督たる人間が、決していてはならない場所であった。
「おや、カルディス王子。私をつけてきたのですか」
まだほんの子供で、世の中のことを何も知らないくせに自分が一番強くて偉いと思い込んでいる、脳みそのないドラ息子としか思っていなかったから、クロムニクはカルディスを全く警戒していなかった。
「貴様が新王軍を動かしていることは分かってるんだ。今ここにいることが動かぬ証拠だ。今から貴様を連行する」
カルディスはあごで家臣たちを動かした。まさに家臣たちがクロムニクを捕えようとした瞬間、赤黒い閃光が走った。それと同じくして、カルディスが倒れた。その場にいた者たちは皆、この一瞬に何が起きたのか全く理解できなかった。
「カルディス様…?」
家臣の一人がカルディスに駆け寄った。しかし、すでにカルディスは絶命していた。家臣たちは、今目の前で起きたことが現実と思えなかった。エルマドワ王家が、殺された?皆戦慄し、しばらくの間ものを考えることもできなかった。
「貴様…自分が何をしたか分かっているのか…貴様は、神の命を奪ったのだぞ!」
ようやく、家臣の一人が半狂乱になって叫んだ。クロムニクも、狂ったように笑い声を上げた。
「神だと?笑わせるな。エルマドワ一族に神の血など流れていない。流れているのは、穢れた血だけだ!」
クロムニクは、右の手のひらを空に向けた。するとそこから赤黒い光が放たれ、それは空高くで花火のように爆発し、広大な範囲に広がっていった。
「全世界の新王軍に告ぐ。時はやってきた。直ちに、穢れたエルマドワ王族に総攻撃を仕掛けよ」
クロムニクの声は世界中の新王軍の耳に届いた。どこからともなく地響きが聞こえ、大地が揺れ始めた。
◆
「そういえば、ディルはお母さんからの手紙を鳥に運んでもらって、窓から入れてもらったって言ってた」
朝焼けが大地を照らし始めた頃、凜とリブドは雲の上を進んでいた。
上昇気流を自由に作り出せるというマントでの移動は、想像以上に快適であった。進みたい方向に進もうと思っただけで、自由自在に空の中を動くことができた。凜とリブドは各々マントを羽織り、エルマドワ城に向かっていた。
「窓ということは、かつて王子が閉じ込められていた部屋は地下ではありませんね。今も同じ場所に閉じ込められている可能性は低いですが、王子の存在は城の機密事項です。おそらく普通の者は近付けない、国王の部屋の近くにいることでしょう。国王の部屋はおそらく最上階。きっと王子もその辺りにいます」
下を見ると、雲が切れ間を見せ始めた。そこから、巨大な街並みがのぞいた。
「城下町に近付いてきました。ここから先はさすがに人間が空を飛んでいたら目立つので、これを飲みましょう」
リブドは止まり、懐から小瓶と赤い布を取り出した。
「この布は、透明にならないように仕掛けを施したものです。これをお互い腕に巻いて、どこにいるのか認識できるようにしましょう」
次から次へと出てくるリブドの不思議道具に、凜は舌を巻いた。凛はぎゅっと目をつむり、手渡された小瓶の中の液体を一気に飲み干した。それは甘ったるくて、思わず咳き込みそうになった。飲んだとたんに、凛の手は映りの悪いテレビのようにどんどんかすれていき、すぐに見えなくなってしまった。横を見ると、すでにリブドの姿はどこにも見えなかった。蝶々結びにされた赤い布だけが、ゆらゆらと宙に浮いていた。
「さあ、城に向かいましょう。まずは外から王子を探してみましょう」
二人は、さらに空の中を進んでいった。
エルマドワ城は、凜の予想をはるかに上回る大きさであった。黒い石造りの城には、いくつもの塔が高くそびえ立っており、まるで都心の高層ビル街が一つの城になっているようであった。
城の周辺には、数えきれないほどのバークと人々が、何やら騒々しく動き回っていた。人々は、地上にいるリブドの皮と同じ色をした鎧を着ていた。
「これは…どうやら巨大な戦争が始まろうとしていますね。このために私の仲間がたくさん殺された」
リブドの声しか伝わってこないが、その表情を歪めているのが凜には想像できた。
「急ぎましょう。二手に別れて、塔の最上階付近の窓をのぞいていきましょう。地道ですが、城の中に入って一部屋ずつ探していくよりは早いはずです」
凜はリブドと別れた。数多ある塔の窓を、一つずつのぞいていった。そこはたいてい、家臣の居室か、客間のような空き部屋であった。気持ちばかりが焦っていく中、突然「見つけましたよ」とリブドの静かな声が背後から聞こえた。そして、リブドは凜の腕をつかみ、そこからそう離れていない塔の最上階の窓付近に凜を連れて行った。
小さな窓から中をのぞくと、人がやっと一人横になれるほどの広さしかない空間に、ディルがこちらに背を向けてぐったりと横たわっていた。凜は思わず窓枠にしがみついた。ディルの顔は見えなかったが、そこが劣悪な環境であることは一目瞭然であったし、横たわる様子からもディルがかなり弱っていることは明らかだった。
「なんて酷いことを…」
凜は全身を震わせた。
「外から溶解器で壁を溶かして連れ出すのが一番早いのですが、部屋が狭すぎて、ここから溶解器を使うと壁と一緒に王子も溶かしてしまいます。面倒ですが、城の中から入りましょう。今戦争の準備で城の中は手薄になっているはずです。きっと、スムーズにここまで辿り着けるでしょう」
リブドは再び凜の腕をつかみ、二人は城の入り口へと向かった。
外の世界と隔絶されたこの狭い牢屋の中からでも、城の様子が尋常ではないことは何となく分かった。牢屋の前で見張りが何かを大声で話し、ばたばたと動き回っている気配が伝わってきた。ついに世界戦争が始まってしまったのだろうか…朧げな意識の中で、ディルはどうすることもできない自分の無力さを呪った。
ここに閉じ込められてからどのくらい時間が経過したのかも分からないが、生きるのに最低限の食糧と水だけを与えられ、当然体の治療などろくにしてもらえるはずもなく、今も全身の痛みが治まらず、治るどころか傷口は化膿して悪化し、日に日にディルは衰弱していった。
「ディル!今助けに来たから!もう少しだけ待ってて」
今のはリンの声…?しかも、この扉のすぐ向こうから聞こえた気がした。こんなところにリンがいるはずがない。俺はついに幻聴まで聞こえるようになってしまったのか…。しかし、扉のドアノブがガチャガチャと音を立て動き出したとき、ディルは痛みをこらえて思わず上半身を起こした。まさか、本当にリンが…?
凜がその扉を思い切り開けると、そこにはディルがいた。大きく見開いた目で、唖然と凜を見つめていた。凜はディルに駆け寄り、そのまま思い切り抱き締めた。「本当にリンなのか…」うわ言のようなディルの言葉に、凜は何度も頷き、さらに強くディルを抱き締めた。そして凜はじっとディルを見つめた。その顔は土気色で、襟元から生々しい傷跡がいくつも見えた。凜は、すっかり痩せてしまったそのディルの顔を優しく両手で包み込んだ。
「ディル…全然大丈夫じゃないよね。遅くなって本当にごめんね。今すぐ安全なところに連れて行くから」
この言葉にディルは首を振った。そして、凜を強く抱き締めた。
「リン…会いたかった…」
しばらく二人は抱き締めあった。
「あの…お取込み中大変申し訳ないのですが、そろそろ溶解器を使ってもよろしいでしょうか…」
リブドの恐縮した声に凜は後ろを振り返り、顔を赤らめた。ディルはこのとき初めてリブドの存在に気付き、その得体の知れない生き物に声を失った。
「ディル、この人はリブドで、私たちの味方だから安心して。後で全部説明する。リブドさん、ごめんなさい。お願いします」
凜はディルとともに扉の方に退いた。リブドは、溶解器を構え、そこから壁に向かって赤い光を発射させた。壁はみるみる溶けてなくなっていき、ぽっかりと外に通じる大きな穴が開いた。凜は、持ってきた縄でディルと自分の胴体を一緒に縛り付けた。
「信じられないと思うけど、これから空を飛んでここから逃げるから、私にしっかりつかまって」
そして、三人は空に向かって飛び立った。
背後から突然何者かに棒のようなもので殴られて意識を失っていた見張りが目を覚ますと、牢屋の中はもぬけの殻であった。なぜか、壁に大きな穴が開いていた。そこから外を見下ろしたが、人ひとり見当たらなかった。
ディルは、リブドの小屋の二階にある部屋のベッドの上で目を覚ました。窓の外はすっかり暗くなっており、大きな月が浮かんでいた。全身の痛みは嘘のように消えており、傷跡こそ残っているものの、傷もすっかり治っていた。体調も、城に連れ戻される前よりもむしろよくなっているような気がした。
「ディル、目が覚めたんだね」
凜が笑って部屋に入ってきた。そして、ベッドの枕元にある椅子に腰かけ、ディルの顔をのぞき込んだ。
「体調はどう?」
「あぁ、お陰ですっかりよくなった」
「よかった。リブドさんの薬は信じられないくらい効くからね」
凜は安堵のため息をつき、にっこり微笑んだ。その顔を見て、ディルは凜の手首を握った。
「リン、もっと傍に…」
ディルは凜を引き寄せた。そのまま凜はディルに覆いかぶさるようにして倒れた。ディルは凜を強く抱き締め、その首筋に顔をうずめた。凜も、力いっぱいディルを抱き締めた。
そして、ディルはじっと凜を見つめた。それは、凜がこれまで見たことのない表情だった。その瞳は濡れ、触れれば壊れてしまうのではないかと思うくらい脆く、儚い面差しで、ディルの中にある深い闇も、痛みも、葛藤も、そして自分への溢れんばかりの想いも、全て凜は感じることができた。このときほど、ディルを美しいと思ったことはなかった。凜の胸は震え、息が止まりそうになった。
「本当に迎えに来てくれたんだな…」
ディルの声はかすれていた。
「ディルをいじめる人たちが許せなかったの。どうしてもディルを助けたかった」
ディルは再び、凜を壊れるくらい抱き締めた。
「リン…好きだ…」
凜の瞳から涙が溢れた。
「私も…大好き…」
ディルは、凜に熱く口づけした。しばらく二人は熱い口づけを交わしあっていた。口づけをしながら、ディルは凜の胸をまさぐり、ブラウスのボタンを外していった。そして二人は互いの服を脱がし、ディルは凜の中に深く、深く入っていった。凜は、思わず声をあげた。今このときだけは…二人は、全てを忘れて悦びに打ち震え、没頭していった。
外はだんだん白み始め、朝を迎えようとしていた。
「お体の具合は、もうすっかりよくなりましたか」
翌日の夕暮れ時、リブドは例によってまた囲炉裏で串団子を焼いていた。今度は緑色のたれがついており、柑橘系の爽やかな匂いが部屋を漂っていた。
