15-Ⅰ
……その悲劇は、準備中に起こった。
荷馬車に積んでいたボロが振動で落ちていたらしく、それにフレデリカが見事に足を滑らせて、ぬかるんだ地面にしりもちをついてしまったのだ。ばしゃりと派手な音を立てて、手や顔などの肌に大きくはねる程、作業着の下半分は泥だらけだ。はじめから汚れる前提で作られた作業着に着替えた後だったのは幸運だった。
けれど……。
「私が代わりに、鍵借りてくるね!」
「しかし、当番は私なのだから」
「大丈夫大丈夫! 鍵を借りて来るだけだから。その姿で局長様の前に行く方が失礼になりそうだし。それよりも足とかひねってない?」
「それは……大丈夫だ」
貴族令嬢だと言うのにフレデリカは、泥だらけになっても特に気にしないようだった。
どうせこの後の作業で汚れるなら、着替えても変わらないという男前度である。
しかし、局長の前に出て行っても失礼がないように、泥を落とすには大変時間がかかりそうだった。ので、リーヴィは泥まみれになったフレデリカの代わりに、緑草園の隣に併設されている王立緑師院に、肥料小屋の鍵を借りに行くことを提案した。
鍵を借りに行くこと自体は特に問題はないが、問題はその鍵を管理している人物。
オーヴユル=ヘッカー上級緑師局長。
サルキオスとは全く違った方向性で、近づきたくない人物として名を馳せている。
肥料作りの当番が不人気な理由、第二位の人物だ。
彼はいつも不機嫌そうに、長い前髪の奥に隠れた眉間に深い縦皺を作っている。が、それは見かけだけではない。
サルキオスは同じ空間に居るのがいたたまれないほどの冷気を放っている、と言われているが、ヘッカ―の方は常に悪意を放っている、と言われている程の攻撃的な性格をしている。
フレデリカが服は着替えても拭えない泥まみれの姿で、彼の前に現れるのは賢い選択とは思えなかった。ので代わりを買って出たはいいが、当番ではない緑の騎士が、鍵を借りるというのはヘッカ―局長的にはどうなのか。フレデリカに大丈夫とは言ったものの、リーヴィは内心びくびくしていた。
ヘッカー上級緑師局長は局長という地位から、緑草園の警備レベル中級以上の重要な鍵の管理を一手に引き受けている。彼の執務室は、避けたくても避けられない場所だった。
局長という身分はお飾りではなく、緑師院内では高位の為に忙しいはずで、不在の確率の方が高そうなのに、どういう訳かかなりの確率で局長はそこに居た。居ない場合は、彼の二人の弟子に借りられて気が楽なのだが、その幸運はめったにない事だった。そのせいかこの任務。地獄の番犬の目をかいくぐって、鍵をかすめ取る運試しの儀式と裏で皮肉られているほどである。
こんな時ではないと、接点がなさそうな局長ではあるが、実はリーヴィの住むカヒュー村と同郷。
カヒュー村には特別な王領森があり、王の代わりに管理する代行領主が治めている。代々の名士で貴族ではないが、その身分は貴族にも準じる程だった。局長はそのご子息なのである。
しかし、同郷だからと言って、リーヴィにはなにも有利な事はない。
それどころか他の人たちよりも、領民として厳しい目を向けられ、幾分冷遇されているような気がするけれど、それはそれで仕方ない。そう何度も会った事はないが、会う時はヘッカ―局長にじっと値踏みされているような視線に、村の代表として粗相は出来ない……と言う気持ちになってしまう。
そう考えるとやっぱり。本来の当番であるフレデリカが行かない事で、かなりの叱責を覚悟しなければいけないけれど。でも、今のリーヴィにとっては、ある意味サルキオス様よりも心情的に会いやすい人物だったので、足は進む。
リーヴィは肥料づくりのための作業着姿なので、あまり人目につかないようにこそこそと、裏庭を通って直接局長の執務室に通じる外廊下へと向かった。
騎士団とはまた違って、緑師の学ぶこの場所は静まり返っている。
外で鍛錬する事など、なにかと動きがある騎士とは違って、緑師たちは部屋の中に篭り、薬草の研究をしているからだろうか。何かが抑え込まれたような底知れない雰囲気だった。リーヴィにとって、あまり居慣れない場所だからそう思うのかもしれない。
局長執務室の前には薬草の研究室がある。外廊下の三叉路から外れ、窓を覗いて、ヘッカ―局長……ではなく、その弟子の知り合いの女性が居ないかなと淡い期待を抱いていたが、居なかったので覚悟を決めた。向きなおって視線の端がとらえた風景に、声が漏れる。
「へ、あっ!」
「……?」
不意打ちだった。
かなりの距離があったが、遠目でもはっきりわかる涼しげな後ろ姿。この静まり返った中でも、更に際立った冷たく凛とした雰囲気。ブーツの音も無駄に硬く聞こえてしまう。視界に少し映るだけで、圧倒的に空気が変わる存在感。
普通に渡り廊下を歩いていた探し人に、リーヴィはつい間抜けな声を上げてしまう。遠くにいるのに、相手に聞こえるほどその声は通ってしまった。そして声を上げられた方は、優雅でありながらも固い動きで振り返る。
冷たい翡翠の瞳が訝しげにリーヴィを捉えると思った瞬間。
――こっち見たっ!!
つい反射的に頭を下げてしまう。
リーヴィはどうしようどうしたらいい? と混乱した。
もしかしたら会えるかもしれないと思っていたにも関わらず、本当に会えると思わなかったというか、心構えが全くできていなかった不意討ちに近い状態で。
色々と次に出会った時の謝罪の想定はしていたが、そんなものが吹っ飛んでしまうほど久しぶりに会えた本物の威力は凄い。
「貴女は……確か?」
「緑の騎士、第五隊所属、リーヴィ……リーヴィ=ベルツです! 先日は大変申し訳ありませんでした」
「ああ、先日の」
不躾に声を掛けてしまった事には、特に気にしていないらしい。
「誰です?」と尋ねられたらどうしようかと思っていたが、さすがにあれだけの事をしでかしたのだから、サルキオス様の記憶には残っていたようだった。
頭を下げながら石畳に響くブーツの柔らかな音で、段々とサルキオス様が近づいて来るのを感じ取ってリーヴィは緊張のあまりついじりじりと後ろに下がる……頭を下げた状態のまま。
最初は反射的に逃げたい言う気持ちだったが、視界に写った自分の状態を思い出して、さらに本気で距離をとる事しか考えられなかった。




