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第三レッスン室後編 「くろちよる」



 ななちゃんはロングスカートの裾を捌いて、ピアノの前に座った。


「この中には、ミュージカル俳優やポップオペラスターを目指している子もいるわよね。

 ミュージカルの歌唱といえば実声だと思ってるかもしれないけど、そうじゃないわ。今は実声に加えてファルセットやデルカントなんかも使いこなせることが要求されるの。

 まずは皆がどのくらい声出るか見せてもらうわね。女子は右、男子は左に別れてくれる?」


 へこんでいる三河を誘導しつつ移動していると、相模がそっと肘でつついてくる。


「なぁジャン。実声って何だ?」


「地声のことだったと思うけど……」


「じゃあファルセットって?」


「えぇっと……さぁ?」


 小声で言い交わし首を捻っていると、伊達がそっと顔を寄せてくる。


「ファルセットは裏声で……デルカントは、ベルカントとも呼ばれるイタリアの発声法だ……」


「へぇ~」


 本当にへー、だ。

 なにぶん、オレも相模も弱小演劇部出身だ。演劇用語や声楽用語を教えてくれる人なんていなかった。


「伊達は詳しいなぁ。伊達の中学の演劇部には、演劇経験者の顧問でもいたのか?」


「……いや、自分は……」


 伊達が言いかけた時、陸奥がピアノに歩み寄って言った。


「先生。僕、声変わりがまだなので、女子の方に混ざってもいいですか?」


 どよっと室内がざわめいた。

 確かに陸奥の声は高めだけど……


「おいおいおいおい、陸奥のヤツどうしちまったんだよ? 前にアイツ、一時期声変わりで声出なくて苦労したっつー話してたよな? なっ?」


 目を白黒させて、相模がオレの肩を揺さぶってくる。いや、オレに言われてもさ……

 でも、陸奥が声変わりを終えているのは確かだ。

 三河も心配そうに陸奥の背中を見つめている。

 ななちゃんは少し驚いたように目を瞠ったものの、すぐに落ち着いて皆を宥める。


「ほら、静かに! 成長には個人差があるんだから。いいわ、陸奥。じゃあとりあえず男子と女子の真ん中にいてね」


「はーい」


 思いっきり猫を被って返事をすると、陸奥はななちゃんにバレないよう、後ろ手でピースしてきた。


「どうしよう。陸奥君、ぼくがあんまりへこんだから、鞍干君見返そうとムキになっちゃったんじゃ……」


 おろおろする三河に、伊達が首を振る。


「……ムキにはなっているが、ヤケになったわけじゃない。大丈夫だ」


 そう言い切られてしまっては、三河と相模と顔を見合わせるしかない。

 でも陸奥のことだ。きっとなにか企んでいるんだろう。

 ななちゃんは陸奥を除く男子に座るよう指示した。長い指が鍵盤を弾き、ドミソの和音を鳴らす。


「じゃあまず女子と陸奥からね。ドミソミドから始めるわ、発声はマで。中学の音楽の授業でやってるわね?」


 よく合唱の前にやらされた、マママママーと言うヤツだ。先生によってはアの発声で行うかもしれない。


「半音ずつ上げていくから、実声でもファルセットでも、自分が出せる声で出して。限界になったら座ってね。じゃあいくわよ」


 ドミソミド、ド♯ファソ♯ファド♯……と、ななちゃんのピアノに合わせて女子と陸奥が発声を始める。

 ……あれ?

 男子が一人混ざっているはずなのに、違和感がまるでない。


「はい、この辺がアルトね。メゾソプラノ……ソプラノ。段々厳しくなってきたかな?」


 徐々に高音に移しながら、ななちゃんは悪戯っぽく笑う。

 ちらほらと座り込む女子が出始め、ソプラノ音域の中程で半分程になった。

 陸奥はというと……まだ立っている。このくらいの数になって、陸奥の声が目立ってきた。

 悪い意味で目立ってるんじゃない。掠れのない綺麗な裏声が、他の女子の声を圧倒し始める。

 多分、出だしは様子見で声量を抑えていたんだろう。高音になるにつれ、女子の声が細くなっていくのに反比例して、陸奥のボーイソプラノはますます声を高めていく。

 その声は……ボキャブラリーが少なくて表現し辛いけど、前にテレビで見たグラスの演奏を思い出させた。濡らした指でグラスの縁をなぞり、音を出すアレだ。隠し芸なんかでよく披露される、グラスが奏でる硬質で澄んだ音色。あの音に似ていた。