凜とディルは囲炉裏の傍に並んで座っていた。ディルは、リブドの画期的な薬と食事のお陰で、すっかり体力を取り戻していた。リブドのことや、リュウリンの墓場のことについては、全て凜から話を聞いていた。
「それで、呪いを解くにはどうしたらいい」
凜はすっかり慣れてしまったが、ディルのぶっきらぼうな言葉を聞いて、リブドは、ははっと笑った。
「空の上からずっとあなたを見てきました。ようやく会えて私は嬉しいのです。それに、近くで見ると格段に男前じゃないですか。ですが、仲良くなるには時間がかかりそうですね…」
リブドは立ち上がり、部屋の奥の棚から小瓶二つと刀を一本取り出し、ディルに差し出した。
「モデア女王の墓場に行きなさい。あなたと、女王の石を持ったリンさんがそこに行けば、きっと女王は目覚めるはずです。それから後は、正直どうなるか私にも全く分かりません。ですが、女王の慈悲の心を女王に戻すことができれば、おそらく呪いは解けます」
モデアという言葉を聞いた瞬間、ディルの顔は凍りついた。
「何言ってんだ。あそこには常に見張りがいて、入るどころか近付くことさえ…」
「だからこれが必要になるんです、ディアロス王子」
ディルの言葉を遮って、リブドはその手に小瓶を握らせた。
「これは、体が見えなくなる薬です。使い方はリンさんが知っています。これを飲んで、うまく墓場に忍び込むんです。それと、もし途中で邪魔が入ったら、この刀を使ってください。これはただの刀ですが、あなたは刀の扱いが巧いようですから、護身具として役立つでしょう。溶解器のような物騒なものを持たせてしまうと、人間に私たちの存在を勘づかれてしまいかねませんから」
リブドは微笑んだ。そして、少し焦げた串団子を抜き、二人に差し出した。
「せめて今夜だけは、最後にゆっくりしていってください。間もなく大きな戦争が始まろうとしていますが、動き出すのは明日以降でしょう」
凜は、串団子をほおばった。焦げた部分が少しだけ苦い。窓から見える空は、紫色に染まっていた。帯状の雲が真横を流れていた。凛は、隣にいるディルの手をぎゅっと握った。ディルは、窓の外を見つめたままこちらを見なかったが、そっとその手を握り返した。
夜も更けた頃、ベッドの上でディルは眠れずに寝返りを打った。隣では、凛が静かに寝息を立てていた。ディルは、窓からの星明かりに照らされた凛の寝顔をじっと見つめた。そして、そっとその頬を愛撫した。
ディルは迷っていた。これから向かうモデアの墓場は、呪いの根源であるモデアの遺体が眠る場所で、本来、弱者が足を踏み入れてはいけない場所であり、踏み入れたら最後、命の保証などないことを知っていたからだ。そんな場所に、この人を連れて行っていいのだろうか…。
凛の額に自分の額をコツンと当て、しばらく目を閉じてから、ディルは起き上がり、階段を下りた。
「眠れないのですか」
囲炉裏の傍には、まだリブドがいた。葉巻を吸いながら、緑色の液体をカップに入れて飲んでいた。ディルは、リブドの横に立ち止まった。
「迷っているのですね。リンさんをあの場所に連れて行っても良いか」
リブドは、口から煙を吐き出した。その匂いは、ディルが嫌悪する葉巻の匂いとはかけ離れた、非常に爽やかで清々しいものであった。
「リンさんは、この世界の人間ではありませんね」
ディルは、初めてリブドを見た。
「それがどうした」
リブドはディルの顔を見て、ははっと笑った。
「あなた、やっぱり友達つくるの苦手でしょう。まぁ、それは置いといて…この世界の弱者であれば、あなたの正体を知った上で、あなたとここまで親密にはなかなかなれませんからね、そう思ったんです」
リブドは、遠く窓の外を眺めた。
「異世界の人間であれば、連れて行っても良いのではないですか。どっちにしても、もう永くはないのですから」
しばらく、沈黙が流れた。
「どういうことだ」
ディルのかすれるような声が、沈黙を破った。リブドは目を見開いて、ディルを見上げた。
「リンさんから聞いていませんか。これはいけないことをした…ですが、やはり真実は伝えておくべきです。彼女は、この世界でもう永くは生きられません。彼女の世界とこの世界とでは、時間の流れも空気も違うからです。次第に体がついていけなくなるのです」
「リンは、そのことを知っているのか」
「おそらく、知っています。すでに死の兆候が出ているはずですが、もし知らなければ、それにパニックを起こしているはずです。しかし、彼女からそういったパニックは感じられません」
「兆候が、出ているのか」
ディルは髪をかきあげ、しばらくじっと床を見つめていた。そして、静かに顔を上げた。
「俺は、どうすればいい?」
その声は震えていた。リブドは、鋭い目でディルを見上げた。
「そんな弱気な言葉、あなたらしくありません。あなたは呪いを解くのです、一刻も早く。そして、彼女を元の世界へ帰してあげるのです」
しばらくリブドを見ていたが、少し笑うと、ディルは出口へ向かった。
「どこに行くんです?」
「俺らしくなれるように、頭を冷やしに行く」
ディルは、夜風が吹く外へ出て行った。その背中を見て、リブドはカップの中味を静かにすすった。
「辛くて仕方がないのですね…」
小屋の出口からまっすぐ伸びる坂を登っていくと、そこには柵に囲まれた大きな井戸があった。この巨大な木の幹を通って、地上まで通じているのだろうとディルは考えながら、その横を通り過ぎた。するとそこからは、急勾配の下り坂になっていた。下をのぞくと、真っ暗で何も見えなかった。
ここが木の末端か…ディルは雲一つない星空を見上げ、井戸の柵にもたれかかりながら、崩れるように座り込んだ。ひんやりとした風が、ディルの髪をなびかせた。ディルは片膝を立て、しばらく遠い宇宙を眺めていたが、その首をうな垂れ、片手で頭を抱えた。
「リン…」
思わず、その名を口に出してしまった。すぐ隣で足音が聞こえたのは、その直後であった。
「なあに、ディル」
聞き慣れた声が上から聞こえてきた。顔を上げると、そこには凛が笑って立っていた。
「リン、なんでここにいるんだ」
「それはこっちのセリフだよ」
凛はディルの隣に座った。
「目が覚めたらディルがいなくて、窓の外を見たらディルが歩いてたから、ついて来ちゃった」
凛は笑った。それにつられて、ディルも笑った。二人は、こぼれんばかりの星空を仰いだ。
「なんだかこの景色、ディルと出会った頃に、西の草原で見た景色と似てる。あの頃、ディルすっごく無愛想だったよね。今でも全然愛想よくないけど」
二人はくすっと笑った。ディルは凛の肩を抱き寄せ、そのまま抱き締めた。凜もしばらくディルの胸に顔をうずめていたが、顔を上げ、ディルにもたれかかり星空を見上げた。ディルは凛の耳に頬を当て、後ろからぎゅっと凛を抱き締め、一緒に空を見上げた。
「あの頃は、誰も信じられなかった。心がすっかり汚れてたんだ」
しばらくして、ディルは思い出したように沈黙を破った。すると突然、凛は振り返り、首を振った。
「ディルの心は、最初から全然汚れてなんかないよ」
凛は、まっすぐディルの瞳を見つめた。ディルはその瞳を見るなり、凛を抱き寄せ、震える体で、強く、強く抱き締めた。
「今まで、そんな瞳で俺のことを見てくれた人間なんていなかった。人がこんなに温かいということを教えてくれた人間なんていなかった…」
しばらく抱き締めてから、ディルは遠い夜空を見上げ、ゆっくりその口を開いた。
「もうとっくに知ってると思うが、俺の本当の名前は、ディアロス・エルマドワ。エルマドワ国王家の第一子として生まれた。ずっと黙っていて悪かった」
凛は首を振った。ディルは話を続けた。
「純粋な強者の両親を持つにもかかわらず、俺は弱者としてこの世に生を受けた。なぜそうなったのか、俺自身にも分からない。
あの国では、王家の血は神の血とされている。だから、王家の人間を殺すことは、神を殺すことと同じで、決して許されない。だからこの十九年間、俺は弱者でありながらも、殺されることなく生き延びてきた。だが、俺が弱者だと国民にばれれば、王家の尊厳が失われ、一族の存亡に関わる。だから俺は、一部の人間の手によって極秘に育てられた。いや、生き永らえされたと言った方がいい。城の人間が弱者に対して抱く感情なんて、想像するに容易いだろう。
あまりの苦しさに、何度も死を考えた。だが、外には俺以上に苦しんでいる弱者がいた。その苦しみが分かるから、そこから解放させたいと心から思った。俺は、呪いを解くにはどうすればいいかを考え始め、城にあったあらゆる本をむさぼり読んだ。その中で、リュウリンの墓場のことを知った。そうして、呪いを解くために城を抜け出し、旅を始めた。
だが、旅の途中で、俺が救おうとしていた弱者までもが、俺の正体を知るなり血相を変えて俺を殺そうとした。エルマドワ家は呪いの根源だから、弱者に憎まれて当然なんだ。そうやって殺されかけているうちに、俺は誰も信じられなくなった。俺は誰のために、何のために生きているのか…いつしか、こんなことばかり考えていた。そして、当初の目的を忘れ去り、自分がもうこれ以上虐げられない世界にするためだけに、呪いを解こうと旅を続けていた…」
ふと、ディルの体が震えていることに凛は気付いた。凛は慌ててディルの口に手を当てた。
「ディル、もういいよ。もう何も話さなくていいよ」
しかし、ディルはそっとその手を押さえた。
「こんなことはもうどうでもいいんだ。そんな中で、俺はリンと出会った。リンと出会って、俺は生まれて初めて、自分の命よりも大切なものがあることを知った…」
ここでディルは言葉を詰まらせ、凛から視線をそらした。凛は両手でディルの顔を包み込み、コツンとおでこをくっつけた。
「大丈夫だよ、私はまだ死なないから」
ようやくディルは凛の瞳を見つめた。
「リブドさんから、私がもう永くないってこと聞いたんでしょ。ディルの顔見たら、何となく分かるよ」
凛は少し笑った。
「確かに、最近すごく疲れやすくなったし、急に発作みたいに、動悸が早くなったり、息が苦しくなったりするの。でも私は今、死ぬこと全然怖くない。だって、ディルがいつも傍に…」
凛の言葉を遮り、突然ディルは凛を抱き寄せ、力の限り抱き締めた。
「俺は、死ぬほど怖い…」
ディルのかすれた声を聞いて、凛の胸は締め付けられた。しばらくしてから、ディルは凛をまっすぐ見つめた。
「俺が生きている限り、絶対にリンを死なせはしない。リンが死ぬ前に、必ずこの呪いを解く。そして、リンは何が何でも生きて元の世界に帰るんだ」
