幕間 2人ぼっち
放課後。
図書室で一人夏休みの日程表を作っていたオレは、施錠時間ギリギリに天野や役者陣と合流した。
「さて、では解散しましょう。ジャン君、号令を」
天野に促されて背筋を正す。役者陣も、ピアノの所にいる音響班も、全員が起立する。
「この演目が本格的に始動し始めて一週間、本当にお疲れ様でした! また月曜日から宜しくお願いしまっす!」
「お疲れ様でしたー!」
部屋が割れんばかりの挨拶で締めくくると、天野は急いで荷物をまとめ始める。
「あれ、天野忙しい?」
「えぇ。五分ドラマのシナリオの提出が迫っていまして……お陰でこの二日完徹です」
「うっわ……大変だな、そりゃ。帰り道気をつけてなー」
「はい。ではまた月曜日に」
天野はぺたんこのリュックを背負い、ひょこひょこと部屋を後にした。
……結局今日も、ブタカンに指名された理由聞けなかったな。
ま、いいか。相模ももう吹っ切れてるし、もやもやしてるのはオレだけだ。
鞄を手に、集まっているいつもの四人のところへ向かう。今日は金曜日、いつもなら皆で三河の部屋に泊まり込む日だ。でも今日ばかりは家に帰らないといけない。断りを入れようと近づくと、陸奥が額を押さえていた。
「……ごめん、まだ頭痛くて。今日は僕、パス」
「え~っ、大丈夫? 送っていきたいけど、今日はぼくレッスンが……」
「心配症なお兄ちゃんだな。僕には過保護なパパもいるから大丈夫」
陸奥は苦笑しつつ、黙って伊達に自分の鞄を渡す。伊達もなにも言わず受け取った。
「ホントに大丈夫か? オレも今日は用事があって、このまま帰らないといけなくてさ」
そういうと、相模があれっと首を捻る。
「なんだよ、どうした?」
「なんか用事……じゃなくて、今回はホント。母親と妹が、日曜の夜まで旅行でさ。家ン中が空っぽになっちゃうから」
「早い話が置いてけぼりか」
「そーゆーこと」
肩を落として頷くと、三河は了解っと敬礼する。
「じゃあ今週は皆疲れてるだろうし、お家でゆっくり休も~っ! 陸奥君は特にゆっくりお休みするよーにっ!」
「はいはい、お兄ちゃんの言う通りにいたしましょ」
陸奥はもう抗う元気もないらしい。やれやれと肩を竦めた。
校門を出て、互いに手を振る。
最寄り駅へ向かう相模とは同じ道でも、三人とはここで別れる。
「じゃあなー」
「また来週ねー!」
「陸奥、お大事になー」
言い交わして自転車に跨がると、相模とくだらない話をしながら駅へ向かう。電車も横浜駅までは同じなので、車内でもバカ話して笑い転げては、お騒がせした周囲の皆様に何度となく頭を下げた。
横浜駅に着くと、乗り換えの改札前で相模に手を振る。
「んじゃ、またー」
ところが、相模は何故かオレと同じ改札をくぐった。
「ん? どっか行くのか?」
相模はこっくり頷く。
「どこ行くんだ?」
「いっからいっから」
そのままオレと同じ電車に乗り込む。この路線は、この先すぐに都市部を抜けベッドタウンに入っていく。
「どこに行くんだよ?」
背が高すぎて、吊革を吊すバーに直接掴まっている相模を仰ぐと、悪戯っぽくニッと笑った。
「ジャンの家」
「へ?」
「今から家帰ったって、俺の飯ねぇもんよ。あ、ついでに泊まってくから」
相模は当然のように言う。
「ちょっ、困るって! ウチ散らかってんし! それに、妹にも友達上げるなって釘刺されてて……!」
「なにお前、妹にも尻に敷かれてんの?」
「じゃなきゃ置いてけぼり食らうはずないだろっ」
「ははっ、違いねぇ」
「『ははっ』じゃないっ」
「だいじょぶだいじょぶ、俺静かに生息すっから」
「ええぇ~……」