 ふと我に返ると、最後には陸奥だけが立っていた。

 同じ男の身で出しているとは思えないような高音を振り絞ると、降参とばかりに両手をあげて見せる。

 鍵盤から手を離したななちゃんの顔は真っ赤だった。


「やるじゃない陸奥! 皆、拍手拍手っ!」


 呆気にとられていたクラスメイト達が手を叩きだす中、底意地の悪いオレはちらりと横目で鞍干を見やる。苦虫を噛んだような顔で、ピアノの足をじっと睨んでいた。

 陸奥が見ていろと言ったのは、こういうことだったのか。

 陸奥の勇姿に手が痛くなるほど拍手を送ると、ななちゃんが再び鍵盤を叩く。


「さぁ、今度は男子! 陸奥に負けんじゃないわよ~? 男子は半音ずつ下がっていくからね」


 こうなると、俄然伊達の歌声にも興味が湧いてくる。

 陸奥が言った、


『ピアノがある限り僕らは負けない』


 僕らとは自分と伊達のことだ。

 伊達はどんな声を披露してくれるのか……それは、第一声から露わになった。

 普段の声量なら、推薦組を合わせても相模が群を抜いている。けれど、その相模が実声で発した声をも凌ぐ伸びやかな裏声に、誰もが振り向いた。

 その声の主が、伊達だった。

 すぐそばに立っていると、びりびりと肌が震えるような圧倒的な声量。なのに威圧的ではなくて、むしろ甘く耳に響くヴァリトンヴォイス。

 ピアノの音はテノールの音域からヴァリトンへと下がっていく。三河が座り、オレが座り、相模が座った。伊達は地声を一切出すことなく、最後まで柔らかな裏声で歌いきった。


「あんた達、一体……」


 ぽつりと呟いたかと思うと、ななちゃんはピアノの上に放っていたバインダーを忙しなくめくった。ややあって、あっと声をあげる。


「珍しく演劇部出身じゃない生徒がいたと思ったけど……陸奥と伊達のことだったのね、合唱部出身の生徒って!」


「合唱部?」


 思いもよらない言葉に、全員が言葉を失う。

 勝手な思い込みかもしれないが、俳優科に来る生徒は大方演劇部出身だと思っていた。実際、二人以外はそうなんだろう。

 まさか、いつも一緒にいた二人が合唱部の出だったなんて。思えば、お互いに中学の頃の話はあまりしたことがない。

 ななちゃんは名簿をめくりながら、ポリポリと頬を掻く。


「なによ……しかも二人とも、合唱コン全国大会常連校の出じゃないの。もしかしてソリストだった?」


「はい」


 二人はことも無げに頷く。

 なんてヤツらだ……同じはみ出し組だと思ってたのに、とんでもない隠し玉を持っていやがりらっしゃった……もう動揺でまともに言葉が出てこない。

 ……あれ?

