第二話 雷岬の少女
ぼく一人を乗せて走っていたバスはぼくが降りるのを見ると、すぐに走り去ってしまった。
首都圏から約五時間かけて、ぼくはようやく目的地である雷岬町にたどりついた。
自分が普段生活している場所よりだいぶ北に来たからだろうか、想像よりも涼しかった。
この土地で六日間過ごすのだと思うと、まるで避暑しに来たような気分だ。
時刻がまもなく十八時になるからなのかもしれない。
太陽は沈み始め、太陽とは真反対の空は既に紺色に染まっている。
ぼくは入辺から紹介された彼の叔父の家を探すことにした。
こういうことを聞くのに一番最適な場所は、やはり交番だろうか。
町中を少し歩くと交番はすぐに見つかった。
ぼくは交番の前に立っている気の良さそうな警官に話しかけてみる。
彼はぼくの顔を見てすぐに観光客だと分かったようで、叔父さんの名前を告げるだけで「その人の家はあっちを歩けばすぐですよ」と告げられた。
お礼を告げると、ぼくは言われた方向へと歩きだした。
「静かだ」
もちろん、カモメの鳴き声と波音はすぐそばで聞こえてくる。
けれど、なんというか、人の喧騒というものがここにはなかった。
人がガヤガヤするのは人がたくさんいるからなのだと、当たり前のことが実感として感じられる。
そして、空気が都会とは全く違う。
潮風によって塩っぽいのは当然なのだが、時間の流れがゆったりとしているような気がするのだ。
ぼくはこの町に来て、自分がどれだけ焦燥感に駆られていたのか見直すことができそうだ。
手の届かない望みを叶えようとして、ぼくは疲れきっていたのだろうか。
まだ、その答えは見つからない。
そんなことを考えている内にぼくは目的地である入辺の親戚の家の前に到着した。
表札には“原”と書かれており、それは事前に入辺から聞いていた名前だった。
夫婦二人暮らしだと聞いていたが、それにしてはかなり大きい家だった。
ぼくは覚悟を決めて、チャイムを鳴らすボタンを押した。
電子音が小さく聞こえた。
そのまましばらく待っていると「はい」と短く返事があった。
「すみません、三日ほど前にご連絡しました上垣星希と言う者です」
「ああ。上垣さんですね。少々お待ちください」
そう言われてから三十秒ほど経って、玄関からショートカットの女性が現れた。
おそらく原夫人だろうと思い、ぼくは恭しくお辞儀をする。
彼女はぼくが頭を下げるのを見て、軽くお辞儀をした。
「主人からお話はうかがっています」
ぼくは特に身分証明など示すこともなく家の中に通された。
原夫人はぼくをこれから一週間泊まる予定である部屋に案内をしてくれた。
入ってみると、なかなか小奇麗な部屋だった。
話を聞くと数年前までは息子が三人ほどいたようだが、順々に進学や就職が決まり、今では皆この町から出ていっているとのことだった。
ぼくが泊まる予定のこの部屋は末っ子が使っていた部屋なのだという。
残してある荷物はそんなに多くないが、それでもその末息子の大事な品なのだろう。
ぼくは勝手に触らないように注意することにした。
「上垣くん、よく来てくれたね。食べながらでいいから話をしようじゃないか」
夕食の席、ぼくの前にはこの家の主である原圭一郎さんが座っている。
その隣には原夫人の姿もある。
「ここには若者が喜ぶようなものは何も無いのだが、ゆっくりしてくれたまえ」
そう言って面白いことなど言ってもないのにガハハと笑った。
どうやら、原さんはかなりの豪気な人物のようである。
ぼくは全く似ていないのになぜか入辺の姿と彼を比較していた。
やはり血のつながりがあるからだろうか。
「君のことは準から聞いている。なんでも少し疲れているのだとか」
そして、遠慮がなかった。
けれど、ぼくにとってはそれが逆にありがたかった。
病気だからと変に気遣われても疲れるだけだ。
「ええ、まあそうです。ご迷惑をおかけするかもしれませんが」
「気にすることはない、自分の家だと思って好きにしてくれ。この家には私と妻しかいないのだからね」
「ありがとうございます」
夫人も言っていたが、この家は本当に静かだ。
だから原さんも突然やってきたぼくと息子の姿を比較しているのかもしれない。
「それでこれからどうするのだ?」
当然の質問が飛んできた。
ぼくはこの町に来た理由でもある岬へ行こうと思っていた。
「明日、早速雷岬に行ってみようかと思います」
「それはいい考えだ。あそこはこの町の唯一の観光名所だからな」
そう言うと原さんはまたガハハと笑った。
それに釣られて夫人もクスリと笑っていた。
