第三レッスン室前編 「うしゃらすぃぐね」
『楽市楽座~TAX FREE~』
こんな文字を見かけたら、なんだと思うだろうか。
免税店の看板?
フリマののぼり?
違う。
正解は、伊達のTシャツのロゴだ。
前を行く背に書かれた白抜きの文字を見ていたら、いつの間にか口が開いていた。閉じる。
いつもの五人で、更衣室から第三レッスン室に向かう途中のことだ。
「なぁ、伊達……そのシャツ……」
「ん?」
歩みを止めずに、伊達が肩越しに振り返る。
その顔はオレよりも少し高い所にあり、自然と見上げる形になる。しかもその顔が、切れ長の目が涼しげな純日本風美男子ときたもんだ。
嫉妬の一つもしたくなるところだが、背中の字が気になってどうでもよくなる。
気になっていたのはオレだけじゃなかったようで、三河も目をキラキラさせて白文字をつつく。
「うん、ぼくもすっごい気になってたー! っていうか、いつもすっごいの着てるよね~伊達君」
「……そうだろうか」
そうでなければなんだろうか。
ここ何日かで、特に気になった伊達Tコレクションの言葉を挙げてみる。
『パンがなければご飯を食べればいいじゃない──頑張ってます、米農家。』
『そうだ、宮城にも行こう』
『だが断るッ!』
『大塩平八郎の乱』
……なんの主張がしたいのか……
伊達はひょいっと襟首を摘まむ。
「……父が、仕事であちこちに出かけるんだが……その先々で変わったTシャツを見かける度、買ってくるんだ……」
「え、伊達の父ちゃんのセンスだったのか、ソレ!」
相模の絶叫に、いつものようにうっそりと頷く伊達。その顔には喜びも切なさも、諦めも嫌悪もない。
レッスン着にとはいえ、こうして毎日着てるんだから、伊達父の無口な息子とのコミュニケーションは一応成功しているらしい。
相模はしげしげとTシャツを見下ろして尋ねる。
「なぁ、聞いていいか? 伊達はその父ちゃんチョイスのTシャツ、普段も着てんの?」
「……夏になれば」
「あ……なんだかんだ気に入ってんだな」
……ちょっとどころじゃなく、コミュニケーション大成功だよお父さん!
夏になり、伊達Tコレクションを着て街を歩く姿を想像したんだろう。相模はニヤけた頬を撫でる。
「いやぁ~……街行く伊達の顔と背の高さに惹かれて、『逆ナンしちゃお!』って女の子らがいたとしてよぉ。近づいてきてTシャツの文字見たらびっくりすんだろうなぁ」
「……逆ナンなんて、されない。夏でも冬でも……」
そりゃ、夏場はこんななんの主張か分からんシャツ着てるからだろ。
……とすると、冬でも女の子達が寄ってこない理由はなんだ? 今から冬が楽しみになってきたぞ、色んな意味で。
すると、今まで黙っていた陸奥がフンと鼻で笑う。
「伊達の外見しか見てない子達なんて、文字Tにドン引きして離れてればいいんだよ。伊達の魅力は、外からは見えないところにあるんだから」
その意味深な言葉に面食らって、思わず相模と三河とアイコンタクトを交わす。
……外から見えないところ……?
ちょっと待て、この二人ってばどういうご関係? そういうご関係?
確かに、陸奥は黙ってさえいりゃ、美少女と見紛うばかりの美少年だけどさ……
いや待て待て、いつもの陸奥のブラックジョーク……いや、笑うトコないけども……かもしれない。
いやさ、万が一本当にそういうご関係だったとしても、本件は非常にデリケートな問題だ。間違っても本気でイジるのはやめような。なっ!
瞬きと視線で、三人の間に堅い密約が交わされた。
次の瞬間には、何事もなかったかのように相模がからからと笑う。
「そうだよなぁ、伊達のイイトコは顔だけじゃあねぇよな、うん!」
「そうそう、無駄口叩かないところも男前だし、なっ!」
「うん、細かいトコにもよく気がついてくれるよね~伊達君は!」
「え? そう?」
オレ達が必死こいて挙げた『伊達の外からは見えない魅力』を、陸奥はあっさり切り捨てた。
おいおい、性格のことじゃないのかよ……
目的地である第三レッスン室のドアが見えてきた。この微妙な空気のまま授業に入るのは気まずすぎる。
なにか別の話題は……
「第三レッスン室って確か、ピアノが置いてある部屋だったよね」
口を開いたのは陸奥だった。話題が逸れたことに安堵して、
「確かそうだった、ボイストレーニングの授業では初めて使う部屋だよな」
勢い込んで頷くと、陸奥は何故か誇らしげに目を細める。
「僕が言った意味、今に解るよ」
え、なに、どういうこと? 話逸れたんじゃなかったのか?
物言いた気な相模の視線に、こっそり肩を竦めるしかない。三河は、そうなんだーなんて軽い相槌を打っている。伊達は無言だ。頼む、なんか言ってくれ!