 陸奥と伊達は合唱強豪校の元ソリストで、三河はバレエ歴十年で……演劇強豪校出身の枠からははみ出してても、決して落ちこぼれじゃないじゃん……

 愕然としていると、肩に大きな手が置かれた。

 相模だ。


「……ジャン君よ。お前は、『実はこんなすぺしゃる特技持ってました~』なんてこと、ないよな?」


「フッ……相模君よ、オレは悲しいくらい凡人だ。せいぜい作文で市長から賞状貰ったくらいだよ……」


「俺も、剣道の段持ってるくらいだよ……」


「なん……だと。この裏切り者ぉ! 寄るな触るな近寄るなっ!」


「なんでだよ、演劇関係ねーだろ!」


「やかましいっ、似合いすぎてムカつくわっ!」


「そこ、うるさーい!」


 コソコソやり合っていると、ななちゃんにぴしゃりと叱られた。

 おいおいおい……いよいよ凡人はオレだけじゃんか。

 仲間の実力を誇らしく思うと同時に、正直焦りもハンパない。

 ……あぁ。ちっさいなぁ、オレ。

 ななちゃんは陸奥と伊達を呼び寄せると、他の生徒に座るよう促した。


「丁度いいわ、二人にちょっと実演してもらいましょ。

 実声とファルセットを使い分けられることが大事だけど、難しいのはその切り替え。継ぎ目の部分がうまくないと台無しになるの。

 二人共いいわね? まずは実声から……」


 ななちゃんのピアノに合わせ、二人が歌いだす。単純な音階なのに、二人が合わせるとなにかの曲のように聞こえるから不思議だ。


「次はファルセット……実声に戻して……またファルセット」


 指示されたとおり、二人は自在に二つの声色を操る。

 力強い実声、優雅なファルセット。

 切り替える時にもブレはない。むしろ言われないと、切り替えたことに気付けないほどなめらかだ。

 それがどれだけ難しいことか。カラオケで、自分のキーに合わない曲を歌ったことがある人なら分かると思う。

 ひとしきり歌わせると、ななちゃんは満足そうに笑った。


「どう? 同じ音でも、実声とファルセットだと印象が変わるでしょ? 曲調や歌詞に合わせて使い分けられると、表現の幅が広がるわ。

 二人とも戻っていいわよ、ありがとね」


 列に戻る二人を拍手が包んだ。なにか声をかけようとする(いとま)もなく、ななちゃんはピアノをかき鳴らす。


「さ、皆立って! 足は肩幅に開く、肩の力は抜く、アゴは引いて背筋を伸ばす! 今度は全員で行くわよーっ!」


 ハイテンションなななちゃんによる、ハイペースなトレーニングが敢行された。

 チャイムが鳴ってななちゃんが部屋を出て行く頃には、全員ヘロヘロになっていた。

 三河が早速陸奥と伊達に飛びつく。


「すごいよ二人とも~! すっごく上手だった、綺麗な声だね~っ! どうして隠してたの?」


「……隠していたわけじゃ、ないんだが……」


「まぁね。ね、伊達の外からは見えない魅力、分かったでしょ?」


 どうやら照れているらしい伊達と、恥ずかしげもなく胸を張る陸奥に、オレと相模も手を叩く。


「ホントに、上手すぎてびっくりした! 合唱部出身だったなんて想像もしてなかったよ!」


「まったくだ、すげーよな! 二人はどうも前から知った風だと思っちゃいたが、合唱の全国大会で会ってたんだな」


「同じ東北だから、地方大会でも一緒だったしね」


 手放しで褒めちぎっていると、ふと視線を感じた。

 目だけを動かし確認すると……あぁ、やっぱり鞍干だ。もの言いたげに陸奥を見ている。

 気付いた陸奥はにっこり笑うと、ひらひらと手を振った。


「ごめんねぇ、目立つなって言われたばっかりだったのにぃ。悪気はなかったんだよ」


 見惚れるような笑顔が吐いた毒気を孕んだ言葉に、レッスン室の空気が凍りつく。なまじっか顔が整っている分、恐いというより怖ろしい。

 鞍干シンパの女の子達は、すっかり気圧されてしまったようだ。それでも鞍干は目をつり上げ、陸奥に詰め寄ってくる。

 すると二人の間に、伊達が割って入った。

 無言で鞍干を見下ろす。その顔には、こんな場面なのに怒りも苛立ちもない。ただただ、いつもの無表情な伊達だ。それがかえって鞍干を怯ませた。

 お互いに黙ったまま数秒が過ぎる。沈黙が痛い。

 先に口を開いたのは伊達だった。


「…………くろちよる」


「は?」


 その指が鞍干の足を指差した。眉を寄せ、重々しくかぶりを振る。


「……お大事に。行こう」


 伊達はそれだけ言うと、オレ達を促してレッスン室を出る。

 後をついて行きながら、


「なぁ伊達、くろちよるって……」


 尋ねると、伊達は人差し指を立てて見せ、レッスン室のドアに貼りついた。中の会話に耳をそばだてる。

 ワケが分からないままそれに倣うと、不安そうな女子の声が聞こえてきた。


「ねぇ、『くろちよる』って?」


「分かんない。くろち、くろち……黒い血?」


「ヤダ、なにそれ怖い! ちょっと鞍干君、その足病院で診てもらったら?」


「馬鹿言うなよ、こんなんで病院なんて」


 フンと鼻で笑う鞍干の声も、不安の色を隠しきれていない。

 鞍干の足、怪我でもしてたっけ?


