04 体温計で 測れない熱
ピピピッと音がして、小さな画面を覗き込む。
「37.3度……微熱だ」
体は怠いけど、学校を休むほどの熱じゃない。
風邪なんて年に1回くらいしか引かないのに。よりによって夏風邪をもらってしまった。
今日のお弁当は、長ねぎと生姜をたっぷりと使おう。あと、リンゴも食べれば治るだろう。薬は飲むと眠くなるから、好きじゃない。
「ひより、本当に休まなくていいの?」
「お母さん……頭痛がするだけだから、だいじょーぶ」
心配性のお母さんの追及を振り切って、家を飛び出した。
「ぴよちゃんおはよー!」
「おはよう。英語の宿題ちゃんとやった?」
「あ、康太に写させてもらった! 今日はぴよちゃんに迷惑はかけないからっ」
「康太君にあんまり甘やかすなって言っておかないと」
「やめて! 無理! 英語だけは無理!」
エミちゃんの英語のだめっぷりはすごい。
『あなたはもっと勉強すべきだ』という英文を『勉強のせいで肩がこった』と訳した時には、厳しいと有名な先生でさえも、険しい顔を忘れて笑ってしまっていた。
その授業で私は先生にエミちゃんの宿題担当に任じられたので、英語がある日は授業前に宿題のチェックをしている。
「そういえば今日来るの遅かったね?」
「うん。ちょっとお弁当に凝っちゃって」
「ぴよちゃんのお弁当いつも美味しそうだもんね。おすすめのレシピあったら教えて! エミもお弁当作ってみたい」
「枝豆ごはん簡単で美味しいよ」
嬉しそうに話すエミちゃんに頷きながら、さり気なく壁に寄りかかった。
体が重い。頭が痛い。でもエミちゃんも心配性だから、できれば気がつきませんように。
「それでね、ぴよちゃんが前に言ってたドーナツのお店なんだけど、……あ、ハル君おはよー!」
「おはよー。あれ? ひよりさん」
教室に入るなり、ずんずん近づいてくるハル君が不思議そうな顔をしているのに気がついて、ひやっとした。
「おはよう。なに?」
「うーん……なんだろ。ひよりさん、髪切った?」
「1ミリも切ってないし」
驚かせないでほしい。熱がある事がバレたのかと思って焦ったのに。
午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った時には、私はもう突っ伏したい気持ちでいっぱいだった。
「ちょっとお茶買ってくる」
校舎の自販機前には誰も居なかった。ここの自販機はハズレ商品が多くて人気がない。
昼休み、どうしよう。あんまり食欲がないけど、頑張って食べようか。
やっぱり休めば良かったかな、と考える私の耳に、ここ最近馴染んできた声が聞こえた。
「見つけた!」
俯けた顔を上げると、眉をひそめたハル君がいる。
「なに? ここの自販機のお茶まずいから別の所で買った方がいいよ」
おどけた私の言葉を全て流したハル君が、右手を掴んだ。咄嗟に振り払おうとしたけど叶わない。
「ッ! なんですか?」
「ひよりさん、具合悪いんでしょう。どうして隠すの?」
なんとかごまかそうと思ったけれど、ハル君の断定的な物言いに、とっくにバレているのだと分かってしまった。
「ちょっと微熱があるだけ。明日は学校休みだし、平気だよ」
「平気じゃないから俺が追いかけて来たんでしょ。保健室行くよ」
私の言い分なんて聞く気はないらしい。
繋いだ手はそのままに、保健室に向かって歩く。
「あの、ハル君」
「何? 言っておくけど、行かないとかなしだから。絶対もう微熱じゃないし」
不機嫌そうなハル君に引っ張られて進んでいるうちに、突然気がついてしまった。自分でもびっくりするくらい、突然に。
私、ハル君の事が好きだ。
繋いだ手の熱さが、上がってきた熱のせいなのか、ハル君のせいで熱く感じるのか分からない。
手汗が気になって振りほどきたいのに、離してとは言えない。違う、言いたくないんだ。
まだ転入してきてから1ヶ月しか経っていないのに。学校でしか喋らないのに。そんなにたくさんの思い出があるわけでもないのに。ハル君の事、全部知っているわけでもないのに。
そうやって必死に気のせいだと言い聞かせて、自分を引き留めようとしたけど。
好き。好きだ。ただ、ハル君が好きなんだ。しつこいくらいに頭の中に『好き』がこびりついて、私はこれが恋だと知った。
保健室で測った熱が38度もあったので、お母さんに迎えに来てもらって早退することになった。
「俺、教室に鞄取りに行くから。ついでにひよりさんが重病だって言いふらしてくる」
「やめてください」
振り返ったハル君は、不満げに口を尖らせた。
「えー。具合悪いの隠した罰として、盛りに盛って言いふらそうと思ったのに」
「勘弁してください」
「じゃ、スマホ出して」
ささっと奪われて帰ってきたスマホには、ハル君の連絡先が入っていた。
「なぜこのタイミングで交換ですか」
「俺は、したい時にしたい事をする!」
「ふりーだむ」
お母さんの小言に満ちた車内で、右手をジッと見る。さっきまでハル君に掴まれていた手だ。
「触れた手の にじんだ汗に 知る心」
繋いだ手を振り解けないと気がついた時に、恋に落ちたと知りました。
シートに体を倒し、ぐっと手を握りしめた。ここに残った熱を、逃さないように。