弱者の村で凛が初めてディルの瞳に引き込まれたときと同じように、否、それ以上に強く光るディルの瞳を見て、凛の瞳からはポロポロと涙が零れ落ちた。ディルは、指で優しくそれを拭った。
「ディル、そんなこと言わないで。こんなに、こんなに好きなのに…でも、私たち…」
凛が最後まで言い終わらないうちに、ディルは凛に優しく口づけをした。そして、再び凜を抱き締めた。
「本当なら、決して出会うことはなかった。だけど、俺たちは出会えたんだ」
凛は、ディルに首筋に顔をうずめた。
「ディル、お願い。全てが終わるまで、ずっと、ずっと傍にいて。もう、どこにも行かないで」
「最後まで、ずっと一緒だ」
二人は微笑み合った。そして、ディルは凛に熱く口づけをし、凛はディルの体を力いっぱい抱き締めた。それから二人は、口づけをやめなかった。いや、やめることができなかった。そうすることで、二人は今自分の愛する人と体温を分かち合っているという事実を噛みしめていた。これが決して夢ではないことを確かめていた。
そんな二人を、星の光が照らしていた。星空は、ゆっくりと宇宙のドームを進んでいた。その動きに共鳴して、帯状の雲が遥か彼方まで伸び広がっていた。それはまるで、永遠の方角を示しているかのようであった。
白い雲に覆われた足元の遥か下に、砂漠であろうか、茶色い地面がのぞいていた。空を飛んでいる間は怖くないのに、こうして木の縁に立ち地面からのぞき込むと、その高さに凜は全身がぞわぞわした。
「これは、私のものと同じマントです。空を飛ぶことができます。進みたい方向に体を動かしただけで、自由に進むことができます」
リブドは、ディルに紺色の布を手渡した。凜の灰色のマントとは色が違っていた。
「モデアの墓場は、ここからちょうど北へ進んだところにあります」
「墓場の場所は知っている。城の裏のずっと先だ」
そっけない返事をしながら、ディルはマントを羽織った。リブドは「最後まで仲良くなれませんでしたね」と、ふふっと笑った。
「本当にありがとうございました。リブドさんがいなければ、ディルを助けられませんでした。あと、お団子も美味しかったです」
凛はリブドに深々と頭を下げた。
「いいえ、お礼を言いたいのはこちらの方です。あなた方に全てを託してしまったのですから」
いつの間にかリブドの後ろには、十人ほどの他のリブドたちが並んでいた。
「必ず、生き延びて下さい」
リブドは凛の肩に優しく手を置いた。その顔を見て、凛は一瞬口をつぐんだが、やはり大きく息を吸い込んだ。
「あの、もし呪いを解いたら、あなたたちはどうなるんですか」
「ただ知能がなくなるだけです。さぁ、そんなこと気にしないで、お行きなさい」
リブドは二人の背中を押した。二人は顔を見合わせ、手を繋いだ。そして、木の縁から思い切り飛び降りた。
残されたリブドたちは、凜たちの姿が見えなくなってもなお、遠く北の方の空を見つめていた。リブドは一人呟いた。
「あの二人なら、きっとやってくれるでしょう」
十三
空の色は、水色からオレンジ色に変わろうとしていた。その頃、二人はようやく地に足をつけた。
そこはエルマドワ国の城下町から外れた草むらだった。これからモデアの墓場に入ることに備え、リブドからもらった食糧を食べておくことにしたのだ。
ディルは、遠くに見える城下町をじっと見つめた。
「町が静かすぎる。こんなに静かだったことは、俺の知る限りいまだかつてない」
確かに、あれほどの大都会にもかかわらず、そこから人々の活気のようなものは全く伝わってこなかった。むしろ、不気味なまでの静寂に支配されており、廃墟のようであった。
「戦争に一般の人々がかり出されているのかもしれない。戦争が始まるのは時間の問題だ。リン、急ごう」
急いで食糧を食べ、二人が立ち上がったとき、突然凛が悲鳴を上げ、倒れるようにして膝をついた。ディルは慌てて凛を抱きとめた。ディルの胸の中で、凛は頭を抱え込み、肩を震わせながら呼吸を荒げた。
「ごめんね、久々に昨日言った発作が出…」
最後まで言い切らないうちに、凛はさらに大きな悲鳴を上げ、全身を大きく震わせてうずくまった。凛は過呼吸になっていた。頭が割れるように痛く、顔色は一気に蒼白になった。ディルは凛の背中をさすりながら、凛の頭に自分の額を当てた。
「リン…無理させて本当に悪かった」
ディルのこの言葉に、凛は激しく首を振った。そして腕を震わせながら、ぎゅっとディルに抱きついた。ディルは優しく凛を抱き締め、背中をさすり続けた。
しばらくして、ようやく凛の呼吸が落ち着き、体の震えもおさまった。
「ありがとう、ディル。もう大丈夫」
ディルは凛を抱き締めた後、静かに凛と向き合い、その顔をじっと見つめた。
「リン、やっぱりお前は…」
ディルが言い終わらないうちに、凛は首を振った。
「私、結局時が来れば死ぬんだよ。無理してもしなくても変わらない。私、本当にもう死ぬこと怖くないの。だからお願い、ディルも怖がらないで」
ディルは少しの間、じっと凛を見つめていたが、ふっと表情を緩めた。
「どうすれば怖くないだなんて言える」
ディルは突然凛を抱きかかえ、そのまま空に浮かんだ。
「少しだが、墓場に着くまで寝ていろ」
「何言ってるの。こんな状況で寝れるわけないじゃん。ディルのばか」
言いながらも、凜はディルの首に腕を回し、ぎゅっと抱き締めた。ディルの温もりを感じながら、凛は小声で囁いた。
「ディル、私やっぱり、ずっとディルと一緒に生きていたい…」
ひっそりとした岩場の陰にそれはあった。ドーム型をした墓は、入口の左右に掲げられた松明で照らされていなければ、周囲の岩に紛れて気付かずに通り過ぎてしまうほど目立たないものであった。入口には、一人の鎧を着た強者が、腰にモダニアを携え、槍を片手に仁王立ちしていた。
二人は入口のすぐ傍の岩陰に隠れた。ディルはポケットに手を突っ込み、そこから小瓶を二つ取り出して、そのうち一つを凛に手渡し、凛の手を握った。
「俺が石を投げたら、一気に飲むぞ」
ディルはそこらに転がっていた小石を、見張りの前方めがけて投げた。石は、音を立てて地面に落ちた。見張りは体をビクンと震わせ、槍を握り締めながら前方へ駆け寄った。
これを見て、凛は薬を一気に飲み干した。横を見ると、すでにディルの姿はどこにも見えなかった。しかし、すぐに手を引っ張られ、凛は少し安心した。
自分の足が見えないため、今どこを歩いているのかも分からず何度もつまずきそうになったが、何とか見張りの後ろを堂々と通り抜け、二人は薄暗くて湿った空気の墓の中へと足を踏み入れた。
少し奥に進んだところで、各々用意していた解毒剤を飲んだ。ようやく凛の横にディルの姿が現れた。二人は立ち止まり、互いの顔を見て少し笑い合った。そして、周囲を見回した。
墓は、わずかの隙間もなく石を積み上げて造られていた。しばらく狭い通路が奥へと続いており、それ以外に何もなかった。奥からは、何かが腐ったような嫌な臭いがし、それが鼻を突いた。凛は手で鼻を覆いながら、ディルの手を握り奥へと進んでいった。通路を進むにつれて、奥にぼうっとした赤黒い光が見えてきた。
通路を抜けると、広いホールに出た。そして、目の前の光景に思わず二人は息を呑んだ。
そこには、強者の瞳よりも赤黒く濁った巨大な光に包まれた女性が、石の棺の中に横たわっていた。周囲には、たくさんの白骨が散乱していた。本物の白骨に凛は悲鳴を上げそうになったが、ぐっとこらえて隣のディルの手を握りしめた。
「ディル、この人本当に死んでるの?」
散乱した白骨につまずきながら、凛は光に包まれたモデアに近寄り、恐る恐るのぞきこんだ。それは、何百年も前の遺体とはおよそいえない状態であった。まだ生きた若く美しい女性が、そこに眠っているようにしか見えなかった。
「もしかすると、モデアは今でもこの中で生きているのかもしれない」
「そうだとしたら、この人すごく可哀相。とっても苦しそうな顔をしている」
ふと凜は、胸元の石を首から外した。それは何の反応も示さなかった。それをモデアの遺体に近付けようとすると、石から火花が飛び散り、それ以上近付けることができなかった。
「その石はモデアに拒絶されているようだな」
ディルがそう言った直後であった。モデアを包む光が突然大きく歪んだ。それと同時に、背後から足音が聞こえてきた。
「誰だ」
ディルはとっさに後ろを振り向き、刀を抜いて構えた。通路から、甲高い笑い声が聞こえてきた。そして、一人の男が暗闇から姿を現した。
「そんなに殺気づかないで下さいよ。せっかく再会できたんですから」
聞き覚えのある声に、凛の心臓は激しく高鳴った。男はまた一歩、二人に歩み寄った。モデアを包む赤黒い光が、男の顔を照らした。その男は、顔に張り付けたような柔和な笑みを浮かべていた。凜は記憶の糸を手繰り寄せた。
「あなたは確か、クロムニク総督…」
「おや、私のことを覚えていてくれたんですね。嬉しい限りです。私もね、あれからあなたのことが気になって、あるルートからあなたの残像を手に入れたんですよ。そこで感じたあなたの気配を覚えておいたんです。これまでどこにいるのか全く分からなかったのですが、突然モデア女王の墓場にあなたの気配を感じましてね、慌てて来たわけです」
クロムニクは視線をディルに移した。
「ですが、今ちょっと立て込んでましてね、あなたの体を調べるのはまた今度にして、私は今むしろ、あなたと一緒にいるディアロス王子に用がありましてね。王子、お久しぶりです。といっても、王子は私のことなど覚えていないでしょう。私が城にいたとき、あなたはまだ赤ん坊でしたから」
クロムニクはごく自然に腰の刀を鞘から引き抜いた。ディルは刀を構えながらも、瞬時に考えた。俺のことを知る家臣の中に、クロムニクなどという男はいなかったはずだが…。
「そうそう、あなたの弟ですがね、私を嗅ぎ回っていたようで、邪魔だったので殺しましたよ。口ほどにもない奴でした」
「カルディスを殺したのか」ディルは息を呑んだ。
「ええ。案の定エルマドワ国は大騒ぎです。なので、それをきっかけにして、新王軍はエルマドワ国に宣戦布告することにしました。新王軍の主張が正しいことを証明するために、私はディアロス王子を今ここで捕え、新王軍に引き渡す必要があるのです」
「まさか貴様…」
ディルは目を見開いた。ディルとクロムニクの視線がぶつかった。クロムニクは、不敵な笑みを浮かべた。
「そうだ、新王軍の頭はこの俺だ」
クロムニクは、とたんにその口調を一変させた。
「もうやめだ。クロムニクを演じるのは疲れた。ディアロス、貴様のお陰でエルマドワ家を滅ぼし、ついに俺がこの世界を支配することができる。そのお礼だ。特別に今まで誰にも明かしたことのない、俺の真の正体を教えてやろう。俺の本当の名前は…ディアロス、クロムニクを逆から読んでみろ」
