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星降る朝  作者: つちのこ
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ごく普通の女子高生、凜は、ひょんなことから異世界に迷い込む。そこには、見渡す限りの大草原が広がっていた。途方に暮れる凜は、奇妙な動物に乗った不思議な少女に声を掛けられる。

プロローグ


 東の空が白み始めた頃、巨大な城の麓に一人の若者が佇んでいた。生まれて初めて吸う外の空気の匂い、風の感触、地面の柔らかさ、そして空の大きさにしばらく言葉を失い動けずにいた。

 若者は、生まれてから今この瞬間まで、一度も城から外に出たことがなかった。外の世界について、たくさんの本を読み想像はしていたが、想像と実感は全く別物であるということに今気付いたのである。

 若者の乳母であり、城で唯一若者に愛情を注ぎ、その存在を否定しなかった女性が、長い城仕えのなかで発見した外への抜け道を密かに書き残してくれた。その女性の若者への愛情は、若者が青年に育っていくにつれ、母性から生じるものではなくなってきていることに若者の父親が気付いた。父親は、その女性に激しい嫌悪感を抱いた。そして、父親は若者の目の前で、まるで邪魔な虫を潰すかのように、その女性を無残に殺した。今となっては、今若者が握っているこの紙がなければ、若者は死ぬまで外の空気を吸うことはなかったかもしれない。

 東の空が次第に明るくなっていった。若者は空を見上げ、目を細めた。その目は切れ長で、深く美しい青色であった。

 そして若者は、朝日に向かって歩き始めた。




 夕日に照らされた生徒たちが、昇降口から外に出ていく。どこかから、金木犀の香りが漂ってきた。そういえば、日もだいぶ短くなったな…そんなことをぼんやり考えながら、凜は一人昇降口に立っていた。

「お待たせ!お弁当箱教室に置いてきちゃってさ」

ローファーをつっかけながら、悠子が駆け寄ってきた。凜はにこっと笑った。顔にえくぼができる。目は黒目がちで大きく、十七歳という年頃の割には輪郭がすっきりしていた。二人は並んで校門に向かって歩き始めた。

「なんか、凛と一緒に帰るの久しぶりだね。受験生しながらお母さんもやって、凜は本当に偉いわ。尊敬する」

「そんなことないよ。もう二年経つからね、料理も慣れれば大したことないよ。それに、最近はスーパーのお惣菜に頼りっぱなしで」

「今が正念場だもんね、仕方ないよ。それにしてももう秋かぁ…早いなぁ」

 悠子はため息をつきながら空を見上げた。

 凛と悠子は、進学校として有名な都立高校に通っていた。二人は小学校からずっと一緒の幼馴染で、凜が高校一年生の冬に部活を辞めるまで、部活も同じ陸上部であった。

 凜はちょうど二年前に、母を癌で亡くした。凜には十歳年の離れた弟がいる。家族は他に、仕事で毎日帰宅が遅い父しかいないので、小学校低学年の弟の面倒を見れるのは凜だけであった。不慣れな家事をするために、早く帰宅できるよう泣く泣く部活も辞めた。

 そうしてようやく家事にも慣れてきて、時間にゆとりができたと思ったら、今度は受験勉強に時間を割かなければならなくなっていた。

「そういえば、今日全国模試の結果返ってきたよね。凜はA大どうだった?」

 悠子が凜の顔をのぞき込んできた。凜は瞳をそらした。今最も触れられたくない話題を直球で投げてきた悠子に、少し顔を歪めた。

「よくないよ。この時期でD判定だよ。さすがに志望校変えようかな。悠子はどうせA判定だったんでしょ。羨ましい」

 二人は、学部は違えど、第一志望の大学まで同じであった。

「変えちゃうなんてもったいない。凜の法学部は私のとこより偏差値高いから、D判定くらいじゃまだ全然分からないよ。なんか、こんな話してごめん」

 悠子は俯いた。自分が思っていた以上に言い方に棘があったようで、凜は自己嫌悪に陥った。確かに悠子には母親がいて、凜がかつてそうだったように、家に帰れば夕ご飯が勝手に出てきて、家のことを何も気にせず勉強に打ち込める。悠子の方が恵まれた環境にあるかもしれない。だけど、環境を言い訳にして、本当は勉強に打ち込めていないだけの自分の弱さに気付かないほど凜は愚かではなかった。まだどこかで環境を嘆き、悲劇のヒロインぶっている自分の弱さが、凜は心底嫌だった。凜は、深いため息をついた。

「ううん。悠子は何も悪くないよ。早く受験なんて終わればいいね。終わったらさ、絶対ディズニーランド行こうよ」

 交差点にさしかかり、二人は足を止めた。

「それは約束。あーあ、私これから歯医者行って虫歯抜かなきゃいけないの。今は受験よりそっちの方が嫌すぎる」

 悠子はくしゃっと笑って手を振り、右に曲がっていった。凜も笑って悠子に手を振り、左に曲がり家に向かった。

「お姉ちゃん、大変だよ!ペペが逃げちゃった!」

 凜が家に帰るなり、弟の哲生が泣き叫びながら凜に抱きついてきた。哲生をなだめて庭に出てみると、確かに犬小屋に愛犬ペペの姿はなかった。ペペは何年か前に、哲生がどこかから拾ってきた捨て犬だった。柴犬に近い雑種で、確かに落ち着きのない犬ではあった。

「逃げたって、いつもは鎖で繋いでるんだから、哲生が鎖とっちゃったんじゃないの」

「違うよ!僕が帰ってきたら、ペペがすごく吠えてて、庭を走り回ってたから、散歩に行きたいんだと思って、向こうの山の方に散歩に行ったんだ。しばらく歩いてたら、いきなりすごい力で僕の手を振り切って、山の中に走って行っちゃったんだ。しばらくペペの名前を呼んで探したんだけど、全然見つからないんだ」

 哲生がいよいよ大声をあげて庭先で泣き出した。家の前を通る通行人が、怪訝な顔で家をのぞき込んでいた。凜はため息をついてしゃがみ込み、哲生の頭を撫でた。

「分かった。そしたら、お姉ちゃんがちょっと山の方を探してくるから、哲生は家にいなさい」

「やだ!僕も探しにいく!」

 涙をぬぐって走り出そうとする哲生の肩を凜は慌ててつかんだ。

「だめ!哲生は家にいなさい。最近この辺で、ゆかりちゃんっていう哲生と同い年くらいの女の子が一カ月も行方不明でまだ見つからないってニュースやってるでしょ?とにかく最近物騒なんだから、哲生は家で待ってなさい。ペペのことはお姉ちゃんに任せて」

 凜は半ば無理やり哲生を家の中に入れ、制服のまま、携帯と財布と家の鍵だけ持って出かけた。

 哲生の言う「山」とは、少し歩いたところにある小高い雑木林のことであった。ここは東京の郊外であり、まだこのような自然がまま残されていた。一応自然公園のようになっており、人が歩けるような道はあるが、住宅地から離れた場所にあり、訪れる人はあまりおらず、整備もほとんどなされていなかった。こんな場所に小学生が迷い込んだら、それこそ最近ニュースで騒がれている行方不明事件になってしまう。

「あれ、凜、どうしたの?」

 雑木林に向かって走っていると、道でばったり歯医者帰りの悠子に会った。心なしか、下あごが少し腫れていた。凜が事情を説明すると、悠子も一緒に探してくれるという。凜は慌てて首を振った。

「そんな、いいって。受験前の貴重な時間を無駄にさせるわけにはいかないよ」

「ううん、いいの。今歯の麻酔がまだ効いてて、物も食べられないし、気になってどうせ勉強も集中できないし。たまには気晴らしも必要だよ」

 悠子はにやっと笑って走り出した。

「悠子、ごめんね。ありがとう」

 そして二人は、雑木林の歩きにくい道を進んでいった。いくらか進むと、ちょうど道がYの字に分かれているところに差しかかった。

「ここからは二手に別れて探してみようか。あんまり奥まで進んで迷っても大変だから、十五分後にまたここに戻ってくるようにしよう。何かあったら、携帯に連絡して」

 そう言うと、悠子は右の方、凜は左の方に進んでいった。

 凜が少し進むと、道は急勾配の上り坂になり、もはや舗装されていない山道になっていた。さすがにこんなところにペペはいないよな…凜が引き返そうとすると、突然、坂の上の方から犬の鳴き声が聞こえてきた。それがペペのものと確信は持てなかったが、凛の足は自然と進んでいた。土に足を滑らせ、木の根に躓きながらも、道なき道を登っていった。

どのくらい登っただろうか。ようやく視界が開けてくると、そこは小さな空き地になっていた。眼下には、紫色の空に染められ、光が灯り始めた街並みが広がっていた。妙に神秘的に感じられるその景色に、凛は少し息を呑んだ。

辺りを見渡すと、左の方に、凛の腰ほどの大きさの岩が、草に埋もれてポツンと立っていた。その横には、一人がやっと通れるほどの細い道があった。それは、林の奥へと続いていた。凛は、何気なくその岩に近付いた。

「何これ…」

よく見ると、岩のてっぺんが欠けており、その内部は、澄んだ水色の宝石のように輝いていた。まるで、巨大なブルートパーズの原石のようだった。美しかったが、こんなところに宝石のようなものがあること自体がひどく不気味に感じられた。凜はその岩から少し後ずさった。

ふと、道の奥で何かが動いた音がした。凜が道を進むと、だいぶ先の方にひょこっと犬が現れた。

「あ!ペペ!」

凜は駆け出した。それと同時に、犬もさらに道の奥に走っていったので、凜は慌てて追いかけた。いくらか進んでいくうちに、なぜかだんだん目の前が白んでいった。凛は走りながら目をこすった。しかし、白みは進んでいく一方であった。思わず凛は立ち止まった。それでも、景色はどんどん白んでいき、ペペを捕まえる前に、凛はついに何も見えなくなってしまった。




気が付くと、凛は草原にいた。遥か遠くに、地平線が見えた。草原と平行して、青い空と雲が広がっていた。

「あれ、なんで草原なの?しかも、昼間?」

空が青いという、ただそれだけの事実に気付いたとき、凛の心臓は激しく波打った。凛は、恐る恐る後ろを振り返った。その光景を見た瞬間、心臓が狂い始めた。今の今までいた雑木林が、なくなっていたのだ。心臓から、熱い波が全身に広がっていく。にもかかわらず、顔からは熱がサーッと引いていった。恐怖。正にこの二字が、今の凛の心境を表すのに最もふさわしい。

周囲には、木一本見当たらなかった。唯一、草以外のものがあるとすれば、それは凛の足元にあった。雑木林の小さな空き地に佇んでいた、巨大なブルートパーズの原石のような岩であった。だが、ここにある岩には、明らかに人為的に彫られた、バツのような印が大きく刻まれていた。

凛は慌てて制服のポケットから携帯を取り出した。時間は「18:03」となっており、圏外だった。使い物にならない携帯を再びポケットにしまい、その場にしゃがみ込んで頭を抱えた。必死で冷静さを保ち、様々なことを考え始めた。ここはどこなのか、雑木林はどこにいったのか、なぜ突然昼間になったのか、これは夢なのか…。

タカッタカッ…ふいに、馬の蹄が地面を蹴る音と振動が凛の体に伝わってきた。凛は慌てて立ち上がった。地平線の方から、馬に乗った人影がこちらに近付いてくるではないか。

それを見た凛の頭には、時代劇のように、弓矢と刀を持った厳つい男が鎧を身にまとい、馬にまたがっている映像が浮かんだ。殺される!凛はとっさにしゃがみ込み、再び頭を抱えた。

馬に乗った人はどんどんこちらに向かってくる。凛は固く目をつむった。地面を蹴る音はますます大きくなっていく。そして、凛の真横に来るとそれは止まった。

「お前、誰だ」

頭上から聞こえてきたのは、若い女の声だった。厳つい男に刀を突きつけられているとばかり思っていた凛は、その声に驚きを隠せなかった。恐る恐る目を開け、声の主を見上げた。

予想もしなかったその光景を理解するのに、少し時間がかかった。そこにいたのは馬ではなく、顔は柴犬、体はサラブレッドでありながら、背中にはらくだの様なこぶが二つあるという、奇妙奇天烈な動物であった。それが、灰色の瞳で凛を興味深げに見下ろしていた。

それにまたがっていたのは、凛と同い年くらいの、裾の短い着物のような服を着た少女であった。着物の色は、あらゆる蛍光色を無造作に塗ったような色で、決していい趣味とは言えなかった。少女は、赤みがかった長い髪をポニーテールにしていた。肌は浅黒く、肩までまくりあげた袖から、引き締まった二の腕がのぞいていた。茶色くて大きな瞳が印象的な、可愛いらしい少女であった。

「お前、戦に紛れて強者から逃げてきたんだろう。こんなところでふらふらしてると、また戦に巻き込まれて今度こそ死ぬぞ。ここはまだどの国の領土でもないからな、こぞって奪い合いをしているんだ」

少女は言葉を吐き捨てるように話す。強者?戦?凜は彼女の言葉の意味を何一つ理解できなかったが、言われてみると確かに遠くから地響きが聞こえてきた。同時に、地平線に砂埃とたくさんの黒い影が見えた。

「ほら、言った通りだ。お前、死にたいのか」

凛は首を振った。

「じゃあ、俺と一緒に来い。早く乗れ」

凛が戸惑っていると、少女は無理やり凛の手首をつかんだ。

「何もたもたしてんだ。早くしないと、こっちに迫ってくるぞ」

確かに、遠く地平線にあった黒い塊が、どんどんこちらに近付いて大きくなっていった。次第に、人の叫び声が聞こえてきた。黒い塊の周囲は、なぜか赤黒い光に照らされていた。

強者とか戦とか、とんでもない場所にきちゃったみたい…凛がそれに見入っていると、少女は舌打ちし、凛の腕をつかみ、強引に自分の後ろに乗せた。奇妙奇天烈な生き物は、ちょうどこぶが背もたれとなり、乗り心地はなかなか良かった。

「どこまでも世話のやける奴だな。いいか、飛ばすからしっかりつかまれ」

少女は、長い棒で動物の腹を叩いた。すると、耳障りな奇声を発して動物は走り出した。

周りの景色がどんどん流れてゆく。だが、凛にはその景色を眺めている余裕などなかった。振り落とされないことだけ考えて、必死に少女にしがみついていた。凜の長い黒髪と、紺色のブレザー、青いチェックのスカートがパタパタと風になびいた。

どのくらい走っただろうか。次第にスピードが落ちてきて、凛に周囲を見渡す余裕が生まれ出した。周囲の景色は、いつの間にか草原から森に変わっていた。動物はどんどん森の中に入っていった。

「よし、少し休もう」

森の中をいくらか進むと、少女は動物を止めて、そこから降りた。

「バーク、ありがとな」

少女は、バークというらしい、奇妙な動物の頭をポンと撫でた。

「おい、いつまで乗ってんだ。とっとと降りろ」

「あ、はい」

凛はゆっくりバークから降りた…というよりも、それは「落ちた」に近かった。バークはその場にしゃがみ、荒い鼻息を立てた。

森を見渡すと、木の幹は全てくねくねと奇妙に曲がっていた。頭上には黒い鳥や虫が飛び交い、どこからともなく、笑い声のような不気味な鳴き声が聞こえてきた。凛の体に、鳥肌が走った。

「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」

バークの隣に座った少女が口を開いた。その無邪気な茶色い瞳を見ると、戦とやらから助けようとしてくれたし、少なくとも害を加えるような人ではなさそうだと凜は判断した。どこだかわからないこの場所に迷い込んでから張り詰めていた神経が少しほぐれ、凛は、へなへなとその場に座り込んだ。

「私の名前は、結川凛です」

「ユイカワリン?長いな、リンでいいだろ。よろしくな。俺は、弱者の村のスターター。この森を抜けたところに、弱者しかいない村があるんだ。これまで、強者から逃げてきたたくさんの弱者を受け入れてきた。だから、安心しろ」