本当に良い人たちだと、ぼくは思った。
翌日、昨日と同じように晴れていた。
ぼくはまだこの町では夕暮れの空しか見たことがなかった。
なので、雷岬町の快晴の青空を今日初めて見たことになる。
まさに雲一つない空と言うのはこのことかと思った。
昨日言ってたとおり、雷岬へ向かおうと家の外に出て、もう一度空を仰ぐ。
空はまるで海のように深く青く澄んでいたのだ。
時折見えるカモメの姿はただ空に一点の白を浮かばせていた。
本来ならばそれは異物であるはずだが、白点は見事なまでに青空と調和していたのだ。
残念ながらカメラの類は持ってきていないのだが、一応その景色をスマートフォンのカメラで撮影してみる。
撮れたか確認をしてみるが、案の定そこにはただの青空しか写っていない。
ぼくは少しがっかりしながらも、その足を岬へと向けた。
時間にしておよそ三十分。
ぼくはただただ歩いた。
風を受けながら、青い空と青い海に挟まれた大地の上を歩いた。
やがて雷岬を観光するための駐車場にたどり着き、そこから続く一本の坂道を歩く。
太陽の日差しがぼくの体をジリジリと焼いているのが分かる。
ぼくの体を冷まそうと汗が噴き出している。
汗はすぐに風によって蒸発していく。
北海道の涼しさならではだ。
これが都会であれば、下のコンクリートから照りつける熱によって一向に体は涼しくなることはない。
ぼくの足は止まらない。
坂道の頂上までやってきた。
「うわあ……」
ぼくの口から思わず嘆息があふれ出す。
それも仕方がないだろう。
眼下には写真では決して伝わることのない大自然が目の前にあった。
まず海だ。
日本にこれだけ綺麗な海が存在していたことをぼくは知らなかった。
海の底まで見えるのではと錯覚させるほど、透明な青色をしていた。
風もそこまで強くないからか、波もあまり立っていないようだ。
頭上で輝く太陽の光が海をより一層輝かせている。
はるか遠くには大きな船がのんびりと海上を走っている。
視線をもう少し手前に戻せば、そんな綺麗な海に雷岬が存在感たっぷりにそこにあった。
ドラゴンが実在するならば、こんな背中をしているのだろうと思わせる、岬の峰ともいうべき地形は広大だった。
波が岬の岸壁に向かってぶつかっているが、さざ波程度では決して削れないだろう。
それだけ岬は重くそこに存在している。
岬の先には白い灯台が見える。
そこへの道が岬の峰に沿って敷かれてある。
人一人が通れるぐらいしか幅のない、鉄製の柵に囲まれた無骨な道だ。
その道を人が何人か行ったり来たりしている。
ぼくと同じ観光客だろう。
しかし、その人数は夏休みだというのにも関わらず十人いるかいないか程度しかいなかった。
ここ雷岬はあまり人が来ない場所なのだろうか。
ネットで見た限りでは、評判はすごく良かったのに。
だけど、ぼくにとってはこれで良かった。
今はあまり人ごみの中を歩きたいとは思わないからだ。
ぼくは岬先への道を歩き始めた。
途中で岬の先からこっちへ帰る人をかわしながら、ぼくはただただ歩く。
風が吹いた。
潮の薫りが鼻腔の奥をくすぐる。
遠くから聞こえるカモメの声にぼくは耳を傾けていた。
こうしていると、子供のころ様々なことに素直に感動していたことを思い出してくる。
普段触れることは決してない自然によって、ぼくの心はここに来る前よりも正常になっていることを自覚していた。
来てよかったと、心の底から思えた。
だが、その感想を抱くのはまだ早かった。
長かった道は終わり、岬の先へとたどり着いた。
三百六十度の視界にはただ海しか見えない。
ここには風と波の音があたりに満ちていた。
顔を上げれば、そこには海とは異なる色をした空がある。
なんて素晴らしい光景だろうか。
そして、道の入り口から見たときは小さかった白い灯台がぼくの前にそびえ立っている。
三階建て、いや四階建てのビルぐらいの高さはあるだろう。
灯台から見下ろすことができればよかったのだが、生憎灯台の中に入るための扉は鎖によって固く閉ざされていた。
ぼくは諦めて、もっとよく景色を見ようと岬の先の、さらに先へ向かおうと思った。
だから、そちらへと視線を向けたとき、視界にふと誰かが映りこんだ。
ぼくと同じか少し下ぐらいの年齢だろうか。
星明かりのない夜空のように黒く肩ぐらいまでの長さの髪が風になびいている。
白いワンピースはどこか病弱な印象を抱かせるが、彼女の場合はむしろ健康が前面に押し出されていた。
その証拠に肌は太陽に焼けたのだろう、若干小麦色をしている。