「クニムロク…クニ・イムロクか!」
ディルは叫んだ。
「その通りだ。俺は今から四百年前、モデアに直接手を下したイムロク国の王、クニ・イムロクだ」
「なぜ今も生きている。モデアを殺した直後、貴様も死んだのではなかったのか」
「死んじゃいないさ。そこで眠っている女がまだ死んでいないようにな。その女がかけた呪いは、皮肉にも自分の命を奪った俺を強者にした。力尽きようとしていた俺は、授かったばかりの魔力を使って、ちょうど動物が冬眠するように、自ら長い眠りについた。その間に力を蓄え、必ずエルマドワ国をこの手で滅ぼすと心に決めながら。
そうして四百年の月日が流れ、ついに俺は目覚めた。体中に満ち溢れる魔力を感じながら。そして、クロムニクという架空の人間になりすまし、まんまと貴様ら の城で仕えることに成功した。
俺が城で仕え始めた頃、ちょうど貴様が母親の腹の中にいた。しかし、貴様が産まれてから、国王は何かと理由をつけて貴様を隠した。他の家臣と違って俺は国王を信用していなかったから、そこに何か訳があるとにらんだ。そこで密かに貴様の部屋をのぞいてみると、そこには弱者の赤ん坊がいたわけだ。
そのとき俺は、新王軍を立ち上げエルマドワ家を滅ぼすことを思い付いた。そこで俺はまず、自ら望んで総督になり下がり、自由に動ける体制を確保した。それからは、貴様の正体さえ知っていれば簡単なことさ。周囲の強者にこう囁いてやるんだ。『城に仕えているときに見てしまったんです。ディアロス王子は弱者だった。その証拠に、国王は王子のお披露目をしたでしょうか。神の血を引く王家といっても、エルマドワの血には穢れた血が混じっているんです。それならばいっそ、純粋な強者を王とする新たな国をつくろうではありませんか』とな。
中には、王家を冒涜するなと、俺を殺そうとした馬鹿な強者もいた。だが、俺の魔力の強さに屈服し、俺の言葉を信じた強者もいた。そうやって俺を信じた強者で新王軍を結成した。そうだ、この世界戦争が実現したのはディアロス、貴様のお陰だ」
クロムニクは大声で笑い始めた。ディル顔は青ざめ、呼吸は荒く、体は震えていた。そんなディルを見て、凛はぐっと奥歯を噛みしめ、ぎゅっと拳を握った。
「あなたって、本当に最低!」
突然凛が大声を上げた。クロムニクは笑うのを止めた。
「誰よりも苦しんだのに、それに負けずに弱者を救おうとしているディルが、誰よりも強くて偉いんだよ!あなたなんか、たくさんの人を殺して、傷付けてばかりで、誰一人救ってないじゃない!そんな最低なあなたがこれ以上ディルのこと馬鹿にしたら、絶対に許さない!」
凛が叫び終わったとき、突然その首にかかっている石が鮮烈な光を放った。それと同時に、モデアの体を包む光が大きく揺れた。
しかし、それは一瞬の出来事で、すぐに石もモデアを包む光も元に戻ってしまった。だが、クロムニクはひどく動揺している様子であった。その額には汗が光っていた。クロムニクは凛を睨みつけた。
「やはり貴様の体を調べるのはやめだ。今すぐここで殺す。貴様の持つ力は読めない。呪いを解かれたら困るんだ」
クロムニクはついに刀を振り上げた。耳を劈くような金属音が墓場に響いた。ディルがクロムニクと刀を交えた。
「魔力の源があるこの場所では、魔力が使えないから困る。だが、俺の刀の腕前もなかなかのもんだろう」
クロムニクは狂ったように笑い声を上げた。しばらくの間、ディルとクロムニクの激しい刀の打ち合いが続いた。
その様子を見て、凛はそこらに転がっていた骨をクロムニクの顔に投げつけた。それは予想以上に上手く当たり、クロムニクは小さな叫び声をあげた。その隙を狙って、ディルはクロムニクの心臓めがけて斬りにかかったが、クロムニクは間一髪でそれをかわすと、ディルではなく凛に襲い掛かった。ディルは、急いで凛の元へ駆け寄り、クロムニクの刀を受け、そのままクロムニクの刀をなぎ払った。
「リンには指一本触れるな」
クロムニクはニヤニヤと笑った。
「貴様、女の命と自分の命と、どっちが大事なんだ」
「リンの命だ」
ディルは即答した。クロムニクは鼻で笑った。
「分からないな、その感覚」
「当然だ。分かる奴は戦争などしない。自分のことしか考えられなくなった愚かな人間がすることが戦争だ。だが、それが結局自分の首を絞めていることになぜ気付かない。戦争で世界が滅びれば、貴様も死ぬんだ」
クロムニクは歯をむき出して叫んだ。
「くだらん!世界は滅びぬ。俺は死なん!」
クロムニクは刀を振り上げた。そして、再び打ち合いが始まった。
しばらく打ち合いが続いていたが、不意にクロムニクの視線が凛の方へ移った。ディルがそれに気を奪われた一瞬の隙に、クロムニクは地面に転がっていた骨を拾い、ディルの顔に思い切り投げつけた。それはディルの目に当たり、ディルの左目からは血が流れた。ディルがよろめくと、クロムニクはディルを通り越して、墓場の端にいた凛めがけ襲い掛かった。ディルが急いで振り返り、刀を振り上げたそのときであった。凛は襲い掛かるクロムニクに、自ら突進していったのだ。そして、その足にしがみついた。足を取られたクロムニクは、仰向けにひっくり返った。
「リン、そこをどけ!」
ディルはクロムニクの心臓めがけて刀を振り上げ、そこを一突きした。一瞬、墓場は静寂に包まれた。
「死んだのか…」
ディルが刀を引き抜こうとしたそのときであった。突然、クロムニクが刀でディルの腕を振り払いながら起き上がり、そのまま立ち上がった。
ディルの両腕からは、血が流れていた。しかし、ディルはそのことにも気付かない様子で、唖然とクロムニクを見つめていた。それは、凛も同じであった。
そんな二人の様子を見て、クロムニクは真っ赤な口を顔いっぱいに広げて、狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「だから俺は死なないと言っただろう。四百年間眠って力を蓄えたおかげで、俺の体はかなり頑丈にできている。心臓を刺したくらいじゃ死なないぜ、ほら」
クロムニクはディルに刺された箇所に手をかざした。すると、みるみるうちに傷口は閉じていき、何事もなかったかのように元通りになっていた。
「そういうことか」
ディルは静かに呟き、クロムニクを見据えた。そして、無言で刀を鞘にしまい、それを通路近くの、手が届かないところに投げ捨てた。
「どうした、俺を殺せないと知って降参するか」
「リンと話をさせろ。少しでいい」
クロムニクはニヤリと笑い、一歩後ろに退いた。ディルは、静かに凛に歩み寄った。
「ディル…」
凛も不安げにディルに歩み寄った。ディルは凛の手首をつかみ、そのまま抱き寄せた。凛を強く抱き締めながら、ディルは耳元で囁いた。
「リン、よく聞け。これから俺が合図をしたら、俺の刀を持って城に向かえ。そして、俺とクロムニクがモデアの墓場にいて、俺が呪いを解こうとしていると言って、国王に会わせてもらうんだ。リンには魔力が効かないから、いずれにしても国王には会わせてくれるだろう。国王に会ったら、俺の刀を差し出すんだ。奴は魔力で物から残像を見ることができる。それで俺が本当にモデアの墓場にいることが分かる。そして、戦争を止めなければ、俺はこのまま呪いを解くと国王に言うんだ。そうすれば、戦争を思い止まる可能性がある」
凛は思わずディルの顔を見た。
「ディルはどうするの?それに、クロムニクは…」
ディルは優しく微笑んだ。
「安心しろ、クロムニクは俺がけりをつける。そうしたら、すぐに後を追う」
ディルは再び凛をぎゅっと抱き締めた。
「リン…今まで、ありがとう」
凛がその言葉の意味を聞き返す間もなく、ディルは突然凛を突き飛ばした。凛はしりもちをつき、石の壁に背中をぶつけた。
凛とクロムニクがディルの行動にあっけにとられていると、ディルはモデアの棺の近くの壁に左手を押しつけた。ディルが押し続けると、その部分の石のタイルが、低くて大きな音を立てながらゆっくりと凹んでいった。
すると突然、天井からものすごい勢いで鉄格子が落ちてきた。それは、巨大な音を立てて地面に深く突き刺さった。鉄格子は、ちょうど通路付近にいた凛と、棺の傍にいたディルとクロムニクとを隔てた。
「リン、行け!」
砂埃が三人の足元を覆う中、ディルは鉄格子越しに叫んだ。
「嫌だよ!ディルはどうなるの?」
凛は鉄格子にしがみついた。
「貴様、一体何をしでかした」
クロムニクは思い切り鉄格子を叩いて揺らしたが、びくともしなかった。クロムニクは顔を真っ赤にして、刀をディルの喉元に突きつけた。
「俺をここに閉じ込めようというのか。馬鹿め、自分も一緒に閉じ込められていることが分からないのか。とっとと俺をここから出せ!」
「クロムニク、ここがどんな場所か知ってるか」
クロムニクは怪訝な顔をしてディルを睨みつけた。
「王族以外の人間には知られていないが、ここはモデアの墓であるのと同時に、代々の王の墓でもある。王は死期を悟ると、こうして自らの手で鉄格子を降ろし、じっとここで死を待つ。強い魔力を持った王が、魔力の根源であるモデアと生死を共有することで、より呪いの力を強めるらしい。本当かどうか知らないが」
ディルは、そこらに散らばっている白骨を見渡した。
「この鉄格子は、降ろしてから三年経たないと上がらない仕組みになっている」
ディルは声を上げた。
「そういうことだ、リン。どんなに俺を待っていても無駄だ。早く城に行け!」
「嫌だよ…ディルを放って行けないよ!」
凛は鉄格子にしがみつきながら、激しく首を振った。しかし、ディルはそれを無視して、再び凛をせかした。
クロムニクの、ディルに刀を突きつけるその体は、次第に激しく震え始めた。
「貴様…俺から小娘たった一匹守るために、命を捨てるのか」
ディルは何も言わずに、ただクロムニクを睨みつけていた。
「そんなに死にたいなら、殺してやる!」
狂ったように叫ぶと、クロムニクはディルを刀で斬りつけた。地面は、一瞬にして真っ赤に染まった。そして今度は、ディルの腹に刀を突き刺した。刀の先が、ディルの背中から突き出た。クロムニクが刀を引き抜くと同時に、ディルはその場に倒れた。
それを鉄格子越しに見ていた凛の顔は、一瞬にして蒼白になった。クロムニクは、倒れたディルにまだなお刀を振りかざしていた。
「もうやめて!」