スターターは手を差し伸べた。凛は、やや戸惑いながらもスターターと握手をした。

「お前はどこの国の弱者だ?エルマドワ国か?」

 エルマドワ?そんな国あったかな…少なくとも凜の頭の中の世界地図には、そんな国名はなかった。言葉が通じている時点で、ここは外国ではないとも思えるのだが、日本でないことだけは間違いなかった。

「あの、ごめんなさい。さっきから強者とか弱者とか戦とか、全然話が分からないんです。ちなみに私は日本の東京から来たんですけど」

 スターターが思い切り顔をしかめた。

「ニホン?トウキョウ?そんな国聞いたことないぞ。というかお前、強者と弱者も知らないのか?」

 やっぱり通じないか…。凜は、この場所について考えることを諦めた。夢みたいで信じたくないけれど、どうやらいきなりパラレルワールドのような異世界に迷い込んでしまったと考えるのが、最も腑に落ちる。

「でも確かにお前、これまでに見たことのないヘンテコリンな着物着てるもんな。本当にこの世界のこと何も知らないんだな」

服のことをあなたに言われたくないと凛は内心思いながら、素直に頷いた。

「この世界のことを教えて欲しいの」

スターターは、ふぅとため息をつき、ゆっくりと話し始めた。

この世界には、強者と弱者という二つの人種があるという。強者は、人を呪う魔力を持って生まれてくる。その魔力の強さによっては、たやすく人を殺すこともできる。一方弱者とは、魔力を持たない普通の人間のことである。

弱者は魔力を持つ強者に逆らうことができず、どの国においても奴隷のように虐げられている。強者は、刀などの武器の代わりに、魔力を溜め、それを自在に使うことのできる「モダニア」という壺のようなものを使い、領土拡大といった私利私欲のために戦争を繰り返している。強者の奴隷と化した弱者は、その捨て駒として利用され、数多の命が奪われているという。

スターターの村からは強者が生まれなかったようであり、強者にいまだ見つけられていないこの森の奥で、ひっそりと暮らしているようだ。

「人間が不平等に生まれてくる世界…」

凛は思わず呟いた。この世界に絶望感を覚えたのだ。どんな人間も平等であることが今の世界のあらゆる思想の根本になっているような気がするが、その根本がひっくり返ってしまったように思えた。

「俺たち弱者は、まるで邪魔な虫を潰すように俺たちを殺してしまうあいつらを最も恐れている。だから、弱者は互いに助け合って生きるようになった。いや、そう生きなければならないんだ」

「それで、私のことも助けてくれたんだね。ありがとう」

凛は頭を下げた。

「や、やめろよ、そんなことされるの慣れてないから」

凛は顔を赤くして戸惑うスターターを見て、なぜか笑いが込み上げてきた。凛の笑顔を見て、スターターも一緒になって笑った。

「お前、本当に楽しそうに笑うんだな。悪い人間には見えないな。だから、村に連れて行く。よし、行くぞ!」

スターターは颯爽とバークにとび乗った。

凜も、スターターが悪い人間には思えなかった。どうせ何も分からない世界、信頼できる人と一緒にいた方が生き残れる可能性も高いし、とにかく今は色んな情報を得て、もとの世界に戻るヒントを得ることが重要だと凜は考えた。

凛もぎこちなかったが、今度は何とか自力でバークにとび乗った。バークは再び走り出した。凛は気付かなかったが、青い空はいつの間にか赤く染まっていた。


弱者の村の半分以上は畑で、ところどころに茅葺屋根の、質素な家が建っていた。

「スターターが帰ってきたぞ!」

凛たちが村に着くと、外で農作業をしていた村人が、農具を持ったままこちらにやってきた。皆スターターのようなヘンテコリンな格好をしていて、誰一人として例外なく土にまみれ、手足や顔は黒くすすけていた。

村の中でも、比較的大きな家の前まで来ると、スターターはバークから降りた。いつの間にか、凛たちを十人近くの村人が取り囲んでいた。村人は皆、興味深げに凛をのぞき込んでいた。凛はその視線に耐えられず、バークから滑るように降りて、スターターの背中に隠れた。そんな凛の肩に手を置いて、スターターは大声で話し始めた。

「こいつは、東の草原から連れてきた。リンって名前だ。仲間に入れてやってくれないか」

村人の中から、ちょうど凛の親世代の、日に焼けて背が高く、がっちりとした体格の男が前に出てきた。

「俺はこの村の長だ。ここはこの世界で唯一弱者が平和に暮らせる場所だ。これからよろしくな」

 長は手を差し出してきた。凜もおずおずと手を差し伸べ、握手を交わした。長は、まじまじと凜を見つめた。

「それにしても、随分奇妙だがきれいな格好をしているな」

 この世界の人にとっては、そんなに制服が妙なのか…凜は少し顔をしかめた。

「おやおや、随分騒がしいじゃないか」

村人たちのなかから、紫色のビロードのローブをはおり、真っ白な髪を一つに結わえた老婆が出てきた。その声はなかなかの声量で、杖をつき腰は曲がっているが、足どりはしっかりしているし、年齢不詳の老婆であった。老婆は、まじまじと凜を見つめた。

「可愛らしいじゃないか」

老婆は、しわくちゃな顔にさらにしわを加えて、少し不気味に微笑んだ。

「この子はうちで面倒をみよう。リンといったかな、少し話をしようかね。家へおいで」

老婆は、ゆっくり目の前の家の階段を上っていった。スターターもその後についていった。すると、老婆はキッとスターターを睨みつけた。

「お前はいい。皆と畑仕事でもしておいで」

「なんだよ、俺がいちゃだめなのかよ」

「だめじゃ」

「え、だめなの?」

 凜は思わずスターターを見つめた。スターターは少し頬を赤らめた。それを見て、老婆は大声で笑った。

「そうかそうか、スターターみたいなやつでもいないと心細いかね。わしはただの老いぼれじゃ、お前に害なんぞ加えられんよ。話が済んだらまたスターターのところにいけばいい」

「リンには俺がついてるからな。ババアにいじめられんじゃねぇぞ」

スターターは、ふてくされて階段を降りていった。凛は思わずスターターを目で追っていたが、老婆に催促されたので、恐る恐る家の中に入っていった。

家の中は、見た目よりも狭かった。二枚の煎餅布団が敷かれっぱなしで、中央に囲炉裏がある以外に、何もなかった。老婆は、囲炉裏の傍に静かに腰を下ろした。

「つっ立ってないで、そこに座りなさい」

凛は老婆の隣に座った。

「どうかね、この世界はお前の世界とは随分違うじゃろう」

凛の心臓はドクンと波打った。自分が異世界から来たことは、まだスターターにしか話していないはずだ。凛のこわばった顔を見て、老婆はにやっと笑った。

「そんなに緊張しなさんな。少なくともこの村には、お前に危害を加えるような奴は一人もいない」

「おばあさんは、この世界と私の世界のことを知っているんですか」

老婆はいきなり笑い出した。

「おばあさん?わしゃそんなきれいなもんじゃないわ。わしゃトールじゃ。トールばばあとでもお呼び」

トールは一息ついて、再び口を開いた。

「しかし、困ったもんじゃ。呪いのせいで、また異世界から可哀相な者が迷い込んできてしまった」

「また?」

「呪いのことは、スターターから聞いたか」

凛は頷いた。

「お前は、この世界が生まれたときから、人間がこんな風に不平等に生まれていたと思うかね。そんな訳がなかろう。もしそうであれば、この世界は始めから滅びるために生まれてきたようなもんじゃ。こんなに美しい自然や、動物たちをつくる必要なんてなかった」

「それじゃあ、始めは弱者と強者なんて存在しなかった…」

トールは頷いた。

「しかし、愚かな人間は、領土の拡大と、資源の発掘を求め、様々な国どうしで戦争をしていた。戦争は次第に激しさを増していき、ついに、今からちょうど四百年前じゃ。事が起きてしまったんじゃ、この呪いの始まりが…」

トールはため息をついた。

「呪いは、エルマドワ国の女王、モデア・エルマドワによって生み出された。彼女は、戦争を止めようと体を張って戦った。しかし、その甲斐むなしく、ついにはクニ・イムロクという、イムロク国の王の手によって命を奪われた。そのときの、彼女の人間の無力さへの激しい怒りが、強者という存在を生んだ。この呪いで、世界は少しずつおかしくなっていった。お前のような者が現れ始めたのも、その頃からだとわしは思っておる」

「この世界に迷い込んだのは、私だけじゃないんですか」

「わしは今まで、二人の異世界の者と出会った。おそらく、二つの世界の間に一方通行の道ができてしまったんじゃろう。お前の世界からこっちの世界には入れるが、その逆はできない。この世界から抜け出すことはできんのじゃ」

「そんな!」

凛の体は震えだした。そんな凛の様子を知りながらも、トールは淡々と話し続けた。

「追い討ちをかけるようだが、事実を伝えておくと、わしが今まで出会った異世界の人間は、二人とも、しばらくして何の理由もなく死んだ。おそらく、二つの世界では空気が違うのじゃろう。それに体がついていけなくなるんじゃ。この前この村で亡くなったのも、まだ元気な女の子だったんじゃがね」

 この瞬間、凜の脳裏にあることが浮かんだ。

「あの、その女の子の名前って…」

「ユカリという名前じゃ。可愛らしい子じゃったよ」

 凜は血の気が引いていくのが分かった。連日ニュースを騒がせている、行方不明になったゆかりちゃんが、まさかこんなところにいたなんて…。

「ゆかりちゃんが亡くなったのは、どのくらい前なんですか」

「あれは確か、五十年ほど前かな」

 どう考えても「この前」じゃない!凜は心の中で激しく突っ込んだ。それにしても、凜の世界の一カ月が、こっちの世界では五十年になるなんて…浦島太郎のような現実を叩きつけられ、凜の顔は蒼白になった。

「私は、死ぬしかないんですか」

凛のかすれる声に、トールは不気味な笑みを浮かべた。

「これはあくまでわしの勘じゃがね、お前にならこの呪いが解ける気がするんじゃ。呪いが解ければ、おそらくお前の世界への道が開ける」

「どうしてそんな風に思うんですか。私は受験勉強もろくにできていない、だめな人間です」

「お前はそんな物差しでしか人間を計れないのか。そんなくだらん物差しなんかでなく、わしの勘を信じた方が良いぞ。だてに二百年生きてるわけじゃないからのう」

「二百年!」

凛は目を見開いた。

「わしとて、好きでこんなに生きているわけではない。強者の呪いを受けたんじゃ。不死身の呪いを」

トールは話し始めた。まだ若かった頃、この村に来る前に住んでいた国の強者に襲われて、呪いを受けた。命こそ奪われなかったものの、永久に解けることのない不死身の呪いを受けてしまったのだという。

「今は普通に話せるし、歩けもするが、あと少しすれば、体が勝手に腐っていくだろう。そうなるのなら、いっそ殺された方がどんなに楽だっただろうと昔はよく思っていたんじゃ。だが、今となってはもうそんなこと思っちゃいないよ。呪いのおかげで、可愛いひ孫のひ孫である、スターターの顔が見られたからのう」

よく見ると、トールのぎょろ目は、スターターのくりくりした目と似ていた。

「おいババア、まだかよ!腹減ったよ!」

噂をすれば、外からスターターの声が聞こえてきた。

「おお、腹をすかせたクソガキが外で喚いておる」

トールは、凛の助けを借りてゆっくり立ち上がった。

「実はな、呪いを解く方法が皆目見当もつかない訳ではないのじゃ。だが、それはまた時が来たら話そう。まずはこの世界に慣れ、精一杯生きなさい」

トールは笑った。しわくちゃでどこか優しいその笑顔を見て、ようやく凛の顔から自然と笑みがこぼれた。

「分かりました、おばあちゃん」

凛の心臓は落ち着きを取り戻し、体の震えも治まった。

「私は、生き抜きます」




村での生活は、農作業が中心であった。まだ外が暗いうちから叩き起こされ、不慣れな畑仕事を一日中やり、ご飯はいたって質素であった。そして夜は電気もなく、囲炉裏の火を囲んで村人たちと話をすることが唯一のこの村の娯楽であった。

これまでの生活とはかけ離れたここでの暮らしを凜が思っていたよりも苦に感じなかったのは、村人たちが一人ももれなく皆親切で、温かく、明るかったからかもしれなかった。村人たちに囲まれて、凜は少しでも生き永らえるために、ここでの生活に慣れることだけを今は考えるようにしていた。

弱者の村を守る森は「死の森」と呼ばれ、世界で最も深い森といわれ、迷い込んだら最後、生きては出てこられず、人は誰も近寄らない。これが「死の森」と呼ばれる由縁である。

凛は一度だけスターターに誘われて、森を抜けたことがあった。それは村の東にある死の森ではなく、西にある森の方であった。その森は、少し歩けばすぐに抜けられるほど小さく、道に迷う余地もなかった。森を抜けると、小さな岩の洞窟があった。その先には、終わりのない大草原が広がっていた。

スターターは、草原の遥か先を指差した。

「こっちの草原は、とてつもなく広い。この先にどんな世界があるのか、今の俺たちにはまだ分からない。強者が戦争をやめて、もっと人間が賢くなれば、あの先にも行けるようになるのかもしれないな」

凛は、思わず感心してスターターを見つめた。そして、一緒になって微笑み、頷いた。

「古い話によれば、この草原はもともと砂漠だったみたいだ。だけど、何千年も前に降ったリュウリンによって、大地に生命が蘇ったんだってよ」

「リウ…何だって?」

「リュウリンだよ。今から何千年も前、人間がやっと国みたいなもんをつくり始めた頃、世界的な旱魃が起きて、深刻な食糧難になった。自分の国の食糧を確保するため、森を切り倒して武器をつくり、領土と食糧を奪い合う戦争をし始めた。それによってさらに世界の砂漠化が進み、人類は滅亡の危機にさらされたんだって。

そんなとき、ある若者が、体を張って戦争を止めようとした。そうすると、不思議なことに、小さな石の粒が空から降ってきたんだって。それは若者の願いを叶え、世界から全ての争いをなくし、砂漠に再び植物を生やして、人類を救ったんだとさ。その石の粒が、リュウリンだ」

ここまで話すと、スターターは来た道を戻り始めた。凛もそれに続いた。

「その若者は、リュウリンによって世界を救った神の化身といわれた。その子孫が、今のエルマドワ国の王家といわれてる。だから、エルマドワ国では、王家は神の血を引く者として崇められ、絶対的な存在として君臨している」

二人が森を抜け村に戻ると、「おーい」と手を振りながら長がこちらにやってきた。

「スターター、何しにあんな何もない所へ行ってたんだ。ごめんなリンちゃん、変なところに連れて行っちまって」

「いいじゃないか。リンにリュウリンの伝説を教えてたんだ」

「あんなエルマドワ国のおとぎ話、リンちゃんが知る必要ないだろう」

スターターのふぐの様なふくれっつらに、凛は吹き出してしまった。そんな凛を、スターターがギロリと睨んだ。

「そんなことよりスターター、明日の狩りの話し合いだ。明日は少し遠くまで行くから、しっかり計画を立てなきゃならん。今すぐ俺の家に来い」

「分かったよ。リン、悪いけど先に行くな」

スターターは、長と一緒に小走りで長の家に向かっていった。

この村の男たちは、三日に一度くらいの頻度で、「死の森」を抜けて狩りに出る。昼過ぎに出かけることもあれば、早朝から夜までいないこともある。このときふと、スターターはなぜ毎回男たちに混ざって、紅一点で狩りに出かけているのだろうと凛は疑問に思った。これまで、その疑問すら抱かないほど、スターターが男たちといることが自然だったのである。

家に帰り、夕食を作っているトールを見たとき、凛はこの疑問をトールぶつけてみようかと、喉の辺りまで言葉が出かかった。しかし、トールにスターターそっくりの大きな目でギロリと睨まれると、何故かその言葉はお腹の奥まで引っ込んでしまった。スターターはあんな性格だ、気の合う男たちと一緒に狩りをしている方が楽しいのだろう…そんなことを考えながら、凛はトールの手伝いを始めた。