そうこうしている内に、自宅の最寄り駅に着いてしまった。電車を降りると、当然相模もついて来る。
……弱ったなぁ。
ウチなんてごく普通の家で、三河の部屋みたいに豪華でも綺麗でもないのに。そもそも上げたのがバレたら、メイにどんだけ怒られるか……
改札の前で悶々としていると、相模が肩を叩いてくる。
「だーいじょぶだって、バレやしねぇよ。そんなに妹が怖ぇのか、お兄ちゃん?」
意地悪くニヤつかれて、もうどうにでもなれと歩き出す。
「ホント散らかってるからな?」
「だいじょぶだいじょぶ」
「三河の部屋みたいに綺麗じゃないからな?」
「だいじょぶだいじょぶ」
仕方なく、また連れ立って歩き出す。
バカ話を始める相模の横顔をこっそり見上げる。相模がこんな突拍子もないことをするのは珍しい。吹っ切れたと見せかけて、まだなにか悩んでいるんだろうか。
「おーっ! ここがジャンの家か! 一軒家!」
家の前に来ると、相模は築二〇年越えの我が家をしげしげと見回す。
「早速騒ぐなよ、近所迷惑だろ?」
鍵を開けて玄関を潜ると、今度は控えめな声で言う。
「お邪魔しま~っす……」
「いや、家ン中には誰もいねーから」
ツッコみながらとりあえず居間に通すと、相模は力いっぱい手を挙げる。
「はいっ!」
「なんですか相模クン」
「ジャンの部屋が見たいですっ!」
「やだよそんなん。なんなのいきなり」
呆れて言うと、相模は子供のように目をキラキラさせる。
「他のヤツの部屋って、どんなか気になるだろーっ!?」
「三河の部屋行ったって、お前寝室なんて入ったことねーじゃん」
「そうは言っても、あそこは丸ごと三河の部屋だろ?」
「まぁそうだけどさ。なんなの、オレの部屋でなにしてぇの? ベッドの下のお宝発掘でもするつもりか?」
「へぇ、ベッドの下に隠してんだ」
「んなベタなトコに置いたら、妹に見つかってフルボッコだわ」
またくだらない話をしながら、隣の台所で冷蔵庫を漁る。当然夕飯が用意してあるはずもなく、あり合わせの材料でなにを作るか考える。
「冷やご飯結構あるなぁ……なぁ、チャーハンでいいー?」
「ジャンが作んの? てか作れんの?」
居間と台所を隔てるカウンターにもたれながら、相模は意外そうな顔をする。失礼な。
「目分量のテキトーな料理しか作れねーけど。ホラ、そこ邪魔。まな板出すからどいて」
相模はカウンターから離れると、換気扇下にぽつんと置かれた簡素な丸イスに座った。そばに置かれた灰皿に、一つしかないイスの意味を察したようだ。
「お前が吸うのか?」
「未成年未成年。オレじゃなくて母さん。お前は吸うのかよ」
「え、キコエナイ。母ちゃん煙草吸うんだ」
「あのな……うん、三年くらい前から」
「へー……」
冷やご飯をレンジで温めつつ、具材をざくざく切っていく。ネギにキャベツ、それにお中元でいただいた焼豚。あとは適当に卵でいいや。
「……なぁ、妹っていくつ?」
「んー? 年子。受験生」
「可愛い?」
「オレに似ずそこそこ可愛いよ。今流行のたれ目系」
「おっ、いいねぇ!」
「相模には絶対会わせない」
「なんでだよ?」
「みすみす毒牙にかけられて堪るかっ」
「そぉんな酷ぇことしねぇよ!」
まったく、どこまで本気でなにが冗談なんだか。
みじん切りというには荒すぎる具才を、邪魔なので一旦ボールに移す。スープを作るべく、片手鍋を火にかけた。
「なぁ、聞いていい? 父ちゃんは?」
うんともすんとも答える前に、質問が飛んでくる。
……まぁいいけど。
「いないよ、母子家庭」
「死別?」
「離別」
「いつ?」
「三年くらい前」
あぁ……そう呟いて、相模は傍らの灰皿に目を落とした。
「父ちゃんいなくて、寂しくねぇ?」