もうレッスン室に着いてしまう。
思い切って、話を伊達に振ってみる。
「なぁ、仕事であちこち出かけるって、伊達のお父さんはなにしてる人なんだ?」
先頭を行く伊達は、レッスン室のドアに手をかける。
「……小児科医だ。研修なんかで、出張が多い……」
「へえぇ~っ!」
「小児科医!」
「伊達、医者の息子なのかよ!」
答えた伊達がドアを開けるのと、陸奥を除いた三人が叫んだのは同時だった。
ドアを開くなり大声をあげてしまったせいで、先にレッスン室にいた級友達の冷ややかな視線が刺さる。オレ達が最後だったようだ。
気まずさに口を閉じ、誰にともなく頭を下げ下げ、一番後ろの壁際に落ち着いた。
各レッスン室は様々な実技を行う場所なので、基本的に机やイスはない。思い思いに床に座って、講師の到着を待つ。
なので、レッスン室で授業を受ける時には場所取りが重要になってくる。指導を受けるのに適した場所があるからだ。
ダンスの授業なんかで使う、壁の一面が鏡になっているレッスン室では、鏡前の最前列。
コンポなどのオーディオがある部屋では、スピーカーとスピーカーの中間地点。
ここのようにピアノがある部屋では、勿論ピアノの近くだ。
今回は生憎到着したのが一番最後だったので、ピアノから最も遠い壁際になってしまった。
のそのそと支度をしていると、前の方から小さく笑う声がする。嘲りの色を含むその声につい顔を上げ、すぐに後悔した。
笑い声の主はピアノの周りに陣取った推薦組の一団で、彼らは明らかにこちらを見ていたからだ。
「遅れてきたわりに、随分デカいねぇ。声とかもろもろ」
聞こえよがしに言ったのは、推薦組のリーダー鞍干だ。
数日前の球技大会でオレ達と一悶着あったのを、まだ根に持っているらしい。
プラチナブリーチした銀色の髪で、どこにいても目立つ。
けれど目立つのはその髪だけじゃなく、演技指導の時間には卓越した演技力で、周りの視線を集めている。
「このクラスじゃ少ないはみ出し組なんだから、せめて早く来て場所取りくらい頑張ってくんないとねぇ? クラスのモチベーション下げてくれんなよ」
それに呼応するように、周りの何人かが掠れたような声で笑う。
オレ達五人が、全国から選抜された推薦組でもなく、演劇強豪校の出でもないことを言っているんだ。
自覚はしているものの、あぁも高圧的に言われるとさすがに腹が立つ。思わず立ち上がりかけると、隣の相模に手首を掴まれた。
「よせよ、相手にすんな」
そう言う相模の目は厳しく、ただ床の一点を見つめている。
その向こうでは、三河が聞こえぬふりで靴紐を直している。その耳は赤くなっていた。
「あれ、聞こえてないのかなぁ? 聞こえるように言ったつもりなんだけどねぇ」
反応がないのに気をよくしたのか、鞍干の声が更に大きくなる。
そんな干鞍のシャツの裾を、一人の女子がぐいっと引いた。
「ちょっと、鞍干やめて。そんな言い方ないわ」
凛とした声で鞍干を制したのは、黒髪を高々とポニーテールに結った有村さんだった。
直接話したことはないけれど、鞍干と同じ中学出身で、推薦組の中でも唯一鞍干に意見できる存在らしい。改めて見ると、結構可愛いな……って、そういう場合じゃなかった。
鞍干は有村さんの手を素っ気なく振り払い、無言で睨みつける。その鋭い視線に有村さんが口を噤むと、鞍干は薄ら笑いを浮かべてこちらを見た。
推薦組以外のクラスメイト達は、不穏な空気にさざめきながらも、影響力の大きい鞍干と揉めるのを嫌いてんでに顔を背けている。
……こんなことで揉め事を起こすのはよくない。バカなオレにだって分かる。
でも、なんだってこんな言われ方しなきゃならないんだ。
相模も三河も陸奥も伊達も、毎日自主的に残って暗くなるまで練習してるのを、オレは知ってる。それを知らないお前に、簡単にはみ出し組なんて言って欲しくない。
悔しさに奥歯を噛んだ。
ところが次の瞬間、陸奥が口を開いた。
「うん、聞こえてるよ。ご高説ありがたく拝聴中。どうぞ続けて」
春風のような柔らかな笑みで、ゆったりと歌うように言葉を紡ぐ。
陸奥の向こうでは、伊達が驚くでもなく、いつもの顔で陸奥と同じ場所を見ていた。
慌てて相模が陸奥ににじり寄る。
「ばっか、やめろって! 相手にすんなアホくせぇ!」
相模はできるだけ小声で叱りつけたつもりだろうが、なんせ声がデカい相模だ、しっかり向こうへ聞こえてしまっていた。
「アホ臭い?」
「ちょっと、誰に向かって言ってんのよ!」
鞍干シンパの女子達が非難の声をあげる。それを芝居がかった仕草で制し、鞍干は陸奥に向き直る。
「そっか、聞こえてたんなら悪かった、続けよう。
せっかく全国でも数少ない演劇校に入れたんだ。質の高い授業を、より質の高い同級生と受け、高め合いたい……そう思うのは当然だよねぇ?」
「全く同感。続けて」
なにを考えてんだ、陸奥……その横顔をジッと見ていてふと気付く。
眼が全然笑ってない。
微笑みに細められたと見せかけて、その黒い瞳には冷ややかな……春風なんてとんでもない、極寒のブリザードが吹き荒れ、鞍干を見据えている。
そうとは知らない鞍干は、話を続ける。
「幸いこのクラスには、推薦組も多く集まって、他の生徒も強豪校の出身者ばかり……なのにいるんだよねぇ、残念なのが。
一人は、声と身体がデカいことだけが取り柄の筋肉バカ」
隣で相模が口を引き結ぶ。
「一人は未だに言葉のイントネーションを注意されてるヤツ」
「いい加減に……!」
とうとう我慢できずに言いかけたところで、陸奥がこっそり足を踏んできた。ムッとしてその顔を見れば、唇の動きで「見てろ」と言う。
その冷たい瞳に気圧されて、再び口を閉ざした。
言いかけて止めたのを怯んだものと思ってか、鞍干は勝ち誇ったように胸を反らす。
「そうそう、一人はストレッチの度に名指しで叱られて、流れを止めるヤツ。なぁ?」
やかましいっ。
オレはお前にびびったワケじゃない。陸奥にびびったんだ!