翌朝、凛が目を覚ますと、もうスターターの姿はなかった。凛はいつものように、寝間着から制服に着替え、村外れの井戸まで水を汲みに外に出た。辺りはまだ薄暗かった。

外では、早くもトールが畑をいじっていた。年のせいか、トールは異様に早起きである。

いつもと変わらぬこの光景は、その日の夕暮れ時に起きた出来事によって一変してしまうのであるが、このとき凜はまだそんな事を知る由もなく、腕まくりをして農作業に取り組み始めた。

何事もなく一日が終わろうとしていた夕暮れ時、他の人が皆家で夕飯の支度をしている中、凛とトールは畑の草むしりをしていた。畑は、死の森のすぐそばにあった。

ふいに、死の森の方からカサカサと物音が聞こえてきた。二人は思わず顔をあげた。すると突然、見知らぬ少年が森から飛び出してきたのである。

「あ!人がいる!お願い、助けて!」

 少年は凜とトールを見つけるやいなや、駆け寄ってきていきなり凜の腕をつかんだ。

 少年を見て、凜は哲生を思い出した。少年はちょうど哲生と同じくらいの年齢と思われ、大きめな瞳がまだあどけない、少し茶色っぽい髪はぼさぼさで、粗末な身なりをした華奢な少年だった。凜は少し胸が痛くなった。

少年は、その瞳に涙を溜めて、凜の腕をひっぱった。

「僕の命の恩人が森の中で死にかけているんだ。お願いだから助けて欲しい」

 凜とトールは顔を見合わせた。

「ここは弱者しかいない弱者の村じゃ。弱者が互いに助け合って生きておる。わしは家に戻って手当の準備をしよう」

 トールのこの言葉に凜は頷いた。

「その人のところに案内して。私も一緒に行く」

 少年と凜は走り出した。少年に手を引かれ、森の中をしばらく走り続けた。

 どのくらい走っただろう。元陸上部の凜もさすがに息が上がってきた頃、少し先に人の姿が見えた。それは、木の幹にもたれかかり、ぐったりと地べたに座っている男であった。男は全身をすっぽり包む濃紺のマントをはおり、頭にはテンガロウハットのような、黒くてつばの大きな帽子を深くかぶっており、少し長めの黒髪がつばの下からのぞいていた。その腰には刀が携えられていた。

「この人を助けて欲しいんだ」

凜は男に近付きその顔をのぞき込んだ。男は意識を失っており、顔色は蝋のようであった。それにもかかわらず、その男の顔は、どうしようもないほど美しかった。美しいと思えるような状況でないにもかかわらず、そう思わざるを得ないほど、男の顔は整っていた。目を覚ましたこの人の顔を見てみたい…凜は思わずそんな衝動に駆られた。

そんな凜をよそに、少年は男の口元に手を当てた。

「大丈夫だ、まだ生きてる」

 凜は我に返り、男の腕を自分の首に回した。

「一緒にこの人を村まで運ぼう」

 少年は泣きそうな顔で頷き、二人は男を背負って村に向かった。男は長身であったが、華奢であったため思いのほか軽く、足を地面に引きずりながらではあるが、何とか森を抜け、トールの家まで運び込んだ。凜と少年は、トールが用意してくれていた布団の上に男を寝かせた。

「この者は…」

 男の顔を見るなり、トールはただでさえ大きな目をさらに見開き、絶句した。少年は、トールを見て必死に首を振った。

「そうなんだ。だけど、この人は間違いなく弱者なんだ。そして、戦で捨てられた僕を助けてくれて、故郷まで送り届けてくれた、僕の命の恩人なんだ。それなのに、こんな目にあわせてしまって…お願い、僕を信じて。この人は本当に優しい人なんだ!」

 少年は涙を流して叫んだ。少年はその名をジュンタといい、死の森の近くにあるエルマドワ国領土の弱者だという。そこでこの男は大怪我を負ったそうだ。

 トールはしばらく考え込んでいた。凜はトールがなぜ早く手当てをしないのかただ不思議だった。

「分かった。お前を信じよう。ただ、この男のことが他の者に知られるとまずい。じきに村の男たちも帰ってくる。この男は、そうじゃな…西の草原にある洞窟の中で手当てしよう。あそこなら近付く者はいまい。リン、悪いが洞窟までこの男を一緒に運んでくれぬか」

 凜はわけが分からなかったが、この切迫した空気を察し、何も聞かずにトールの言うことに従った。

 洞窟の中にムシロを敷き、その上に男を寝かせた。トールは慣れた手つきで男の服を脱がし、傷の手当てを始めた。ジュンタも手当ての心得があるようで、トールと一緒に薬を塗ったり、包帯を巻いたりしていた。

「ひどい傷じゃな。これは何人かの人間にやられたか。それに、古い傷跡や火傷の跡もだいぶある…」

 トールが独り言のように呟くと、ジュンタは泣き出しそうな顔で、ぎゅっと唇を噛みしめていた。

一通り手当てが済んだようで、トールは男に服を着せた。このまま安静に寝かせていれば、そのうち意識を取り戻すだろうとトールは言った。

「本当にありがとう」

 洞窟の中で、ジュンタは凜とトールに頭を下げた。

「ジュンタといったかね。お前もしばらくこの村にいなさい。お前が寝るくらいのスペースはあるじゃろう。少し狭くなるが、リンもそれでいいな」

「それはもちろん。でもあの、おばあちゃん。この人は一体何者なの」

 凜は眠っている男をじっと見つめた。

「わしにもよく分からんのじゃ。いや、男の正体は分かっておる。わしが理解できないのは、この男が弱者であるという事実じゃ。その事実と男の正体は、決して重なってはいけないはずなんじゃ」

 トールはちらっとジュンタを見た。ジュンタは慌てて首を振った。

「僕もそれは全然分からない。だけど、この人は弱者なんだ」

「安心おし。ジュンタを疑っているわけではないよ」

トールは立ち上がった。凜もつられて立ち上がる。

「この男の正体を知ることは、非常に危険なことじゃ。リンは知らないままの方がいい。この男のことは、決して村の者に言ってはならぬ。もちろん、スターターにもじゃ」

凛は頷いた。脳裏に男の美しい顔が浮かんだ。トールは少し笑った。

「お前は賢い子じゃ」

三人が村に戻ると、ちょうど男たちが帰ってきたところだった。トールは、皆にジュンタのことを話した。「ただでさえ俺の家は狭いんだ。寝相が悪かったら承知しねぇぞ」スターターは軽口を叩きながらも、今日収穫したばかりの肉をジュンタに嬉しそうに食べさせていた。出会ってから初めて見たジュンタの笑顔に、凛も自然と笑みがこぼれた。


何事もなく数日が過ぎた。凛は毎日洞窟に行って、トールやジュンタから教わったばかりの方法で、男の看病をしていた。看病をしているうちに、男の傷は目に見えて良くなっていった。だが、時々男は汗をびっしょりかいて、ひどくうなされていることがあった。しばらくして、男が再び静かに眠り始めると、凛は男の汗をきれいに拭き、その寝顔をじっと見つめてから、洞窟を後にするのであった。

今晩も、凛はこっそり家を出て、洞窟に向かった。「リン、僕も行く」後からジュンタがついてきたので、一緒に洞窟に入った。

男は静かに眠っていた。安堵のため息を漏らしてから、凛は男の体を拭き、包帯を取り替え始めた。それが終わると、男の顔をじっと見つめた。

「リンは、どうしてこんなに一生懸命この人の面倒を見てるの」

 ジュンタは凜を見上げた。どうしてと改めて聞かれると…凜は少し考えた。

「だって、この人はジュンタの命の恩人なんでしょ。だったら恩返ししないとなぁって思って。私ね、ジュンタくらいの年の弟がいるの。だからかな、ジュンタと初めて会ったときから、どうしてもジュンタを他人と思えなくて」

 ジュンタは少し顔を赤らめた。

「僕も、リンみたいなお姉ちゃんが欲しかったな…」

「あら、そう言ってくれて嬉しい」

凜はにこっと微笑んだ。二人が立ち去ろうとすると、突然男がうなされ始めた。拭いたばかりの体は、あっという間に汗にまみれた。男の右手が宙を掴んでは離し、離しては掴んでいた。凛は、思わず宙を掴む男の右手を両手で握り締めた。

「大丈夫…」

凛が声をかけたそのとき、急に男の目が開いた。男はしばらくの間、まだ荒い呼吸で、凛の存在にさえ気付かずに、呆然と天井を見上げていた。

男が目を開いたとき、凛の心臓はドクンと波打った。それは、突然男が目を覚ました驚きからだけではなかった。男の目は切れ長で、深く美しい青色だった。こんなに綺麗な目は見たことがない…思わず吸い込まれそうな不思議な魅力がその目にはあった。

「良かった。目が覚めたみたいですね」

その声を聞いて、男は初めて凛の存在に気付いた。

「ここは、弱者の村です。ここには、あなたに害を加えるような人はいません」

凛は笑った。だが、男は凜を睨みつけ、自分の体に巻かれた真新しい包帯に目をやり、周囲を見渡した。そして、凛の傍にいたジュンタに視線が釘付けになった。

「お前…どうして…」

 ジュンタの体がわずかに震えていた。ジュンタが何か話したがっているが、凛に気を遣って躊躇しているように凜には感じられた。

「あ、そしたら私、何か食べるもの持ってきます」

 凜は慌てて洞窟を出た。家に帰り、少ない食糧の中からできる限り栄養のある食材を組み合わせ、手早く雑炊を作った。もちろん、味見も欠かさなかった。納得のいく味に仕上がると、それを持って再び洞窟に向かった。ちょうど、ジュンタが洞窟から出てくるところだった。

「もう話は済んだの?」

 ジュンタは頷いた。その顔は、どこか悲しそうであった。凜はジュンタに何も聞こうとせず、そっと頭を撫でた。

「これ、食べてください。少しでも栄養とってくださいね」

 凜は男の枕元に雑炊をそっと置いた。男は壁の方を見たまま、何も言わなかった。

「お腹空いてなくても、食べた方がいいですよ」

 しばらくしても何も言わない男に、凜は「また来ますね」と言って立ち上がろうとした。

「それは食べない。今度は毒で俺を殺すつもりか」

 凜は耳を疑った。次第に、悲しみとも怒りともいえるような負の感情が湧き上がってきた。

「毒なんて!どうしてそんな風に思うんですか」

 男はその美しい目で、凜を睨みつけた。

「俺は誰も信じない」

男は、脇に置いてあった刀をとって起き上がった。

「まだ動いちゃだめ!傷口がふさがっていないの」

凛は肩をつかみ、立ち上がろうとする男を押さえた。次の瞬間、男は刀を引き抜き、凛の首筋に当てた。

「どけ。邪魔をすると斬り殺すぞ」

首筋に感じる冷たい感触に、鳥肌が凛の全身を駆け抜けた。凛はごくりと唾を飲み込み、体を震わせながらも、男の目をまっすぐ見据えた。

「嫌です。あなたは私を殺さないって、信じているから」

「なぜ俺を信じる。お前は俺の何を知っている」

「あなたのことなんて何も知りません。でも、ジュンタがあなたのことを命の恩人だから助けたいって言って、泣きながらこの村まで助けを求めにきたんです。それって、余程のことだと思うんです。そんな人が人を殺すなんて思えません。そもそも、人を信じるのに理由なんてありません。同じ人間どうしじゃない、助けて当然です」

「その同じ人間どうしが、今憎み合い、殺しあっている。お前の言葉は、世の中を何も知らない奴の綺麗ごとにすぎない」

凛は、ぐっと唇を噛みしめた。なぜか、目から涙が溢れてきた。

「えぇ、知りません。この世界のことなんて、何にも知りません!」

男は変わらず凜を睨みつけていたが、その涙に少し戸惑いを示した。

「でも、理由もなく人を助けたいと思うことだってあるんです。この村の人たちがそうやって生きているのを、私はこの目で見てるんです。実際に、私もこの村の人たちに助けられました。だから私も、そうやって生きたいんです。この気持ちは綺麗ごとなんかじゃなくて、ここに確かにあるんです」

男はしばらく凜の涙を見つめていた。そして、ゆっくりと刀を離した。すると、急に顔を歪ませ腹をかかえだした。包帯に、赤い染みがみるみる広がり始めた。

「大丈夫、今薬を塗るから」

凛は男を寝かせ、丁寧に包帯をとり、覚えたての治療を施した。その間、男はじっと宙を見つめていた。

「これで大丈夫。傷がふさがるまでは、安静にしてて下さい。あとこれ」

 凜は枕元の雑炊を手に取り、自ら一口食べた。

「毒なんか入ってません。ちょっと冷めちゃったけど、美味しいですよ」

凜は再び雑炊を枕元に置いた。男はそんな凜を見上げた。

「また来ます。おやすみなさい」

凛はゆっくり立ち上がり、洞窟を後にした。出るときに、一度だけ男の方を振り返った。暗がりの中、男が横になっている影だけが見えた。さっきここで会ったとき、ジュンタが悲しそうな顔をしていた理由が分かった気がした。でも…凜は男を憎めなかったし、放っておけなかった。男は、心に分厚い鎧を着ているような感じがした。見た目からすると、凛とそんなに年も変わらないくらい若いのに、なんでそんな鎧を身にまとってしまったのだろう…凜は、男のことが気になり始めた。

ふと空を見上げると、見事な満月が浮かんでいた。満月の優しい光が、そっと凜を照らした。




夕方、森から騒々しい声が聞こえてきた。いつものように、男たちが狩りから帰ってきたのだ。しかし、バークにまたがった長は、誰も想像していなかったものを背負っていた。その背中には、ぐったりとした男が背負われていたのだ。

「森の中で、死にかけている弱者を見つけた。手当ての準備をしてくれ!」

村中が、慌しく動き始めた。

弱者はトールの家に運ばれ、布団の上に寝かされた。年齢は、三十代後半くらいであろうか。その顔は苦痛で歪み、全身土と血にまみれていた。着ている服は、村の人のものと比べるとはるかに粗末で、ところどころ擦り切れて破れていた。汗をびっしょりかきながら、ぜいぜいと音を漏らして喘いでいた。

その姿を見た凛が最も気になったのは、左腿から赤黒い煙が、シューという嫌な音を立てて立ち昇っていたことであった。それは少しずつ、男の体を黒く焦がしていた。

家の中には、凛、トール、スターター、ジュンタ、長、そして、村でも特に怪我の手当てに手馴れた女性が数人いた。治療を施した後、トールが煎じた薬をゆっくり男に飲ませた。飲んだとたん男は激しく咳込んだが、しばらくすると呼吸はだいぶ落ち着いた。男はようやく目を開き、周囲を見回した。そして、口を開きかけたとき、トールが先に口を開いた。

「無理をしてはいかん。ここには弱者しかいない。安心して、落ち着いて話しなさい」

しばらくして、男はようやく、なんとか聞き取れるほどの声を発した。

「私は、エルマドワ国…第一〇七村の…タスモ…」

「エルマドワ国は、今この世界で最も勢力を振るっているが、あなたがこのような残酷な傷を負うほど酷い戦場じゃったのか。いったい、あの国は今どこと戦っておるのじゃ」

トールが優しく問うた。そして、視線をタスモの左腿に落とした。煙はどんどん広がっていき、タスモの体を蝕み続けていた。もはや左足は全部焦げ、炭のようになっていた。これを見た凛は、骨の髄から震え上がるのを感じた。タスモは、首を横に振った。

「あなた方に、どうしても、伝えたいことがある」

煙は、タスモの腰にまで手を伸ばしていた。

「私が戦った…相手は、敵国では…ありません。今…エルマドワ国では、内乱が起きています…最近…恐ろしい…ものが、できて…しまったのです。それは、新王軍…その頭が、何者かは…分かりませんが…エルマドワ王家に…対する、反乱軍です」