「別に……そん時にはオレもう中学生だったし」
「もともとあんま好きじゃなかったのか? 父ちゃんのこと」
「ううん、そんなことねーよ。小さい頃はよく遊んでもらったし。オレに釣り教えたのも父さん」
「大きくなってからは?」
あらら、なんだかズバズバ攻めてくるなぁ……まぁ、もう前のことだし、今更傷ついたりはしないけど。
「オレが小学校高学年になる頃には、ほぼ家庭内別居っていうか、あんま家にも帰ってこなかったから。この家は養育費代わりに置いてったってワケ」
「そっか……じゃあホントにここが、ジャンの育った家なんだな」
独り言のように呟いて、相模は改めて部屋の中を眺める。
「あんま見るなよ、新しい家じゃないんだから」
窘めると、また灰皿に視線を落とす。出掛けに慌てていたんだろう、灰皿の中にはうっすらと白い灰が残っている。
「父ちゃんともう連絡取ってねぇの?」
「たまに取るよ。電話とかメールとか」
「会わねぇの?」
「会っても年イチ。向こうはもう、所帯持ちだから」
「あぁ……」
鍋のフタがカタカタ鳴った。フタを取ると、湯気がむわっと視界を白くする。相模に頼んで換気扇を回してもらう。
「どうした相模? さっきから質問ばっかじゃん。ていうか急について来るし。なんかあった?」
相模は灰に視線を落としたまま、組んだ足に頬杖をついて黙っている。
「なに、吸いてぇの? だめだって、今料理してんだから」
「違ぇよ、てか気にすんのそこかよ」
「オレは三河みたいに甘くねぇよ、ンなもん自己責任だ。じゃあなんだよ」
その視線が灰皿から床に落ちる。
「……心の友だとかソウルメイトだとか、好き勝手散々言ってっけどよ。よくよく考えたら、ジャンのことなんも知らねぇなと思って」
「はぁ?」
鍋に鶏ガラスープの素を放り込みながら、思わずあんぐり口が開く。
「ダチだろ? なにをそんな大袈裟な。オレの釣書でも欲しいのか? 見合いじゃねーっての」
「釣書って?」
相模は首を捻る。面倒なので説明は省く。
「んなこと言ったら、オレだって相模のこと知らねーじゃん。家族は? あの爺さんと、イカちぃ父さんと、毎朝あんなデカい弁当作ってくれる母さんと……?」
「中二と小五の弟」
「ホラ、オレだって知らねーじゃん」
そう言うと相模はオレを見上げた。
「ならお前もオレに聞きゃいいだろ」
「うーん、あんま興味ねーなぁ」
「酷ぇっ」
「あ、違う違う。自分ちがこんなだから、他人様の家族構成とかにも興味ないだけ。興味あるとしたら、実際吸うかどうかだわ」
「聞いてどうすんだ?」
「そーねぇ、自己責任とは言ったけど、役者目指してんならヤメロっつーかな」
「なんだそれ」
相模は薄く笑った。
なんだか切なそうな、それでいて嬉しそうな、初めて見せる類の笑みだった。その意味は分からないけど、とりあえず鍋にワカメと溶き卵を入れる。
「……俺の爺さんな。終戦間際、捕虜だったんだってよ。たまに俺を自分の部屋に呼んで、そん時のこと聞かせるんだよ。皆耳にタコで、相手すんのが俺しかいねぇから。
煙草がさ、貴重品だったらしくてよ。労役のあと、捕虜仲間となにかで煙草を賭けんのがささやかな楽しみだったって。煙草を吹かしながら言うんだ。何度も」
「へぇ……」
相模の低い声をBGMに、中華鍋に具才を放り込んで炒めていく。
「決まって最後はこう締めくくる。
『でも、全員還ってこれたワケじゃねぇ。何人かは生きて故郷の地を踏めなかった。アイツらとあの世でまた煙草を吸うのが楽しみだ』……そう言って、なんとも旨そうに煙草を吹かすんだ」
「あの爺さんにそんな過去がねぇ……」
確かに、笑った時にのぞかせた歯はヤニの色だった。