その健康的な日焼けから、ぼくは雷岬町の人かなと思った。
ツバの広い麦わら帽子をかぶっており、ぼくに対して背中を向けている。
まるで映画か小説の一場面のように、雷岬の先にそんな少女が一人立っていた。
岬には他の観光客が数人いるが、不思議なことにぼくと彼女の周りに人はいない。
なぜその少女が気になるのか最初分からなかったが、あることに気づいてすぐに納得した。
そう、十一年前と同じなのだ。
戸倉さんの笑顔を見た瞬間周りの雑音が消えた、あのときと。
今、ぼくの耳は先ほどまで聞こえていた風や波の音を拾っていない。
まったくの無音だった。
はやる気持ちを抑えつつ、彼女に一歩ずつ近づく。
心臓の鼓動が徐々に早くなっていく。
ぼくは何をしようとしているんだ。
暑さのためにかいていた汗とは全く違う汗が頬を伝っていくのを感じた。
そう、ぼくは緊張している。
何に対して緊張しているんだろうか。
それが分からぬまま、ぼくの足は少女から四、五歩離れたところで止まった。
人の気配を察したのだろう、彼女は不意にぼくの方に振り返った。
彼女の鼻がすっきりしている顔を見て、ハッとする。
怪訝そうにぼくを見る彼女の、その凛とした目の奥に鈍く光る何かがあった。
見知らぬぼくを警戒しているのか、あるいは怯えているのか、あり得ないが一目惚れをしたのか。
そのどれもが不正解だと思う。
きっと、ぼくでは到底理解できないであろう感情がそこに見え隠れしているのだ。
だとすれば、目の前に立つ少女はどうしてそんな感情を抱いているのだろう。
「あ、あの……どうかされましたか?」
ぼくが黙ってそんなことを考えていたからか、少女の方から話しかけてきた。
少し不安そうな声だ。
そりゃそうだ、ぼくみたいな男が女性の背後にいたのだから。
「あ、いや、えーっと」
ぼくは急に気恥ずかしくなり、彼女から視線を外しながらしどろもどろに言った。
「さっきからずっと海の方を見ていたから、何か面白いものがあるのかなって」
口から出てきたのは、理由にならない理由だった。
そんなことでは少女の後ろに立っていた理由になるはずがない。
少なくともぼくにはそう思えたが、彼女はそれで納得したのかあるいは呆れたのか、それ以上の追及はなかった。
「そうですか。別に大したものはありませんよ」
つまらなそうに言うと、彼女は再び視線を海へと戻す。
大したものはないと言ったのに、彼女はどうして海を見ているのだろうか。
気になるが、これ以上話しかけると不審者扱いされそうだったので、ぼくはこの場から離れようと思った。
「それじゃあ」
短く別れの挨拶を背中にかけるが。案の定彼女からの返事はなかった。
灯台の下まで戻ってから、もう一度彼女の様子をうかがう。
少女はぼくが近づく前と同じように、そこにただ佇んでいる。
青い空と青い海に挟まれて、白色の彼女は明瞭に存在していた。
彼女はいったい、海を見ながら何を思っているのだろうか。
ぼくは原さんの家までの帰路を歩きながら、ずっとそのことを考えていた。
その日の夕食で、ぼくは原さんに少女のことについて尋ねてみた。
あの雰囲気からして、やはりこの町の人だという考えが強かったからだった。
「ふうん。観光客でないのなら、その子はもしかすると港羽さんの娘かもしれんな」
「港羽?」
「ああ、私と同じく町役場で働いていた同僚でな。彼に娘がいると聞いたことがある」
ぼくは不思議に思った。
原さんに伝えたことは、彼女の容姿と佇まいと海をずっと見ていたということだけだ。
そんな曖昧な情報だけで、その港羽という人の娘だと推測できるのだろうか。
「働いていたってことは、今はもう辞められたんですか?」
「ああ、まあ……な」
昨晩とは違い、原さんはどうも歯切れが悪い。
ただの同僚というわけではなさそうな雰囲気だった。
そんなぼくの疑念を感じたのだろう、原さんはゆっくりと告げた。
「彼は、犯罪者なんだ」
「それって」
「詳しくは知らん。だが、港羽さんの娘がこの町から出て行ったという話は聞いたことがない」
こんな狭い町だ。
きっと誰が何をしたという話はすぐに広まるのだろう。
だからこそ、余計にその港羽さんの娘が可哀想でならなかった。
町中のどこに行っても、犯罪者の娘扱いされていることは想像に難くない。
そう考えれば、昼間から観光客が多いあの雷岬にいても不思議ではなかった。
原さんもきっとそこまで考えて、その少女は港羽さんの娘かもしれないと言ったのだろう。
だが、もし本当にそうだとするならば、なぜこの町から出て行かないのだろうか……。




