プロローグ
ぼくは平凡な少年だった。
特別な才能はなく、人より秀でているものがあるわけでもない。
陳腐な表現だけど、どこにでもいそうな子供だった。
だからこそ、ぼくはあの日のこと、あの少女のことは忘れない。
ぼくの記憶のノートに書き込まれた彼女のことは、絶対に――。
それは小学校からの帰り道、夏休み間近のある日のことだ。
友達と別れ、大きな通りを一人歩いていた時だった。
突然降り出した雨はぼくの体を濡らした。
今朝の天気予報では今日一日快晴のはずだった。
だからぼくは傘を持っていなかった。
この通り雨はすぐに止むはずだと思い、雨宿りとして近くにあったシャッターの降りた店の軒下で休むことにした。
雨はますます強くなり、視界を白く濁らせ、雨独特の泥が混じったような匂いが強くなる。
町が、灰色に染まっていく。
色彩を失ったこの町でぼくはいつまで雨宿りをしていればいいのだろうかと不安を覚える。
しかし、今は耐えるしかない。
雨が止むのをジッと待ち、目を地面に落としていると、そこに影が現れた。
顔を上げると、ぼくの目の前には赤色の傘があった。
そして、傘を差し出しているのは、知らない女の子だ。
同い年かもしくは年上であろう少女。
赤いリボンで結ばれた小さなポニーテールが揺れているのが印象的だった。
「一緒に入ろ」
彼女はニコニコと笑顔を向けて、見知らぬぼくを誘う。
その屈託のない笑顔に対して、正直に言えばぼくは戸惑っていた。
なんで彼女はぼくを誘うのだろうか。
誰かに見られたら、相合傘してただろってからかわれてしまう。
そんな面倒なことをぼくは一瞬考えていた。
けれど、このまま立ち往生しているよりはマシだと思い、ぼくは「ありがとう」と言って傘の中に入る。
入ってみて分かったが、この赤い傘は折りたたみ傘だった。
普通の傘に比べて一回り小さい折りたたみ傘なので、ぼくが傘に入ると彼女の肩はどうしても傘の外に出てしまう。
結果、彼女は右肩を濡らしている。
ぼくはその姿を見て左側へずれるのだが、そうするたびに彼女は傘を左へと動かす。
「気を遣わなくていいよ」
二、三回そんなやりとりを行った後、彼女はそう言った。
ぼくはしょうがないから彼女の肩を濡らさないようにするのを諦めることにした。
その後の会話で最初どこに住んでいるのかと尋ねられ、ぼくは自分の家の場所を言った。
すると彼女は「私の近くに住んでいるのね」と言った。
だから、ぼくの家まで彼女が送ってくれるような形になった。
道を歩いている間に雨は多少弱まったが、それでも傘無しで歩くのはまだ無理そうだった。
雨音を聞きながらぼくらは歩き、おしゃべりをする。
まるで昔からの幼馴染のようにぼくらは自然と話した。
その会話の中でぼくらは同じ学校に通い、同じ学年であることを知った。
だけど、なぜかお互いに名前を名乗ることはしなかった。
その理由は分からないけれど、隣を歩く少女はそのことを別段気にしていない様子だったので、ぼくから名乗ることはしなかった。
不意に彼女が尋ねてきたのは、もうすぐ家に着く間際のことだった。
「ねぇ、雨の日って、楽しいと思わない?」
「楽しい? どうして?」
「いつもの町が違うものに変わるんだよ。そんなときって、ワクワクしてこない?」
笑顔でそう言う彼女に対して、ぼくはあまり共感は出来なかった。
雨が降ると、外でサッカーや野球が出来なくなるからだ。
ぼくは家の中でビデオゲームをすることより外で友達と運動することが好きだった。
「そうかな? 外で遊べないのはちょっと……」
だから正直に答えると、彼女は機嫌を損ねることなくこう返した。
「外で遊ぶ以外にも、本を読んでみるとかどう?」
「本っ!?」
素っ頓狂な声を出すと、彼女はムッとしたようだ。
どうやら、本を読むことは彼女にとって楽しみの一つであったようだ。
だけど、不機嫌さを口に出すことはなかった。
ぼくの目を見て、まるで先生が授業をするように語る。
「本を読むのも面白いよ。ただ内容が面白いだけじゃなくて、雨の日だと雨が出す音で周りの音が消えるんだよ」
嘘だと思ったが、彼女があまりに真剣に繰り返すもんだから、つい今日の夜やってみると言ってしまった。
彼女はぼくの言葉で嬉しくなったのか、真剣な表情が緩み、また傘を差し出した時と同じ笑顔を広げる。