「だからって、お前が代わりに付き合っていい理由にはなんねーぞ?」
「吸ったなんて言ってませーん」
「あっ、そ。ホラ、もうできるからテーブル拭いてくれよ」
相模の手に無理やり台布巾を押し付ける。カウンターの向こうに回り、言われたとおりにテーブルを拭く相模がぼそっと呟く。
「……なんだろな。人間、哀しいときは煙が恋しくなんのかね」
吸わないオレに答えられるワケもない。でもうちの母さんを見ていると、そうなのかもな、とも思う。
あり合わせで作ったチャーハンとスープを器によそって、居間に運ぶ。相模の皿にデンと盛った大盛りチャーハンに、ヤツは目を瞬く。
「え、ちょ……山盛りってか山じゃね?」
「だってお前、どうせフツーに盛っても足りねーだろ? 何度もおかわりよそるの面倒臭ぇし」
「……ジャンってたまに、無駄に男らしいよな」
「文句があるなら食わんでヨロシイ」
皿を引っ込めようとすると、相模が慌てて手を合わせる。
「滅相もないっ! 有り難く頂戴いたしますっ!」
「ヨロシイ」
頷いて、皿を差し戻す。いただきますと挨拶をして、スプーンを口に運ぶ。
「お、旨い」
「そりゃよかった」
口に入れて咀嚼していると、自然と会話が途切れる。いつもは五人だから、交互に箸を休めたりして会話が続くものの、さすがに二人だとそれもできない。
「テレビでもつけようか?」
「ん? 別にいらねぇけど」
「そっか」
相模は特に気にならないらしい。
オレだって、普段通りなら気にならないはずなんだ。折角仲直り……と言っていいか分からないけど……したばっかなのに、相模はまたいつもと様子が違う。
なんだ? またなんかあったのか? もしくはオレがなんかした?
なんだって急に色々と聞きたがったんだろう。本当に『心の友』について知りたくなっただけなんだろうか。
向かいで着々とチャーハンの山を平らげていく相模をうかがうと、目が合った。
「別に、他意はねぇよ」
まるでオレの思考を読んだかのように言う。口いっぱいに頬張ったチャーハンをスープで流し込んでから、相模は改めて口を開く。
「ただ……帰って独りになると、色々考えちまいそうでよ。陸奥のあんな話聞いたあとだし」
「爺さんの昔話に付き合ってやればいいじゃん」
からかって言うと、相模はふいに真面目な顔をした。
「お前は独りだろ」
その言葉に思わず手が止まる。
……あぁ、そういうことか。
結局、オレはまた気を遣われたらしい。
質問ばっか投げてくるのも、余計なことを考えさせないようにするためだったんだ。爺さんの話を聞かせたのも。
「お前はオレの親父かよ」
照れ臭さを隠して軽口を叩く。
「なんだよ、なんで伊達はパパなのに俺は親父だよ」
「パパってガラじゃねーじゃん」
「酷ぇ! 将来は可愛い娘に『パパ♪』って呼ばれてぇのにっ!」
言ってから、相模はしまったという顔をした。
……詰めが甘いな相模君。
結局陸奥の話を思い出してしまったので、思ったままを口に出す。
「やっぱさ……漠然とあるよな、そういう将来の夢っていうか、ビジョンっていうか……三五までには結婚して、子供は二人くらい欲しいかなー、とかさ。
それが全く持てないって、どういう気持ちなんだろうな……」
相模はスプーンを置いた。グラスの麦茶を傾ける。
「……仕事に対する夢とか目標とはまた違った部分だもんな。そこを埋められるとしたら、やっぱ心底惚れ込むくれぇの夢見つけることくらいか」
「だよな……」
だけど、陸奥には今その夢もない。
あんなに上手い歌もやめてしまって、夢を探すためにここへ来たんだ。
「……早くやりたいこと見つかるといいな」
「だな」
