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エピローグ

 バスから降りると、懐かしい香りが鼻の奥いっぱいに広がった。

 ここ、雷岬(らいみさき)町は以前と変わらずぼくを迎えてくれる。

 カモメが相変わらず空を飛んでいるし、陽が沈み始めた海の色もあの頃と同じ赤色だった。

 今ぼくは赤い世界を歩いている。

 赤い世界と表現したが、それは夕日が何もかも染めているからに他ならない。

 だけど、その夕日も海の彼方へと沈みつつある。

 急がなければならない。

 ぼくのことを待っている人がいるのだから。

 この町へ来る前に連絡をしたら、太陽が沈むまで待っていると言っていた。

 その足をあの場所へと向けながら、ぼくは今日までのことを思い出していた。



 あれから二年。

 大学も卒業し、無事に就職もできた。


 旅行から帰ってきて、ぼくは真っ先に戸倉さんの家へと向かった。

 彼女の仏壇の前でぼくは手を合わせ、線香をあげた。

 戸倉さんの母親は今更訪問してきたぼくに、理由を問わなかった。

 その心遣いにぼくは言葉にせずに感謝した。

 仏壇に手を合わせても、心の中に彼女が現れたり声が聞こえたりすることはなかった。

 彼女はもうこの世のどこにもいないのだから、それが当たり前なのかもしれない。

 ぼくはその日から、今までの鬱屈としていた思いから吹っ切れたと思う。

 夏休み中、入辺に会ったとき、彼から一つ言われたことがある。

「お前、まるで別人のように変わったな」

「え、そうかな?」

「ああ、目の中に迷いが消えたって感じだ。最初、迷子のように泣きそうな目だったのにな」

 彼の言葉が本当ならば、やはり港羽さんとの出会いがぼくを変えてくれたんだろう。

 その港羽さんだが、電話で時々話をするようになった。

 その経済状況ゆえに携帯電話を持っていない彼女と会話できるのは必然と夜だけになってしまうのだが、それでも彼女は元気に過ごしているようだった。

 彼女もまた自分の過去と決着をつけようと懸命に抗っていた。

 ぼくと同じように。

 だけど、つい先日、彼女の方から連絡があった。

 仕事にも慣れてきて、夏ももうすぐ本番を迎えるある平日の夜だった。

 ぼくは一人暮らしをしているアパートに帰宅し、ネクタイを外している最中だったが、スマートフォンが震えているのを感じて、すぐに電話に出た。

「もしもし、上垣です」

『お久しぶりです、港羽ですが』

「港羽さん、久しぶりだね。今日はどうしたの?」

『……あ、あの、ですね』

 彼女はすぐに言葉をつなげなかった。

 用事があるから電話をしてきただろうに、その用事をすぐには切り出せなかった。

 つまりは、それだけ彼女にとって大事な、あるいは緊張するようなことを言い出そうとしているのだ。

『私、ようやく自分が何をしたいのか、見つかった気がします。二年前まで、父がいなくなったのに幸せを望んではいけないと思ってました。私のために父は自分を犠牲にしていたというのに、私だけが幸せになってはいけないんだと』

 港羽さんの心の根底に、そんな父親への罪悪感が沈んでいた。

 彼女はそれと向き合い始めたんだ。

 そして、二年かけてその想いのその先を見つめようとしたんだろう。

『だけど、その考え方は父の願いをないがしろにしているんだって気づきました。父はもういないけれど、だからこそ最後に託された願いを叶えなければいけないんだって、今は思います』

