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第七話 求めていた幸せ

 港羽さんが語った長い話は彼女の歴史そのものだった。

 いつしか岬にはぼくらしか残っていなかった。

 太陽も海のずっと向こうに沈みかけている。

「長くなりましたが、ここまで聞いてくださってありがとうございました」

 港羽さんは軽く頭を下げる。

「そういう事情があって、大切な彼女を亡くしたと上垣さんが言ったときに、私はちょっと動揺したんです」

 港羽さんは父を、そしてぼくは戸倉さんを。

 お互い大切な人を(うしな)っている。

 同じような悲しみを背負っていたのだ。

「そのとき、私にその戸倉さんという人を重ねていると言ってましたよね? そう言われた時、私心配になりました。だけど同時に、あなたのことが少し気になり始めました」

 それがデートを受け入れた理由だったのかとぼくは理解した。

 だけど、戸倉さんの面影を見ているのだと言われて罵倒するなら分かるが、心配するとはどういうことだ。

 ぼくが口をポカンと開けている様子を見て、彼女はさらに話を続ける。

「上垣さんは強いと思います。大切な人を亡くしたけれど、それから十一年も孤独に耐えながら生きて。そんなあなたが羨ましかったんです」

「違うよ、ぼくは君が思うような強い人間じゃない」

 彼女に褒められて、ぼくは反射的に否定していた。

「いつも誰かに戸倉さんの面影を探しているだけの弱い人間だよ」

 港羽さんが何か勘違いしているように思えたし、彼女がこれから言おうとしている言葉をなぜか言わせたくなかった。

 だけど、ぼくのそんな思いなど知らない港羽さんは口を閉じることはしなかった。

「逆に言えば、上垣さんはそうやって自分の理想と現実に向き合っているんじゃないんですか?」

 ぼくの理想――それは、多分、戸倉さんと過ごす未来そのものだった。

 けれど、どこにも彼女はいない。

 そんな現実に絶望して、諦めていなかったのはどうしてだ。

 戸倉さんに心の中で謝り続けていたのは、何のためだったか。

「私たちが生きる現実に、かつて大切だった人はもういないんです。それでも上垣さんは期待して裏切られて、また期待して裏切られて……そんな地獄を延々と繰り返していたのではないですか?」