その笑みを見た瞬間、車のクラクションが、空気を切り裂く音が、靴が鳴らす硬い音が――あらゆる雑音が消えて、雨が鳴らす静かな音がぼくの耳にふんわりと入ってきた。
数瞬、呼吸を忘れるほど、ぼくの心は動揺した。
今のはなんだ。
わずか数秒の間だったが、ぼくは何とも形容し難いものを感じた。
「どうしたの?」
気づけば、既に家は目の前だった。
ぼくはその問いに答えず、混乱を隠すためにお礼も言わず傘から離れて玄関に向かう。
雨は先ほどよりも小降りになっていたので、あまり濡れなかった。
ドアを開ける前、振り返って見ると彼女の姿が小さく見え、赤い傘が灰色の町景色にやたら目立った。
「ねぇ、あなたの名前は?」
辺りに響くような声で彼女は聞いた。
ぼくの、名前を。
ぼくの名前を言えば、そしてその後彼女の名前を聞けば、ぼくらは知り合いから友達に変わる。
きっかけは相合傘だったけれど、友達としての出会いはここから始まろうとしていた。
「ぼくの名前は、上垣星希。五年一組の上垣星希だよ」
「私は、戸倉舞。五年二組だよ!」
それから、ぼくに向かって空いている手を振って「上垣くんバイバイ」と言ってから、彼女は背を向けた。
「傘、ありがとう! じゃあね!」
ぼくはその姿が雨によって見えなくなるまで見届けた後、ようやく家の中に入った。
これが彼女――戸倉さんとの出会いだ。
思えば、あのときにぼくと彼女は本当の意味で知り合ったのだ。
次の日、ぼくは小学校に登校すると彼女のクラスへ行き、改めて彼女にお礼を言った。
すると、彼女は「別に気にしなくてもいいのに」と言いながら、また笑顔を浮かべた。
それからも、戸倉さんを見かけたときに手を振ると、彼女も笑顔を浮かべながら手を振り返してくれるようになった。
積極的に会いに行くことはなかったけれど、会うたびに彼女はいつも笑顔だった。
怒りも悲しみもない、喜びに満ちた笑顔だった。
だけど、そんな戸倉さんにも怒るときがあった。
あれは五年の秋ごろだっただろう、彼女と出逢って二か月は経っていた。
隣のクラスで喧嘩が起きてるぞという友達の言葉を聴いて、ぼくたちはワクワクしながら隣のクラスへと向かった。
普段起こらない出来事を、ぼくたち子供はいつでも待ち望んでいた。
だから、ぼくを含めた男子はその喧嘩の観客になっていた。
人垣の中心には背の高い男子と太った男子が対峙していた。
どちらも知らない男子だ。
周りの男子に事情を聞いてみると、どうやら太っている子が学校に持ってきていたキャラクター物の鉛筆を背の高い男子によって壊されたという話らしい。
確かに大事にしているものなら、怒っても当然だろうと思った。
太った男子は背の高い男子に掴みかかると、そのまま彼を押し倒した。
そして、そのまま背の高い男子をボコボコに殴り始めた。
しかし、倒された方も泣きながら反撃をするので、どちらも顔や腹を殴られては殴り返していた。
ぼくたち観客はそれを止めることなく、「いいぞ!」「やれやれ!」といった感じで応援していた。
しかし、周りの男子はそうだったが、戸倉さんは違った。
何らかの用事で教室内にいなかったのか、戻ってきた彼女は騒ぎを見てすぐに騒ぎの中心に駆けつけた。
「何してるの!?」
そのときの彼女の顔はただの怒りとは言えない表情をしていた。
むしろ、涙を流していないのに悲しそうな顔をしていた。
戸倉さんは殴り合っている男子の前に立った。
突然の乱入者に、二人の男子は殴り合うのを止めた。
観客も当事者も誰も何も言えなかった。
みんな、彼女が口を開くのを待っていた。
「二人はなんで喧嘩していたの?」
戸倉さんがそう聞いた。
二人の男子は口々にああだこうだと叫ぶ。
彼女はそれをうるさいと一刀両断せず、ただ黙って聞いていた。
「――つまり、栄田くんが美野くんの持っていた鉛筆を壊したのね」
「そうだよ、コイツ、謝ったのに殴りかかってるんだ!」
「あんな謝り方があるか! “すんませーん”だなんて!」
背の高い栄田と太っている美野はそう互いに主張していた。
まぁ確かに、大事なものを壊されたのに謝罪がおざなりだったら怒るだろうな。
少なくともぼくだったらきっと怒る。
だけど、戸倉さんにとってはそうではないようだ。
彼女は美野の方を向いて言った。