凛は、いまだかつて出したことのない大声で、声と体を激しく震わせながら、思い切り泣き叫んだ。すると次の瞬間、凛の胸元の石が再び光を放った。しかし、その光の強さは先程とは比べ物にならないほど強烈で、凛はあまりの眩しさに思わずぎゅっと目をつむり手で目を覆った。クロムニクも動きを止め、思わず腕で目を覆った。
しばらくすると石から光が消え、凛がようやく目を開けたそのときであった。モデアを包む光が激しく揺れ始め、まるで巨大風船が破裂するように、巨大な音を立て四方八方に消し飛んだ。それと同時に、そこから爆風が放たれた。凛の体は吹き飛ばされ、壁に強く背中をぶつけた。爆風は、今までびくともしなかった鉄格子をも破壊した。鉄格子の中央の部分が折れ、そこに大きな穴が開いた。
爆風がおさまると、墓場は文字通り、嵐が通り過ぎた後のような静けさに包まれた。しかし、それも束の間のことであった。棺からモデアの体が、ゆっくりと起き上がったのである。
「誰だ、私の眠りを覚ました者は…」
墓場中に、どこか悲しげな女性の声が響き渡った。
モデアは、漆黒の流れるような長い髪、サファイヤのように深く青い瞳の持ち主で、切れ長の目に美しい鼻筋、きゅっと締まった口元に色白で美しい肌をしており、絶世の美女という言葉を現実のものにしたような美人だった。その姿を見て、凛は思わず息を呑んだ。モデアは、ディルに限りなく似ていた。顔だけでなく、毅然とした姿勢や、美しさのなかに深い傷を抱えているような雰囲気すらも似ていた。
凛はすぐに立ち上がり、鉄格子の穴をくぐり抜け、ディルの元へ駆け寄った。ディルを抱き起こすと、ディルはうつろな目を開いた。
「リン…」
その声はかろうじて凛の耳に届いた。
「ディル、ごめんね…」
凛の瞳から涙が零れ落ち、ディルの頬に一粒、二粒と落ちた。凛はすぐに涙を拭うと、ずっと懐に忍ばせていた、昔ディルが弱者の村に置いていった傷薬の一部を取り出した。それをディルの傷口に塗りこみ、リブドからもらったマントの裾を破いてそこに巻き付け、応急措置を施した。
この様子をじっと見ていたモデアは、黙って立ち上がった。そして、口元に意味深な笑みを浮かべた。
「なるほど、ここには私を蘇らせる全ての要素が揃っている」
凛とディルは、同時にモデアを見上げた。
「まずそこの少女。お前の首にかかっている石に封じ込めた私の心が、お前の強い心の起伏に反応し、私に蘇る力を与えた」
モデアは、凛たちの横でぐったりと倒れているクロムニクを鋭い視線で睨みつけた。
「次に、私がこの世で最も憎んでいる男の存在だ。この男への強い憎しみが、私を長い眠りから目覚めさせた。しかしこの男は、今度こそ命尽きたようだな」
凛は思わず目を見開いた。
「クロムニクは死んだんですか」
「そうだ。私が眠りから覚めたとき、私を包んでいた光が消し飛んだだろう。あの光は強者の魔力だ。あれが消し飛ぶことは、魔力が消し飛ぶことを意味する。故に、あの風に当たった強者は、その魔力を消されるのだ。魔力によって蘇ったこの男から魔力が消えるということは、死を意味する」
モデアは、床一面を染めるディルの血を眺めた。
「そして最後に…私の血を引く者の血だ」
モデアはゆっくりとディルに視線を移した。
「なるほど、確かに私とよく似ている。お前はディアロス・エルマドワ。純粋な強者の両親を持ちながらも、弱者としてこの世に生を受けた。ディアロス、なぜお前が弱者として生まれてきたか、その理由を知りたくないか」
ディルは息を切らしながら、モデアを睨みつけた。
「私の呪いが始まって以来、エルマドワ家には強者しか生まれなかったと皆思い込んでいる。しかし、たった一人だけ、エルマドワ家に弱者が存在するのだ。ディアロス、それは誰だと思うか」
しばらくの間、痛いほどの沈黙が流れた。凛は、自分の心臓の鼓動さえ墓場に響き渡ってしまうのではないかと思った。モデアは、自分の胸に手を当てた。
「この私だ」
凛とディルは声を失った。モデアは心なく笑い、視線を下に落とした。
「それにしても皮肉なものだ。強者を生み出したこの私が、弱者であり続けただなんて。私の血は、子孫の強力な強者の血に負け、ずっと眠り続けていたのだ。だから代々エルマドワ家からは、強者しか生まれてこなかった。その中に、弱者の血がずっと流れていたにもかかわらず。ところが、ちょうどお前が母親の腹の中にいたときだ。私の血は突然目覚めたのだ。そこで死んでいる男の出現と、その男に対する私の強い憎しみによってな」
凛は、クロムニクの話を思い出した。クロムニクは、ちょうどディルがお腹の中にいるとき、城に仕え始めた。凛の体を、鳥肌が駆け抜けた。
このとき、モデアの顔を見て、凛の体には違う鳥肌が立った。モデアは、明らかにディルを蔑む目で見つめていたのだ。
「あの男さえいなければ、お前も強者として生まれることができたであろう。そんな惨めな姿で生まれてしまって、お前はことごとく不幸な男だ」
「よくディルに向かってそんなこと言えますね」
凛はディルをぎゅっと抱き締めながら、モデアを睨みつけた。モデアは少し顔色を変えた。
「ディルや弱者の人たちは、あなたが強者なんて生み出したせいで、どれほど苦しんでいるか分かりますか。それでもディルは、その苦しみを強さに変えて、ここまで戦ってきたんです。ディルを見下す前に、あなたもこの世界で生きてみたらどうですか。あなたも弱者なんだから、きっとディルと同じ思いをする。そうしたら分かるはずです。ディルがどれほど強い人か。魔力に頼るようなあなたなんか、絶対にディルみたいに強くなれないから」
「黙れ!」
モデアはものすごい剣幕で凛を睨みつけ、その容姿からは想像もできないような低くて太い声で叫んだ。
「そうだ…私もかつては、日々飽きることなく戦争ばかりしていた人間に深い憤りを感じ、体を張って戦った。だが、その結果がこれだ!どれだけ強く平和を望んでも、結局力のない者を待つのは死しかないのだ。だから私は、力のある人間を生み出した。私は自分の無力さが悔しくて仕方がなかった。その悔しさで、死んでも死にきれなかったのだ。お前のような小娘に、この気持ちが分かるか!」
「分からないよ!」
間髪入れずに凛は声を張り上げた。凛の視線と声の強さに、モデアは辟易した。
「だって私は、人間を無力とは思わないから。確かに、あなたの言う力の基準でいえば、人を殺す力のない人間は無力かもしれない。でも、その基準は間違ってる。人間の本当の力を計る基準はそこじゃない。ここなんだよ!」
凛は、自分の胸に強く手を押し当てた。
「ここには、誰かを助けたいと思える力がある。ディルや弱者の人たちは、この心の力を持っている。この力を持っている人は、誰一人として争いなんて望んでいなかった。だから、争いを止めるためには、心の力を使うしかないんだよ。だけど、あなたの呪いが邪魔して、強者が自分の中にあるその心に気付けずにいる。皆がその心に気付いたとき、世界は必ずよくなる。だからお願い、今すぐに呪いを解いて!」
凛は、一瞬たりともモデアから視線をそらさなかった。モデアは、そんな凛に何かを言おうとしたが、口をつぐみ、不敵な笑みを浮かべた。
「お前がそこまで言うなら、証明しろ。その心の力とやらが、私の言う力に勝ることを」
モデアは目をつむり大きく息を吸い込んだ。そして、しばらくしてから再び目を開けた。
「今、世界戦争が起きようとしている。それを、お前の言う心の力を使って止めてみろ。私にできなかったことを成し遂げてみせよ。そうすれば、この呪いを解こう」
「分かった」
凛は胸元に視線を落とし、両手でディルの顔を包み込んだ。
「ディル、少しだけ待ってて。必ず戻るから」
しかし、凛の言葉を無視して、ディルは立ち上がろうとした。そんなディルを、凛は慌てて止めた。
「動いたらだめ!」
ディルは凛の手に、血だらけになった自分の手を当てた。そして、肩を震わせながらも言葉を紡ぎだした。
「言っただろう。最後まで一緒だと」
ディルは微かに笑った。ディルの瞳は、これまで凛が見つめてきた中で、最も強い光を放っていた。それを見て、凛も笑みを浮かべて頷いた。
「やっぱり行こう、一緒に」
凛に支えられながら、ディルはようやく立ち上がった。そんな二人をじっと見つめるモデアをおいて、二人は墓場の出口へと向かっていった。
暗闇に包まれた外に出た瞬間、二人は地響きを感じた。視界の両端で、バークに乗った無数の人が対を成していた。それは、狂ったような叫び声を上げながら、どんどん距離を縮めていた。
「両軍が動き出してしまった…急ごう、ディル」
二人は手を握り、走り始めた。
そんな二人のもとに、突然一頭の動物が走り寄ってきた。その存在に気付き、二人は足を止めた。
「ぺぺ!」
凛は思わず声を上げた。それは、リブドにアンジュレーム国に連れ去られたときにはぐれたペペだった。どこで凜のことを嗅ぎつけたのか分からないが、これほど有難いことはなかった。
「私たちと一緒に戦ってくれるの?」
凜はペペの頭を撫でた。ペペは喉を鳴らした。
「ありがとう」
そして二人は、ペペの背中に飛び乗った。それと同時に、ペペはものすごい速さで、対を成す人々の間に向かって走り始めた。
ついに二人は辿り着いた。エルマドワ軍と新王軍が衝突しようとしている、まさにその中心に。凛はペペを止め、大地に足をつけた。
両軍は、周囲の音を全て掻き消してしまうほどの地響きと叫び声を上げていた。二人からの距離は、もうそう遠くはなかった。空は暗黒のベールで覆われ、強風が音を立てて吹き荒れ、二人の髪をその頬に叩きつけた。凛の青いスカートと、ディルの紺色のマントが、大きく翻っていた。
「新王軍も、エルマドワ軍も、違う理由でおそらく俺を殺せない。俺がここにいることが分かれば、少なくとも動きは止まるはずだ」
ディルが言った直後、突然、凛の視界が大きく歪んだ。それと同時に、頭をナイフでめった刺しにされているかのような激しい頭痛と、体に巨大な石を落とされたかのような痛みを感じ、凛はその場に倒れた。全身が震え、急に呼吸ができなくなった。
もう、時が迫っている…凛は、このとき初めて死を感じた。それと同時に、温かいものに全身を包まれた。それはディルだった。ディルが凛を抱き起こし、じっと凛を見つめていた。蝋のように白い顔で、その全ての力を瞳に宿すように凛を見つめていた。
「リン、あと少しだけ耐えてくれ」
かすれるような声でこう言うと、ディルは立ち上がった。
「新王軍!俺はディアロス・エルマドワだ。俺は今ここにいる。逃げも隠れもしない。俺に死なれたくなければ戦いをやめろ!穢れた血の証人が必要なんだろう!」
どこにそんな力があるのだろう。穴の開いた体で、その足元には血が滴り落ちていた。それでもディルは毅然と大地を踏みしめ、普通の人でも到底及ばないほどの声量で叫び続けていた。