「なんだって!」

凛とトールを除く全員が、声を上げた。

「エルマドワ家は、強者が生まれる何千年も前から続く王家だぞ。国民にとっては、神のような存在じゃないか!」

長が半狂乱になって叫んだ。タスモは、静かに話を続けた。

「新王軍は…巨大です。そして…強い。内乱は…おそらくこれから、他国をも巻き込み、ますます…酷くなって…いく」

タスモは突然、悲痛な叫び声を上げ、もがき始めた。タスモはもはや胸まで炭と化していた。もがきながらも、タスモはまだ何かを言おうとしていた。

「大丈夫じゃ。あなたの言いたいことは全て伝わった。もう、何も言わなくてよい。ゆっくり眠るんじゃ…」

トールの言葉を聞くと、不思議とタスモは落ち着いた。そして、もはや顔の半分が炭となってしまったが、炭と化していない方の目から一筋の涙を流して、消えそうな声を発した。

「生き…て…」

次の瞬間、タスモは炭となった。それは、黒くて大きなただの人形のような姿であり、ついさっきまで言葉を発していた人間とはとても思えない、残酷な姿であった。彼を死に追いやった煙は、その命を奪うと同時に消えていた。

口を開く者は誰もいなかった。空気が鉛のように感じられた。凛は、泣くこともできずにただ震えていた。震える肩に、スターターがそっと手を置いた。この温もりに触れ、凛の中で何かが緩んだ。ようやく凛は涙を流した。

タスモは、村の隅にあるお墓に手厚く葬られた。日はどっぷりと暮れ、空には星が姿を現していた。

「さて、とんでもないことになったのう」

食卓の重い沈黙を破ったのは、トールであった。

「エルマドワ国は、呪いを生み出した女王モデアの国であり、その子孫である王族の魔力も極めて強い。それ故、戦争にも強く、この世界で最大の人口と領土をもつ国じゃ。そこで内乱が起きれば、タスモが最期に言っていたように、やがて他国、全世界を巻き込む戦争となるであろう」

「俺さ、やっぱりわからねぇんだ」

ふいに、スターターが口を開いた。

「お前はいつも何も分かっていないじゃろうが」

トールの言葉に、凛とジュンタは思わず吹き出してしまった。スターターは二人を睨みつけた。凛は、きまりの悪そうに下を向き、背筋を伸ばした。

「考えてもみろよ。エルマドワ王家といったら、ずっと神様みたいな存在だし、魔力も最強だ。逆うだなんて、これまで誰も考えもしなかった。そんな王族に反乱を起こすだなんて、俺にはどうしてもわからねぇんだ」

「ほう、お前もまともなことが言えるのか。明日はヒョウが降るかもしれんぞ」

スターターは、ようやくトールをものすごい剣幕で睨んだ。

「しかしなスターター。世の中には、信じられないようなことも起きるんじゃ。ことに、戦争が激しさを増し、世界が大きく乱れている今は、それがしばしば起きるんじゃ」

凛はこのとき、洞窟にいるあの男のことが頭に浮かんだ。

「わしらがやるべきことは、信じられないような事実から目を背けることではなく、それにどう立ち向かうかを考えることじゃ。今、巨大な戦争が起きている。それは、決して他人事ではない。そのうち、わしらもこうして平和に暮らしてはいられなくなるだろう。そのことを、しっかり肝に銘じておくんじゃ」


夜も更けた頃、凛はジュンタがいなくなっていることに気付いた。この頃、ジュンタはよく何も言わずに家を抜け出し、夜更けに戻ってきているようだった。ジュンタのことが心配になったわけではないが、凜もそっと家を抜け出した。そして、西の洞窟の方へ向かった。だが、洞窟の中には入らずに、途方もない草原を眺めて立ち止まり、近くに生えていた木にもたれかかって、崩れるようにしゃがみ込んだ。

凛は夜空を見上げ、目を細めた。星降る夜とは、まさにこれを言うのであろう。数多の流れ星が夜空を滑り落ち、電灯などないのに動くのに不自由しなかった。涼しい夜風が、言葉を失いただ空を見上げる凛の頬を優しく撫でた。

「そういえば、ペペはどこに行っちゃったんだろう」

凛は呟いた。この世界に迷い込んで、久しぶりに元の世界のことを思い出したことに凜は少し驚いた。いったん思い出されると、次々と元の世界の記憶が蘇ってきた。悠子は私と連絡が取れなくなって必死で探しているんじゃないか、哲生は私が帰らないから随分お腹を空かせているんじゃないか、一人でペペを探しに行ってはいないだろうか、お父さんも心配しているに違いない、学校の皆はどうしているだろう、もう受験は終わってしまったのかな…私は今、ここにいるんだよ。誰も見つけられない、こんなところに…。

凛が視線を夜空から地平線へと移し、そのまま顔を伏せたとき、背後で何かが動いた。凛は顔を上げ、後ろを振り向いた。そこには、人影が立っていた。その影は、凛がもたれかかっている木の後ろにある木にもたれかかり、そのまま座り込んだ。凛は暗がりの中で目を凝らし、その影をのぞき込んだ。

「あっ、あなたは…」

それは、洞窟にいたあの男であった。男は、声をかけられても凛には目もくれなかった。

「だめですよ、まだ傷口が完全に閉じてないのに、立って歩いたりなんかしちゃ」

「もう傷は閉じた。自分の体のことは自分が一番分かる」

「あっそうですか」

凛はそっぽを向いて草原を眺めた。だが、しばらくすると凛は振り向いて、もう一度男をちらりとのぞいた。

いまだに凛は、弱者であるということを除いて、男のことを何も知らなかった。凜が置いていった雑炊は、翌日きれいになくなっていた。それから、凛が作ったご飯は全てすぐにきれいになくなった。だが、男はご飯の感想を言うわけでもなく、凛が何度か話しかけても、無愛想な返事しかしなかった。

「今日、誰かが死んだのか」

突然男の方から話しかけてきたので、凛の心臓は少し跳び上がった。

「何でそれを?」

「歌が聞こえてきた。弱者が、永遠の別れを惜しむときにうたう歌だ」

タスモを埋葬するとき、凛には意味の分からない言葉の歌を皆がうたっていたことを思い出した。凛は、今日起きた出来事を全て男に話した。話し終えた後、しばらく沈黙が続いた。

「エルマドワ王族に、反乱軍が現れたのか」

「はい。やがて全世界を巻き込んだ戦争になるだろうと、タスモさんは言っていました」

凛は、深呼吸をした。

「あの、前から聞きたかったんですけど、あなたは一体何者なんですか」

 トールは、この男の正体を知ることは危険だと言っていたが、凜は気持ちを抑えることができなかった。

「あんたは、本当に俺が誰か分からないのか」

「分からないから聞いてるんですけど」

暗い中で、男が少し笑ったのが見えた。この人が笑ったの、初めてだ…凛も少し笑った。

「分からないなら、知らない方がいい」

「そっか…」

凛はため息をついて、再び草原を見つめた。

「私、この世界のこと何も知らないんです。言っても信じてもらえないのは分かってます。自分でも時々信じられなくなるくらいだから。だけど、これは事実なんです。私、この世界の人間じゃないんです」

男から何の反応もなかったが、凛は喋り続けた。

「じゃあどこの世界の人間なのかって聞かれても、答えられないんです。最初は、もう何がなんだか分からなかった。だけど、運良く心優しい弱者に助けられ、この村にやってきました。村の人たちは本当によくしてくれて、どこの馬の骨かも分からないような私のことを、凄く大事にしてくれました。だから、この村での生活には何の文句もないんです。

ただ、ついさっき、久し振りに元の世界のことを思い出したんです。家族や友達はどうしているだろう、私がいなくて心配してるんじゃないかって。そしたら、すごく悲しくなって。どうして私がここに迷い込まなければならなかったんだろうって」

話の後半になると、瞳から顔をのぞかせた涙のせいで声が震え出した。話し終えると、ついにそれは溢れ出た。凛は指でぬぐったが、涙は次々と零れ落ちていった。

「あんたの世界には、争いはないのか」

 相変わらず冷たい言い方だったが、男の声を聞いてなぜか凜の心は落ち着いた。凜は少し考え込んだ。

「この世界みたいに、強者とか弱者とかはいません。だけど、争いはあります。昔、私が生まれるずっと前に世界大戦があって、それを反省して私の国では戦争をしないことになっています。でも、世界にはいまだに戦争をしている国もあるし、個人の諍いとか、殺人事件とかはどこの国にもあります。むしろ、武器はどんどん進歩して、世界を滅ぼせるような武器も開発されています」

「人間が作り出した武器か…」

「そう、この世界には電気もないんですね。だから、武器という点では、私の世界の方が恐ろしいかもしれない」

「デンキ?」

 凜は口をつぐんだ。文系の凜には、電気の仕組みを説明できる知識はなかった。

「その…例えば風の力で風車を回して、そうやって生み出されるエネルギーです。そのエネルギーを使って、色々なものを動かせるんです」

 正確でもなく、あまりに拙い説明に、凜は自分で自分に吹き出してしまった。

「そんなに詳しくないんだな、そのデンキとやらに」

 こう言って男も少し笑った。凜は顔を赤らめた。だが、今凜はたまらなく楽しく、嬉しかった。

「あの、あなたの名前だけでも聞いちゃだめですか」

「…ディル。覚えなくていい」

ディルは立ち上がった。それにつられて、凛も立ち上がった。

「この夜が明ける頃に、ここを出る」

凛は慌てて首を振った。

「急すぎますよ!もう少し安静にしていた方が…」

「俺には、やらなければならないことがある。しかも、それは急を要するようになってしまった」

「でも、死の森を一人で抜けることはできません。誰か村の人と一緒に…」

「ジュンタが野生のバークを手懐けた。そのバークに乗って、ついでにジュンタを故郷に送り届ける」

「ジュンタも行っちゃうんですか…」

 それでジュンタは最近家を抜け出していたのか。水くさいことをするな…凜が少し落ち込んでいると、ディルは凛と向き合い、歩み寄った。

「最初、あんたを殺そうとしたことは、すまないと思っている。それから、あんたのご飯は全部美味しかった」

ディルはぶっきらぼうに言い放った。凛はディルの顔を見上げ、そこから動けずにいた。ただ心臓だけが、ものすごい速さで動き続けていた。

「今まで、ありがとう」

ディルは凜から離れた。そして、洞窟に向かいながら付け加えた。

「もう遅い。早く帰って寝ろ」

「絶対に…生き抜いてください」

ぐっと唇を噛みしめて、凛は洞窟の中に向かって深々と頭を下げた。頭を上げた凛の瞳は濡れており、星明りがそれを照らした。

「リン、ここにいたんだね」

 凜が振り返ると、そこにはジュンタがバークを連れて立っていた。

「え、ペペ?」

 そのバークを見た瞬間、凜は思わず声を上げた。バークの顔だけが、ペペの生き写しであったのだ。バークはそれもペペのような鳴き声を上げ、凛に近付き頬を舐めた。

「リン、この子知ってるの?」

「ううん、初めて会ったんだけど、顔がね、あまりにも私が飼っていた犬に似ていて…このバークが手懐けた子?というかジュンタ、もう行っちゃうんだ。ろくにお別れもできなかったじゃない」

「ごめんなさい。もっとこの村にいたかったんだけど、あの人が今夜出るって言うから」

 ジュンタはペペ似のバークを近くの木に繋いだ。

「リン、これまで本当にありがとう」

 ジュンタは頭を下げた。

「ううん。私もジュンタと会えてよかった。さ、家に帰っておばあちゃんたちにも挨拶をしないとね」

 凜はジュンタの手を握り、家に向かった。ジュンタは少し顔を赤らめて、凛と一緒に歩き始めた。


しばらくして、ディルは洞窟の入口に人が立っていることに気付いた。あの女か?しかし、人影の背丈が凛よりも随分低いことから、違うと判断した。

「誰だ」

人影は答えた。

「安心せい。わしもお前と同じ弱者じゃ。…ディアロス・エルマドワ」


翌朝、ジュンタはもう家にいなかった。凛は無駄だと分かっていながらも、毎朝そうしていたように、洞窟に向かっていた。

そこはもう誰もいなかった。ムシロが綺麗に畳まれ、傍にディルが食事のときに使っていたお椀が置いてあった。凛が近付くと、お椀にこんもりと何かが盛ってあった。「これは…」お椀を手に取った凛は胸を熱くした。それは、かつてトールに教えてもらった、かなり効能の高い傷薬であった。元になる薬草も希少なうえ、煎じ方にも高い技術を要するため、多く作ることが難しいとされているはずだった。にもかかわらず、ディルはわずかな時間でこれほどの薬草を探し、煎じ、しかもこれからまた危険な目に遭うであろう自分の懐には入れずにここに置いていった。

「ディル…ありがとう」

凛は一人、名前しか知らない男のことを想い肩を震わせた。洞窟の入口で、そっと凛の様子を見ていたトールの存在にも気付かずに。


その日の昼、森の向こうから、突然巨大な爆発音が聞こえてきた。

「ちくしょう、強者の奴らめ。森のすぐ外で戦をしていやがる」

ちょうど昼食を食べ終わり、畑仕事を再開した頃、スターターが森の向こうを睨みつけた。

「俺、ちょっと様子見てくる。死にかけた弱者が森で迷ってるかもしれないから」

スターターは、トールが何かを言いかけているのを無視して、バークにとび乗り村を出ていってしまった。

「おばあちゃん、どうしたの?」

スターターが出てからしばらく経った後も、トールが森の方を心配そうに見つめていたので、思わず凛は声をかけた。

「戦がこんなに近くで行なわれていると、森を飛び出したスターターが強者に見つかってしまうのではないかと思っての」

「ばあちゃん、心配しすぎだよ」

一緒に畑仕事をしていた、まだあどけなさが残る青年のミタが、ケラケラ笑った。

「今まであいつがそんな失敗をやらかしたことがある?あいつはいつもうまくやってる。リンちゃんだって、そうやってここに連れてきたんじゃないか」

ミタは凛に笑いかけた。凛は、少し照れながら頷いた。

「うまくやってくれるといいが…」

トールはゆっくりと畑に水をまき始めた。凜もそれに続いて、再び畑仕事に精を出し始めた。


「やっべぇ、危ないところだった」

こう叫びながら、スターターは思ったよりも早く、一人で戻ってきた。

「あんなに森の近くで戦をしてるとは思わなかったよ。しかも、戦はものすごい規模だった」

「お前まさか、強者に見つかってないだろうな」

ミタが不安げに問いただした。

「いや、森を出ないですぐに引き返したから、きっと大丈夫だ」

「やはり、止めておくべきじゃった」

トールが眉根を寄せて呟いた。

「大丈夫だって、ババア。この通り、俺は無事に戻ってきたんだから」

こうスターターが言った直後であった。森の中から、カサカサと音が聞こえてきた。その瞬間、村の空気が凍りついた。空気が凍りついたのとほぼ時を同じくして、森の中からバークにまたがった一人の男が現れた。

男は、鎧を着て赤いマントを羽織っていた。その腰には、上部がくびれて取っ手のついた、細長い壺がつけられていた。男は鬼のような形相をしていた。そして、その目は赤黒い光を放っていた。

しばらくの間、誰も言葉を発することができずに固まっていた。ただ強者だけが、その顔に不気味な笑みを広げていた。

「虫けらどもが。こんなところに隠れておったのか」

強者は辺りを見渡した。そして、皆が毎日汗を流して耕している畑を見て、そこをバークで踏み潰しながら、甲高い笑い声をたて始めた。

「まさか死の森の奥に虫けらの巣があろうとは、考えもしなかったな。しかも、食糧も豊富にある。早速仲間に報告せねば」

強者は腰の壺を手にし、その口を空に向けると、中から赤黒い光が放たれた。これが、強者の武器である「モダニア」だと凛は思った。

しばらくすると、遠く森の向こうの空に、同じ赤黒い光が放たれたのが見えた。

「最近、新王軍とかいう、強者にして中身は弱者以下の下衆どもが出てきたからな、少しでも戦力と食糧が必要になるわけだ。ここもわが国の領土にしてやろう」

強者はバークから降り、意図的に畑を踏み散らかして歩いた。ふと、男の視線が、トールの横で体をこわばらせている凛に向けられた。

「貴様、弱者のくせに可愛い顔してるな」

にやにやしながら強者は凛に近付いた。凛がよける間もなく、強者の手が凛の顎をつかんだ。

「やめて、早く出て行ってよ!」

凛は声と体を震わせながらも、正面から男の赤黒い目を睨みつけた。その瞬間、一気に男の顔が怒りで歪んだ。

「貴様、死にたいのか」

強者は凛を突き飛ばし、モダニアを向けた。

「やめろ!」

強者がモダニアを向けたのと同時に、ミタが叫びながら、棒切れで強者の腕を殴った。強者の視線は、ゆっくりとミタに移った。

「そ、それに、俺たちの大事な畑を荒らすな!とっととここから出ていけ!」

ミタの声は激しく震えていた。これにつられて、他の村人たちも一緒になって「出てけ!」と叫び始めた。

強者は、無言でモダニアをミタに向け、そこから赤黒い光を放った。ミタが倒れると同時に、その両隣にいた村人にも光を放ち、三人が地面に倒れ折り重なった。その瞬間、村中に悲鳴が響き渡った。