「美野くん、栄田くんは謝っているんだから、許してあげなさい」
「戸倉、そりゃないよ!? 栄田の肩を持つのかよ!」
「違うわ」
そう言うと、彼女は今度は栄田の方へ向いた。
「栄田くんもよ。ちゃんと謝らないからこんなことになったんでしょう? なら、しっかり謝りなさい!」
「ちっ、こっちは謝ったのに、お節介なやつ」
「何か言った?」
静かに放ったその一言は、栄田の口を黙らせるには十分なほど怒りを込めているように聞こえた。
今の彼女は教科書にも載っていた阿修羅像も勝てないほど怒っているのだ。
ぼくらじゃ戸倉さんに敵わないだろう。
「……美野、ごめん。壊すつもりじゃなかったんだ」
「もういいよ、俺も殴ってごめん」
こうして、戸倉さんの仲裁のおかげで喧嘩は終着した。
だけど、その日の帰り道、彼女からはあの場にいたのにどうして喧嘩を止めなかったのかと怒られてしまった。
ぼくは、きっと戸倉さんに惹かれていた。
最初に出逢った雨の日にか、それとも喧嘩があった日にか。
あるいはもっとささやかな出来事が積み重なってなのか。
過程はいずれにせよ、ぼくは彼女を好きになっていた。
彼女は幼いながらも確固たる自己を持ち、人に優しく、悪いことは許さない。
そして、いつも一所懸命だった。
そんな彼女と一緒にいると、ぼくは自分が持っているであろう力以上のものを発揮できた。
別にテストで百点とれたとか、サッカーでシュートが決まるようになったとか、そういったエピソードがあったわけではない。
ただ、自分の内に秘められている魂が浄化されて、汚れが無くなり純粋なものへとなっていくように。
彼女の魂の輝きは他者を一段階上へと上げる力があるように思えたのだ。
だから、ぼくは彼女の魂が放つ光に魅かれたのだ。
特別な才能も、人よりも秀でた能力も必要じゃない。
きっと戸倉さんと一緒にいれば、ぼくらはいつまでもこの幸せな時間の中で過ごすことができる。
人が二千年かけてもたどり着けない世界の真理にさえ、この手を伸ばし掴むことができる。
ぼくらは望むことは何でもできる。
何も根拠がないのに、ぼくはそう信じていた。
信じ込んでいた。
だが、この世界に“絶対”なんていうものはない。
期待をすれば裏切られ、希望にすがれば絶望をプレゼントをされるだけだ。
だから、その日は唐突にやってきた。
線香の匂いが辺りに立ち込めていた。
黒い服に身を包んだぼくの目の前には、戸倉さんの写真があった。
いつもぼくに向けてくれていた笑顔の彼女。
だけど、もうその笑顔を見ることはできない。
なぜなら、戸倉さんは死んでしまったのだから。
死因は交通事故によるものだった。
目の前で自動車に轢かれそうになった幼児を助けるために、車の前に出たとのことだ。
その話を聞いたとき、ぼくは戸倉さんらしいなと思った。
子供を助けるために自分の体を投げうつことが、果たして十歳の少女にできるのだろうか。
普通ならできやしない。
少なくとも、ぼくにはできるとは思えなかった。
それをやることができた戸倉さんは最期まで戸倉さんだった。
彼女はそれで満足だったかもしれないが、遺された者はどうすればいいのだろうか。
幼児の両親は戸倉さんの両親に対して涙を流しながら何かを言っている。
きっと、感謝とお悔みの言葉だろう。
戸倉さんが庇ったというその子供は状況を理解できていないのだろう。
包帯を巻いた頭を左右に動かして、その視線は何かを探しているようにキョロキョロとさせていた。
母親に「お姉ちゃんはどこ」と尋ねているようだ。
その子の母も父もなんて答えたものかと思案している。
ぼくも同じように尋ねられたら、なんと答えるのだろう。
いや、答えられるのだろうか。
幸せだった時間は終わってしまった。
掴むことができた真理は悠久の彼方へと遠ざかってしまった。
そこで気づいてしまった。
ぼくはとても大切な物をこの手から取りこぼしてしまったことに。
もう永遠に彼女と人生のこれからを生きることはできない。
なぜなら戸倉さんは死んでしまったけれど、ぼくはこの世界で生きなければならないからだ。
きっと彼女を前にしたときのような神妙な気持ちになることはもうないのだろう。
たかが十年しか生きていないのに、なぜかそのことは分かってしまった。
こうして、ぼくは戸倉舞さんと永久に別れることになった。