だが、ディルの声は、横からというよりも、頭に直接響いてくるように聞こえてくる。何故だろう…ふと凜が胸元を見ると、モデアの石が青い光を放っていた。もしかすると、モデアの慈悲の心がディルに力を貸しているのでは…。
頭痛も、体の痛みも全く治まっていなかったが、凛は立ち上がった。呼吸だけはできるようになっていた。
「リンは座ってるんだ」
ディルは凛の肩をつかんだ。凜は思い切り首を振った。
「いや。私も一緒に戦わせて。それに、モデアの慈悲の心も力を貸してくれているみたい。ディルの声は、きっと世界中の人に届いている」
ディルは光る石に目をやった。二人は顔を見合わせた。そしてディルは再び新王軍の方に体を向けた。
「新王軍、クロムニクはさっき死んだ。たとえあんたたちが憎むエルマドワ一族を滅ぼしたとしても、武力を捨てなければ争いはまた繰り返される。争いは憎しみを生むだけで、何も解決しない。いったん争いを止めて、話し合うことはできないのか!」
ディルは、今度はエルマドワ軍に体を向けた。
「強者たち、よく聞け。あんたたちがその魔力の根源として敬うモデア女王は、弱者だ!強者とか弱者とか、そんなことで人間を区別するのはもうやめろ!誰が国を支配するだとか、そんなくだらないことで争う前に、もっとやることがあるはずだ。今ここで戦えば、ここは全て毒の砂漠となり、人類は滅亡に追い込まれる。そんなことも分からないくらい、あんたたちは愚かではないはずだ!」
「その男を黙らせろ!その男の言うことは全て嘘だ!今すぐそいつを殺せ!」
突然、別の男の声が世界中に響いた。「国王だ」ディルは顔を歪めた。
エルマドワ軍の後方から、赤黒い光が放たれ始めた。だが、軍の前方の者たちが次々とバークを止め、その光を受け止めていた。前方から急に止まっていくので、後方の軍が前方の軍に次々と激突していき、玉突きとなり軍全体がどんどん倒れていった。
「前方にいるのは捨て駒の弱者だ…だめだ!俺の代わりにモダニアを受けようとするな!頼むからもうこれ以上死ぬな!」
ディルは叫んだ。だが、前方の弱者たちは動こうとしなかった。他方、新王軍は、その勢いは弱まってきたが、まだなお進み続けており、二人との距離はみるみる迫っていった。
ふと、二人の両側から、両軍のものとは全く違う地響きがこちらに向かってくるのを感じた。そちらに目を向けた凛は、目を大きく見開き、驚きのあまり手で口を覆った。
そこには、何千というリブドが列を成して、まるで新王軍の前を縫うようにしてこちらに向かっていた。そして、次々と新王軍の前に立ちふさがっていった。
そんなリブドに向けて、新王軍は一斉に矢を放ち始めた。だが、体中に何十本という矢が刺さってもリブドは微動だにせず、その場に立ち続けていた。
「強者にたくさんの仲間を殺されたのに…もうやめて!これ以上傷つかないで!」
凛は泣き叫んだ。しかし、リブドはわき目もふらず、一心不乱に邁進し続けた。
リブドがこちらに近付いてくると、新王軍が放つ矢の嵐も一緒になって二人に迫ってきた。ディルは自分の体を新王軍に向けて凛を抱き締めた。そんな二人の盾になるように、ペペが新王軍の前に立ちはだかった。何本かの矢がペペの体に刺さったが、微動だにしなかった。
新王軍はもはや二人の目前に迫っていた。リブドの列も、真横にまで近付いていた。次の瞬間、リブドは二人とペペの上に一気に覆いかぶさった。その衝撃で、二人は地面に倒れこんだ。
新王軍はついに、エルマドワ軍よりも先にリブドと激突した。その瞬間、巨大な衝突音が世界中を駆け巡った。それと同時に、大地が大きく揺れた。新王軍は、リブドに激突した先頭から次々と倒れていった。しかし、その中においてもリブドは微動だにせず、堂々と立ち続けていた。
空には一寸の隙間も見せずに厚い暗雲が垂れ込めていた。地上は、高々と舞い上がった土埃と、禍々しい静寂に覆い尽された。暗雲と土埃と静寂によって、この世界の時間までもが呑み込まれてしまったかのようであった。
十四
凛が意識を取り戻すと、そこは針が一本落ちてもその音が鳴り響くような静寂に包まれていた。空にはいまだ暗雲が垂れ込めていたが、土埃はおさまっており、周囲がはっきり見渡せた。
リブドが上手く空間を作ってくれたため、凛とディルは、新王軍と激突した時の衝撃を受けずに済んだのであった。
「リブド…」
凛は、自分に覆いかぶさっていたリブドの体に触れた。そのとたん、リブドはゴロンと地面に転がった。その背中には、無数の矢が刺さっていた。それを見た瞬間、凛の目に涙がたまった。
「ごめんね、本当にごめんね…」
凛は、すっかり硬くなったリブドの手を握り締め、しばらくそこに顔をうずめた。そして、顔を上げ、周囲を見渡した。
エルマドワ軍も、新王軍も、地面に倒れたまま誰一人として動いていなかった。まるで、時が止まったかのようであった。
「ディル…」
視線を下に落とすと、隣にはディルが横たわっていた。だが、その顔は蒼白で、体は微動だにしなかった。
凛はその姿を見るなり、震える手でディルの頬に触れた。その瞬間、凛の心臓は激しく波打った。全身から血の気が引き、体が震えた。凛は反射的にディルの頬から手を離し、恐る恐る、もう一度ディルの頬に触れた。しかし、何度触っても同じだった。ディルの体は冷たかった。凛は、体をゆすった。だが、その目は閉じたままであった。
「ディル…お願い、目を開けて」
凛は再び体を揺さぶったが、ディルはぐったりとしたまま動かなかった。
とたんに凛の瞳から、ぼろぼろ涙が零れ落ちた。それが、ディルの顔に落ちた。凛は、落ちた涙を指で拭き取るようにして、ディルの顔を包み込んだ。そして、ディルを抱き起こし、力いっぱい抱き締めた。これまでは抱き締めると感じていた心臓の鼓動が今は感じられず、ただ冷たくて硬いだけだった。
凛はディルを抱き締めながら、呼吸ができなくなるほどしゃくりあげて、大声で泣き叫んだ。いつまでも、止まることなく凛は泣き続けた。静寂の世界の中で、凛の泣き声だけがただ虚しく響き渡っていた。
しばらくして、凛が再び目を閉じたディルの顔を見つめたそのときであった。ディルの顔に、自分の涙とは違う、米粒ほどの大きさのキラキラと光るものがゆっくりと落ちてきた。凛がそれを手に取ると、それは星のように輝く石であった。みるみるその数は増えていき、まるで粉雪のように二人の周りに降り始めた。
凛は思わず顔を上げ、周囲を見渡した。それは、世界を覆う全ての空から降り注いでいた。粉雪よりも鮮やかに輝き、空から降る星のようであった。両軍の中からも、起き上がってこの空から降る星を見上げる人が現れ始めた。それに伴い、周囲は次第にざわつき始めた。
ふと、凛は自分の胸が温かくなっていくのを感じた。驚いて自分の胸元に視線をやると、凛に抱かれていたディルに体温が戻り、わずかに動いたのであった。
「ディル?」
凛はじっとディルの顔を見つめた。すると、その目がゆっくりと開いた。
「ディル!」
凛は叫び、思い切りディルを抱き締めた。
「リン、苦しい…」
ディルが呻くと、凛は慌ててディルの体を離し、その顔を見つめた。そこには、紛れもなくディルがいた。青く澄んだ瞳で、凛をまっすぐ見つめていた。その瞳を見るなり、凛は全身を震わせしゃくりあげた。
「私を守るためにディルが死んでしまって、どう償ったらいいかずっと考えてたの…本当にごめんな…」
凛が最後まで言い終わらないうちに、ディルは凛に口づけをし、強く抱き締めた。
「リン、聞いてくれ。リンは俺の命を救ってくれたんだ。俺に生きる意味を教えてくれた。だから、リンのためなら何度死んでもいい。これが俺の気持ちだ」
凛は強く首を振った。
「いや!もう二度と死なないで!」
ディルは笑って凛の額に自分の額をくっつけた。
「じゃあ、リンが死ぬまで俺は死ねないな」
ディルは凛の首筋に顔をうずめ、二人はそのまま強く抱き締めあった。
少ししてから、ディルは顔を上げ、初めて周囲を見渡した。ディルの視線は、空から舞い降りる、輝く石に釘付けになった。
「リュウリン…」
ディルの口から漏れた言葉を聞いて、凛もディルと一緒に、空から降り注ぐリュウリンを見上げた。
リュウリンは、暗闇に呑み込まれていた世界を徐々に照らしていった。世界を包むものは、暗雲と静寂から、光へと変わっていった。その光は、言葉を発することさえ忘れ、じっと空を見入っている人々の瞳に、少しずつ輝きを与え始めた。
ふいに、空一面を覆っていた暗雲が切れ間を見せた。切れ間は次第に広がっていき、そこから黄金色の光が差し込んだ。空からの光は、地上を優しく抱き締めるように包み始めた。
ついに暗雲は消え去り、東の空から強い光が顔をのぞかせた。それは、朝日であった。星のようなリュウリンに朝日が反射し、虹色の光を放った。この世界は、虹色の空気に包まれた。
虹色の空気は、ただ息を呑んで空を見上げるこの世界の人々の心を奪った。戦争にかり出され、エルマドワ軍の中で地面に座り込んでいるスターターと弱者の村の人々も、言葉を失い空を見上げていた。
救護テントで待機していたトールは、独り言のように呟いたのだった。
「やはりわしの勘は正しかった。どんな現実でも、立ち向かえば変えられるんじゃ、必ず」
砂漠を越えた遥か彼方の地にも、リュウリンは降り注いでいた。リブドの手当てをいったん止め、砂漠の国の王は空を見上げ、その美しい金髪を風になびかせた。
どこからともなく、風が砂漠の砂を運んできた。それが王の頬に触れ、掌に落ちた。ただの砂となったそれを、王はじっと見つめた。
「ディルの声が聞こえたね。あの二人は、本当に呪いを解いたんだね」
隣にいたジュンタも一緒に空を見上げた。
「あれがリンの恋人か…僕が振られるわけだ。やってくれたじゃないか、リン」
シャイカルは、笑みを浮かべた。
そこは遥か雲の上であったが、リュウリンはそこにも舞い落ちていた。棒のような体をしたリブドたちが、地上よりも遥かに近い空を、風に吹かれながら見上げていた。
「まさかリュウリンまで降らせてしまうとは」
ぼさぼさ頭のリブドは、縁に立って虹色に包まれた地上を見下ろした。
「私たちは傲慢でした。人間の力を計ることなどできない。その力は無限でした。伝説を現実へと変えてしまうほどに…」
リブドは羽織っていたマントを外し、それを空に向かって思い切り投げた。マントは遥か遠くに飛ばされた。リブドは再び地上を見つめた。
「言葉を話せなくなってしまう前に言っておきたい。リンさん、ディアロス王子、本当にありがとう」
