リザレクション
俺は大きく息を吸い込んで、目をぎゅっとつぶり、そのうす汚れた洋式の便器に顔を突っ込んだ。
水上の喧騒は消え去り、こぽこぽという泡音だけが鼓膜に響き渡った。
手探りで便器の端を掴んで、つま先で地面を蹴り、便器の中に深く体をひねりながらすべり込ませる。肩が通れば後は楽だった。
全身を便器の中へと吸い込ませると、俺はゆっくりと目を開けた。
どこを見渡してもエメラルドグリーン一色のシンプルな世界だった。
さっきくぐってきた便器からの光が淡い柱となって一直線に下へ下へと伸びている。何百という魚達がその光をキラリとはね返して、泳ぎ去って行った。
俺は光の指す方向へと手と足を使って潜っていった。
途中、目の前を巨大な金色カエルが俺の前を悠々と通り過ぎていく。
そいつは三階建てのビルくらいの大きさで、巨大な足かきを動かし、ツルツルとした金色の皮膚を光らせながら俺を眠たそうな瞳でチラリと見た。
俺はかまわず光の先端を追いかけて深く深く潜っていく。まだ息は苦しくない。どこまでも潜っていけそうだ。
しばらく潜り続けるとようやく底が見えてきた。光の柱が白い砂粒にぶつかって丸い円を描いている。
その円の中心に彼女はいた。
彼女はあの日のままの格好で、膝を両腕で抱えて白い砂の上で静かに浮かんでいた。白いワンピースの裾と、キャラメル色の短い髪が俺の目の前でゆらゆらと揺れた。底に足をつける白い砂粒がふわっと舞い上がって、光の柱に吸い込まれていった。
彼女の瞳がゆっくりと開く。そして俺を見た。俺も彼女を見た。
彼女が何かを言おうとして口を開いた。何個かの泡が彼女の唇から昇って、水面に吸い込まれていく。
俺は何も言わずに彼女の両脇をしっかりと抱きかかえると、底を蹴って上昇しようとした。
しかし次の瞬間、彼女の体は何かに引っ張られるかのようにガクンと停止した。
よく見ると彼女の右足首に白い輪が掛っていて、それは頑丈な鎖で底へとつながっていた。
俺は彼女の体をいったん離して、鎖を引っ張ってみたがビクともしなかった。
少し息苦しさ感じ始めた。俺は不安気な表情を浮かべた彼女に大丈夫だから、と微笑んで、底へと潜った。
誰かの財布、針の曲がりくねった時計、花柄のフォークギター、錆びたオートバイ、まだ脈打っている臓器、ありとあらゆるものが底に静かに横たわっていた。
俺は足元に落ちていた懐中電灯を拾って付けると、目を凝らして鎖を断ち切れる物を探した。
ポラロイド写真、片目のクマのぬいぐるみ、腕のないロボットのプラモデル、底のぬけた花瓶。
少しづつ息苦しくなっていく。
俺は底に腹ばいになりながら必死に探した。
使い古しの口紅、携帯電話、いかつい毛むくじゃらの右腕。
その右腕をライトで照らすと何かが黒光りした。右腕は黒いリボルバー式の拳銃を握っていた。
俺は指を開かせてその拳銃を掴み取り、急いで彼女の元へと戻り、銃口を鎖の先にあて引き金を引き絞った。鈍い銃声と共に火花が散る。鎖はまだ切れない。もう一度引き絞る。まだ切れない。
徐々にあせりを感じる。そのあせりに比例して息苦しさは増していく。
五発目を打ち終えたところで弾が切れた。鎖は少し削れたくらいだった。
俺は拳銃を逆さまに持って銃床で鎖を打ちつけた。何度も打ちつけた。
それでも切れない。切れろ、頼むから切れてくれ、と心の中で強く念じながら、鎖を左右に思いっきり引っ張り、奥歯で強く強く咥えた。だが鎖は切れなかった。
ふと肩のあたりに何かが触れるのを感じた。彼女の手だった。彼女はやさしく微笑みながら首を振り、そして上を指差した。