陸奥が抱える孤独に思いを馳せると、今腹に収めた飯が鉛のような重さを持ち始める。
連れ添う相手を得られない寂しさ、自分に向けられた好意にすら怯える悲しさ、そして大多数の『普通の男』と違う身体を持つ苦しさ……それらを抱えて生きることは、どんなに辛い道だろう。
しんみりとした沈黙が落ちると、一呼吸置いてから相模は再びスプーンを動かし始める。頬張りながら忌々しげに眉を寄せた。
「だぁからアイツ…………のによ」
「なんだって?」
もごもごと咀嚼しながら言った言葉が聞き取れず、首を傾げる。相模はすぐに普段の顔に戻って、
「こっちの話」
さらに口の中にチャーハンを詰め込んだ。
「なんだよ?」
「あんへほへーほっ」
そんな状態でしゃべったもんだから、相模の口から米やらなにやらが飛び散る。
「わっ、バカ! しゃべんなよっ、飛んでる飛んでる!」
「おはえはははひはへへひはんはろ!」
「きったね! もうしゃべんなマジで!」
「ひれぇ!」
「酷ぇのはお前だっ!」
断言して台布巾を投げつける。
……あれ。もしかしてまた気ぃ遣われた?
向かいの相模を見やる。ヤツの頬は未だ両頬ともチャーハンに押し上げられ、頬袋をパンパンにしたリス状態だった。
……まさかねぇ。
◇ ◇ ◇
「あー、さっぱりしたっ」
風呂から戻ると、先に風呂を済ませた相模は台本を読んでいた。
相模が着ている真新しいTシャツは、前になかなか背が伸びず悩んでいたオレに、メイがイヤミで買ってきたLLのシャツだ。残念ながら、その時から背が伸びた今でも大きすぎて着られない。こんなところで役に立つとは思わなかった。
「麦茶でも飲むかー?」
「飲ーむ」
相模は顔を上げずに答える。頬杖をついて台本を読む横顔は真剣そのもので、声はかけずにそっとグラスを置いた。
「お、サンキュー」
ちらりと傍らのグラスを見て、また台詞の列を目で辿る。
邪魔しても悪いし、どうしようか……考えていると、相模が口を開く。
「なぁ。読み合わせ、付き合ってくんねぇ?」
「げっ、オレが弁慶以外の全役分読むワケ? 何役あると……」
「全編やりてぇなんて言ってねぇよ、俺が練習してぇのはここ」
相模が台本をこちらに傾けて見せる。
安宅の関を越えたあと、義経が弁慶を呼び出し、そして山へ帰るまでの一幕だった。
「なぁんだ。そこならオレが読むのは義経と、右近左近の三役で済むな」
ホッとして言うと、相模は首を振る。
「右近左近は飛ばしていいって」
「それじゃあ読み合わせにならねーだろ?」
「省略省略」
「相模がいいなら、いっけど……」
ただし、結構いい時間だから声は張らずに。
そう前置きして、
「弁慶、お前の……」
そのシーン最初の台詞を言い始めると、相模が待った待ったと手を振る。
「なにお前、もう台本暗記してんのか?」
「大体……少なくとも、オーディション受けた義経と富樫の台詞くらいは」
「マジか! ならちょっとそっち持て」
相模は立ち上がって、テーブルの縁に手をかける。
「なにすんの?」
「ジャンが暗記してんなら、折角だからちょっと動作つけてやりてぇ」
「え、立ち稽古まだだろ?」
立ち稽古は、座りっぱなしの読み合わせに対して、文字通り立って動作込みの演技をつけていく稽古のことだ。
「いっからいっから」
「よくはないだろ。三ツ石義経とやる前に、ヘンな癖ついても困るよ」
「だぁいじょぶだって、なんとなくイメージ掴みてぇだけだから」
そう言うと、相模は一人で強引にテーブルを持ち上げ、部屋の隅まで移動させてしまった。
「あのなぁ……」
「いっからいっから」
テーブルの上に台本を置き去りにして、相模は立てよと人差し指で催促する。仕方なく立ち上がり、相模弁慶の向かいに立つ。