「馬鹿な虫けらども!強者の恐ろしさを思い知れ!」

強者は、四方八方に光を乱射し始めた。村は悲鳴に包まれ、いたるところで次々と人が倒れていった。人々は半狂乱になりながら逃げまどい、倒れた家族にすがり、泣き声を上げていた。平和だった村は、一気に阿鼻叫喚の巷と化した。

初めてこの村に来て喜んで迎えてくれたこと、毎日優しく畑仕事を教えてくれたこと、毎晩囲炉裏を囲んで色んな話を聞かせてくれたこと、狩りの後一緒に食事をしたこと…凛の瞼には、村の人たちの笑顔が浮かんでいた。目の前の光景は、涙で滲んだ。凛はぐっと拳を握り締め、体を震わせた。

「もうやめて!」

凛は突然強者の元へ走り出した。強者は乱射をやめ、無表情で凛に光を放った。その光は、凛の体のど真ん中を貫通した。

「リン!」

スターターが叫んだ。凛は、地面に膝をついた。だが、倒れることはなく、そのまま凛は目を開いた。しばらく呆然としていたが、自分がまだ生きていることに気付き、体の隅々を凝視した。どこにも変わった様子はなかった。

その瞬間、村中が騒然とした。しかし、最も驚いていたのは強者であった。

「何故だ…あんなにまともに当たったのに、傷を負った様子もない」

強者は再び凛に光を放った。それも凛の体を見事に通り抜けたが、凛は何事もなかったかのように、その場に膝をついていた。

「分からん、こんなことがあっていいのか…とりあえず報告だ」

強者はモダニアを空に向かって放った。その直後、強者は突然首から大量の血を吹き出し地面に倒れた。その後ろには、震える体で鍬を手にした、顔面蒼白のスターターが立っていた。体中が、強者の返り血で赤く染められていた。凛とスターターは目を合わせた。そのスターターの目は、ひどく怯えていた。

「リン…俺、許せなかったんだ。やっちまったよ…」

スターターの瞳から、涙が零れ落ちた。そして、その場にへなりと座り込んだ。凛とトールはスターターに駆け寄り、優しくスターターを抱きかかえた。

「これでいいんじゃ。スターター、自分を責めるな」

するとトールは、じっと凛を見据えた。

「リン、時は来た。この呪いを解けるのは、やはりお前しかおらん」

凛とトールに挟まれて、怪訝な表情を浮かべているスターターを横目に、トールは早口で話を続けた。

「前にわしが、呪いを解く方法がないこともないと言ったのを覚えているか。ここがもうじきエルマドワ国に支配されようとしている今、その方法にこの村…否、世界中の弱者の望みをかける時がきたのじゃ」

「ババア、それ何のことだよ」

スターターを無視して、トールは続けた。

「その方法とは、リュウリンの墓場を見つけ出すことじゃ」

「リュウリン」という言葉に、ここにいる誰しもが耳を疑った。

「おばあちゃん、あれは単なるおとぎ話でしょ?」

 トールは静かに首を振った。

「わしがまだこの村に来る前、かなり昔のことになるが、東の果てにある砂漠の小国から来た弱者と出会ったことがある。その者によれば、リュウリンは実在し、もともと乾燥地帯で自然環境の厳しい東の方に特に多く降ったのだという。そのため、その地域にはいまだリュウリンが残っており、それがリュウリンの墓場として守られているという。

リュウリンは、人々の願いを叶える力をもつ。そして、わしが長く生きている間に、リュウリンにこの呪いを解く鍵があるという話を聞いたことがあるんじゃ。その話が本当かどうかは分からない。しかし、もしリュウリンが実在するのなら、それに懸けてみる価値は十分にある。否、もはやそれしか可能性がないのじゃ。

うすうす予想はしていたが、やはり異世界の人間であるお前には強者の魔力が全く効かん。それはこの世界において、無敵を意味する。だからリン、お前が東の果てにあるリュウリンの墓場に行き、リュウリンに呪いが解かれるよう願うのじゃ。いいな」

トールはバークを呼び、凛に歩み寄って囁いた。

「実は、あの男もわしと同じことを考えておった。今、リュウリンの墓場に向かっておる。おそらく、旅の途中でお前はあの男と再会することになろう。その時は、全てをあの男に任せるのじゃ」

トールが話しているとき、この世界の地理も知らない自分が東の果てに辿り着くことすらできるはずがなく、まして呪いを解くなど不可能だと凜は思っていた。しかし、凛の脳裏に、星明りの下で最後に見たディルの姿が浮かんだ。あの人がいれば、私は強くなれるかもしれない…凛は目を閉じ、スーッと息を吐いた。

「分かりました。私、行きます」

「だったら、俺も行く」

スターターが、凛とトールの間に割り込んだ。

「リンにたった一人で、そんな危険なことがさせられるか」

「だめじゃ、断じていかん!」

トールは思いもかけず、大声で怒鳴った。

「お前は普通の弱者じゃ。強者の呪いを受ければ死ぬんじゃぞ。それでは、かえってリンの足手まといになる。お前はリンを守ってやるつもりでいるのかもしれないが、お前の体は女であることを忘れるな!」

このトールの言葉に、今までわけも分からずトールと凛の会話を聞いていた村人たちの表情が、一気に凍りついた。スターターは体を震わせ、大きく目を見開いてトールを睨みつけた。そんなスターターの姿を見て、トールは首を振りながら深いため息をついた。

「すまんスターター、言い過ぎた。もとはといえば、わしが受けた呪いを受け継いだせいで、お前の体は十四の誕生日に無理に女になってしまったんじゃな。しかし、いいかスターター。これは遊びではない。現実を受け止めるんじゃ」

スターターはトールから視線をそらし、口元に悲しげな笑いを浮かべた。

「分かってる、くそババア。そんなこと分かってる」

スターターは、何かをふっきるように顔を上げ、凛の方を向いた。そして、凛の手の中に、自分の懐から取り出した小石を握らせた。

「旅に出るなら、方位磁石が必要だろう。これは、常に東を向くようになっている。だから、これが指す方向に進めば、必ずリュウリンの墓場に辿り着ける」

スターターは、大きな瞳でじっと凛を見つめた。

「絶対に生き抜いて、必ずまた会おう。俺…リンが好きだ」

凛が何かを言おうと口を開きかけたとき、森の中からバークに乗った強者が何人か飛び出してきた。

「魔力が効かない女はどこだ?」

 強者は言いながらモダニアから光を乱射した。再び村は悲鳴に包まれた。凜はトールとスターターが止めるのを振り切り、強者の元へ駆け寄った。

「それは私よ!だから乱射をやめなさい!」

 光が体を貫通しても平然と立ち続けている凜を見て、強者は不敵な笑みを浮かべようやく光を放つのをやめた。二人の強者がバークから降り、凜を押さえつけ両腕を後ろできつく縄で縛りつけた。

「上からの命令だ。貴様を総督のところへ連れて行く」

「だめだ!リンを離せ!」

 後ろからスターターの叫び声が聞こえた。凜は慌てて振り返り、「スターター、だめ!」と叫んだ。

「きっと呪いを解いてみせるから、今は無駄死にしないで!」

 こう叫んだのを最後に、凜は強者に頭を殴られ、意識を失った。そのままバークに乗せられ、凜は森の中に消えていった。

 残されたトールは、泣きじゃくるスターターを抱き締めることしかできなかった。「リンを信じるんじゃ」トールは呪文のように、こう呟き続けていた。




 目が覚めると、凜はバークに乗って大きな街の中を進んでいた。そこは、弱者の村とはかけ離れた光景だった。石畳の道路が整備され、それに沿って二階建ての石造の建物がいくつも並んでいた。お店のようなものもあり、人で賑わっていた。道路には、馬車(バーク車と言った方が適当か)が行き交っていた。

 街の人は、凛の勝手なイメージではあるが、中世の西洋の人たちのような、女性はワンピース、男性はシャツにズボンといった洋服を着ており、弱者の村の人たちの着物に比べるとはるかにセンスがよかった。顔立ちも、西洋人のような顔立ちの人が多かった。そして、その目は皆赤黒い光を放っていた。きっとこの目が強者の証なのだろう…腕だけでなく、体中を縄で縛られ身動きできない凜は、ぼんやりそんなことを考えていた。

 バークは、噴水のある大きな広場を通り、その奥にある五階建てくらいのやや大きな建物の前で止まった。凜は繋がれた縄を引っ張られ、その建物の中に連れて行かれた。

 建物の最上階まで上り、廊下の突き当りにある大きな扉を強者が開いた。

「とっとと入れ」

 凜は背中を蹴られ、つんのめるようにして部屋の中に入っていった。

 そこは、会社の社長の執務室のような部屋で、来客用のソファーと机が手前にあり、奥に大きな執務机があった。そこに、四十代前半くらいだろうか、まだ若い、柔和な顔つきをした強者が座っていた。

「クロムニク様、魔力の効かない弱者の女を連れて参りました」

 クロムニクと呼ばれた、おそらくこの街の総督であろうその男は立ち上がり、変わらず柔和な笑みを浮かべたまま凜に近寄ってきた。クロムニクは赤いマントを羽織っており、体躯が良かった。凜の全身を舐めるように見つめてから、突然、凛に右の手のひらをかざした。すると、そこから赤黒い光が放たれた。この人、モダニアがなくても魔力を使えるなんて…凜もさることながら、凜を連れてきた強者も、クロムニクのこの突然の行為に驚いている様子であった。

「確かに。魔力が効きませんね。これは非常に興味深い」

 クロムニクは赤黒い瞳を大きく開き、顔中に笑みを広げた。その湿っぽい嫌らしさに、凜は寒気を感じた。

「私を殺すんですか」

 凜はかろうじて声を絞り出した。クロムニクは突然声を立てて笑い出した。

「とんでもない。そんなもったいない事しませんよ。魔力が効かないなんて、この世界では無敵です。その理由を調べ尽くすんですよ。あなたの体の隅から隅まで、徹底的に」

 凜は恐怖のあまり目の前が真っ暗になった。それだったら、殺された方がましだ。

「とりあえず、しばらくここの地下牢に入れておきましょう。国王様には、私から報告します」

 凜は再び強者に引っ張られ、地下牢に投げ込まれた。牢屋には窓一つなく、やっと凜が横になれるほどのスペースしかなかった。体の縄は解かれたが、厳重に鍵をかけて閉じ込められた。

 石の床から冷気が這い上がってきた。ひどく黴臭くて吐き気がする。強者に蹴られた背中が痛み出した。凜は壁にもたれかかり、膝を抱えて顔を膝に突っ伏した。おばあちゃん、スターター、ごめんね。早速約束果たせそうにないよ…。「ディル…助けて…」決して届かない声が漏れた。それは、そのまま嗚咽に変わっていった。


 どのくらい時間が経ったのだろう。廊下から足音が聞こえてきた。凜が顔を上げると、牢の鍵が開錠された。中に入ってきたのは、クロムニクであった。その顔にはやはり笑顔が張りついていた。

「あなたをここから逃がします。あまり表沙汰にしてはならないものですから、今のうちに早くお逃げなさい」

 凜はその言葉の意味を理解できず、ただクロムニクを見上げることしかできなかった。

「動けないのですか?なら、私が外まで連れて行きましょう」

 クロムニクは凜の腕をつかんだ。凜は、反射的にその手を振りほどいた。

「どうして急に…」

 クロムニクは微笑んだ。

「さっきはあんなこと言いましたがね、あなたを調べたところで、私たちがあなたと同じような力を得られるかどうかは分かりません。そんな僅かな可能性のために、あなたを犠牲にするのはあまりにも可哀相です。あなたは、家族のもとに帰りなさい」

 この世界に、弱者の命を守ろうとする強者などいるのだろうか…凜にはこのクロムニクの言葉が俄かには信じられなかったが、どんな理由にせよ、ここから抜け出せる千載一遇のチャンスが到来したのである。これを逃すわけにはいかなかった。

 凜はクロムニクに連れられ、裏口から建物の外に出た。外はすっかり夜になっていた。そこには、ここに凜を連れてきた強者とは違う強者が二人、バークにまたがりクロムニクを待っていた。

「この者たちがあなたを村まで送り届けます。さあ、乗ってください」

 クロムニクは凜を強者のバークに乗せると、「落ちたら危ないですから」と言って、凛の腰に縄を巻き、それをバークの鞍に縛り付けた。その直後、バークは走り出した。

 しばらく走ると、街を抜け、建物がまばらな農道に出た。凜には全く見覚えのない景色であり、弱者の村に向かっているのなら、遠くに死の森が見えてもいいはずなのに…凜は、何気なくスターターにもらった方位磁石を取り出した。すると、それは進行方向を指し示していた。弱者の村は西の果てにあるはずだ。強者たちは、弱者の村とは真逆の東に向かって進んでいた。

「私をどこに連れて行くつもりなの」

「馬鹿野郎。今さら気付いても遅いんだ」

 前にいる強者は笑いだした。凜は突発的にバークから飛び降りようと思ったが、腰に巻かれている縄に気付き踏みとどまった。今逃げようとしたら、バークに引きずられて大怪我を負ってしまう…凜は唇を噛んだ。その通りだ。強者を一瞬でも信用してしまった私が馬鹿だったのだ。

 すると、凛の乗ったバークの後方を走っていたもう一人の強者のバークが突然うなり声を上げ、バタリと倒れたような音がした。凜が振り向くと、バークの足に何本か矢が刺さっており、乗っていた強者は地面に投げ出されていた。

「ん?なんだ」

 強者も異変に気付き振り向くと同時に、どこかから矢が飛んできて、凜が乗っているバークの足に刺さった。バークは声を上げ、その場に立ち止まった。すると後方から、また違ったバークの足音がこちらに迫ってきた。迫ってきたバークには、人が二人乗っていた。暗がりでその顔は見えなかったが、前に乗っている人が刀を抜き、凛にそれを振りかざした。

 凜は悲鳴を上げ、咄嗟に目をつむった。刀を持った人のバークは凜の横を通り抜けて行った。凜は無傷であった。目を開けると、凛とバークを縛り付けていた縄が切られていた。

「なんだあの野郎」

 強者は二人に向かってモダニアを放った。二人はそれをかわし、代わりに矢が強者に放たれ、強者の腕と腹に刺さった。強者は思わず腹を抱えた。その瞬間、二人が乗ったバークが前から凜に迫ってきて、前に乗った人が通り抜けざまに凜を抱きかかえ、そのまま凜を自分のバークに乗せたのだ。

 凜を乗せたバークはさらにスピードを上げた。凜は、今自分を抱きかかえている人の顔も、周囲の景色も見ずに、ただ振り落とされないようにその人にしがみつくことだけで精一杯だった。