城の中で戦いの指示を下していたエルマドワ国王は、世界を包む虹色の空気に目を奪われていた。そしてゆっくりと、両軍の間でリブドに囲まれ、少女と共に空を見上げているディルに視線を移した。国王は、静かに城の出口へと向かっていった。
「リュウリンが、俺に命を与えてくれた。そして、命を与えられたのは俺だけじゃない」
しばらくして、ディルが口を開いた。そして、倒れているリブドに視線を向けた。
全身に無数の矢が刺さったままのリブドが、次々と起き上がったのである。そして、体に刺さった矢を、まるで何事もなかったかのように抜き始めた。抜き終えると、砂漠に向かって歩き始めた。凛は、その背中をじっと見つめた。
「リブドもきっと、私たちと同じことを望んでいた。ただそれだけだったんだ…」
突然、凛の首にかかっている石が強烈な光を放った。そして、それは真っ二つに割れた。すると、どこからともなく美しい女性の声が聞こえてきた。
「心の力は、私の言った力に勝ったようですね」
「モデア!」
その声を聞き、凛は思わず声を上げた。
「私は、以前あなたたちとお会いしたモデアではありません。ずっとこの石に封印されていた、この世から争いをなくし、武力を葬り去ることだけを望んでいたモデアの心です。
呪いをかけたものの、モデアは心のどこかで、武力ではなく、人間の慈悲の心にこそ、争いを止める力があることに気付いていたのでしょう。モデア自身が、呪いをかけた後も弱者であり続けたことがその最大の証です」
凛とディルは、顔を見合わせた。
「そしてこの世界も、争いのない世界を望んでいるのだと、あなたたちは教えてくれました。あなたたちの姿を見て、リブドや弱者をはじめ、世界があなたたちを守ろうとしました。リュウリンは、その世界の意志に応えたのです」
ほのかに輝いていた石の光が、大きく揺らめいた。
「あなたたちが世界を動かしたことが、モデアの心を動かしました。モデアは、ようやく私を受け入れてくれました。本当にありがとう…」
石から光が消え失せ、ただの水色の石となってしまった。ディルは、二つに割れたその石を手にした。
「モデアは死んだ。そして、全てが終わった」
ディルはすぐに首を振った。
「いや、ここから全てが始まるんだ」
二人は、じっと見つめあった。凛が何かを言いかけたとき、周囲が騒然とし始めた。二人が辺りを見回すと、ドマルフ・エルマドワが、大勢の家臣を引き連れ、二人の元へやってきたのである。
彼は、ディルの前に立つとその歩みを止めた。国王の目は、ディルと同じ様に青く澄んだ光を放っていた。
ディルは立ち上がり、国王と向かい合った。国王は口を開いた。
「今さら私を許してくれなどと言わない。言えるはずもない。ただ、最後に一つ言いたいことは、もしこの国の民がまだ我が国の存続を許してくれるのであれば、国王はお前しかいない。どうか、お前の望む、理想の国を築いて欲しい」
国王は腰に携えた刀を引き抜き、刃先を自らの腹に向けた。ディルは、とっさに国王の手首をつかんだ。
「貴様を死ぬまで許すつもりはない。だが、自ら命を絶って逃げることも許さない。それは卑怯だ。死ぬほど生きて、生きて苦しみ抜け。苦しみながら少しはこの国に貢献しろ。そうやって死ぬまで償い続けろ」
国王は唖然としてディルを見つめた。その表情はみるみる崩れ、ついに両手で顔を覆い、ディルの名前を呼びながら嗚咽を漏らし、肩を震わせ、その場に膝をついて崩れ落ちた。
この光景を見ていたエルマドワ国の強者だった者も、弱者だった者も、もう何も言えなかった。元々強者だったとか、弱者だったとか、そのような感情はこれからも消えないかもしれない。だが、この新しい国王がそうしたように、そんなことで争うことなどせず、全てを許し、生き抜くのだ。この国王が築く新しい国に貢献するのだ。この国王に、どこまでもついていくのだ。エルマドワ国の人々は深く心に誓ったのだった。
凛はディルの隣で、じっとこの光景を見つめていた。間違いなく、エルマドワ国は素晴らしい国になる…。
「リン!」
突然後ろから男の声がしたので、凛は驚いて振り返った。するとそこには、笑顔を浮かべたスターターとジュンタが立っていた。
「スターター!ジュンタ!」
三人は抱き合った。凜は嬉し涙を拭った。
「二人とも、ここまで来てくれたのね」
「シャイカルさんが、リンに会いに行っておいでって。自分は国を離れられないから、代わりにまだ愛してるよって伝えてくれって」
「そんなことをジュンタに…」
凜は頭を抱えた。
「ジュンタがリブドに乗ってこっちに向かっているのを偶然見つけたんだ。俺のバークの方が早いから、一緒に連れて来た。」
凜はスターターの声に目を丸くした。
「スターター、その姿で、男に戻ったの?」
確かにスターターの声は男の声になっていたが、スターターは何も変わっていなかった。相変わらず華奢で、目がくりっとして女の子のように可愛らしい顔をしていた。スターターを凝視する凛に不審な表情を浮かべながらも、スターターはぎゅっと凛の手を握った。
「お前はすごい奴だ。本当に呪いを解いちまったもんなぁ!」
スターターはもう一度凛を抱き締めた。男に戻っても何も変わらないスターターが懐かしく、嬉しくて、凛は顔をほころばせた。
しかし、スターターはすぐに凛を離し、急に真顔になった。
「それが、ババアの方も呪いが解けちまって大変なことになってるんだ。ババアが、死ぬ前にどうしてもお前に伝えなきゃいけないことがあるって言うから、呼びに来た。今すぐババアのところに来れるか」
凛は息を呑んだ。トールは今、二百歳なんだ…一瞬にして顔から笑顔が消え失せた。
「うん、今すぐ行こう」
凛はあえてディルの方を振り返らずに、近くで凜を待っていたペペに飛び乗った。
「ディルはいいの?」
スターターと一緒にバークにまたがりながら、ジュンタはディルの方を振り返った。凜は悲しそうに微笑んだ。
「いいの。さ、早く行こう」
そこは、救護テントの横であった。ぐったり横たわるトールを、懐かしい顔が囲んでいた。
「ババア、リンを連れてきた」
スターターの声で、トールを囲む人々は一斉にこちらを振り向いた。そして、口々に凛の名前を呼び笑顔を見せた。
「リンちゃん」
その中から、一人の男が一歩前に出て凛に近寄った。日焼けした肌が印象的なその男は、村の長であった。凛は長に駆け寄った。凛の頭を優しく撫でながら、長は微笑んだ。
「リンちゃん、本当によく戦ってくれたね。ありがとう」
長は凛の肩を抱いて、トールの傍に連れていった。トールの変わり果てた姿に、凛は思わず手で顔を覆いたくなった。
体はやせ細り一回り縮んでいた。ひゅーっという音を立て、苦しげに息を吸っているその顔は皺だらけで、凛の知っているトールの面影はなかった。手は黒ずんでおり、髪の毛は全て抜け落ち、目は黄色く濁っていた。苦しそうに呼吸をする中で、時折「リン、リン」と声を発していた。
凛はしゃがみ込み、その手をぎゅっと握り、トールの耳元でゆっくり話しかけた。
「おばあちゃん、私はここにいるよ」
トールはその目を凛に向け、喉の奥から声を絞り出した。
「にしの、そ…うげ…んへ、もど…れ。いそ…げ…」
凛は深く頷いた。
「分かった。私、ちゃんと自分の世界に帰るから」
凛の声は震えていた。弱者の村で過ごした時間が胸に去来した。
「おばあちゃんが私を信じてくれたから、私は今日まで生きてこれた。本当にありがとう…」
凛の瞳からぽとぽとと涙が零れ落ち、トールの顔に当たった。トールは微かに笑った。そして、微笑みながら静かに目を閉じた。
嗚咽があちこちから聞こえてきた。ことにスターターは、なりふり構わず大声を上げて泣いていた。
凛は涙を拭うと、勢いよく立ち上がった。
「私は、自分の世界に帰ります。今度こそ本当にお別れです。私を救ってくれて、優しくしてくれて、本当にありがとう」
凛は村の人たちに向かって、深々と頭を下げた。
「いや、礼を言わなきゃならないのはこっちの方だ。リンちゃんがこの世界を救ってくれたこと、俺たちは絶対に忘れない。本当にありがとう。元気でな」
長は凛の手をとり、強く握った。その顔は笑っていたが、目には光るものがあった。それを見て、凛の涙が再び顔をのぞかせた。
「リン、俺が最初にお前を見つけた場所でいいんだな。連れてってやる」
スターターは手の甲で涙を拭い、その手で指笛を鳴らした。すると、バークがこちらに向かって走ってきた。「僕も行く!」ジュンタも一緒にバークに飛び乗った。凜は、再びペペにまたがった。
村の人たちは凛に大きく手を振った。凛は、ペペにしがみつきながら後ろを振り返った。
「みんな、ありがとう!」
その姿が見えなくなるまで、凛はずっと手を振り叫び続けた。
「おい、そろそろスピード上げるぞ」
スターターに言われ、凛はようやく手を振るのをやめ、前を向いてペペを走らせた。
周囲の景色はどんどん流れていった。途中でいくつかの森を通り抜け、廃墟も通った。
清々しく突き抜けた青空には、綿雲が泳いでいた。遠くの方には、いくつもの層を成した巨大な雲が浮かんでいた。そんな空を眺めていると、ふと凛の耳に心地よい草の囁き声が聞こえてきた。ひどく懐かしいこの音に、思わず鳥肌が立った。
目の前には、見たことのある光景が広がっていた。辺りは一面草原で、遥か遠くに死の森の頭が見えた。そう、ここは紛れもなく、凛がこの世界で最初に見た景色であった。唯一あのときと違っていたのは、目の前にも森があることだった。その森の中には、一本の道が通っていた。道の入口には、見覚えのある「封印の石」が立っていた。ただ、そこに彫られていたはずのバツのような印はなくなっていた。
スターターはバークを止めた。凜もそれに続き、三人は草原に降り立った。
「ここでいいのか」
凛は頷いた。
「きっと、あの森の道が私の世界に通じてる」
凛は森を指差したが、スターターは悲しげな笑みを浮かべて首をすくめた。
「俺にはその森は見えないや」
スターターの言葉に、凛は泣きそうな顔をした。スターターはそんな凛に、とびきりの笑顔で笑いかけた。
「さ、もう行け。俺たちは新しい国で、きっと元気にやってるからさ。リンも元気にやれよ」
すると突然、ペペが勝手に走り出し、森の中の道の奥に消えていった。「ペペが消えた!」ジュンタが叫んだ。ペペにはあの道が見えて、あの中に消えていった。ということは、やっぱりペペはペペだったんだ…私に後に続けと言っている。
「ジュンタ、大丈夫。ペペはあっちの世界でも私の家族なの」
凜はジュンタの頭を撫でた。ジュンタは泣きそうな顔で凜を見上げた。