 港羽さんがぼくの半生を地獄に例えたのは間違っていない。

 戸倉さんのいない人生なんて、生きている気がしなかったのだから。

 そう振り返ってみると、ぼくの人生はなんと空虚なことか。

「私にはそんな自分を傷つけるような生き方はできないです。私は父が生きている望みを簡単に捨ててしまうほど弱いんです」

 そして、港羽さんは悲しそうにぼくに微笑んだ。

 自分だって苦しんでいるはずなのに、どうしてぼくにそんな風に笑顔を見せられるんだ……。

「できるなら、私もあなたみたいに強く生きてみたかったです」

 それは港羽さんにとっての、願いだったのだろう。

 幸せを求めたくとも無理だと諦めてしまった彼女にとって、口にした言葉はきっと偽りない気持ちなのだろう。

 だけど、ぼくはそこにこそ港羽さんの暗い光を見出していた。

「港羽さん、まるでもう諦めたと言わんばかりに言ってるけど、港羽さんにとって未来はまだまだ続くものだ。だったら、今からでもそうなれるよう努力すればいいじゃないか」

 自分のことを棚上げしてよく言うものだと、自虐的に考えてしまう。

 死んだ人のことを受け入れ前向きに生きることのできない男の台詞じゃない。

 しかし、それでも言葉にしなければ港羽さんは苦しんだままこの先ずっと生き続けてしまう。

 彼女には、ぼくのように愚かな人生を歩んでほしくない。

「でも、努力なんて無理ですよ。私は今を生きるだけで精一杯ですから」

「だけど、生きるために生き続けるなんて、苦しいだけだ」

「苦しくても、それが私の人生ですから」

 ……なんだそれは。

 ぼくは港羽さんのその言葉に反感を持った。

 ぼくがそんな風に生きているかどうかはこの際置いておくとして、人が苦しいことを我慢できるのは、我慢したその先に何か楽しいことがあるからだ。

 しかし、今の彼女の生き方は苦しいことを我慢し続けるだけで、その先に何もないように思える。

 そんなものを人生と呼んでしまっていいのか。

 だったら、いっそのこと――。

「この町から出てみない?」

「え?」

「港羽さんはこの町で生きる限り、ずっとそうやって生きていくんだろう? だったら、ぼくと一緒に行かないか?」

 ここから生まれ変わるつもりで、故郷の町から離れてみる。

 父と育ち、父がいなくなったこの町を離れるのは彼女にとって辛いことかもしれないが、今の彼女には新しい風を感じることが必要なはずだ。

 ぼくはその手助けとなれればいい。

「この町から出れば、港羽さんのこと、知らない人ばかりだよ。そこでなら新しい人生を歩むことも出来るはずだ」

「……まるでプロポーズみたいですね」

 言われてみればその通りだ。

 ぼくと一緒に行こう――だなんて、結婚を申し込んでいるみたいだ。

 だけど、ぼくはそれもいいなと思った。

 こんな形でのプロポーズになってしまったが、ぼくが彼女のことを気になっているのは本当のことなのだから。

「ぼく、港羽さんのこと、好きだよ」

 だから、今の気持ちを正直に伝えよう。

「心配だからじゃなく、好き……になり始めてるって言った方が正しいかな」

 ぼくはまだ戸倉さんとのことについて、心の中で整理できていない。

 だから、港羽さんのことを戸倉さんの代わりとして好きなのか、それとも彼女自身が好きなのか分からない。

 わずか三日ほどの出来事だけで、ぼくのこの十年以上想ってきたことを簡単に捨て去ることなどできやしない。

 港羽さんはぼくの言葉を聞き、海の方をまた眺め始めた。

 水平線の彼方だけが茜色をした海と空は夕闇ですっかり黒くなっていた。

 これで今日一日も終わりを迎える。

 港羽さんは目を閉じると、そのまま聞いてきた。

「好きと言ってくれる人と一緒になれれば、私は幸せになれますか?」

 それはぼくのプロポーズを受けてのものだ。

 だけど、ぼくはあえて一般論的に答えることにした。

「幸せって人それぞれ色んな形があると思うけれど、港羽さんもその人が好きであれば、多分なれると思う」

 ここで肯定することは簡単だけど、ただの一言で彼女の耐え苦しんだ数年間は無くなりはしない。

 だから、彼女にはしっかり考えて欲しい。

 たとえその結果、振られる形になろうと、彼女がぼくのような人生を歩まなければ良いのだから。

 港羽さんはぼくの言葉を聞き、閉じていた目を開いた。

 その目は先ほどまでの暗い光はもうない。

 陽が沈んでもなお光り輝いているように見えた。

「私が思う幸せは、普通の女の子みたいに、誰かに恋をして一緒に未来を歩んでいく。そんなものだと思います」

 ああ、それはぼくも同じだと思う。

 たとえば戸倉さんとそんな風に生きれたら、どんなに幸せだっただろうか。

「一緒に買い物をして、料理して、味付けがおかしいって怒られて……そんなささやかな幸せでもいいんです」

 港羽さんはぼくの方へと顔を向けた。

 ぼくらは向き合っていた。

 己を縛る何かと真正面から。

「だから、私、もう少しこの町で頑張りたいと思います」

「それは、どういう……?」

「精一杯生きていると先ほどは言いましたが、本当にそうだったのか分からなくなりました。だから、この町でもう少しだけ私自身のことを見つめ直してみたいんです」

「そっか」

 港羽さんが考えて決めたことだ。