三ツ石義経がどう動くか分からないので、ト書きに書かれた所作だけをなぞることにする。相模弁慶の右手を両手でとり、
「弁慶、お前の機転で誰一人……」
「待った待った!」
またそう言って相模は首を振る。さすがにちょっとムッとして手を放した。
「なんなんだよ?」
「なんで棒読みなんだよ」
「だってオレほとんど読み合わせ見てないから、三ツ石がどう演ってるか分かんねーんだもん。知ってたらそれに似せて演るけど」
この前、右近左近の代役で読み合わせた時と同じだ。
あくまで代役なんだから、キャスト本人と同じように演るか、それができなきゃ下手に感情を込めない方がいい。理由は同じ、ヘンな癖をつけないためだ。
相模は少し呆れたように眉を寄せる。
「お前芝居に関してはホント潔癖なのな。いいんだって、あくまでイメージなんだから」
「そんな適当な」
オレもまた眉間にシワを寄せると、相模はガシガシと乱暴に頭を掻いた。
「あー、ったく……言わなきゃ分かんねぇのかよ。俺はお前が、お前の思う通り演る義経と演ってみてぇの!」
「え、だってそれじゃ意味な……」
「意味なんかなくていいんだよ、ここは稽古場じゃねぇんだから」
きっぱり言い切られてしまって、目も口もぽかんと丸くなる。
「だって相模、練習っつったじゃん」
「察しろよ馬鹿。ちょっと遊びに付き合ってくれたって構わねぇだろ?」
相模は少し拗ねたように言う。
ええぇ、今のオレが悪いの?
オレの察しが悪いの?
いやお前の言葉選びが悪いんだろ……そう言いたかったけど、やめた。
口では遊びだと言いつつ、相模の眼差しに熱が隠っているのに気付いたからだ。
『俺はジャンの義経と演りたかったよ』
ベランダでも、相模はそう言っていた。
……しょうもないヤツだな。
でも、本当にしょうもないのはオレの方だ。なんのかんの言いながら、相模演じる弁慶と演れることにワクワクし始めている。
……いいかな、遊んでも。
少しだけ、ちょっとだけ……そう自分に言い訳して、相模の胸を拳で軽く叩く。
「遊びだからって手ぇ抜くなよ?」
一瞬目を見張ってから、相模はいつもの好戦的な笑みを閃かせた。
「当然ッ」
「……弁慶。あやめのこと、本当にすまなかった。お前とて苦渋の決断だったろうに……それなのに私は、お前の苦しみを知ろうともせず、あのように責めてしまって……!」
大きな右手を両手で押し抱き、震えそうな声を励まして言うと、弁慶は膝を折り、左手を手に添えてくる。
何も仰いますな、そう言いたげにゆっくりと頭を振る。
その厳めしい顔には、仄かに優しい笑みを湛えて。客席からは決して見えやしないほどの、ささやかな微笑み。だからこそその笑みには、相模の弁慶に対する思いが詰まっている。
愛する女と我が子を犠牲にし、後に仲間に死出の道行きを強いる鬼が、唯一忠誠を誓い守ろうとする相手──それが義経なんだ。
ならその思いに相応しい君主たるべく、こちらも膝をつき、握った手に力を込めた。
互いの演じ方に合わせ、声の抑揚に変化をつけながら、より密な主従の関係を構築していく。
読み合わせは見ていないけど、相模がこの先どう演るか、不思議と手に取るように分かる。きっと相模も同じだった。アドリブを入れても入れられても、揺らぐことなくやりとりは続く。
狭い部屋を森に見たて、弁慶と義経になった二人で縦横に駆け廻る。
観る人もなく、稽古にもならず、無駄でしかないけど堪らなく愉しいかりそめの空間で、時を忘れ夜半まで遊びほうけた。
この話は、未成年の喫煙を肯定・推奨するものでもありません。
念の為に。煙草は20歳になってから。