……あ、あれ。やっぱオレカッコ悪……
「一人は自己主張ができない、常に受身な顔だけ男。親が医者? そんなのここでは関係ないねぇ。
んで、一人は……そう、大した実績もないのに、エラく自信満々な美人さん。アンタ体力ないだろ。実技中ちょくちょく水分補給してるの知ってるぜ?」
一、二、三……と指折り数え、陸奥が言う。
「出揃ったかな? 誠に尊くありがたいご意見を、恐れ多くもまとめさせていただくと……
僕ら残念なはみ出し者どもは、まことにかしこき推薦組の皆々様方の足を引っ張らぬよう、努々努力を怠るな、と。
で、できれば目障りなので目立たず騒がず、大人しくしていろと」
「要約ありがとう」
鷹揚さを装って頷く鞍干に、陸奥はクスッと笑って白い頬に手を添えた。
「不足を補うべく、精進は勿論いたしましょ。目立つようなことも、極力控えましょ。それでいいかな?」
「ま、せいぜい頑張ってくれよ、落ちこぼれ君達」
鞍干は話を切り上げると、もう落ちこぼれどもに興味なしと言わんばかりに背を向けた。
……なんだこれ。
最初は怒りでどうにかなりそうだったけど……いや、今でも内心ムカつきまくりだけど、ここまでいじめっ子のテンプレみたいな嫌みを聞かされると、なんかもう乾いた笑いがこみ上げてくる。
思わず隣の相模を見る。
相模は神妙な顔つきで、片手で口元を押さえていた。
でも見えてるぞ。隣のオレには、お前の白い歯、見えてるぞ。
相模も怒りを笑いに転換して乗り切ったようだ。大きいのは声とガタイだけじゃない、器もだ。
けれどその向こうで三河は、小さな身体を更に小さく縮めていた。一瞬泣いているのかと思ったけれど、涙は零していない。それでも、精神的にダメージを受けているのは明らかだった。
「三河……」
こんな時、どう声をかけたらいいんだろう。鞍干が言ったことは、嫌みではあれ間違いじゃなかった。
そんな自分に歯噛みしていると、陸奥がすっと三河の前に身を乗り出した。
「なぁに情けない顔してんのさ。三河はダンスなら誰にも負けないでしょ」
「そ、そうかな……」
今にも泣き出しそうな顔で、三河は陸奥の顔を見つめる。陸奥はしっかりと頷いて、結びかけだったその靴紐を結んでやる。
「そうだよ。それにジャンが前に珍しくいいこと言ってたでしょ、方言は郷土の誇りだってね」
珍しくは余計だい。
「気にしない気にしない。秋田弁で言えば、『あえだばうしゃらすぃぐね、あですな』だよ。
ちょっと見てな。ピアノがある限り、僕らは負けないんだから」
「うしゃら……? 『僕ら』?」
不思議に思っていると、陸奥の向こうで伊達がうっそり……いつもと変わらない様子で、うっそりと頷いた。
そういえば、陸奥はこのレッスン室に入る前、ピアノがなんとか言ってたっけ……
その時、レッスン室のドアが開いた。
「さぁ、今日も元気に声出しするわよーっ!」
バインダーを手に入ってきたのは担任のななちゃんだ。一斉に立ち上がり、日直が号令をかける。
挨拶が済むと、ななちゃんはピアノのカバーを外した。
「今日はピアノの音に合わせて声出しするからね!」
陸奥がにやりと笑うのが目についた。
一体、この不敵な笑みはなんなんだ……
ってか、うしゃナントカってなんだよ。
一抹の不安を抱えたまま、授業が始まった。