 しばらくすると、バークは徐々にスピードを緩め、ついに止まった。そこはエルマドワ国の領土からだいぶ外れた、何もない小高い丘の上であった。

「もう平気だ。降りろ」

男の無愛想な言葉と声にはっとして、凛は目を開き、自分を抱きかかえている男の顔をのぞき込んだ。

「ディル!どうして?」

「いいから、とっとと降りろ」

ディルにせかされたので、凛は落ちるようにバークから降りた。

「リン、怪我はない?」

 ディルの後ろから、ジュンタが降りてきて凜に駆け寄った。ジュンタは弓矢を背負っていた。

「ジュンタも!二人が助けてくれたのね。でもどうして私のことが…」

「リンがあの街に連れて行かれるところをたまたま見たんだ。それで、ディルとずっと後をつけてきたんだ」

 凜はディルを見つめた。

「本当にありがとう。二人がいなかったら、私、解剖されてたかもしれない」

「え、解剖?」

 ジュンタは目を見開いた。凜は、弱者の村が襲われてから二人に助けられるまでの経緯を話した。

「弱者の村がなくなっちゃったなんて…。そしたら、リンにも帰る場所がないんだね」

 ジュンタは悲しそうに笑った。

「私もって、ジュンタの故郷はどうなったの?」

「きっと、弱者の村が襲われたときに森の外で起きていた戦は、新王軍がジュンタの村を襲ったときのものだ。俺たちが向かったときには、村は戦場になっていて近付くこともできなかった。それから、ジュンタは勝手に俺についてくるようになった」

 バークから荷物を降ろし、ディルはその場に座った。凜とジュンタも、つられて座った。

「こんな風に言ってるけど、今回リンを助ける段取りを組んだのはディルなんだ。僕が昔戦で弓矢を使わされてたことを話したら、それは使えるって」

 ディルはジュンタを睨んだ。

「勘違いしてそうだから言っておくが、俺はただこの前の借りを返したかっただけだ。お前を助けたいだなんて、微塵も思ってない」

凛は少しだけ顔を赤くした。

「こっちだって、そんなこと思ってて欲しいだなんて、微塵も思ってないんだけど」

「じゃあいい」

「本当に性格悪いんだから」

凛はディルに聞こえないように呟いたが、ディルは凛を睨んだ。

「それでさ、リンはこれからどうするの?」

 ジュンタは変な気を遣って会話に入ってきた。少し大人げなかったかな…凜はちょっぴり反省した。

「おばあちゃんに、東の果てにあるリュウリンの墓場に行けば呪いが解けるかもしれないって託されたの。だから、そこに向かいたいんだけど、ディルも一緒なんでしょ?おばあちゃんが言ってたよ」

「それじゃあ、これからは三人で一緒に旅をすればいいね」

 ジュンタが嬉しそうに笑ってディルの方をみた。しかし、ディルはため息をつきながら首を振った。

「だめだ。俺は誰とも組まない。俺は一人でリュウリンの墓場に向かう」

「どうして?一人より三人の方がいいじゃない。お互いに助け合えるんだから」

 凜もジュンタに加勢した。

「そう思っているのはお前らだけだ。こっちは、お前らがいると迷惑なんだ」

「私たち、ディルの邪魔だけは絶対にしない。何でも言うこと聞く。それでもだめなの?」

「そういう問題じゃない」

ディルは髪をかき上げた。

「俺はな、追われてる身なんだ」

「ディル、何か悪いことでもしたの?」

ディルは、鼻で笑った。

「まぁ、そんなところだ。追っ手から逃げるのに、二人を連れて回るのは面倒なんだ。それに、もし俺と一緒にいるところを追っ手に見られたら、間違いなく殺される。自分の身のことを考えるなら、俺と一緒にいない方がいい」

「そんなこと言われたって、僕たちどうせ帰るところもないんだ。ディルと一緒にいなくたって、このままだとすぐに死んじゃうよ」

 ジュンタは泣きそうになった。凜は、ジュンタの頭を撫でた。

「私たちには身寄りもないんだから、命の心配してくれなくてもいいよ。それに、一緒にいるって言っても、ただディルの後をついていくだけで良いの。ディルは私たちのこと、何も考えなくていいから。もし追っ手が来ても、置いて逃げていいから。だから、お願いします」

凛はディルの方に向き直り、深々と頭を下げた。ジュンタもそれに続いて頭を下げた。ディルは再び首を横に振ろうとしたが、ふとその動きを止めた。いや待てよ、こいつは逆に利用できるかもしれない…ディルの口元に、不敵な笑みが浮かんだ。

「そこまで言うなら、一緒に行ってやる」

この瞬間、凛とジュンタの顔にパッと笑顔が浮かんだ。だが、この笑顔に釘を刺すかのように、ディルは冷たく言い放った。

「ただし、条件がある。追っ手に見つかったときは、俺の言う通りにすること。いいな」

「はい!」

凛は顔をほころばせた。ディルは、そんな凛の笑顔をじっと見つめていた。それにしても、単純な奴らだ、俺が追っ手から逃げるための時間稼ぎに利用しようとしていることに、ちっとも気付いてない…。

「それじゃあさ、バークがもう一頭いた方がいいよね」

 ジュンタは立ち上がり、バークに近付いた。よく見ると、それはペペであった。ジュンタがペペに何かを言うと、どこかへ走り去ってしまった。

「ペペが、今晩中にもう一頭仲間を見つけてきてくれるって」

「ジュンタ、すごい。バークとお話できるの?」

「うーん、なんとなくだけどね」

ジュンタははにかんだ。

「お前ら、明日は夜明けと同時にここを出る。だからもう寝ろ」

言いながらディルは羽織っているマントをはずし、乱暴に凛に投げ捨て、その場に寝転がった。いきなり投げてよこされたマントに困惑しつつ、凛はディルに意見した。

「明日、お昼頃出発じゃだめ?」

「さっき、俺の言うことなら何でも聞くって言っただろ」

凛ははっと息を呑み、思い切りふくれっつらをした。

「いじわる!」

マントを頭からすっぽりかぶって、凛は草が生い茂る地面の上に横になった。マントにはディルの体温がまだ残っていて、ほんのり暖かかった。

隣で、ディルがもう寝息を立てているのが聞こえた。それ以外に聞こえてくるのは、風に草がざわめく音だけだった。心地よい静寂の中で、凛の心は満たされていた。これから、今までとは比べ物にならないほどの困難が襲ってくるかもしれないにもかかわらず。



「クロムニク様、大変申し訳ございませんでした」

 二人の強者が、これ以上顔を擦り付けたら怪我をしてしまうのではないかというくらい、深々と土下座をしていた。

 クロムニクは、無言で二人に近寄り、右手から赤黒い光を放った。二人は突然痙攣し始め、床をのたうち回った。

「いいのですよ、お前たちに頼んだ私が愚かだったのです」

 すっかり床で伸びきってしまった二人の強者を踏みつけながら、クロムニクは言い放った。

「二度目はありませんよ。あの少女を先に国に渡すわけにはいきません。何としても居場所を突き止めなさい。いいですね」




ディルが予告した通り、三人は夜明けと同時に出発した。ペペが本当に連れてきたもう一頭のバークにディルと凜が乗り、ペペにジュンタと荷物を乗せて、走り出した。

それから数日間は、何事もない日々が続いた。草原や小さな森を次々と抜け、バークに揺られながらひたすら東へ進んだ。ある日の昼下がり、目の前には見慣れぬ光景が広がっていた。そこには、砂漠があった。ディルは、バークのスピードを緩めていった。

「毒の砂漠…こんなところにまで広がってしまったのか」

「毒の砂漠?」凜は首をかしげた。

「あぁ。強者の呪いは人だけでなく、あらゆる生物の命を奪う。だから、戦争の跡地にはもはや植物は育たなくなり、砂漠と化す。しかもその砂は毒を含んでいる。それが毒の砂漠だ」

ディルは、バークの踵を返した。

「戦争の規模が拡大すればするほど、毒の砂漠も広がっていく。このままだと、世界が滅びるのは時間の問題だ」

この話、どこかで聞いたことがある…凛は、かつてスターターから聞いたリュウリンの伝説を思い出した。リュウリンが降る前、世界は旱魃によってほとんどが砂漠と化していた。しかし今は、強者の戦争によって、世界が毒の砂漠と化しつつある。

「少し遠回りになるが、北に向かう」

そうしてしばらく進むと、毒の砂漠は見えなくなった。その代わりに、まだ煙がたちこめている戦の跡が見えてきた。その規模は大きく、人やバークの死体があちこちに転がっていた。今までに見たことのない惨状に、凛は思わずディルの背中に顔をうずめた。一方ディルはというと、そんな凛を気遣う様子は全くなく、そのど真ん中にバークを止めた。

「今夜はここで野宿する」

凛は小さな悲鳴を上げた。

「嫌!絶対に嫌!」

「お前は一晩死体と一緒に過ごすのと、獣に食われるのとどっちがいいんだ」

凛は思わず顔を上げた。周囲はいつの間にかオレンジ色の光に包まれていた。

「もうじき夜になる。東に行くには、あの森を抜けなければならないが、あの森は確か人食い動物の宝庫だったはずだ。そして、奴らのほとんどは夜行性だ。さぁ、どうする」

「…ここで野宿します」

三人は、戦の跡地の外れにある、雑木林の傍の洞窟に向かった。バークから降り、三人がやっと横になれるくらいの小さな洞窟の中に荷物を降ろした。最近夜が冷え込むようになってきたので、ディルは薪を集めに林に向かった。残された凜とジュンタは、備蓄していた食糧を広げ、食事の準備をすることにした。

ちょうどその頃、戦の跡地で一人の強者の男が金目のものを漁っていた。男は、黒髪を一つに束ね、ナイロンのような生地の着物を着て、顔中に無精ひげを生やしていた。その腰には刀を携えていた。ふと近くでバークの足音が聞こえたのでそちらに目をやると、若い女がバークにまたがっていた。しかも、なかなかの美人だった。男は手を止め、舌なめずりをしながらその女の一行に近付いた。茂みからのぞき見ると、女は洞窟の前で少年と二人きりだった。あんな上玉、抱いたことないな…男の体中に欲望が湧き上がってきた。傍にはガキしかいねぇ、今がチャンスだ。

突然、洞窟の傍の茂みからカサカサと物音が聞こえたかと思うと、そこから一人の男が飛び出してきた。そして、男に背中を向けていた凜を背後から羽交い絞めにし、その首筋に刀を押し当てた。

「お前、何者だ!」

 叫びながらジュンタは弓矢を構えた。

「おいガキ。俺はこのお姉さんとこれから楽しいことするんだよ。邪魔すると、お姉さんの首から血が噴き出ちまうぞ」

「貴様は、残飯漁りの強者か」

 ちょうどディルが薪を抱えて帰ってきた。薪を放り投げ、強者と凜に近付き、鞘から刀を抜いた。

「おいおい、もう一人いたのかよ。貴様、さっき俺のことなんて言った?これ以上俺を怒らせると、本当にこの女ぶっ殺すぞ!今すぐその刀を捨てろ!」

 ディルは刀を捨てるどころか、握りなおした。

「馬鹿か貴様。誰がそんなことで刀を捨てるか」

「そんなこと?」

 思わず凜が叫んだ。「ディル本気なの?」後ろでジュンタも叫んだ。

「ディルは私が死んでもいいの」

「借りは返した。それから後のことなんて知るか」

「何それ、ひどい!私、ディルのこと買い被ってた」

「勝手に俺を買い被るな」

強者は呆気にとられていた。

「てめえら、デキてるんじゃねぇのかよ」

「そんなことより、もう一度言ってやろう。貴様は残飯漁りの強者だ。強者のくせに、魔力が弱くて使いものにならないから、強者から見放され、戦にも加えてもらえず、戦の跡を漁ってそこで拾ったもので生計を立てている、くずみたいな強者がいると聞いたことがあるが、まさか本物に出会えるとは思わなかったな」

 ディルの言葉に空気が凍りついた。ことに強者は、顔を真っ赤にし、怒りで体が震え始めていた。

「強者の女からも相手にされないから、戦場で死にかけている女を襲うという話も聞いたことがある。貴様が今襲おうとしている女はあいにく死にかけてはいないから、相手にされないだろうな」

「貴様!ぶっ殺してやる!」

 強者はこう叫ぶと、凜を突き放し、ディルに向かって突進していった。強者が振り上げた刀を、ディルは易々と受け止めた。そして、しばらく刀の打ち合いが続いた。

 ディルは、力強い刀裁きで強者を追い込んでいった。意図的に強者を凜とジュンタから遠ざけ、雑木林のほうに追い詰めていった。そうしてディルは思い切り強者の刀を打ち払い、強者の手から刀が離れ宙を飛んだ。そのままディルは強者の胸倉をつかみ、体を木の幹に押し付け、刀で強者の左腕を一突きし、首筋に刃を押し当てた。

「命まで奪うつもりはない。今すぐここから立ち去れ」

 強者は呻き声をあげていたが、突然ニヤリと笑みを浮かべた。

「ディル、離れて!」

 後ろでジュンタが叫んだが、遅かった。「強者をなめんなよ」強者は右の手のひらをディルに向けた。風船が爆発するような音がしたと同時に、ディルはよろめいた。ディルの左肩から煙が立ち上がっていた。強者は魔力を使ったのだ。

 その隙をみて、強者は思い切りディルの顔を殴り、腹を蹴った。ディルはその場に倒れた。倒れたディルを、強者は何かを喚きながら、思い切り踏みつけ、蹴り続けた。

 すると、突然横から凜が駆け寄ってきて、そのまま強者に飛びついた。強者は凜と一緒に地面に倒れ込んだ。凜は、倒れた強者の上に馬乗りになり、拾った強者の刀の先を強者の喉元に突き付けた。

「これ以上ディルを傷付けたら許さない!このままこれ突き刺すから!」

 凜は目に涙を浮かべていた。強者は下品な笑いを浮かべ、凜の腰に右手を回した。

「その男は貴様を見捨てようとしたんだぜ」

「そんなことどうだっていいじゃない!私はディルを助けたいの!ディルがこれ以上傷付くのが耐えられないの!」

 直後、凜はディルに両脇を抱えられ、強者から引き離された。凜は驚いて後ろを振り向いた。

「これ以上の争いは無意味だ。立ち去れ、一刻も早く」

 ディルが冷たく言い放つと、強者は「くそっ」と悪態をついて、そのまま林の奥に走り去っていった。

 ディルは凜を離すと、そのまま倒れるように近くの木の幹にもたれかかり、苦しそうに腹をおさえた。口からは血が流れ、左肩からはまだ煙が立ち上っていた。

「ディル、大丈夫?」

 凜はディルに駆け寄った。しかし、ディルは凜を睨みつけた。

「お前は馬鹿か。あいつはお前を襲おうとしたんだぞ。それなのに、なんで自分から馬乗りになんかなったんだ。俺が引き離すのがもう少し遅かったら、あのままお前は襲われていた」

 凜の顔は真っ赤になった。

「ごめんなさい。必死だったの」

「自分を見捨てたやつなんかのために、なんでそんなに必死になるんだ」

 凜は思い切り首を振った。

「私が必死になるのは、ディルが大切な仲間だからだよ。ディルが苦しいと、私も苦しいの。それに、ディルは私を見捨ててなんかない。わざとあいつを挑発するようなことを言って、私から気をそらしてくれたんでしょ」

 凛は顔を少し赤らめて、にっこりと笑った。

「ありがとう。嬉しかった」

その笑顔を見て、ディルの顔も少しだけ赤くなった。

「ディル!怪我は大丈夫?」

 腕いっぱいに手当ての道具を抱えて、ジュンタが駆け寄ってきた。ディルはため息をついた。

「あの男の魔力は大したことない。放っておけば治る」

 ディルは口をぬぐいながら洞窟に向かった。ジュンタは、まだそこに立っていた凜を見上げた。

「リン、すごくかっこよかった。ディルのこと、本当に好きなんだね」

 凜は顔を真っ赤にした。

「そんなんじゃないから。生意気なこと言わないの」

 凜は、ジュンタの頭をゴンと叩いた。


今夜は特に冷え込んだ。弱まってきた焚き火の炎を、凛は一人見つめていた。隣でジュンタがすやすやと寝息を立てていた。いったい今何時くらいなのだろう…遠くで、獣の鳴き声が聞こえた。軽く睡魔に襲われた凛は、さっきから物音一つ立てないでいるディルを、かすかな焚き火の明かりを頼りにそっとのぞきこんだ。ディルはマントも羽織らずに、座ったまま静かな寝息を立てていた。