「でも、医者の息子が言うんだよぉ? それに黒い血なんて、なんか不吉……」


「うるさいな、ほっとけよ!」


 そこまで聞くと、伊達はドアから離れて歩き出した。

 レッスン室に声が届かないくらい離れてから、改めて伊達をせっつく。


「なぁ、鞍干の足、どうかしたのか?」


「くろちよるってなに~? 鞍干君、なにか病気なの?」


 三河も心配そうに伊達を仰ぐ。さっきはその鞍干に泣かされそうになったっていうのに……

 伊達はなにを思ったか、いきなりオレの頬をつついてきた。この前の球技大会でボールが当たった箇所だ。まだ不恰好なあざが残っている。


「いってて、なにすんだよ」


「………くろちよる」


「へ?」


「……仙台では痣を、黒い血が寄ると書いて、くろちよると呼ぶんだ」


 そう言われてみれば……鞍干のすねのあたりに、大きい青痣があった気がする。


「なぁんだよかった、ただの痣かぁ~! ぼくの地元だと血が青く固まるから、あおちって言うよ~」


「え、青タンじゃねぇの?」


「秋田も青タンって言うよ」


「え~、青タンのタンってなに~?」


「さぁ……? それにしても黒い血が寄るなんて、さっきの女子じゃないけどおっかない名前だなぁ」


 言ってからふと気付いて伊達を見やる。


「……もしかして、確信犯?」


 伊達は人差し指で眼鏡を押し上げると、微かに唇の端を歪める。


「……いい具合に、勘違いしてくれたようだ……」


 やっぱり確信犯だった……!

 この間の『ジャス』の一件で、仙台の言葉がこっちで通じないことは分かってるし、普段は訛りのない伊達だ。

 わざと不吉な響きの仙台言葉を使って、鞍干達を恐怖のどん底に突き落としたんだ!


「あっはは、サイコーだね伊達ぇ!」


 陸奥が大笑いして伊達の背を叩く。


「……皆を怒らせて、三河を泣かせかけたからな……このくらいはいいだろう」


 伊達はちろりと舌を出す。

 ……おいおい、なんだよこのイケメン様は。今なら掘られてもいいぞ……

 血迷っていると、また肩に手を置かれた。足を止め振り向くと、案の定相模だ。


「なぁ……実は、陸奥より伊達の方が怖いんじゃね?」


「あぁ~……」


 確かに。

 思ったことをズバッと口にする陸奥と、感情を表に出さずひっそりと策を練る伊達。

 なにを考えているのかわからない分、伊達の方が怖いかもしれない。


「……ジャン君よ、なかよくしよーな……」


「うん、オレ達五人ちょーなかよしだよ……ケンカはやめよーな……」


 乾ききった笑いを交わしていると、オレ達が遅れているのに気付いているのかいないのか、三人の背中が廊下の角の向こうへ消えていく。


「あっ! そういや、陸奥が秋田弁で、むしゃむしゃナントカっつってたよな? あれって結局なんだったんだ?」


「忘れてた。おーい、待ってくれよーっ!」


「陸奥ー、むしゃむしゃってなんだー?」


 むしゃむしゃとは言ってなかったと思うけど……

 ともあれ、慌てて三人を追って走り出す。すれ違った先生に廊下を走るなと怒られたけど、愛想良く返事だけして駆け抜ける。

 三人に追いつくと、なかよく五人、肩を並べて教室へ戻った。


 ……えぇ。オレ達、そりゃもーちょーなかよしですから。




作中に登場するデルカント、ほぼベルカントと呼ばれます。

ななちゃんのモデルとなる声楽の先生がデルカントと呼んでいたので、それに合わせました。

イメージとしては、実声のように強靭な裏声でしょうか(こんなざっくり言うと怒られそうですが)。


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