「リン、本当にもう会えないの?」
「もう会うのは難しいかもしれない。だけど、私はずっと二人のことが大好きだし、忘れない」
「僕も、リンのこと大好き。絶対忘れないから」
「俺もリンが大好きだ」
スターターは顔を真っ赤にしていた。それを見て凜は笑った。
「どうか、元気でね。本当にありがとう」
そして、凜は名残惜しそうに二人に背を向け、足早に歩き出した。
「リン、元気でな!」
凛の背中に向かって、スターターとジュンタはいつまでも手を振り続けた。二人の目からは、涙が零れていた。
凛は、前を見て歩き続けた。この世界に残してきた思いを断ち切るかのように、一歩一歩、地面を踏みしめた。
獣が地面を蹴る音が聞こえてきたのは、もう少しで森に入ろうとしたときであった。凛の心臓は、ビクンと跳び上がった。目には涙が溜まり、目の前の景色が滲んだ。凛は、懸命に首を振った。
「リン!」
自分の名前を呼ぶその声は、涙が込み上げてくるほどの愛おしさで凛をいっぱいにしたが、同時に、胸にどうしようもない苦しみがまとわりついた。凛はとうとう立ち止まった。その直後、声の主が後ろから駆け寄ってきた。
「リン、振り向くな」
凛がまさに振り返ろうとしたとき、ディルが鋭く言い放った。そして、後ろからそっと凛の手を握った。凛の手には、石のようなものが握らされた。
「どうしてもこれをリンに渡したかった。半分は俺が持っている。もう半分は、リンに持っていてほしい」
凛は後ろを振り返ろうとした。しかし、ディルが腕を押さえつけ、凛の動きを止めた。
「リン、もういい。顔を見てしまったら、別れが辛くなるだけだ。リンは、リンの世界で生きるんだ」
ディルはそっと凛の背中を押した。凛は、ディルから渡された石を握り締め、震える体で前に進み始めた。
森の中に入ろうとしたときだった。凛は突然立ち止まった。石をさらに強く握り締め、森の奥に続いている道の先を見つめてから、うつむいてじっと地面を見つめた。それから、ぎゅっと目を閉じ、思い切り顔を上げると同時に後ろを振り返り、走り始めた。
「リン、駄目だ、帰るんだ!」
凛がディルに抱きつこうとしたのを、ディルは凛の両肩をつかんで止めた。凛は、体を押さえるディルの手首を握り締め、何度も首を振った。
「いや…ディル、私決めたの。私、死ぬまでディルの傍にいる。あと少ししか生きられなくてもいい。それでもディルと一緒にいる。お願い、ディルの傍で死なせて」
ディルは涙の溢れる凛の瞳をじっと見つめ、静かに首を振った。そして、凛の肩をつかみながらうつむいた。
「俺は、自分の命に代えてもリンに生きていて欲しいんだ。だから帰るんだ。元の世界に帰って、少しでも永く生きるんだ」
凛は首を振った。
「いいの、私が最期までディルといることを選んだの。ねぇディル、お願い。もうこれ以上人を好きになれないくらい、ディルを愛してるの…」
ディルはうつむいたまま再び首を振った。しばらく沈黙が続いたが、ようやくディルが静かに口を開いた。
「これから先、リンが傍からいなくなると考えることさえ怖い。気が狂いそうになる。できるなら、どっちかが死ぬまでずっと、ずっとリンを抱き締めていたい」
凛の嗚咽が少しだけおさまった。気が付くと、凛の肩をつかむディルの手は震えていた。
「だけど、リンが俺の傍にいることを選んだことによって、リンの命が削られるのはもっと怖い。リンがここで死ぬことによって、リンの世界にいる、リンのことを大切に思う人たちを悲しませるのは耐えられない。そんなことになるんだったら、俺もリンの後を追って死ぬ」
凛は激しく首を振った。
「だめ、ディルは絶対に死んじゃだめ」
「そういうことなんだ、リン。俺が一番望むのは、リンが俺のために死ぬことなんかじゃない。生き続けることなんだ。俺の傍でなくていい、どこかでリンが元気に生きていれば、俺はそれ以外に何も望まない。だから、もし本当に俺を愛してくれているなら、生き続けて欲しい。頼む…」
ディルはしばらくうつむいていたが、ようやく顔を上げ、まっすぐ凛を見つめた。
「愛してるんだ…」
かすれた声だった。そのディルの顔を見た瞬間、凛の息が止まった。
ディルは泣いていた。その瞳から、幾筋もの涙が頬を伝って流れていた。凛はしばらく動くことができなかった。私はなんて幼くて弱いのだろう…凛は口をぎゅっと結び、ディルに近付いた。
「ディル、ごめんなさい…」
二人はそれぞれの首筋に顔をうずめ、強く抱き締めあった。
「リン…俺たちは、ずっと一緒だ」
しばらく抱き締めあってから、ディルは顔を上げ凛の顔をじっと見つめた。
「次生まれ変わったら、必ず同じ世界に生まれて、今度は死ぬまで、ずっと一緒にいよう」
「生まれ変わったら…」
ディルは笑って頷き、自分と凛のおでこをくっつけた。
「そうだ。同じ屋根の下に住んで、同じ布団で寝て、ずっと一緒にいよう。その次に生まれ変わっても、ずっとだ」
再びディルは凛の目を見つめた。
「それまで、少し会えなくなるだけだ。その間、それぞれの世界で強く生きるんだ。どんなに絶望的なことがあっても、前に進み続ければ必ず光は見える」
凛は頷いた。その指が、ディルの頬に優しく触れた。
「次会うときまでに、私、もっと強くなるから」
二人の黒髪が風になびいた。凛の指は、頬からそのままディルの唇に触れた。
「出会えて良かった…」
二人はそっと顔を近付け、長い口づけを交わした。だが、ゆっくりとその唇を離し、そのまま二人の体もゆっくり離れていった。
「私、もう行かなきゃ」
凛のかすれるような声に、ディルは笑って頷いた。その笑顔を見て、凛の顔からもようやく笑みがこぼれた。そして二人そろって、互いの目をじっと見つめ合いながら、ゆっくりと頷いた。
ついに、最後まで二人の体を繋いでいた手が離れた。それと同時に、凛はディルに背を向け、森に向かって走り始めた。今度は決して後ろを振り向くことなく、前だけを見て走り続けた。
凛は、森の中の道に足を踏み入れた。進んでいくと、次第に目の前の景色が白んできた。そしてとうとう目の前は真っ白になり、そこで凛は意識を失ってしまった。
十五
「凛、凛ったら!」
懐かしい声で凛は目が覚めた。目を開けると、何かに顔を舐められ、凜は思わず小さな悲鳴を上げた。
「よかった、目が覚めて。どこか具合悪くない?」
凜が起き上がると、そこは凜の住んでいる街にある雑木林の中の小さな空き地だった。悠子が、心配そうに凜を見つめている。凛の横には、嬉しそうに尻尾を振っているペペがいた。
「あ!ペペ!」
「そうだよ、十五分経っても凜が来ないし、携帯も何故か全然繋がらないし、心配になって凜が向かった道を登ってみたら、凜がここで寝てて、その隣にペペがいたの。一体、何があったの?」
十五分…凜は、徐々にあっちの世界に迷い込む前のことを思い出してきた。周囲を見渡すと、あの封印の石も、その横に伸びていたはずの道もなかった。
「悠子は、今ここに来たの?」
「そう、今さっき来たの」
そうすると、悠子と別れてから十五分、悠子がここに来るまでに十五分かかったとして、たった三十分ほどしか経っていないのか…夢にしては、あまりにも長すぎた。というか、もしかしてあれは全部ただの夢だったの?一抹の恐怖にも似た不安が凜の頭をよぎった。
何気なく、ブレザーのポケットに手を突っ込んでみると、そこには石の片割れが入っていた。それは、どこまでも水色の澄んだ光を放っていた。それを見て、凛はため息をついた。そして、勢い良く立ち上がった。
「ごめんね、なんか夢見てたみたい。具合は全然悪くないから大丈夫。付き合ってくれて本当にありがとう。無事にペペも見つかってよかったよ」
悠子も立ち上がり、ペペを見下ろした。
「それならいいけど。それにしても、ペペはどうしてこんなところに迷い込んだんだろうね」
凜はしっかりペペのリードを握り、二人は歩き始めた。凜はペペを見つめ、小声で囁いた。
「ペペが私をあの世界に連れてってくれたんだね。ありがとう」
ペペが吠えた。
「ねぇ悠子、私、やっぱりA大第一志望で受けることにする。この状況の中でも、できる限りのことをやってみようと思って」
悠子は凜の方を振り向いた。
「それは嬉しいけど…なんか、凜、前より元気になった?一体どんな夢見てたのよ」
二人は一緒に笑った。凜は立ち止まり、もう一度、何もない雑木林の奥をじっと見つめた。そして、ポケットの中の片割れをぎゅっと握りしめた。
エピローグ
永遠に続くように思われる大草原に、一人の男が佇んでいた。時折吹く風が、男の濃紺のマントと、白いものが混じった黒髪をなびかせた。夕日に照らされた大地を見つめるその瞳は、これまで幾たびも人に裏切られ、傷付けられ、言語に絶する苦労をしてきたにもかかわらず、それでも人を信じ続け、前に進み続けたこの男の生き様を表すかのように、強く光り、何よりも青く澄んでいた。
男の視線の先には、たくさんの風車がその羽を大きく回していた。この場所で、この世界で初めての風力発電が実験的に行われていた。
「国王様が発案なされてから、長い年月がかかりましたが、ようやく全ての試験をパスし、近々各所へ送電される予定です。よくぞ風で発電するなどというご発案と、この風の絶えない場所をご提案してくださいました。これがあれば、国民の生活が劇的に進歩することは間違いありません。全ては、国王様のお陰です」
もう一人の男が近付いてきて、マントの男に深く頭を垂れた。マントの男は、頭を垂れている男を一瞥した。
「勘違いするな。国民が皆懸命に働いてくれているから、この国はここまできた。頭を垂れる相手は俺じゃない。それから、俺のことを『様』をつけて呼ぶな。何度言ったら分かる」
マントの男は歩き出した。もう一人の男は顔を上げ、「やっぱり国王様には敵わない」と呟いて少し笑い、あとに続いた。
止めていたバークの元に戻る途中、小さな洞窟がマントの男の視野に入った。それは人が一人横になれるほどの小さなもので、地面には背の高い雑草が生い茂っていた。
時に忘れ去られたかのような光景であったが、男の胸の深い部分に刻まれ、恐らくこれから先も決して消えることのないこの洞窟の前に、男は立ち止まった。そして、口元を緩めた。ここに置いていった傷薬を作るのに結構苦労したんだぞ…。このことは誰も知らないが、男の首には、水色に光る石の片割れが、片時も離れることなくかけられていた。
男は露程も思っていなかったが、この男は、彼の死後何十年、何百年にも渡り、この世界の人類の師として仰がれ、語り継がれることになる。ディアロス王のように深い慈悲の心を持ち、強く生きよ…と。
おわり