「この寒いのに、風邪ひいちゃうよ」

凛は、隣に乱雑に置かれたままのマントを持ち上げた。このマント、間近で見ると、ところどころほつれていたり、破けていたりしていた。凛はマントを置き、制服のポケットをあさった。ブレザーの内ポケットに、凛が探していたものはあった。それは、ソーイングセットであった。ちょうどこの世界に迷い込んだ日の朝、家を出る直前に哲生のズボンのボタンが取れたので、慌てて縫い付けて、ソーイングセットをそのままポケットに入れて学校に行ったのだった。凛はこの偶然に心から感謝した。さっき凛を襲った睡魔はどこへやら、かすかな明かりを頼りに、凛は張り切ってディルのマントを繕い始めた。

ディルの眠りは浅かった。うとうとしたと思ったら、すぐに目が覚めてしまった。焚き火の明かりが微かに残る薄暗がりのなか目を開くと、そこにはまだ起きて何かをしている凛の姿があった。凛が、自分のマントを繕っているということに、ディルは少ししてから気付いた。

そのとたん、ディルの脳裏に再び凛の笑顔が浮かんだ。それは、眠りに落ちる前も、ずっと頭にこびりついていた。そして、目覚めた後も、ディルの心を捕らえて離さなかった。どうして俺を助けようとする?どうして俺のために苦しむ?さっき俺のことを仲間だと言った…仲間って何だ。良く分からない。だけど、妙に温かい…。

焚き火の炎は、もはや消えかけていた。炭だけが、ぼうっと微かなオレンジ色の光と熱を放っていた。辺りはほとんど真っ暗で、冷え込みは厳しくなる一方だった。それでも凛は、かじかむ手をこすり合わせて、ディルのマントを繕っていた。手元がほとんど見えないので、何度も針で自分の指を刺した。「いたっ」という小さな声が、その回数だけ聞こえてきた。ディルは、そんな凛をじっと見つめていた。

「リン」

ディルの声に、凛は思わず「ひゃっ」と小さな悲鳴をあげた。

「ディル、ずっと起きてたの?」

「いや。それより、お前はそんなことしてないで、もう寝ろ」

「あっ、これは…」

縫いかけのマントに視線を落としながら、凛はなんだか恥ずかしくなった。

「別に、ディルのためにやってたわけじゃないから」

ディルは笑った。

「それ、いつの間にお前の物になったんだ」

「え、ううん、そういう意味じゃなくて…」

凛は少し困惑していたが、ディルの笑った顔を見たら、思わず笑みがこぼれた。

「それよりディル、もしかして寒くて目が覚めた?ごめんね、気付かなくて。今マント渡すから」

凛は急いで玉止めをして、手探りではさみを探し、糸を切った。

「俺は寒くない。それはお前がかぶってろ」

「うそ。こんなに寒いのに、寒くないわけないでしょ。それにこれ、私のじゃないし」

凛はマントをディルに手渡した。ディルはそれを受け取ると、バサッと広げ、片端を持ち上げた。

「入るか。暖かいぞ」

凛は、自分の心臓がドクッと締めつけられたのを確かに感じた。顔を赤らめながら、とびきりの笑顔で頷いて、ディルの隣に座った。マントの中で、凛はディルの体温を感じた。

「ねぇ、ディル。さっき、私のこと初めて名前で呼んでくれたよね」

唐突に凛が沈黙を破った。

「覚えてない」

凛はくすっと笑った。

「私、すごく嬉しかったんだ」

凛はこの言葉を最後に、ディルの肩に徐々にもたれかかりながら、寝息を立て始めた。

ディルは、そんな凛を見るでもなく、眠りにつくでもなく、じっと炭のオレンジ色の光を見つめていた。炭は、いつまでもその光と熱を失わなかった。むしろ、その勢いは増していくようにさえ見えた。いずれは消えゆく運命にあるにもかかわらず…オレンジ色の光は、まるでその全ての力を余すとこなく振り絞るかのようにして、ゆらめきながらも燦然と輝き始めた。



「クロムニク様、これが少女が握っていた刀です」

 クロムニクは刀を手に取った。

クロムニクの手下たちは、あらゆる国の戦場を放浪し、多くの情報をもっている「残飯漁りの強者」に目をつけ、魔力の効かない少女の情報を手に入れようとしていた。すると、幸運なことに、人食い動物が多く生息する森の近くにいた「残飯漁りの強者」が、その少女と思われる者と遭遇したという。その少女は自分の刀を握ったというので、そこからクロムニクに魔力で少女の残像を読み取ってもらうため、刀を持ち帰ってきたのである。

「間違いない、あの少女ですね。この気配は覚えておきましょう。どうやら東の方へ向かったようですね」

 クロムニクは刀を握って目を瞑っていた。残像は、クロムニクにしか見ることができない。

「ん?少女と一緒にいるこの男…」

 突然、クロムニクは顔をしかめた。しかし、次第に顔中に不気味な笑みを浮かべ始めた。

「これは面白いことになってきましたよ…少女は、驚くべきことに、ディアロス王子と一緒にいます。何としても捕まえなければなりませんね…」



「また新王軍に負けたのか!」

 歯ぎしりをし、椅子の肘掛けをドンドンと叩いているのは、エルマドワ国王、ドマルフ・エルマドワその人であった。小太りであったが、その顔はよく整っており、切れ長の瞳が印象的であった。瞳はどの強者よりも赤黒く、鈍い光を放っている。

「申し訳ございません。弱者も含めた兵士の訓練を徹底いたします。ところで父上、その新王軍なのですが」

 国王の前で跪いているのは、国王の息子であるカルディス・エルマドワであった。黒髪で鼻筋が通っており、美男子だったが、その赤黒い目は鋭く吊り上がっており、初対面の者は思わず畏怖の念を感じるほどであった。年齢はまだ十七でしかなかったが、王位継承者として相当高い地位にあり、国内で力を振るっていた。

「その頭が未だに明らかになっておりませんが、私が怪しいと睨んでいる者がおります。連日その者を監視させていますが、新王軍やイムロク軍との戦場によく現れており、不審な動きを見せています」

「誰なんだね、お前が睨んでいる者とは」

「はい…クロムニク総督です」

「なんだと?あの者は元々王族直属の家臣で城に仕えていたような人間だぞ。力もあり、人柄もよく、複数の街の総督を任せている男だ。そんな馬鹿な」

「お言葉ですが父上。そのような完璧にみえる者ほど、

裏で何を考えているか分からないものです」

 国王は突然大声で笑いだした。

「その若さで随分と世の中を知り尽くしたようなことを言うのだな、カルディス。さすがは我が息子だ。よかろう、お前の好きなようにやってみるがよい」

 カルディスは頭を下げた。

「恩情に感謝致します。これからは私が直接クロムニクの動きを見張り、必ずや動かぬ証拠を掴んでみせます」

「あまり目立たぬようにやれ。それで…あの男の件はどうした。まだ見つからんのか」

 カルディスは視線を落とし、その鋭い目をさらに吊り上げた。

「申し訳ございません。直属の部下に昼夜を問わず探させているのですが、まだ手掛かりが掴めておりません」

「こっちの方も全力でやれ。我が国の一大事だ。それに、あの男はお前のたった一人の兄なのだからな」

 国王は、皮肉な笑みを浮かべた。




東の果てに向かう旅は続いていた。凜たちを乗せたバークは、植物があまり生えていない岩場をしばらく進んでいった。

再び木々が見え始めたところまで来ると、ここからあまり遠くない場所にある集落から、煙が立ち上っているのが見えた。

「また戦かな」

凛が呟いたのに対し、ディルはじっとその煙を見つめていた。そして、東ではなく北の方角にあたるその集落へとバークを走らせた。

「どうしてそっちに行くの?」

凛の言葉も耳に入らないほど夢中になって、ディルはバークを走らせた。

周囲を竹やぶに囲まれたその村は、もはや廃墟と化していた。建物はほとんど崩壊し、中には赤黒い煙をあげているものもあった。強者は撤退したようで、ただ死体だけが無残に転がっていた。凛は地獄としか思えないその光景に息を呑み、目を伏せた。ディルは、黙ったままバークから降りた。

「ディル、どこに行くの?ここはどこなの?」

「リンとジュンタはここで待ってろ。もし俺のいない間に何かあったら、俺に構わず逃げろ」

これだけ言うと、ディルは村へ向かっていった。

「いや!」

凛はバークから飛び降り、走ってディルについて行った。ジュンタもそれに続いた。ディルは、隣に寄り添うようにしてついてくる凛を一瞥した。

「リンには刺激が強すぎるだろう。これはこの前の比じゃない」

事実、凛は何度も転がっている死体につまずき、その度に小さな悲鳴をあげ、ディルの腕にしがみついて目をぎゅっとつむっていた。

「何も見ないようにするから大丈夫。皆が離れ離れになるのが一番怖いの」

とうとう凛は、ディルの腕に顔をうずめてしまった。ディルはそんな凛を見て、ふぅとため息をついた。

村の外れまで歩くと、古めかしい小屋に辿り着いた。ディルがこの小屋の前で立ち止まったので、凛は恐る恐る顔を上げた。

「ここに誰かいるの?」

「俺の母親だ」

ディルは静かに答えた。凛は、驚いた顔でディルを見上げた。

「この村、ディルの故郷なの?」

「いや。ここはエルマドワ国の領土だが、俺は住んだことさえない」

これ以上のことは言おうとせず、ディルは静かに小屋の扉を開けた。

狭い小屋の中は、特に荒らされたような形跡はなかったが、ちょうど部屋の中心にある囲炉裏をはさんで手前と奥に、二人の女性がぐったりと横たわっていた。ディルは手前に横たわっている女性に駆け寄り、その体を抱き起こしたが、もはやその首と手足はだらりと体からぶら下がっているだけで、まるで人形であった。心臓の部分から、赤黒い煙がかすかに立ち上っているのが見えた。

ディルが女性の体を起こしたとき、その顔を見た凛は凍りついた。それは、隣にいたジュンタも同じで、凜の腕をぎゅっとつかんだ。その女性の顔には、目がなかったのである。つぶされているとかではなく、まるでお化けのように、目そのものがなかったのだ。

「ディアロス…様…」

奥に横たわっていた若い女性が、かろうじて聞き取れるほどの声を出して、わずかに動いた。ディルは、目のない女性をゆっくりと床に降ろして、奥の女性の元へ駆け寄った。

「エーリア、生きていたか」

 ディルは、エーリアと呼ばれた女性を抱き起こした。エーリアの肩からは、赤黒い煙が立ち上っていた。

「掠っただけだ。これなら命に別状はないだろう」

 ディルはすぐに持って来た荷物から薬の瓶を取り出し、エーリアに治療を施した。凜とジュンタもそれを手伝った。

「きれいな人だね」

治療を手伝いながら、ジュンタが呟いた。エーリアは痛みに顔を歪めていたが、それでも美しいと思えるほど顔立ちが整っていた。長い手足、栗色の髪の毛に、澄んだ青い瞳の持ち主で、西洋人のような面立ちであった。全然似てはいなかったが、この整った顔立ちと、ディルの母親と一緒に暮らしていることを考えると、ディルの姉かと最初凜は思ったが、ディルのことを「様」をつけて呼んでいたし、そもそも二人は姉弟のような雰囲気では全くなく、エーリアはディルを熱っぽい視線で見つめていることに凜は気付いてしまった。

「申し訳ありません。お母様をお守りすることができませんでした」

 治療が一段落すると、エーリアはじっとディルを見上げ、か細い声を放った。ディルは静かに首を振った。

「エーリアは何も悪くない。これまで十分すぎるほど母を守ってくれた」

「突然のことでした…攻めてきたのは、イムロク軍です」

ディルは目を見開いた。

「イムロク軍?あの国は、エルマドワと互角に戦えるような戦力は持っていなかったはずだが…」

「おっしゃるように、イムロク国は小国でした。しかし、新王軍と手を組んだのです。それから、急激に勢力を拡大し始めました」

「ついに新王軍は他国と手を組み始めたんだな。世界戦争になるのは、時間の問題だ」

エーリアは、ゆっくり頷いた。

「ここも、明日にはイムロク軍に占領されるでしょう。私たち弱者にとっては、どの国に占領されようと、奴隷として支配されることに何も変わりありません。この世界の呪いを解かなければ、何も変わりません。そして呪いを解くことができるのは、ディアロス様だけです」

 ディルは、悲しげに微笑んだ。

「エーリア、ずっと聞きたかったことが一つだけある」

 エーリアは首をかしげた。

「なぜ(だつ)(がん)の刑に処せられた母を助けた」

 この言葉を聞いた瞬間、ジュンタは凍りついた。凜は、そんなジュンタを怪訝な顔で見つめた。

「それは当然の疑問です。私も最初に道でうずくまっていたお母様を見つけたときは、正直に申し上げて殺意を抱きました。しかし、近寄ってみると、お母様は繰り返しディアロス様のお名前を呼んでいたのです。『これからあの子は酷い目に遭う…できるなら私が代わってあげたい…誰か私に代わってあの子を守ってくれ…』こんなことをずっと、祈るように呟いていました。このときのお母様の声は、今でも耳朶に残っています。

 自分が社会的に生きていくことができない状況であるにも関わらず、自分のことよりもディアロス様の心配ばかりされていたこのお母様の祈りを聞いたとき、私の中で何かがほどけました。例え強者であろうと、母が子を想う気持ちは何ら変わらない。そこには強者ではなく、ただ一人の人間がいるだけなのだと。そして私は、目の前のこの一人の母親を救おうと、本能的に思ったのです」

「そうだったのか…」

 ディルは呟いた。その表情には、凛がこれまで見たことのない悲しみの影が落ちていた。詳しいことは全然分からないけれど、ディルの心にある深い闇を垣間見たような気がして、凛の胸は締め付けられた。

「本当に優しいお母様でした。身寄りのない私のことを、実の娘のように可愛がってくれました。こんなお母様の血が流れるディアロス様も、きっと優しい方に違いないとずっと思っておりました」

「旅に出るまでは、母とエーリアが鳥に縛り付けて送ってくれる手紙だけが救いだった。母を救ってくれたエーリアには、感謝してもしきれない」

微笑みあうディルとエーリアを見て、凛はその場から一歩後ずさった。何がこんなに苦しいのだろう…このとき、凛は自分が異世界の人間で、この世界のこと、何よりもディルのことを何も知らないということに、どうしようもなく泣きそうになってしまった。これ以上二人の会話を聞いていたら、自分がすごく嫌な人間になってしまいそうな気がした。

「リン」

 ディルが凛の肩に手を置き呼び止めたのは、凛がまさに小屋を出ようと扉に手をかけたときであった。凛が振り返ると、ディルはじっと凛を見つめている。

「母の埋葬を手伝ってくれないか」

 このたった一言で、胸の苦しみが和らいでしまう。人の心の無常さと単純さに凛はため息をつきながら、少し笑って頷いたのである。

エーリア以外の三人は、ディルの母親を小屋の裏庭に手厚く葬った。

「僕、奪眼の刑が現実に行われているなんて、思ってもいなかったよ」

お墓を見つめながら、ジュンタは呟いた。ディルは遠くを見つめた。

「行われることは滅多にない。リンは初めて聞くと思うが、この世界には、死刑よりも屈辱的で残酷な刑がある。それが、奪眼の刑だ。強者の魔力の源は瞳にある。目を奪われると、強者は強者としての力を失い、ただの人間…つまり、奴らが最も蔑んでいる弱者となってしまう。そうなれば、当然強者の世界からは追放される。そして、弱者からも受け入れられることはなく、路頭にさ迷いのたれ死ぬのが関の山だ。母もそうなっていたはずだった。エーリアに出会わなければ」

凛は、ディルとエーリアの会話を聞いているときからずっとまとわりついている疑問をディルにぶつけるか悩んでいた。けれども、このディルの話を聞いて、疑問はすでに確信へと変わっていた。

「ディルのお母さんは、強者だったの?」

「…そういうことだ」

その表情から、ディルがこれ以上話したがっていないことは明々白々だった。ディルの気持ちを無視してでも自分の欲求を満たそうとするほど凛は幼くなかったので、もう何も聞こうとしなかった。