 それは、ぼくが戸倉さんから言われた言葉と同じだ。

 ぼくが彼女から幸せにと言われたように、港羽さんも父から幸せになってほしいと言われていた。

 大切な人の言葉はいつだって弱いぼくらを立ち上がらせ、導き、そして救っていく。

 ぼくは港羽さんが至った考えに祝福したいと思った。

「そう、おめでとう」

『上垣さんはどうですか? 戸倉さんのこと、受け入れましたか?』

 戸倉さんとはあれから一度も夢の中で会っていない。

 幸せになってと言われ、ぼくは彼女が望むように頑張っている最中だ。

 忘れたなどとは間違っても言えない、言えるはずもない。

 戸倉さんとの出会いはぼくを大きく変えた出来事なのだ。

 それを忘れたなどと言えるはずもない。

「ぼくは彼女のいないこの世界で生きなければいけないということが怖かったんだ。だから、誰かに何かに彼女の面影を見ていた。けれど、ようやくぼくは一人でも生きていけるぐらい強くなれたと思う」

 お互いに、そのことに気づくのに、いやそのことを認めるのに二年かかった。

 人によっては二年という時間を長いと感じる人もいるかもしれない。

 しかし、ぼくらはぼくらにとって大切な人を亡くしたのだ。

 わずか二年とぼくは思う。

 ぼくはまだ二十三歳だ。

 これからもまだまだ人生は五十年近くは続くことを考えれば、今気づけて良かった。

「だから、だからこそ、八月とかにそっちへ遊びに行くよ」

『分かりました、それじゃあ、お休みなさい』

「お休み、港羽さん」

 通話終了ボタンを押すと、ぼくはスマートフォンを机の上に置いた。

 そう、あの日――港羽さんとデートをしたあの日、雷岬(らいみさき)で交わした約束を果たす時が来たんだ。

 あの約束を……。



「なら、さ――」

 港羽さんの目を真っすぐに見る。

 その瞳にはぼくが映り込んでいる。

「もし、ぼくが戸倉さんのことで気持ちに決着をつけて、港羽さんが自分のことを見つめ直して答えを見つけたら」

 お互いに抱えた闇を光でもってかき消すなり、その闇を抱きしめ受け入れるなりしたら。

「ここでもう一度、ぼくと会ってくれませんか?」

 あの時――最初に会ったあの時、ぼくたちはまだ未熟だった。

 喪失を受け入れることができなかった。

 今もまだ自身の闇に悩み苦しんでいるけれど、ぼくも、そして港羽さんも、きっと強くなれる。

「とても嬉しい申し出ですけど……駄目です」

 また断られた。

 けど、どうして断ったのかは彼女が言葉にする前にぼくは分かっていた。

「もっと、そんな後ろ向きな理由じゃなくて、普通に誘ってください」

 だから、この想いを、とても素直に表現することにした。

「港羽さん、ぼく、必ずこの町に戻ってくるから、そのとき結婚してください」

 さっきプロポーズみたいと言われたばかりだが、今度は求婚そのものだ。

 まだ本当に結婚したいほど愛しているのか不明だけど、港羽さん以上に結婚したい人なんてそれこそ戸倉さんだけだ。

 そのことが彼女には分かっているからか、港羽さんは少しだけ悩んだ後、ぼくに背を向けて言った。

「……その返事は、次ここで会ったときにしますね」

 その声は心なしか嬉しそうだった。



 ――だから、ぼくは雷岬(らいみさき)へと来ていた。

 荷物が重たいけれど、涼しいのに汗が少し頬を伝っていくけれど。

 空は赤く、海は赤く、何もかもが真っ赤な世界。

 夕日が刻一刻と沈みゆくこの海を、港羽さんはやはりぼくに背を向けて眺めていた。

 その姿に、初めて会った二年前の時のことが思い出される。

 ぼくはその背中に一歩ずつ、ゆっくりと近づいていく。

 彼女との距離が短くなっていく。

 やがて、彼女はぼくに気づいてこちらに振り返った。

 

 そうだ、ぼくらはここからやり直す。

 誰かを失った悲しみよりも、誰かと出会う喜びのために。

 そして、港羽さんと共にこれからを生きていくために。


 この空と海との間で二度目の出会いを果たすのだ――。

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