「イヤだ!」
俺は大量の泡を吐き出しながら叫んだ。
「絶対に、連れてかえるんだ……」
彼女は悲しそうな顔をした。俺は二度も彼女を失いたくはなかった。それでも脈拍は速くなり、息は苦しくなり始める。
俺はもう一度辺りを見回した。何か、何かこの鎖を断ち切れる物……。
ふと光の円の中心で何かが光った気がした。手を伸ばして探ってみると、小さな金属製のとがった物が手に当たった。鍵だ。彼女の足首の鎖の輪を見ると鍵穴があった。俺は急いでその鍵を突っ込んで回した。カチリと音がして、鎖の輪が開いた。
俺は再び彼女を抱き抱えて上昇した。彼女は俺の背中にきつく腕を巻きつけた。俺は手足を思い切りバタつかせて、光の根元を目指した。だが彼女の体は重たく、なかなかうまく昇ることができない。心臓が耳元で激しく波打ち、脳が頭蓋の中でめいいっぱい膨らむのを感じる。キィィーっと大きな耳鳴りがし始めた。四股から力が抜け落ちていく。
呼吸がしたかった。一粒の酸素でよかった。呼吸がしたかった。
その時極端に狭まった視界の隅で、なにかが青白くまたたいた。
目を光のほうに動かすと、俺たちの横で太いミミズが体をくねらせながらぼんやりと光っていた。
俺は無意識にそれをつかんだ。
やわらかいゼリーのような感触がして、指がミミズの体にめり込んだ。ミミズは淡いピンク色に変わった。
ふと水面を見上げるとミミズは半透明の大きな傘につながっていた。
傘はひらひらと全体を波打たせながら、何本ものミミズを束ねてゆるやかに上昇していた。
「クラゲ……」
俺は手にそいつに引っ張られながらぼんやりと思った。意識はほとんど消えかかっていた。
光の柱が途切れているのが見えた。俺はクラゲから手を離し、最後の力を振り絞って彼女の体を光の根元に向かって突き上げた。
彼女の白い足の裏が光の中に消えていく。さっきまでうるさかった耳鳴りが急に静かになった。
光の柱がどんどんと小さくなっていく。背中が何かやわらかいものにぶつかった。巨大な水まんじゅうのような感触だった。たぶんさっきのクラゲだろう。
俺はもう一度クラゲを掴もうとしたが、腕は動こうとしなかった。
最後に見た彼女の小さな足の裏を思い浮かべて、俺は目を閉じた。
瞼の向こう側が白くなった。ひどくまぶしかった。そしてひどく眠たかった。
グイと腕を引っ張られるのを感じた。このまま眠らせてくれ。
俺はその手をふりほどこうとしたが、それは俺を上へ上へと引っ張り上げていく。
ガツンと衝撃を感じて右足が突っ張るのを感じた。無駄だよ、だって鎖でつなぎ止められているのだから。そう思いながら目を開けると、母がいた。母は俺の鎖を断ち切ろうとしているところだった。
無理だよ、鍵がいるんだ。
俺はそう言おうとしたが、口から泡がこぼれただけだった。
しばらくして母が俺を見た。俺は鍵、鍵がいる、となんとかジェスチャーで伝えようとしたが、母は苦しそうな表情で俺の名前を呼び、「ご、め、ん、ね」とだけ言った。
そして母の瞳はすうっと閉じられた。母の体は力を失い、ゆらゆらと長い髪をなびかせながら、ゆっくりと浮かび上がっていった。最後に見た母の瞳はとてもやさしかった。
俺は自分を照らしている光の柱を見上げた。あの先に俺のいた世界があって、そこにはきっと彼女がいる。それだけで俺は満足だった。満足だったのに……。
母の姿が見えなくなると、目の前を小さなクラゲ数匹がふわふわと舞った。クラゲは青白く点滅しながら、エメラルドグリーンのシンプルな世界をゆるやかに舞い続けた。