エーリアがまだ身動きのとれない状態だったので、その晩三人はエーリアの家に泊まっていくことにした。ただし、いつイムロク軍が来るか分からないので、三人は見つからないように、小屋から離れた納屋で眠ることになった。すっかり辺りが暗くなった頃、ディルとジュンタは、バークに積んだままの荷物を納屋に運ぶため、小屋から出て行ってしまった。

「リンさんは…」

 囲炉裏を挟んだ向こう側から、エーリアのか細い声が聞こえてきた。凛は顔を上げ、「はい」と返事をした。

「ずっとディアロス様と一緒に旅をされているのですか」

 ディルと一緒に旅をするようになってから、どのくらいの月日が流れているのか分からなかったので、「ずっと」とは言い難いと思い、「まぁ」と曖昧に答えた。

「ディアロス様は旅に出るとき、最初にここに寄ってくださいました。そのとき、私は初めてディアロス様にお会いしましたが、今日再会して驚きました。ディアロス様は、本当に変わられました」

「ディルが変わった?」

凛の中では、ディルは出会った頃から今までずっと無愛想なままなので、エーリアの言うことが俄かには信じられなかった。

エーリアは、凜から顔をそらした。

「私が知っているディアロス様は、固く心を閉ざしておられました。自分の気持ちや感情を決して外には出さない方でした。ですが今日は…あんなに優しい顔で、無防備に笑っておられました」

 エーリアは首を動かし、囲炉裏越しに凛の顔を見上げた。その瞳は、涙で濡れていた。

「ディアロス様は、不世出の方です。私はずっと、そんなディアロス様の傍に寄り添い、支えていきたいと願っていました。ですが、その願いは叶いませんでした」

エーリアの声は震え、涙は頬を伝って床にこぼれた。

「ディアロス様があなたに向ける眼差しを見て、ディアロス様がなぜ変わられたのかよく分かりました。ディアロス様の傍に寄り添えるのは、私ではなくあなたであると、不本意ながら確信いたしました」

 凛の顔は、耳まで真っ赤になっていた。

「どうか、ディアロス様を頼みます」

タイミングを図ったかのように、小屋の扉が開いた。何も知らないディルのきょとんとした顔を見て、凛の顔はますます赤くなった。エーリアは、涙をぬぐった。

「狭い納屋で申し訳ありませんが、今晩だけは、どうかゆっくり休まれてください」

 

その晩、ディルは夢を見た。それは、ディルが旅に出て間もない頃のことであった。凄惨な強者の戦の跡地をバークに跨り走っていると、一人の少年が地面に蹲り、ガタガタと震えていた。少年の傍には弓矢が放り投げられていた。それは強者が捨て駒として用いる弱者の少年兵の粗末な武器であった。捨て駒であるため、武器は持たせるが鎧といった防具などは持たせず、少年は薄い着物をまとっているだけであった。

「怪我をしているのか」

ディルは少年の傍にかがみ込んだ。その際、帽子を深くかぶり口元は布で覆った。人と会うときは、常に顔を隠している。

少年はディルを見上げた。年齢は十歳もいかないくらいだろうか、まだあどけない顔をしていた。目には涙がたまっていた。全身にかすり傷があるが、深手は負っていないように見えた。少なくとも、肉体的な深手は。

「故郷に帰りたい…」

 喉からもれるような声で少年は呟いた。聞くと少年の名前はジュンタといい、故郷はディルが目指すリュウリンの墓場とは真逆の方角に位置する、死の森の近くのエルマドワ国領土だという。

 ディルはジュンタを抱き上げ、バークに乗せ故郷へ向かった。しばらくジュンタはディルの腰にしがみつき震えていたが、次第に落ち着いてきたようであった。

 ジュンタは、なぜディルが終始顔を隠しているのか純粋に気になった。途中で休憩をし、物を食べるときも、ディルは顔を覆う布を外さず、布の下から口に食べ物を入れていた。当然のことながら、ジュンタがその理由を尋ねても、答えてくれなかった。

 川の近くで休憩をしたとき、ディルはジュンタにそのまま待っているよう言いつけ、一人で川に水を汲みに行った。ジュンタは、密かにディルの後をつけた。水を飲むために布をとる瞬間を見ようと思ったのだ。そして、ジュンタはディルの顔を初めて見ることになる。

 その顔が、普段出会うことがないほど整った美しい顔立ちだったので、ジュンタは思い出してしまった。村役場といった村のいたる施設に堂々と飾られている、エルマドワ国王の肖像画を。でも、この人は弱者だ…だけど、あまりにも似ている…。ジュンタの体が小刻みに震えた。

 それから、ジュンタの葛藤が始まった。ジュンタの口数が極端に少なくなった。ディルはそのことが少し気になったが、自分の顔を見られたとは夢にも思わなかった。

「お兄さんも怪我してるんだね」

 まもなく故郷に到着する頃、ジュンタがぼそっと呟いた。強者の戦の流れ魔力に当たり、ディルの肩は血で滲んでいた。

「僕の村で休んでいきなよ。お礼がしたいんだ」

 ジュンタをバークから降ろしたとき、ジュンタはディルの手を引っ張った。ディルは警戒し二の足を踏んでいたが、ジュンタは大声で、ディルのお陰で無事戻ってこれたことを駆け寄ってきた村の弱者に伝えていた。数人の弱者たちは泣きそうな顔でディルに手を合わせ、頭を下げ、ぜひ今晩は村でゆっくり休んでいって欲しいと懇願した。

 布で覆われたディルの口元は少し緩み、バークも疲れている様子だったので、その言葉に甘え、村の質素な小屋に泊まらせてもらうことにした。

 その晩、ディルは小屋の外にいたバークの雄叫びで目が覚めた。その瞬間、ディルの顔面に冷たく光る鋭利なものが飛び込んできた。間一髪ディルはそれを避けたが、頬に深い傷が刻まれた。それと同時に、舌打ちが聞こえた。

 起き上がると、昼間ディルに頭を下げた数人の弱者がディルを取り囲み、包丁を向けていた。ディルは反射的に自分の刀の柄を握った。

「貴様、エルマドワの王子だな。弱者に化けて俺たちをどうするつもりだ。これ以上俺たちを苦しめるのか」

 ディルの心は絶望で覆われた。

「確かに俺は王族だ。だが、あなたたちと同じ弱者だ。これまで王族があなたたちにしてきた罪は償っても償いきれない。だから、俺はこの世界を変えるために旅をしている。あなたたちを救いたい」

「王族が弱者なんてことがあるか!俺たちを馬鹿にするのもいい加減にしろ!」

弱者にはディルの言葉など伝わらなかった。弱者は力いっぱい包丁を振りかざしてきた。ディルの腕は真っ赤に染まり、胴や足にも深い傷を負い体中血だらけになりながらも、ディルは決して弱者を傷付けなかった。だが、ここで死ぬわけにはいなかった。強靭な使命感でその場を命からがら逃げ出し、バークに駆け寄った。しかしそこには、さらにディルに追い討ちをかける光景が待っていた。

「バーク!どうしてこんなことに…」

 バークの体は無残にも傷付けられ、足が全て折られていた。虫の息になったバークは、ディルを悲しげに見上げた。

「お前には何の罪もないのに、俺と一緒にいたばかりに…本当にすまない…」

 ディルはバークの首に顔をうずめた。そうしているうちに、小屋から弱者の男たちが飛び出してきた。

 最後の力を振り絞るかのように、バークは首を振り、ディルを突き放そうとした。これまでずっと一緒にいたディルは、それが自分を置いて逃げろという意味だと悟った。バークを見つめて、ディルは歯を食いしばった。体中の痛みもさることながら、心の痛みを耐え抜くように。

 ディルは走った。体は激痛に覆われていたが、それでも走り抜いた。向かったのは死の森であった。ここに飛び込むことは死を意味する。それを見届ければ、弱者は満足するだろうと思いながら、ディルは死の森に飛び込んだ。

 死の森をしばらく走ったところで、ディルは倒れた。肺がちぎれそうなほど息苦しく、体中が燃えるように痛かった。

 ディルが震えながら蹲っていると、後ろから駆け寄る足音が聞こえてきた。死の森に人などいるはずがないのに…ディルが後ろを振り向こうとしたのと同時に、肩に激痛が走った。刃物が刺さったそこは、まさに強者による傷を負った箇所であった。さらに刃物は肉をえぐるように奥深くへとねじり込まれ、意識を失うほどの痛みにディルは七転八倒した。

 背後から荒い息遣いが聞こえてきた。振り向くと、そこにはジュンタが体中を震わせて立っていた。

「あんたの顔を見て、まさかと思った事を村の人に言ったんだ。そしたら、油断している夜に襲うのがいいって」

 肩に刺さる刃を通じて、ジュンタの体の震えが伝わってきた。

「僕の父ちゃんと母ちゃんは、あんたの一族の家来に殺された。僕の大切なものは全部奪われた。僕は、あんたの一族を許さない。父ちゃんや母ちゃんと同じ思いをさせてやりたい」

 ディルは痛みに震えながらも静かに起き上がった。そして、血だらけになった手で、刃物を握るジュンタの手を握り、まっすぐ見つめた。

 そのディルの顔を見て、ジュンタは硬直した。そして、次第に震えだし、ディルから仰け反ろうとした。しかし、ディルはぎゅっとジュンタの手を握って離さなかった。その間にも、刃物はディルの肩に食い込み、留まることなく血は流れ続けていた。

「や、やめろ!そんな顔するな!僕はあんたを殺すんだ!」

「ああ、殺してくれ」

 消え入るような声だった。ディルの頬は濡れていた。濡らしているのは血だけではなかった。

「死んで償っても済まないようなことを俺の一族はしてきた。俺はもうどうしたらいいか分からない。生きていたらいけないというなら、今ここで殺してくれ」

 ジュンタは激しく首を振った。

「やっぱりできない…王族のくせに、なんであんたはそんなに優しいんだよ!」

 ジュンタはディルの肩から刃を抜いた。するとそこから血が噴き出てきた。ディルは蝋のような顔色で、その場に震えながら蹲った。ディルの意識は遠のいていった。ジュンタは涙をこぼしながら、慌てて自分の服の裾を破き、ディルの肩にきつく巻き付けた。

「死んじゃだめだ!」

 ジュンタは辺りを見渡した。微かだが、どこかから食べ物の匂いが漂ってきている気がした。ジュンタは鼻が効くことが自慢だった。それに、森には踏みならされた跡があり、人が定期的に通っているような形跡があった。もしかしたら、この先に人里があるかもしれない…それは強者の植民地の可能性もあったが、ジュンタは自分の命の恩人のために、賭けに出ることにした。

「今助けを呼んでくる。少しだけここで待ってて!」

 ジュンタは駆けだした。

一人残されたディルは、遠のいていく意識のなかで、生気を失った目でジュンタの手を握っていた自分の手を見つめていた。俺は、生きていてはいけない人間なのか…。

「お前なんて、生まれてこない方がよかったんだよ」

 突然場面が変わり、ディルは城にいた。生まれてからずっと閉じ込められてきた、物置きのような狭い部屋の中だった。何もない部屋だったが、城の書庫と繋がっていたことが、ディルにとって唯一の救いであった。

 目の前には、ディルを見下ろし、倒れてもまだなおディルを思い切り蹴り続けているカルディスがいた。異母弟のカルディスが、今のジュンタと同じくらいの年のときのことだった。

「この一族の恥さらしが!」

 カルディスは手のひらから赤黒い光を放った。ディルは、腹が焼けるように熱くなっていく痛みに震え、悶えていた。カルディスは、自分の魔力の実験台として度々ディルを痛めつけていた。

「そうだ、これ見てみろよ」

 ディルを痛めつけるのに飽きたのか、カルディスはおもむろに箱を取り出し、その蓋を開いた。そのとたん、悪臭が漂ってきた。箱の中には、内臓を切り開かれ、体をばらばらにされた無残な猫の死体が入っていた。ディルは吐き気を催し、思わず顔を背けた。

「人を殺すことは簡単なんだがな、例えば国内で裏切り者が出て、殺さないで拷問するときに、体の中身のイメージが鮮明な方が苦しめる魔力を使いやすいんだ。どうしても実物が見たくてさ、でもお前は殺しちゃだめだって言われてるから、仕方なく猫でさ」

「この猫は、お前の母親がかわいがっていたやつじゃないのか」

 ディルはカルディスを睨みつけた。カルディスは大声で笑った。

「そうだったっけ?こいつがたまたま俺の近くにいたからさ。いいんだよ、どうせお前が憂さ晴らしに殺したことにしておくから。またお前は懲罰を受けることになるな。楽しみにしておけ」

 カルディスはそのまま笑いながら部屋を出ていった。この男が王になったら、きっとこの国は終わる…まだ痛み続ける腹を抱えながら、ディルは喘いでいた。俺は、死ぬまでこんな苦しみに耐え続けなければならないのか…。

「ディルが苦しいと、私も苦しいの」

 突然、ディルの脳裏に声が聞こえてきた。ああ、また昔のことを思い出してしまった…ディルは夢を見ていたことに気付いた。そうだ…今はこんな俺を必要としてくれる人がいる。リンが傍にいれば、俺は生きていける…。

ディルが目を覚ますと、そこはエーリアの納屋の中だった。暑くもないのに、ディルは寝汗をかいていた。隣で凜が静かな寝息を立てていた。ディルはその顔をじっと見つめ、そっと頬に触れた。

それにしても、よりによってカルディスの夢を見るなんて、酷く気分が悪い…ディルは起き上がり、外に出た。外はまだ暗かった。ふと、夜の静寂の中、人の足音が遠くから聞こえてきた。ディルはエーリアの小屋の敷地を出て、暗がりのなか目を凝らした。

三人の男とみられる人間が、一軒ずつ小屋を覗きまわっていた。彼らは、エーリアの小屋の方に近付いてきていた。三人の男のうちの一人の姿を見たとき、ディルの心臓は止まりかけた。その体つきや歩き方は、嫌でもディルの脳にこびりついているから間違えようがなかった。彼は、カルディスだった。

俺を探しに来たのか…ディルは急いで納屋に戻った。そして、凛とジュンタを思い切り揺さぶった。

「リン、ジュンタ、起きろ!今すぐ裏口から逃げろ!」

「急にどうしたの?」凜とジュンタは目をこすりながら起き上がった。

「今そこに俺の追っ手が来ている。俺が奴のところに行って注意をひいてる間に、お前たちは今すぐ裏からバークに乗って、できる限り遠くに逃げろ!」

 ディルのただならぬ様子に、凜はようやく事の深刻さに気付いた。

「それなら、今すぐ三人で一緒に逃げようよ。ディルが囮になったら、そのまま捕まっちゃうじゃない!」

「今逃げたら、奴は必ず俺たちに気付く。そしたら奴は絶対に逃さない。そしてお前たちを必ず殺す。俺が奴の注意をひかないとだめだ。時間がない、早く行け!」

 ディルは立ち上がって動かない凜を、無理やり裏口の扉の方に押した。

「いや!だったらディルだけ逃げて!」

 凜は涙を浮かべながら、自分の両肩をつかむディルの手をつかみ、懸命に首を振った。

「リン!いい加減にしろ!」

 突然ディルは凜を抱き締めた。凜はそのまま動くことができなかった。ディルの腕の中で、凜はディルの体の震えを感じていた。

「俺は、自分の命に代えてもリンを守りたいんだ。だから頼む…俺のことは忘れて、自分が生き延びることだけ考えろ」

 ディルは裏口の扉を開け、凜を外に突き放した。

「必ず迎えに行くから!」

 凜は叫んだ。ディルは微笑み、納屋の外に出て行った。

「リン、急ごう。ディルの気持ちを無駄にしちゃだめだ」

 ジュンタはすでにペペに跨っていた。凜は涙をぬぐい、ペペに飛び乗った。それと同時に、ペペは裏の竹やぶの中を突き進んでいった。

 ディルはカルディスに近付いていった。カルディスは、エーリアの小屋の前まで来ていた。ディルの姿に気付くと、はっと息を呑んだ。そして、顔中に不敵な笑みを広げた。

「これは驚いた。帰ってきてくれたんですね、兄さん」

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