 ぼくはたしかにこの町から出るよう提案したけれど、それで本当に幸せになれるのか誰にも分からない。

 逆に雷岬(らいみさき)町にも幸せの一つや二つはあるのかもしれないのだ。

 それを彼女はまず探してみるのだと言っている。

「港羽さんがそう決めたのなら、ぼくは応援するよ」

 ぼくも自分自身のことを見つめ直さないといけないな。

 旅行から帰ったら、まず戸倉さんの墓前へと行こう。

 そこで今回のことを報告して、この気持ちに決着をつけよう。

「私も上垣さんのこと、応援しています」

 そんなぼくの決意が伝わったのか分からないが、港羽さんはそう勇気づけてくれた。

 だから、ぼくは奮い立った勇気に任せて、もう一つだけ言いたいことを言おうと思った。

「なら、さ――」



 そうして、デートは終わった。

 太陽が沈み、月や星が輝き始めた夜空の下、ぼくらは二人家路につく。

 会話はほとんどなかった。

 けれど、沈黙は別に悪くなかった。

 少し前まで彼女から感じていた険悪な雰囲気は今はもう全然ない。

 ぼくは明日、この町を出て日常へと帰る。

 そのことを港羽さんに告げると、明日は仕事があるので見送りに行くことはできないとはっきり言った。

 しょうがなかった。

 仕事を放りだしてまで、ぼくを見送る理由が今はないのだから。

 家族でも恋人でもないぼくらの関係を考えれば……。

 だが、そうなるとぼくたちは一体どんな関係なのだろうか。

 カップルではないが、友達と言うにはお互いの事情を知りすぎているために違うような気がする。

 そんなどうでもいいようなよくないようなことを考えながら、ぼくらは家へと帰った。



 眼前にはあどけない少女そのものといった戸倉さんがぼくと向かい合っている。

 それが夢であることが分かっていても、ぼくは懐かしさから涙があふれてくるのを抑えられなかった。

 この十一年間、夢の中ですら彼女とは会えなかったのだ。

 いや、会おうと思わなかっただけなのか。

「上垣くん」

 唇は動かず、空間に声も響いているわけではないが、そう言っているのが分かった。

 その聞こえない音響がエコーとなってぼくへ迫ってくる。

「今までお疲れ様。私のこと、忘れずにいてくれて、ありがとう」

 最初に出会った時と同じ笑顔でお礼を言う彼女に、ぼくは近づこうとした。

 しかし足は動かず、それどころか指一本も口も動かせなかった。

「けど、上垣くんも分かっていたみたいだけど、私のせいであなたの人生が不幸なものになるのは……私が困っちゃうよ」

 口調こそ軽いが、それはぼくが懸念していたことだった。

 戸倉さんのことを想い続けていれば、後ろ向きにしか生きられなくなってしまう。

 彼女はきっとそんなことをぼくには望んでいない。

 入辺や港羽さんに出会う前だったら、それでもぼくは良かった。

 けれど、今はもう違う。

 前に進もうと、戸倉さんの想いを整理しようと決めたんだ。

「分かってる。上垣くんは優しいから、私への想いを捨てきれないんだよね?」

 少女のままの彼女は続ける。

「けれど、まずはあなたが幸せになって。私のことは時々思い出してくれるだけでいいから、もう私の面影なんか探したりしないでね」

 ぼくは口を動かせないので、心の中で首を縦に振る。

 いきなり生き方を変えるのは難しいだろう。

 最初は何度も失敗するだろうけど、いつかそう遠くない未来では亡霊を追うような真似をしないようになりたかった。 

「大丈夫、上垣くんは強いから。私、知ってるから」

 これだけぼくの心を震わせる“大丈夫”という言葉は聞いたことがなかった。

 やはり、戸倉さんはぼくにとって今でも特別な存在だ。

 本当にここは夢の中なのか信じられなくなっていく。

 しかし、目の前で少女の体が薄くなっていくのを見て、やはり夢なのだと認識する。

「色々と言いたいことはたくさんあるんだけど、一言だけ言わせて――」

 だけど、心のどこかで目の目にいる人は間違いなく戸倉さんなのだと感じていた。

 彼女が光の粒子となっていくのをぼくはぼんやりと見ていた。

 秒単位で彼女の体は空間へと溶け込んでいく。

 完全に消えてしまう前に、戸倉さんはポツリと言った。

「幸せにね」

 そして、光の粒となって、すぐに消えた。

 あとに残るのは空虚だけだった。

 なぜか戸倉さんとはもう二度と夢の中でも会えない気がする。

 ぼくこそ彼女に色々言いたいことは山ほどあった。

 けど、動かない口では戸倉さんへ様々な想いを伝えられなかった。

 だから、ぼくは思うことにした。

 戸倉さんも幸せに、と。

 その一言に万感の思いを乗せた。

 そして、目を開くとカーテンの隙間から入り込む朝日のまぶしさで目が痛んだ。

 ベッドから立ち上がり、カーテンを開く。

 目に映る景色は雷岬(らいみさき)町のあの海と空だ。

 だが、この景色とも今日でお別れとなる。

 今回の旅行の最後に、戸倉さんと会うことができた。

 きっと、彼女との想い出を整理しようと決意したからだ。

「戸倉さん、ぼく、幸せになるから」


 そうして、ぼくの初の一人旅は終わりを迎えたのだった。

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